2026年8月7日金曜日

7月19日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「力ある方に守られて」

 「力ある方に守られて」

聖書箇所 マルコ9:14-29。227/510。

日時場所 2026年7月19日平安教会朝礼拝式       

 

『イン・ザ・メガチャーチ』は、私たちクリスチャンにとっては、目がいく小説のタイトルです。朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』。2026年本屋大賞受賞ということで、いまよく売れている小説です。グランフロント大阪の本屋さんにいくと、入口のところに平積みで本がたくさん積んでありました。著者の朝井リョウさんの言葉が添えられていました。【15年間、私は“小説を書く”という教会に通っていたようです。あなたはどんな教会に通っていますか】。     

『イン・ザ・メガチャーチ』という小説は、教会生活について書いてある本ではありません。推し活や陰謀論、そういた経済活動の裏側などについて書かれた小説です。かつて推し活をしていていまは陰謀論の活動を行なっている人、現在アイドルの推し活をしている大学生、推し活経済を作り出している会社員などなどの様子を、たくみに描いている小説です。どうして推し活のはなしに、『イン・ザ・メガチャーチ』という題がついているのかということですが、推し活という経済活動を作り出していく方法が、アメリカのメガチャーチの信徒を組織していくやり方と似ているということからきています。

【「まずね、今のメガチャーチって礼拝がライブみたいな感じなんだって。私も全然知らなかったんだけど、楽器の生演奏とかダンスで始まったり、音響とか証明の設備もしっかりしてて、礼拝って言葉からイメージする雰囲気と全然違うみたいなの。お祈りに行くっていうよりもライブに参戦って感じで、非日常感を味わえる場所になってるんだって】。というように、アメリカのメガチャーチは人を集めるために拡大戦略を練っています。推し活もまた裏側では人を集めるために拡大戦略が練られています。陰謀論も人を集めるために拡大戦略が練られています。その手法というのが、メガチャーチの手法と似ているということです。

しかし『イン・ザ・メガチャーチ』という小説を読んでいて、わたしが思うのは、わたしはまあ教会の中にいるわけですが、やっぱり『メガチャーチ』と『スモールチャーチ』は、別物だなあと思います。私たちは個人が自由に信じているということを大切にしています。信じさせる手法ということがあるわけではありません。ですから推し活のような熱心さで教会に集ってきているというような感じは、みなさんにもないだろうと思います。「推し活うちわ」をもって、教会に来るということはないわけです。わたしはちょっと「推し活うちわ」つくってみました。

今日の聖書の箇所は「信仰」ということについて考えさせられる聖書の箇所です。「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。

イエスさまの弟子たちが群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論をしているところに、イエスさまがやってこられます。そこには悪霊にとりつかれた子どもがいました。イエスさまの弟子たちにいやしてもらおうと、そこに連れてきたのですが、弟子たちはいやすことができませんでした。悪霊はこの子どもにとりつき、こどもを地面にひきたおし、こどもは口から泡を吐き出し、歯ぎしりをして、体をこわばらせています。てんかんの発作のようなことが起こっているということです。弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったということを知って、イエスさまは嘆かれました。「「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。激しい叱責の言葉なので、弟子たちのこころは萎えてしまっただろうと思います。

人々は弟子たちがいやすことができなかったので、イエスさまのところにこどもを連れてきました。すると悪霊はこどもに引きつけをおこさせます。イエスさまはこどもの父親にいつからこのような病状なのかと尋ねました。父親は「ちいさいころからです」と答えます。地面に引き倒すだけではなく、火の中に飛び込むこともあるし、水の中に飛び込むこともあるのだと言います。そして「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言いました。イエスさまは父親が「おできなるなら」と言ったことに対して、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われました。それに対して、父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と答えました。

イエスさまは「この子から出て行け、二度とこの子に入るな」と、汚れた霊に命令をしました。汚れた霊は最後の抵抗として、子どもにひどい引きつけを起こさせます。こどもは死んだようになりました。多くの人々は「死んでしまった」と思ったのでした。しかしイエスさまは子どもに手を差し伸べ、そして子どもを立ち上がらせます。子どもは汚れた霊から解放されたのでした。イエスさまが家に入られると、弟子たちは自分たちがどうして悪霊を追い出すことができなかったのかと、イエスさまに尋ねました。イエスさまは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われ、弟子たちの力不足を指摘しました。イエスさまは弟子たちに「祈りが足りない」と言われました。弟子たちは「祈りが足りないって言われてもなあ」「そりゃ、そうだろうけど、なんかなあ」と思っただろうと思います。

こどもはいやされ、まあ、「よかった。よかった」という話であるわけです。イエスさまは弟子たちがこどもをいやすことができなかったことについて、「なんと信仰のない時代なのか」と言われます。またこどもの父親が「おできになるなら」と言ったことについて、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と、お叱りになられます。

まあ、イエスさまからみれば、「信仰のない時代」ですし、「信じる者がいない」時代であるわけです。でもまあ、そんなにイエスさまにほめられるようなりっぱな信仰をもっているのであれば、イエスさまを頼って生きていくこともないわけです。りっぱな信仰など持ち合わせていないからこそ、私たちはイエスさまに頼って生きていくわけです。りっぱな信仰をもってないから、イエスさまに依り頼んで生きているのに、「りっぱになれ」と言われても困ってしまうわと思います。

そういう意味では、汚れた霊に取りつかれたこどもの父親の態度は、なかなか当を得ているような気がします。イエスさまから「できれば」と言うかと叱られると、あわてて、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と答えています。イエスさまから叱られると、とにかく「信じます」と答えます。もうあなたを信じるしかないのですと、父親は答えるのです。ただその信じるということは、自分が信じるということなので、はなはだ頼りないのです。自分は頼りにならない。ですから「信じます」と答えつつ、「信仰のないわたしをお助けください」と、イエスさまにお委ねします。ここに「信じているけれども、信じられない」「信じられないけれども、信じている」という奇妙な信仰がいい表わされています。私たち人間は神さまに助けていただくという形でしか、信じるということはできないのです。私たちは「イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」のです。

使徒パウロはローマの信徒への手紙3章で、「信仰による義」について語っています。

私たちにとって信じるということは、狂信的に信じるということではありません。やみくもに信じるということでもありません。私たちは力ある方がおられるということを知っています。そしてその方をただ私たちは信じているのです。私たちは弱く力のない、また信仰の弱いものです。しかし力ある方が私たちを救ってくださり、私たちを導き、祝福してくださるのです。

イエス・キリストが私たちを導き、祝福してくださいます。イエスさまにより頼んで、こころ平安に歩んでいきましょう。


  

(2026年7月19日平安教会朝礼拝式) 








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