「わたしのなかに住んでいる罪」
聖書箇所 マルコ6:14-29。211/521。
日時場所 2026年6月28日平安教会朝礼拝式
キリスト教では、神さまの思いに反して生きていることを、罪というふうに言います。ギリシャ語で罪というのは、「ハマルティア」と言い、「的外れ」という意味です。神さまの思いから離れ、的を外した生き方をしているということです。
私たちはいろいろなことをするときに、神さまどう思われるかなあ、イエスさまどう思われるかなあと思います。「ああ、やっぱりこのことは、神さまの前に恥ずかしいことだよなあ」というようなことを思うわけです。
キリスト教だけでなく、昔は宗教的な意識がいまよりも強かったので、「ああ、なんか恥ずかしいことをしている」という意識がありました。しかし現代はだんだんと宗教的な意識が失われてきている社会なので、罪ということについて考えるということも失われてきているような気がします。
政治の世界などでも、「法律に違反をしていなければ大丈夫なのだ」というふうに考える人が多くなりました。もう一歩進めて、「捕まらなければ大丈夫」「裁判で有罪の判決がでなければ大丈夫」というふうになってきます。政治のリーダーたちが倫理的な感覚を大切にしなくなってくると、やはり世の中への影響も多くなってきます。
加藤喜之『福音派ー終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)という本を読んでいました。いまアメリカの政治に大きな影響を及ぼしているのが、キリスト教の福音派と呼ばれる人々であると言われます。その福音派とアメリカ政治との関係の歴史について書かれてある本です。アメリカにおいてキリスト教と政治との関わりというのは、昔から密接にあります。共和党の大統領だけでなく、民主党の大統領もキリスト教との関わりの中で政治を行っています。カーター大統領もレーガン大統領も、クリントン大統領もオバマ大統領も、そしてトランプ大統領も、さまざまな形で支持を受けたり、批判をされたりしながら、政治を行っています。
この『福音派』という本のはじめの方で、ビリー・グラハムという牧師が紹介されていました。ビリー・グラハムという牧師は、「アメリカの牧師」「市民主教の大祭司」と言われたりする有名な牧師でした。日本でも大伝道集会を開いているような牧師です。友だちに誘われて伝道集会に行ったという方もおられるかも知れません。
ビリー・グラハムはニクソン大統領を支援していました。ウォーターゲート事件にの疑惑が出てきた時も、ニクソン大統領の無実をアメリカ国民に訴えかけました。しかし1974年5月中旬に『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された記事をみて、ビリー・グラハムは友人として親しくしてきたニクソン大統領が、とんでもない悪事を重ねても平気な人間であることを知ることになります。ビリー・グラハムは泣き悲しみ、嘔吐するほどだったと言われています。ビリー・グラハム牧師は倫理的な感性を失った大統領に失望したわけです。そうしたことを、この『福音派』という本を読み知りました。でもいまの福音派の牧師たちは、倫理的な感性を失った大統領に失望するだろうかと考えた時、そうしたことはあまり関係のないこととして考えるだろうなあと思います。キリスト教という宗教の中においても、倫理ということが失われているということがあるわけです。(ビリー・グラハム牧師の息子さんのフランクリン・グラハム牧師は、トランプ大統領を支持しています。トランプ大統領が再任された就任式で、フランクリン・グラハム牧師は、「神よ、あなただけがトランプを彼の敵から救い出し、力をもって復活させてくださった」と感謝の祈りを捧げたと言われています。(『福音派』、P.270参照)
今日の聖書の箇所は「洗礼者ヨハネ、殺される」という表題のついた聖書の箇所です。洗礼者ヨハネは、イエスさまの前に世に現れ、人々に悔い改めを迫りました。政治家に対しても、神さまの御心に反している人に対しては、痛烈な批判をしていました。ヘロデ王もまたそのひとりであったわけです。洗礼者ヨハネはヘロデ王を批判していたため、ヘロデ王によって殺されました。ヘロデ王が洗礼者ヨハネを殺した出来事について、今日の聖書の箇所には書かれてあります。今日の聖書の箇所は、すべてが歴史的な事実というわけでもありません。ヘロディアなどはこんな感じの悪人ではなく、もう少し純真な人であっただろうと言われています。この話は歴史的な事実というよりは、ひとつの物語として読むほうがよいだろうと思います。
ヘロデ王はイエスさまのことを知った時に、自分が殺した洗礼者ヨハネが生き返って現れたのではないかと思います。イエスさまのことを世の人々は、預言者エリヤだとか昔の預言者だとか、いろいろと噂をしていたのですが、ヘロデは自分が首をはねた洗礼者ヨハネが生き返ってやってきたのだと思いました。
洗礼者ヨハネはヘロデ王のことを批判していました。ヘロデ王が残虐な王でしたし、王さまですから好き勝手なことをしていたわけです。ヘロデ王とヘロディアとの結婚についても非難をしていました。現代的に考えればまあそんなに問題となるようなことではないですが、まあ洗礼者ヨハネは律法に基づいて非難をしていたのです。結婚のことというよりも、ヘロデ王が倫理的な王さまでないということが、洗礼者ヨハネにとっては非難すべきことであったのだと思います。
ヘロデ王は洗礼者ヨハネによって非難されていたのですが、一方で洗礼者ヨハネが正しい聖なる人であったので、洗礼者ヨハネの話すことに耳を傾けていました。ヘロデ王は自分のことを非難されることについては、なかなかしんどいことであるけれども、それども神の人としての洗礼者ヨハネを受け入れていたわけです。私たちの時代の総理大臣や大統領が、自分を批判するような人を、周りから遠ざけ、意見を聞こうとしなかったりすることがありますが、そういうことからすれば、ヘロデ王の方が自分を批判する人の意見を聞くという姿勢があったわけです。まあだからと言って、ヘロデ王のほうが現代の総理大臣や大統領よりましであったのかというと、そうではなくヘロデ王は残虐な王さまでありました。
ヘロデ王の妻のヘロディアは洗礼者ヨハネが自分のことを非難するので、洗礼者ヨハネを殺そうとします。ヘロデ王が自分の誕生日のときに、たくさんの人々を呼んで宴会を催しました。そのときの余興で、ヘロディアの娘が踊りを踊ります。それがたいそう、来ていた高官や将軍を喜ばせました。それでヘロデ王はヘロディアの娘に、ほうびをとらせることにします。
ヘロデ王は言います。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。それでヘロディアの娘はお母さんのところに言って、何を望んだらいいでしょうかと尋ねます。するとヘロディアは「洗礼者ヨハネの首を」と言います。ヘロディアの娘はヘロデ王のところに帰ってきて、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と答えます。
ヘロデ王は人々の前で、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言っていたので、仕方なく、洗礼者ヨハネを殺して、首をお盆に載せて、ヘロディアの娘に渡します。
「イエスは言われた。『この3人の中で一番罪深いものはだれか。ヘロデかヘロディアか、ヘロディアの娘か』」。というようなことは、聖書に書いていませんが、みなさんはどう思われますか。みんなが集まって、「こいつが悪い」というような話をするとおもしろいかも知れません。
この話では洗礼者ヨハネの殺害の糸をひいているのは、ヘロディアだという話になっていますから、まあ「ヘロディアが悪い」ということになるかも知れません。ヘロデ王は罪の自覚のある人として描かれています。ヘロディアの娘には罪の自覚はありません。ヘロディアの娘はなにもわからず、母の言うことを聞いて、「洗礼者ヨハネの首を」とヘロデ王に言うわけです。
「わたしは悪いことをしている」「わたしは罪深い者だ」ということが、わかっているかどうかということは、やはり大切なことであるわけです。そういう意味では、ヘロデ王は自分が悪い人間であるということを意識していました。それでもまあ悪いことをし続けるわけですから、人間というのはなかなかどうしようもないわけです。自分の罪に向き合うということは、なかなかむつかしいことであるわけです。
自分の中の罪ということに、真摯に向き合った人に、使徒パウロという人がいます。ローマの信徒への手紙7章7節以下に「内在する罪の問題」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の282頁です。この聖書の箇所で、使徒パウロは自分の中に罪がいて、その罪が自分を悪い方へと導いていき、神さまの御心に反することをしてします。「律法を守ろうと思っても、律法を守ることができない。悪いことをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのだ」と言います。そして「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」と、使徒パウロは嘆いています。自分の中にある罪に向き合えば向き合うほど、自分が悪い人間であると思えてきます。汚い部屋にいると、少々、ほこりがたまっていても気になりません。しかしきれいに掃除をした部屋にいると、机の隅のほこりも気になってきます。
私たちはヘロディアの娘のように、自分のしていることがわからずに、神さまの前に恥ずかしいことをしてしますことがあります。またヘロディアのように、高慢な気持ちや怒りに身を委ねてしまい、神さまの前に恥ずかしいことをしてしまうこともあります。またヘロデ王のように、神さまの前に恥ずかしいことをしているという気持ちがありながらも、でもやっぱり自分の好き勝手に生きてしまうということもあります。
人というのはなかなかやっかいなもので、自分で自分のしていることさえわからないようになってしまうこともあります。一方で良い人でありたいと思いながら、他方で自分の好き勝手なことばかりしていたりするわけです。使徒パウロはそんなやっかいな人間の一人として、自分の中にある罪に向き合いました。そして自分ではどうすることもできないけれども、イエス・キリストがわたしの罪を贖ってくださり、こんな惨めなわたしを救ってくださるということに気づきました。そして使徒パウロはイエスさまに従って歩みました。
私たちもまたいろいろな弱さを抱え、そしてときに邪な思いをもつ、やっかいな人間です。しかしそんな私たちを愛してくださり、私たちを祝福してくださる神さまがおられます。悔い改めの気持ちをもちつつ、神さまの愛を受け入れて、イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。
(2026年6月28日平安教会朝礼拝式)
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