2026年4月4日土曜日

4月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「不安が取り除かれる朝」

「不安が取り除かれる朝」

聖書箇所 マルコ16:1-8。327/326。

日時場所 2026年4月5日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝


イースターおめでとうございます。よみがえられたイエスさまと共に、こころ平安に歩んでいきたいと思います。去年の10月から教会建物改修を行なっていますので、イースターの礼拝は集会室で行なうことになりました。5月の中旬に改修が完成いたします。5月31日(日)教会建物改修完成感謝礼拝を、礼拝堂にもちます。ぜひいらしてください。

SNS(X.旧twitter)をみていると、こんな文章が次のような文章がでていました。【さっきNHK AMでラジオ体操を聞いていたら突然休止し、「誤って火曜日の音源を流してしまいましたので改めて水曜日の音源を流します」と言って、改めて最初の音楽から流れました。火曜日と水曜日の違いがわかりませんでしたが、どこか違っているのでしょうか?】。それに対して、【ラジオ体操は、実は毎日内容が違います。「皆さん、お早うございます。〇曜日、朝の体操の時間です。」というセリフの曜日が違うほかに、アナウンサーさんは2人いて、毎日交代して放送しています。それから、あまり知られていないことですが、ピアノの伴奏者さんも3人いて、毎日違うのです。】。みなさん知っておられましたか。わたしは知りませんでした。そのほかには、【おはようございます。始めまして。ラジオ体操は同じ人、同じパートでもセリフが異なります。鈴木大輔さんの場合、私はラジオ体操第二の「前後に曲げる運動」でバージョンの違いを聞き分けています1. (普通に)後ろ反り 2. 後ろ反りぃ〜 3. 笑顔で後ろ反り♥ 4. その他 などがあります。良い一日を!】というようなことを言っておられる方もおられました。

ラジオ体操など、毎日同じことをしていると思って、なかなか気がつかないわけですが、でもそこにはしっかりと一生懸命に働いておられる方がいて、そのようにして、世の中は回っているんだなあと思いました。あまり気づかれないようなことを、丁寧に行なってくださっている方が、私たちの世の中を支えてくださっているのだと思います。日常生活が何事もなく回っているというのは、とても尊いことで、そのことのためにいろいろな人たちが丁寧に働いてくださっています。

今日の聖書の箇所は、「復活する」という表題のついた聖書の箇所です。マルコ16章1−2節にはこうあります。【安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。】。

マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメは、イエスさまの葬りの備えをするために、イエスさまが納められた墓に向かいます。イエスさまが十字架につけられて殺されたわけですから、イエスさまの遺体を葬らなければならないわけです。どんなに悲しくても、どんなにつらくても、葬りの用意をしなければならないですし、そのことを淡々と行なおうとする女性たちがいたわけです。葬りの備えをするということ自体は、特別な出来事であるわけですが、だれから天に召されたら必ずだれかが行わなければならないことです。イエスさまが天に召されたのだから、丁寧に葬りの備えをしなければならない。その役割を担ったのは、女性たちでありました。

イエスさまの弟子たちは、いろいろと大きなことを言っていたわけですが、イエスさまが捕まった時に、逃げ出し、そして隠れています。イエスさまのお弟子さんのペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言っていたわけですが、イエスさまを裏切ってしまいます。「たとえ、御一緒に死ななければらなくてなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言っていたわけですが、イエスさまのことを三度知らないと言ってしまいます。

大きなことを言っていた人はいなくなり、いつも小さなことに丁寧に向き合っていた女性たちが、イエスさまの葬りの備えをしようとするのです。聖書を読んでいますと、生きていく上での知恵が身に付きます。「大きなことを言っている人は、途中で逃げ出してしまうというようなことは、たしかにあるよなあ」と思えます。「そういう人たちにだまされがちだけど、気をつけないといけないなあ」と思えます。「地味に見えても、誠実に物事に向き合う人は、やっぱりいい人だよなあ」と、聖書を読みながら思えます。

マルコによる福音書16章3−5節にはこうあります。【彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。】

女性たちには心配事がありました。それはイエスさまのお墓の入り口にある大きな石をどうしたら良いだろうということでした。自分たちだけでは重過ぎて、その石を転がすことができないのです。かといって、自分たち以外に人はいないわけです。大きな石が墓の入り口にあるのに、それを取り除く手当てを考えないで、墓の前に行ってどうするのだ。そんな行き当たりばったりで良いのかということであるわけですが、まあでも仕方がないのです。それ以外、方法がないのです。困ったことがあるけれども、でもとにかく行かなければならないということが、人生には起こってくるのです。そしてその場で、どのようにしようか考えるしかないというようなことがあります。

しかし女性たちが心配していたことは解決していました。大きな石はすでにわきへ転がしてあって、墓の中に入ることができました。女性たちが墓の中に入ってみると、白く長い衣を来た若者がいました。イエスさまのご遺体があると思ったのに、イエスさまのご遺体はなくなり、天使のような若者がいたので、女性たちはびっくりします。

マルコによる福音書16章6−8節にはこうあります。【若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。】

若者はイエスさまが墓の中にはおられないことを、女性たちに告げました。そして以前からイエスさまが行っておられたように、イエスさまはよみがえられてガリラヤに行かれる。そのことをイエスさまのお弟子さんたちとペトロに告げなさいと、若者は女性たちに言いました。若者は女性たちに大切なことを伝えたのですが、女性たちは怖くなって、墓から逃げ出してしまいます。とてもとても怖くて、震えてしまい、正気を失ってしまいます。「弟子たちに伝えてください」と若者から言われたのですが、でも女性たちはだれにも話すことをしませんでした。怖くて、怖くて、たまらないかったのです。

マルコによる福音書が記しているイエスさまの復活の物語は、とても奇妙な物語です。【婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである】。イエスさまのご復活という喜ばしい出来事を伝えるにはほどとおい、とても不思議な語りになっています。不思議というよりは、怖いという語りになっています。

せっかくイエスさまのお墓にきて、心配事であった、墓の入り口の大きな石も取り除かれていたわけですから、「ああ、不安は取り除かれ、良いイースターの朝ですね」「こころ晴れ晴れです。イエスさまのご復活おめでとうございます」というふうに言いたいところであるのに、聖書は【婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである】というような恐ろしいことを語ります。正気とは思えないというような気がします。

マルコによる福音書のイエスさまの復活物語は、「信仰というのはこういうものなのだ」ということを、私たちに教えてくれます。人が信じるというのは、「はい、そうですか。わかりました」というようなものではないということです。「信じますか」「はい、信じます」というようなことではないということです。「いま、決めてください。信じますか、信じませんか」というようなものでもないのです。ただ真剣に求めていく時に、いろいろなことがありつつも、神さまに導かれて、神さまを信頼し、神さまにお委ねして歩んでいくということになるということです。

『信仰』(2022年、文藝春秋)という小説を書いている小説家の村田沙耶香は、「速度の速い正しさは怖い」と言っています。「速度の速い正しさは怖い」。現代はいろいろなことが早いスピードで広まっていきます。誤った情報であっても、どんどんどんどんと広がっていきます。とくに人を刺激的なものはそうです。地震が起こったあと、ライオンが逃げ出しているような映像や、東日本大震災の津波の映像などが流れたりします。またうそか本当かよくわからない情報であっても、義憤にかられて、人を強く非難するようなことが、インターネットの世界やテレビの世界で行なわれたりします。自分は正しいことを言っている、正しいことをしているという思いに駆られて、あまり考えることもなく、発言し続けるというようなことがなされたりします。「速度の速い正しさ」を語る人は、それがどのような影響を及ぼすのかというようなことを顧みることなく、ただただ強い主張をまき散らします。そしてぎすぎすとした怖い社会になっていきます。

キリスト教の信仰はそうした早さのある信仰ではありません。「信じますか」「はい、信じます」「はい、そうですか。わかりました」というようなものではありません。イエスさまの復活に出会った女性たちは、驚いたり、震え上がったり、正気を失ったり、怖がったりしながらも、でも神さまに導かれて、信じる者へと招かれていきます。そしてイエスさまに従っていきます。

【婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである】。聖書はそのように語るわけですが、でもイエスさまの復活の出来事は、人々の間でどんどんと広がっていきます。【だれにも何も言わなかった】にも関わらず、広がっていくのです。それは人の出来事ではなく、神さまの出来事であるからです。

私たちは人間ですから、いろいろなことにつまずきます。自分の力を越えた出来事を前にして、「どうしよう」「ちっぽけなわたしに何ができるだろう。なんにもできないのではないか」。そんな思いになります。でも小さな小さなわたしに神さまが働いてくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。

マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イースターの朝、不安を抱えて、イエスさまのお墓にやってきました。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。しかし墓の入り口の大きな石は、神さまが取り除いてくださっていました。不安の中にある私たちを励まし、導いてくださる神さまがおられます。力強い御手でもって、私たちを守り導いてくださる神さまがおられます。小さなわたしを励まし、用いてくださる神さまがおられます。神さまの招きに応えて、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。



  

(2026年4月5日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝) 


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