2026年7月8日水曜日

6月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「きこうとしないわたし」

 「きこうとしないわたし」


聖書箇所 マルコ6:1-13。197/542

日時場所 2026年6月21日平安教会朝礼拝式

  

10年くらい前、宇多田ヒカルの曲をよく聴いていました。朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の主題歌も、宇多田ヒカルの「花束を君に」でした。同じ頃の宇多田ヒカルの歌に、「荒野の狼」という曲があります。ちょっととがった歌詞でした。聞く人によっては、なんか不快に感じる歌だなあと思いながら聴いていました。

【惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら

 そうだそうだ お互いを肯定する輩(やから)

 まずは仲間になんでも相談する男

 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子

 偽物の安心に悪者探し

 私たちには関係ない】

【惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら

 そうだそうだ お互いを肯定する輩(やから)

 まずは仲間になんでも相談する男

 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子

 偽物の安心に悪者探し

 私たちには関係ない】

仲間内に閉じこもって、自分たちだけが正しく、人を非難することで自分たちが安心するといった人間の姿が歌われています。

曲を聴いていると、「惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら」と歌われているので、若い人たちの姿のような気がするわけですが、「偽物の安心に悪者探し 私たちには関係ない」というような姿は、若い人だけではないような気がします。

「まずは仲間になんでも相談する男」という歌詞が、わたしにはとても印象的でした。政治家の人たちも、よく「進退ついては、仲間と相談して判断します」と言ったりします。わたしの周りの社会活動をしている人も「わたしの仲間がとても傷ついている」というような話をされることがあります。同じ思想信条で行動を共にしている人たちというのが、仲間ということなのかなあと思ったりします。でもこういう使われ方をするとき、「ああ、わたしはこの人の仲間ではないのだ」というような気持ちがわいてきて、なんかとても微妙な気持ちになるわけです。

どうしても仲間内で固まると、仲間とそうでない人たちとのグループができてしまいます。そしてあんとなく風通しが悪くなってしまいます。仲間内で固まると、一般的な意見が聞えてこなくなります。そして「そうだそうだ お互いを肯定する輩」になってしまいます。総理大臣や大統領といった政治的指導者が、自分のが周りに自分の考えに同調する人たちだけを集めて政治をしていると、そのうち世の人々の声が届かなくなり、ちょっと困った状態になってしまうというようなことが出てきたりします。いやなことを言う人を周りに置いておくということは、気持ちの良いことではないわけですが、でもやっぱり必要なことであるわけで、政治家の人たちはなかなか大変だなあと思ったりします。

でも仲間がいるということはとても楽しいことだし、わくわくすることでもあります。わいわいとやっていくことができれば、とても力になります。仲間内で固まることなく、開かれた形で、いろいろな人たちと交流するというのは、なかなかむつかしいことだなあと思わされます。

今日の聖書の箇所は「ナザレでは受け入れられない」「十二人を派遣する」という表題のついた聖書の箇所です。

マルコによる福音書6章1−6節にはこうあります。【イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた】。

イエスさまは故郷のナザレのユダヤ教の会堂で、神さまのことを話されます。故郷の人々は、小さい頃からイエスさまのことをよく知っています。イエスさまのお父さんがヨセフで、イエスさまはお父さんの仕事を継いで、大工をしている。お母さんはマリアさんで、兄弟にヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンがいる。姉妹たちもナザレに住んでいる。そういうことを故郷の人々はよく知っているわけです。私たちも聖書を読んで、イエスさまのことをよく知っているわけですが、でもイエスさまの兄弟のヤコブは知っているけど、ヨセ、ユダ、シモンは知らなかったわというような感じの知識です。でも故郷の人たちは、イエスさまのことをほんとによく知っているわけです。

たしかにイエスさまが聖書について、神さまについて話される御言葉は力に満ちている。そしていろいろな奇跡を行なっている。そのこともまあわかるのだけれども、でも幼いときからイエスさまを知っている人たちにとっては、なんとなくそうしたことはしっくり来ないわけです。わたしが知っている鼻たれ坊主のイエスみたいなものが、頭のなかにあるわけです。それでイエスさまも「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。自分が敬われていないことを、イエスさまご自身が感じておられました。

マルコによる福音書6章6−13節にはこうあります。【それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした】。

イエスさまは故郷で受け入れられないという経験をされたあと、弟子たちを世に遣わされます。そのときの注意事項について書かれてあります。イエスさまは弟子たちを二人ずつ組にして遣わします。二人であればまあなにか困ったときに助け合うこともできます。旅の途中は危険も多いですし、誘惑も多いわけです。そしてイエスさまは食料もお金ももたさないで、弟子たちを遣わします。神さまに頼り、受け入れてくれる人たちを頼りにして歩みなさいということです。「袋も持たない」というのは、旅先でいただいたお土産や食料をもつというようなこともしてはいけませんということでしょう。「下着は二枚着てはならない」というように、贅沢をしてはだめだと言われます。でもケガをしないように、履物は履きなさい。あんまり足が汚れて、誰かの家にいくというのも失礼になるので気をつけなさいと、弟子たちは言われています。

どこかの家に迎えられたら、その家に留まりなさい。もっとご馳走をだしてくれそうな家があったとしても、あとからそこに変わるというようなことはやめなさい。「きてください。きてください」と熱心に誘われたとしても、そういう不義理なことはしてはだめですと、弟子たちはイエスさまから言われています。そしてもし弟子たちを迎え入れる人たちがいないことがあるかも知れない。弟子たちが語る福音に耳を傾ける人たちがいないかも知れない。そうしたときはその町を出て行く時に、足の裏の埃(ほこり)を払い落として、その町を出ていきなさいと、イエスさまは弟子たちに言われました。

イエスさまも故郷で、イエスさまのことを受け入れようとしない人たちに出会いました。弟子たちもまた弟子たちのことを受け入れてくれない人たちに出会うことがあるかも知れません。それはまあ特別なことではなく、ふつうに起こることであるわけです。私たちもいろいろな伝道・宣教活動を行いますけれども、でもそうしたことが簡単に実を結ぶというわけでもありません。

でも自分が大切にしていることを一生懸命に伝えるのに、だれもそのことに関心を持ってくれないのは、なかなかさみしいことであります。ですから腹が立ってきたりするようなことも起こります。怒鳴ってみたり、人のことを悪し様に言ってみたい気持ちになってくることもあります。でもイエスさまは弟子たちに、そうしたことをするのではなく、ただ「足の裏の埃(ほこり)を払い落として、その町を出て行きなさい」と言われました。過剰に反応して、腹を立てたりするのではなく、たんたんとそのこと受け入れて、次のところに進んでいけば良い。そうするとまたあなたたちのことを受け入れてくれる人たちがいる。

イエスさまの弟子たちはイエスさまが教えてくれた注意事項を守りながら、伝道・宣教活動に励みました。人々を神さまのところに招き、神さまへの悔い改めの気持ちをもつことの大切さを伝えました。そして多くの悪霊を追い出し、多くの病気の人たちを癒やしました。

私たちはこの「ナザレでは受け入れられない」「十二人を派遣する」という聖書の箇所を読みますと、イエスさまの教えを受け入れようとしないような人たちがいて、とんでもない人たちだという思いをもちます。しかし仲間内で固まって、他の人の意見を聞こうとしないというのは、それはまた私たちの姿でもあるわけです。私たちもまたイエスさまの故郷の人たちや、イエスさまの弟子たちを受け入れなかった町の人たちのように、自分たちの世界に閉じこもって、外からの声に素直に耳を傾けることができなかったりすることがあるわけです。

今日の説教題の「きこうとしないわたし」の「わたし」というのは、わたしのことです。わたしもまた自分の考えが正しくて、相手の考えは間違っていると思い込んでしまうこともあります。また世の中のスピードについていけず、戸惑うことも多くなりました。そのためなんとなく身構えてしまうということもあります。

わたしも初老になり、若い人たちの考えていることが、さっぱりわからなくなりました。「初老」って、何歳くらいからだと思われますか。【Q:「初老」という言葉は、何歳ぐらいの人のことを指すのでしょうか。A:かつては、40歳ぐらいの人のことを指していました。ただし寿命が長くなった現代では、「初老」が当てはまるのは60歳ぐらいからと考える人が多くなっています】(NHK放送文化研究所)ということです。先週、同志社高等学校の礼拝に行って、1年生、2年生、3年生と3回礼拝説教をしてきました。若い人たちが考えていることはわからないので、若い人たちの前に立って話をするという機会を大切にしています。いろいろな反応があり、勉強になります。なるべくいろいろな場所に行って、いろいろな人々と交わり、話を聞いたりしながら、自分の考えだけに凝り固まることなく歩むことができれば良いかなあと思っています。

そして何より、こころを開いて、イエスさまの声に心を傾ける者でありたいと思います。イエスさまは私たちにどんなに神さまが私たちのことを愛してくださっているかを教えてくださいました。私たちがつらいとき、さみしいときも、神さまが私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださっていることを、私たちに教えてくださいました。

神さまの愛に守られて、私たちもまた愛に満ちた歩みでありたいと思います。人のことを悪く言ったり、自分の考えだけが正しいというような思い込みにとらわれるのではなく、どうすれば神さまの愛に応えることができるのかを考えながら、謙虚に歩んでいきたいと思います。




(2026年6月21日平安教会朝礼拝式) 

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