「この人をみよ」
聖書箇所 マルコ1章29-39節。155/280。
日時場所 2026年6月7日平安教会朝礼拝
『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』というのは、映画『アニー・ホール』でウディ・アレンが扮するアルビー・シンガーのせりふです。ウディ・アレンはこの『アニー・ホール』という映画で、1977年にアカデミー最優秀作品賞や監督賞をとりました。
『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』。なんとも屈折した感情です。自分は自分のことが嫌いであるわけです。ですからこんな自分を会員として認めるようなクラブはろくでもないクラブだから、そんなろくでもないクラブには入りたくない。本当は寂しいから、どこかのクラブに入りたいわけです。でも「自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない」から、どこのクラブにも入ることができない。
『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』。わたしはこの言葉、ある部分はキリスト教の教会に似ていて、ある部分はキリスト教の教会に似ていないなあと思いました。似ている部分というのは、自分が問題になっている点です。評価というのが自分に向けられている点です。キリスト教で大切なのは、自分の罪ということです。問題になるのは自分の罪ということです。人のことはどうでもいいわけです。問題は自分です。もちろんキリスト教でも人のことばかりをとやかくいうことがあります。けれども、基本的には自分の罪が問題であるのです。だいたい聖書の福音書のなかの登場人物でも、人のことについてとやかくいう人というのは、律法学者たちやファリサイ派の人たちとして登場します。でもやはり罪の問題というのは「あの人が罪人だ」ということが問題なのではなくて、基本的に自分の罪が問題であるのです。私たちは「自分は自分のことが嫌いだ」という思いをもっています。「自分は神さまに対して恥ずかしい」という思いを持っています。「こんなわたしがいや」という思いを私たちはもっています。
『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』。でもちがうところは、私たちはやっぱりそれでも「このクラブの会員になりたい」という思いをもっている点です。神さまは「あなたのような人でも、わたしはあなたを愛している」と、私たちを受け入れてくださっています。教会というところは、わたしのようなものが会員として受け入れられているわけですから、ろくでもないところであるわけです。ふつうであれば、『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』と言いたいところですが、しかし私たちはやはり『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』というところに留まることができません。私たちは神さまなしではどうしても生きていくことができないのです。私たちは自分を会員にするようなクラブであったとしても、やはりどうしてもこのクラブの会員になりたいと思うのです。
キリスト教は「自分というものに過度な期待をしない」ということが前提となっている宗教です。もちろん罪深い私たちがイエスさまの十字架の贖いによって罪許されて、キリスト者として生きていくわけですから、そこに希望がまったくないわけではありません。しかしそれでもやはり人間のすることですから限界があったり、弱さがあったりします。自分を見ていると、あまり希望がもてないわけです。ですから私たちは自分に希望をおくのではなく、神さまに希望をおいて歩んでいます。また自分だけでなく、やはり人にも過度な期待をしないのです。それはやはり自分と同じ、人間のすることですから、限界があり、弱さがあるからです。私たちは人を見るのではなく、神さまを、そして神の独り子イエス・キリストを見つめて歩むのです。
今日の聖書の箇所は「多くの病人をいやす」「巡回して宣教する」という表題のついた聖書の箇所です。マルコによる福音書1章29-31節にはこうあります。【すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした】。
イエスさまはカファルナウムのユダヤの会堂で、汚れた霊に取りつかれた男をいやされました。イエスさまの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。会堂を出たあと、イエスさまたちはペトロとアンデレの上に行きました。ペトロたちはまあちょっとイエスさまにゆっくりとしてもらいたかったのかも知れません。しかしペトロのしゅうとめは家で熱を出して寝込んでいました。ついでにペトロのしゅうとめもいやしてもらいたかったのかも知れません。イエスさまはペトロのしゅうとめをいやされました。
マルコによる福音書1章32-34節にはこうあります。【夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである】。
夕方になって日が沈むと、まあ夕食を食べてゆっくりしたいというのが人情であるわけですが、イエスさまの場合はそんな生活ではなかったようです。人々が病人や悪霊に取りつかれている人々を、どんどんどんどんイエスさまのところに連れてきます。だいたい夜に訪ねてくるというのは、いろんな事情があるからです。イエスさまにしても「昼間にしてくれ」とは言えません。イエスさまは連れて来られた病気の人々をいやされ、悪霊を追い出されました。イエスさまは一生懸命に、カファルナウムの人々をいやされました。
マルコによる福音書1章35-39節にはこうあります。【朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された】。
大勢の人々がペトロとアンデレの家にやってきて、イエスさまは多くの人々を夜にいやされました。大勢の人々に会い、そしていやされるというのは、なんとも落ち着かず、精神的にも疲れることだと思います。まあ一応眠ることはできたわけですが、イエスさまは朝早く起きて、心を静めるために、神さまにお祈りをささげに、人里離れた所にいかれました。やっぱり一人になるということは、大切なことなのです。しかし人々はなかなかイエスさまを一人にはしてくれません。「イエスさまがおられない」ということで、ペトロたちはイエスさまを探しにやってきました。「どこに行かれたんだろう。イエスさま、どこに行かれたんだろう」。ペトロたちも一生懸命にイエスさまを探したのでしょう。そして見つけて、ほっとして「みんなが探しています」とペトロたちはイエスさまに言いました。
そしてイエスさまは応えられます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。ちょっといたいたしい感じがします。「イエスさま、もうくたくただろうなあ」と、わたしは思います。それでもイエスさまのところにはたくさんの人々がやってきました。病気をいやしてもらうために、悪霊を追い出してもらうために、せっぱ詰まった状況の中で、困難な状況を抱え込んでいる中で、「イエスさまに頼るしかない」と思った人々が、イエスさまのところにやってきました。イエスさまはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました。
今日の聖書の箇所を読むと、イエスさまのことを慕う人々がどんどんどんどんイエスさまのところに集まってくる様子がよくわかります。イエスさまは、はじめはたまたま出会った汚れた霊に取りつかれた男をいやされます。そして次にイエスさまはペトロのおつれあいのお母さんをいやされる。身内の人をいやされたわけです。そしてこんどはカファルナウムの人々をいやされます。マルコによる福音書1章33節には【町中の人が、戸口に集まった】とあります。そしてつぎに、マルコによる福音書1章39節にありますように【ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出され】ました。
先ほど歌いました讃美歌は、讃美歌21−280でした。「馬槽のなかに」という讃美歌です。とても有名な讃美歌です。詞:由木康(ゆうき・こう)、曲:安部正義(あべ・せいぎ)ですから、日本の讃美歌です。この曲の作詞をした、由木康は讃美歌学者です。イエスさまのご生涯をとてもうまく表している讃美歌となっています。
【1.馬槽のなかに うぶごえあげ、木工の家に ひととなりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし この人を見よ。2.食するひまも うちわすれて、しいたげられし ひとをたずね、友なきものの 友となりて、こころくだきし この人を見よ。3.すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ。4.この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。】
イエスさまは王宮ではなく、馬小屋の馬槽のなかにお生まれになられました。神の御子でありながら、私たちの世に来てくださり、そして私たちと同じように悲しみや嘆きや苦しみを経験してくださいました。そして【「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」】と今日の聖書の箇所にありましたように、虐げられた人々を訪ねられ、そして友なき者の友となってくださいました。そしてイエスさまは十字架へと歩まれました。十字架につけられても人をののしったりされず、【「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」】と、神さまにとりなしの祈りをささげられました。私たちのように罪深い者のところにも、イエスさまは訪ねてくださり、そして「あなたは神さまから愛されている大切な人なのだ」と言ってくださいました。
この「馬槽のなかに」という讃美歌で繰り返し出てくる言葉は、「この人を見よ」という言葉です。この「この人を見よ」という言葉は、キリスト教において特別な言葉で、絵画などでもよく題名になっています。「エッケ・ホモ」という言葉です。ラテン語だそうです。「エッケ」というのは間投詞で、「ホモ」というのは「人間」という意味です。
「この人を見よ」というような言葉を、聖書の中で言いそうな人というのはだれだと思いますか。わたしはこの「この人を見よ」という言葉を聞いたとき、洗礼者ヨハネがイエスさまのことを「この人を見よ」と言ったのかなあと思ったりしました。しかしこの「エッケ・ホモ」「この人を見よ」という言葉は、総督ピラトが言った言葉です。
ヨハネによる福音書19章1-7節にはこうあります。新約聖書の206頁です。【そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」】。そんな「この人を見よ」なんて、どこにあったのかと思いますが、ヨハネによる福音書19章5節の言葉です。【ピラトは、「見よ、この男だ」と言った】。この「見よ、この男だ」というのが、「エッケ・ホモ」「この人を見よ」です。
総督ピラトから「見よ、この男だ」「エッケ・ホモ」「この人を見よ」といわれたときのイエスさまは、私たちにとって見るのがつらいイエスさまです。弟子たちから裏切られ、大祭司から尋問され、総督ピラトから尋問され、疲れ果てておられるイエスさまです。鞭で打たれ、茨の冠を頭に載せられ、紫の服をまとわされ、「ユダヤ人の王、万歳」と兵士たちから平手でうたれ、そして十字架につけられるイエスさまです。私たちの罪のために十字架につけられるイエスさまです。
私たちは総督ピラトから、イエスさまのことを「この人を見よ」と言われているわけですから、なんとも不思議なことだと思います。洗礼者ヨハネから「この人を見よ」と言われたら、「そうですね。ほんと、そうです。すみません」というような思いになります。しかし私たちは総督ピラトから「この人を見よ」と言われています。「ピラト、あなたに言われたくはないよ」と思えるわけです。
しかし大切なのは「この人を見る」ことなのです。総督ピラトが悪いとか、総督ピラトよりもわたしのほうがましだろうというようなことは、あまり関係のないことなのです。私たちは人を見るのではなく、イエスさまを見ることが大切なのです。
【1.馬槽のなかに うぶごえあげ、木工の家に ひととなりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし この人を見よ。2.食するひまも うちわすれて、しいたげられし ひとをたずね、友なきものの 友となりて、こころくだきし この人を見よ。3.すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ。4.この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。】。
私たちの救い主イエス・キリストをしっかりとみて、希望を持って歩んでいきましょう。
(2026年6月7日平安教会朝礼拝)
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