2026年5月30日土曜日

5月24日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「聖霊に導かれ」

 「聖霊に導かれ」

聖書箇所 マルコ4:26-34。343/346

日時場所 2026年5月24日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ礼拝

 

ペンテコステおめでとうございます。

ペンテコステはイエスさまの弟子たちの上に、聖霊がくだり、弟子たちが神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝え始め、教会ができていくということで、教会の誕生日というふうに言われます。

ペンテコステの出来事の聖書の個所は、使途言行録2章1節以下に書かれてあります。「聖霊が降る」という表題のついた聖書の箇所です。新約聖書の214頁です。使徒言行録2章1−4節にはこうあります。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした】。

イエスさまの弟子たちに聖霊がくださり、聖霊に導かれて、弟子たちは自分たちの国の言葉ではなく、ほかの国々の言葉で話し出します。世界にはいろいろな国の言葉があります。神さまのこと、イエスさまのことを伝えていくときに、自分の国の言葉で伝えていくと、それを通訳してくれる人がいなければならないわけです。まあそれよりも、相手の言葉で話すことができれば、そのほうが良いわけです。

しかし言葉が通じるからと言って、相手の言っていることに対して、「そうだなあ」と思えるというわけでもありません。相手を尊重する心とか、態度とか、そういうものがあるからこそ、互いに歩み寄ったり、信じ合ったりできるわけです。嘘をついても平気な人と話をするのは、なかなか大変です。この人は嘘をつくから、話を聞いていても、無駄だというふうに思えます。あるいは昨日言っていることと、今日言っていることが違っている人の話を聞くのも、苦痛です。今日、きいていることも、明日には違うことになっているかも知れないからです。嘘をつく人が多くなり、倫理観を失った社会は、衰退していきます。うそや基準がいいかげんな社会では、商いをするのがむつかしいですから、衰退していくわけです。ちゃんとした秤がないと、商売はできないわけです。

ペンテコステの出来事の「一同が聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話し出した」というのは、たんに外国語を話したということではなく、相手の立場に立って、相手の気持ちになって、互いに尊敬しあう歩みを行なうということです。そうしたことを初期のクリスチャンたちは行なうことによって、キリスト教は世界に広まっていきました。しかしそれは人の働きということではなく、聖霊の働きであったのだと、使徒言行録は私たちに伝えています。神さまの働きがあることによって、いろいろなことが実現していくのです。

今日の聖書の箇所は「成長する種のたとえ」「からし種のたとえ」「たとえを用いて語る」という表題のついた聖書の箇所です。

マルコによる福音書4章33ー34節にはこうあります。【イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された】。

イエスさまは弟子たちや人々に、たとえを用いて話されます。たとえは適切なたとえであればよくわかり、「そうだなあ」とみんなが思えるので、たとえを用いて話されました。しかしたとえはわかりやすく説明するために、身近なものでたとえたりすることが多いですし、そのときに使われていたものでたとえが話されたりします。そうしますと、場所が変わったり、時代が変わったりすると、たとえの意味がよくわからなくなるというようなことも出てきます。私たちがイエスさまのたとえをきいて、なんかよくわからないというようなことがあるのは、そうした事情があるからです。

マルコによる福音書4章26−29節にはこうあります。【また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」】。

イエスさまは神の国は、成長する種のようなものであると言われました。作物の種を植えるとだんだんと大きになっていきます。茎が成長し、穂が実り、豊かな実となっていく。まあ作物を育てているわけですから、手入れもされるけれども、でも本質的には種を成長していくのは、神さまがなさることだと、イエスさまは言われます。すべてのことがわかっているわけではないけれども、種は成長していくというのです。人の業を超えた、神さまの祝福があるのだと言うのです。暑さ、寒さ、雨がどのように降るのかを、人間が管理することはできないのです。

マルコによる福音書4章30−32節にはこうあります。【更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」】。

イエスさまはからし種の話をされました。からし種はちいさな種だけれども、それが成長すると、鳥が葉の陰に巣をつくるほど大きな枝を晴ることができる。そのように、小さな良き働きが神さまに祝福されて、神さまの義と愛に満ちた神さまの国になっていく。すべては神さまの働きなのだと、イエスさまは言われました。

神さまの祝福が、聖霊の力が働いているのが、私たちの世界なのだと、イエスさまは言われます。だからいろいろな作物も育つし、私たちの命も保たれているのだと、イエスさまは言われるのです。

私たちはいろいろと努力をしたり、配慮をしたり、こころに留めたりしながら、一生懸命に生きています。農作物を育てている人たちは、いろいろな労力をかけて、農作物を育てているわけです。「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる」と聖書にはありますが、そう簡単なことではないのです。いろいろな労苦があります。

私たちの世の中は、人間の世の中ですから、そんなに平和な世の中でもありません。いろいろな競争があったり、人を傷つけることがあったり、人から傷つけられるようなことがあったりもします。一生懸命に努力をしても、うまくいかないこともあります。とくに現代は、競争社会となり、個人主義的な価値観が広がり、「まあ、どうなってるんだろうねえ」と思えるような気持ちになり、神さまの霊である聖霊が、私たちの世の中に働いているとも思えないというような気持ちになるときもあります。

みなさんは、最近、私たちの世の中には聖霊が働いているというふうに感じたことはありましたでしょうか。卑近な例で申し訳ないのですが、わたしは最近、「プラダを着た悪魔2」という映画を見ながら、私たちの社会には聖霊が働いているというふうに思いました。

先日、京都教区定期総会も5月15日、16日に終わり、ほっとひといきということで、妻と一緒に「プラダを着た悪魔2」という映画を見に行きました。「プラダを着た悪魔2」ということですから、「プラダを着た悪魔」という映画の続編であるわけです。「プラダを着た悪魔」は20年ほど前に上映された映画です。

五月の連休に下の娘にあったときに、「プラダを着た悪魔2」、見に行く?」と聞くと、「行くよ。見てて元気になる映画だから」と言いました。「プラダを着た悪魔」は、ファッション業界について描かれている映画で、いわゆるお仕事映画であるわけです。映画の中で働いている女性の主人公たちの歩みをみて、励まされ、元気になる映画だということです。

わたしはそんな感じで「プラダを着た悪魔」を見ていませんでした。女性の主人公の一人であるを演じているメリル・ストリープは、わたしが映画を見始めたころに出始めた女優さんですので、すこしわたしより年上ですが、一緒に人生を歩んできたような思いのする女優さんです。主人公の一人であるアン・ハサウェイやエミリー・ブラントという女優さんたちも、注目してきた女優さんなので、まあそうした女優さんが出るので、見に行こうというような感じで、この映画を見ていました。

わたしは男性ですので、女性が主人公のお仕事映画をみて、娘たちのように、元気が出るというような気はしませんでしたが、「プラダを着た悪魔2」を見ていて、社会が愛によって支えられていること感じさせられる良い映画だと思えました。もちろん現代アメリカの社会が描かれているお仕事映画であるわけですから、仕事の上での駆け引きがあったり、キャリアアップを目指していく歩みがあるわけです。それでもそうしたなかにあっても、人を思いやる気持ちや、信頼しあうこころ、競いながらも和解をして友だちとして受け入れあっていく歩みがあります。やっぱり、人の世界の根幹にあるものは、「愛」であるということを感じることができ、なんかとてもさわやかに気持ちがいたしました。とくにニュースで見る現代のアメリカの状況などをみるとき、昔の古き良きアメリカなどはもうないのではないかと思われ、「愛」などと言っていては笑われてしまうのではないかと、わたしは思っていました。しかし現代アメリカ映画である「プラダを着た悪魔2」をみて、「ああ、私たちの世界にはやっぱり神さまの愛が働いておられ、神さまの霊である聖霊が働いているのだ」と思えたというのは、とてもうれしい気持ちがいたしました。

「小笠原さんも意外にお人よしですね」と思われるかも知れません。しかし人の善意や優しさ、愛を気軽に信じることのできる、ぼんやりとした社会であってほしいと、わたしは思うのです。なにかにつけて「何か裏があるのではないか」とか、「なにか企んでいるのではないか」というようなことを感じることのない、人の善意や優しさが感じられる、ぼんやりとした良い社会であってほしいと思うのです。とくに若い人たちが安心して人に頼ることのできるやさしい社会であったほしいと願うのです。

私たちの世界は、神さまの愛が働いている、聖霊の働きに導かれた社会です。そしてイエスさまの弟子たちに降った聖霊は、私たちにも同じように降ります。私たちは神さまの霊である聖霊による祝福を得て生きています。神さまの愛を信じて、今日、私たちにくださった聖霊の導きによって、健やかな歩みをしていきたいと思います。



   

(2026年5月24日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ礼拝) 


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