2026年5月30日土曜日

5月17日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまの祈り」

 「イエスさまの祈り」

聖書箇所 ヨハネ17:1-13。120/433

日時場所 2026年5月17日平安教会朝礼拝


キリスト教の偉大な偉人の中に、アウグスティヌスという人がいます。聖アウグスティヌスと言われますから、いわゆるカトリックの聖人にまでなっている、りっぱな人です。「西方キリスト教会最大の教父」と言われます。「キョウフ」というのは、「恐ろしい」というのではなく、「教える父」と書いて、教父と言います。紀元4世紀から5世紀の人です。

《【アウグスティヌス/Aurelius Augustinus/354-430。西方キリスト教会最大の教父。聖人,北アフリカ,ヒッポの司教(396年)。ローマ官吏で異教徒の父,キリスト教徒の母モニカの間に,タガステで生まれる。カルタゴで修辞学を修めたが,放縦の生活を送り,マニ教を信じた。プロティノス研究ののち,ミラノ司教アンブロシウスの感化によって改宗,391年司祭となる。その著《告白》は古代自伝文学の最高傑作にして,第11巻には重要な時間論を含む。《三位一体論》《自由意志論》はともに正統教義の確立に大きく寄与したほか,長い論争の端緒ともなった。《神の国》はキリスト教史上最初の歴史哲学の試みで,政治思想上の重要作でもある。ほかに多数のマニ教,ドナトゥス派,ペラギウス派に対する反駁書がある。思想のプラトン主義的性格のゆえに,中世における影響は主としてフランシスコ会学派にとどまったが,ルター主義,ジャンセニスムなど近代以降には再興が見られる。祝日8月28日】(マイペディア97株式会社日立デジタル平凡社)》。

ボッティチェリという15世紀の画家は、「聖アウグスティヌスの幻」という絵を書いています。子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとしている姿をアウグスティヌスが見ているという絵です。子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとしている姿をみたら、わたしなら子どもと一緒に、砂遊びをしてしまうわけです。しかしアウグスティヌスは違いました。アウグスティヌスは、子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとしている姿を見て、三位一体の神秘について考えました。

キリスト教の教えの中には、父・子・聖霊の三位一体という教えがあります。「神さまとイエスさまと聖霊が、三つであるけど、一つである」というキリスト教の教えです。それを三位一体の神秘というわけです。この三位一体ということを、人間がわかることはできないということを、アウグスティヌスは悟ったのでした。「子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとする姿をみて」。人間が神さまのことを理解しようとするということは、海の水を貝殻でくみ出そうとするようなものだと思ったわけです。やっぱり子どもが砂遊びをしている姿をみて、一緒に遊んでしまう人と、思索にふける人との差があるんだなあと思わされます。もしかしたらみなさんのお孫さんも砂遊びをしながら、世界の真理について発見しているかもしれません。(ただうまく言葉にして、私たちに伝えることができないだけかもしれません。まあそうしているうちに、発見した世界の真理について忘れてしまうでしょうけど)。

キリスト教における業績から言えば、アウグスティヌスはやっぱり掛け値なしに偉い人です。でも小さい頃からずっと、すばらしい清廉潔白な人であったのかと言うと、そうではありません。アウグスティヌスは『告白』という本を書いています。いわゆる告白本のはしりのようなものですね。読んでいて、ちょっとどきどきします。こんなこと書いていいのかと思ったりします。この『告白』という本の中には、アウグスティヌスの少年時代の話や、青年時代の話が載っています。アウグスティヌスは偉大な聖人であると言われるわけですが、少年時代には友だちと一緒に物を盗んだり、勉強をなまけて遊んだりしています。また青年時代にはもっともっと悪くなり、欲望のままに女性に溺れていったり、キリスト教から離れてマニ教をいう異端を信じたりと、なかなかたいへんなワルでした。

アウグスティヌスにはモニカというお母さんがいました。モニカはアウグスティヌスのことが心配でたまりません。アウグスティヌスは、ちいさな子どものときも、そこそこ悪かったわけですが、カルタゴという街に留学してからは、ますます放蕩三昧の生活を送っていました。勉強もしないで、女性を遊んでいる。変な宗教に夢中になってしまって、キリスト教から離れてしまっている。母はアウグスティヌスのことが心配でなりませんでした。

モニカはあんまり心配だったので、カルタゴにまで訊ねていきます。しかしアウグスティヌスはローマに行ってしまったあとでした。ローマは大都市です。そしてひどく堕落した都でした。ですから母モニカの悲しみはいよいよ深くなります。「カルタゴでも放蕩三昧していたのだから、あの堕落した都ローマなどでアウグスティヌスが暮らすようになったら、もうどうなってしまうかわからない」。そんなふうにモニカは思ったのでした。それでアウグスティヌスをおってローマに向かいます。その途中、母モニカはミラノでアンブロシウスというとてもりっぱな神父(ミラノの主教)に会いました。

そしてアンブロシウス神父は母モニカにこう言いました。【しかし、子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい。そうすれば、子供さんは、自分で本を読んで、その誤りがどのようなものであるかを、またその不信がどのように甚だしいかを、さとるだろう】。しかしモニカはなかなか納得しません。「子どもに会って、さとしてください」とアンブロシウス神父に熱心に祈りもとめ、止めどもなく、涙を流しました。アンブロシウス神父はとまどって、少し機嫌を悪くしました。そしてモニカに言いました。【「さあ、帰ってもらおう。あなたのいのちに掛けても、そのような涙の子が滅びたりなどするものか」】(『告白』、P86)。アンブロシウスが「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」と言ったとおり、結局、アウグスティヌスは回心して、母のところに帰ってくるようになりました。そして聖人と言われるような人になっていったのでした。

母の日の礼拝のとき、いつもうたっていただく歌に、讃美歌510番があります。【1.まぼろしの影を追いて、うき世にさまよい、うつろう花にさそわれゆく、汝が身のはかなさ、(春は軒の雨、秋は庭の露、母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや)。2.おさなくて罪を知らず、むねにまくらして、むずかりては手にゆられし、むかしわすれしか。3.汝が母のたのむかみの、みもとにはこずや、小鳥の巣にかえるごとく、こころやすらかに。4.汝がためにいのる母の、いつまで世にあらん。とわに悔ゆる日のこぬまに、とく神にかえれ】。この歌は、アウグスティヌスの母モニカを題材にしているかのような歌です。モニカは「春は軒の雨、秋は庭の露、なみだ乾くまなく、祈」ったのでした。アンブロシウス神父ががアウグスティヌスに言った言葉。「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。いい言葉だと思います。

『育てるものの目』(婦人之友社)という本を書いておられる、保育士の津守房江さんという方がおられます。1984年に出版された本ですから、ちょっと昔の本です。津守房江さんのおつれあいは、保育学の権威といわれる津守真さんという方です。津守房江さんは「子育ては祈りである」というようなことを言っておられます。子どもはいらずらをしたり、自分がしたいことを親に隠れてしたいと思います。つまみぐいをしたり、きれいな服を着てどろんこ遊びをしたり。

(わたしの家でも下の娘の愛は、容子から「ストローで遊んだらいけない」と何度も何度も言われながらも、やっぱり勝手にストローを出してきて、工作をして遊んでいます)。子どもは母親に目をつぶっていてほしいという気持を持っています。

【母親に目をつぶっていてほしいという気持は、子どもの中に自己の世界が育っていることがもとになっているが、また母親の方にも考えなければならない点があるのではないかと反省した。母親としての自信は、何でも子どものことを見ようとし、知ろうとし、支配する方向へと向かってしまう。独自の意志を持った子どもが「目をつぶって、」というのはそんなときなのかと思う。子育ての中で時には目をつぶることが大切だと思うが、いらいらしながらでは目をつぶったことにはならない。私は子どもに対して目をつぶるということは、祈ることであると思う。母親である自分が、子どものためにできることは少しのことである。そのことを認めて、目を閉じて祈るとき、何と安らかに、見守ることができるだろう】(津守房江)。

【私は子どもに対して目をつぶるということは、祈ることであると思う】と、津守房江さんは言われます。子どもは私たちが思うようには育ってくれません。当たり前のことですが、別の人格であるからです。「もうちょっと、わたしの言うことを聞いてくれたら」。だいたい、そんなふうに思えるものです。「あーせい、こーせい」と言っても、なかなか聞いてくれません。いらいらしてきます。嘆く私たちにできることは、その子のために祈ることなのです。アウグスティヌスの母モニカが、アウグスティヌスのために祈ったように、私たちもやっぱり、わが子のために祈る気持が大切です。

祈りということは、現実的ではないですし、一見愚かにも思えることです。「祈って何になる」。そんなふうにも思えたりします。しかしアウグスティヌスをまっとうな道へと導いたのは、母モニカの愚かにも思える祈りであり、涙であったのです。一見、力のないように思える涙と祈りが、放蕩三昧を繰り返していたアウグスティヌスを、まっとうな道へと導いたのでした。「子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい」「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。

私たちの信じているイエス・キリストも、神さまに祈っています。今日の聖書の箇所は、「イエスの祈り」という表題のついている聖書の箇所の一部です。イエスさまの最後の説教が終わったあと、イエスさまが神さまにお祈りするという感じの聖書の箇所です。宗教改革時代以来、「大祭司の祈り」というふうに言われたりします。地上を去ろうとしておられるイエスさまが、祭司のように、残される弟子たちのために、神さまにお祈りしているからです。

ヨハネによる福音書17章1節には【イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください】とあります。

「時が来ました」というのは、イエスさまが十字架につけられる時が来たということです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために」というのは、イエスさまが十字架につけられるということです。十字架につけられて殺されるというのですから、それは世間一般から見れば、イエスさまの敗北であるわけです。しかしイエスさまは自分が十字架につけられることを、ここで「栄光」と言っています。

イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちはこころのなかに、いろいろな邪な思いをもっています。人をおとしめたり、人を傷つけたりする、弱い私たちです。神さまの御前に、私たちは罪を犯して生きています。本当は私たちが罪のため、神さまから裁きを受けなければならないわけです。しかしイエスさまが私たちにかわって十字架についてくださり、私たちの罪を担ってくださったのです。それは神さまの栄光が現されるためでした。

ヨハネによる福音書17章2ー3節にはこうあります。【あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです】。

神さまは、御子イエス・キリストを十字架につけるために、私たちの世に送られました。そして私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは罪をあがなっていただいた者として、イエスさまから永遠の命を与えられています。私たちは神さまからイエスさまのゆえに罪赦された者として、イエスさまを信じて歩んでいくのです。

ヨハネによる福音書17章4ー5節にはこうあります。【わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を】。

イエスさまは十字架への道を歩まれます。それは神さまのご計画でした。人から見ると、十字架は絶望であり、みじめな死であるわけです。しかし神さまのご計画としてみるときに、イエスさまの十字架は、すべての人々にとっての救いの出来事なのです。イエスさまの十字架は、神さまの救いを表す栄光の出来事なのでした。十字架での死という絶望の出来事が、神さまの救いの出来事であり、栄光の出来事であると、イエスさまは言われ、そして弟子たちのために祈られました。

イエスさまは自分のために祈られたのではなく、弟子たちのために祈られました。自分を裏切ることになる弟子たちのために、イエスさまは祈られたのです。自分の思うとおりにならない弟子たちのために、イエスさまは祈られました。そしてイエスさまの祈りが、神さまのもとへと弟子たちを導いたのでした。

私たちの世界は、祈りによって支えられています。放蕩三昧を繰り返すアウグスティヌスのために祈る母モニカの祈り。子どもたちの健やかな成長を願う母・津守房江の祈り。「子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい」「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。

そしてイエス・キリストの祈りは、そうした私たちの祈りを結び合わせ、包み込む祈りなのです。私たちの罪のために、十字架についてくださったイエス・キリストは、十字架によってすべての絶望を希望に変えてくださいました。イエスさまはいまも、弱い私たちのために祈ってくださっています。

イエス・キリストは私たちのためにいつも祈ってくださっています。私たちの弱さ、悩み、苦しみを、イエスさまは知っていてくださり、「わたしのところに来なさい。休ませてあげよう」と、いつも私たちを招いてくださっています。



(2026年5月17日平安教会朝礼拝)


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