「だめなわたしだけど」
聖書箇所 マルコ9:33-41。437/518。
日時場所 2026年7月26日平安教会朝礼拝式
石川啄木の歌「「友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」」は、こころにしみる歌です。
わたしは地方の公立中学校を卒業し、地方の公立高等学校で勉強し、地方の国立大学で学びました。時代ということもあるのでしょうが、わたしは筆記試験による序列やランキングというものが、とても鮮明な時代に若いときを過ごしたので、長い間、周りと比べるということが、自分の中に染みついているなあと感じています。いまはまあもう年を取りましたので、その日一日を大切に、一生懸命に生きているという感じなので、それほど周りと自分を比べるということがありません。
大学を卒業した後、同志社大学の神学部に入り、牧師となり、一人で教会で仕事をするという働き方になりましたので、一般の人たちよりは周りのことが気になりにくい生涯であるような気がします。しかしそれでもやはり人と比較をして、自分はどうだろうという思いがないわけでもありません。SNSのつぶやきなどを見ていますと、自分がどれだけよく知っているか、多くの人はオールドメディアにだまされて、どれだけ愚かな人間であるのかというようなことを、一生懸命に語っていたりして、人間というのはなかなか大変な生き物だなあというふうに思わされます。
比べているとやっぱり疲れます。まあ自分より能力の優れた人というのはふつうにいますから、どうしても自分は劣っているということを感じずにはいられません。自分よりも能力の低い人を見下して喜ぶことはできても、でも自分より能力の優れた人もいるわけですので、どうしても自分を見下すことになります。するとやっぱり疲れます。
宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)は、西武大津店、膳所高校などが出てくるので、滋賀県民必読の小説です。「成瀬は天下を取りにいく」「成瀬は信じた道を行く」「成瀬は都を駆け抜ける」というシリーズ物の青春小説です。主人公の成瀬あかりは、自分と他人を比べるということがありません。いつも自分がやりたいと思ったことをやります。「閉店する西武大津店に閉店まで毎日通う」「シャボン玉を極める」「M-1グランプリに出場する」「200歳まで生きる」。周りの目を気にすることなく、自分がやりたいと思ったことをやる。まっすぐに自分の道をいくところが読んでいて、読者にすがすがしい気持ちを与えてくれます。それがこの宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)という小説がよく読まれている理由なのでしょう。やっぱり周りの人といちいち自分を比べて生きるよりも、まっすぐに自分の道を歩んでいきたいものだと思います。
今日の聖書の箇所は「一番偉い者」「逆らわない者は味方」という表題のついた聖書の箇所です。
イエスさまたちはカファルナウムに来て、家に入られました。そしてイエスさまは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになられます。弟子たちは沈黙をします。それは自分たちのなかで一番偉いのはだれかということを議論していたからでした。黙っていたのは、イエスさまがそんな話が嫌いだろうということを、弟子たちは理解をしていたからです。「だれが一番偉い」というような話、イエスさまは嫌いだろうけど、弟子たちは好きだったわけです。イエスさまのお弟子さんたちは、みんな若者ですから、やっぱり偉くなりたいのです。一旗揚げたいのです。「こいつよりもおれのほうが優秀だろう」と思いたいのです。しかしイエスさまが歩んでおられる道は、そうした道ではありませんでした。
イエスさまは弟子たちを呼び集めて、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われました。「あなたは偉い人ですね」とちやほやされる人が偉いのではなくて、すべての人に仕える者がほんとうの偉い人なのだ、あなたたちにはそのように生きてほしいのだと、イエスさまは言われました。そしてイエスさまは、一人の子供の手をとって、弟子たちの真ん中に立たせました。その子を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われました。
こどもは大人と同じように、偉そうなことをいったり、自分勝手なことをしたりしますが、基本的に小さな存在です。理不尽であると思っても、父や母や大人の言うことを聞かなければなりません。そのような小さな存在である子供のことを尊重して生きていくということが仕えるということであり、そのように生きることが大切なことなのだと、イエスさまは言われました。
イエスさまのお弟子さんであったヨハネは、イエスさまの名前を使って悪霊を追い出している人に出くわしました。それでその人に、「私たちに黙って勝手に、イエスさまの名前を使って悪霊を追い出してもらって困る」と言って、イエスさまの名前を使って悪霊を追い出すのをやめさせます。しかしイエスさまはやめさせる必要はないと言われます。わたしの名前を使って奇跡を行ったあと、すぐあとにわたしの悪口を言うことはできないだろうから、そうしたことに目くじらを立てることなく、おおらかな気持ちで過ごしなさいというわけです。わたしたちに逆らわない者は、私たちの味方なのだから、いちいち細かいことを言って対立を深めていくと、逆らわない者も敵になってしまってよくないだろうというわけです。キリストの弟子だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる者は、必ず神さまから祝福を受けるのだから、おおらかな気持ちになって、少しでも自分たちのことを理解してくれる人を増やしていきなさいと、イエスさまは言われました。
イエスさまの弟子たち、また弟子のヨハネは、自分たちのなかで一番偉いのはだれかというようなことを議論したり、イエスさまの名前を語って悪霊を追い出すのをやめさせたりしています。イエスさまの弟子たちは、偉くなりたいとか、人に指図をしたいというような思いにとらわれていて、なかなか困ったことになっています。せっかく生きているイエスさまに出会うという人生最高の体験をしているわけですから、イエスさまの言われることを聞いて、しっかりと生きてほしいと思うわけです。そんな体験をできた人たちは、人類の中でほんとごく少数の人たちであるわけです。「生前のイエスさまにお会いすることができるなって、なんという幸い、なんという特権」。私たちからみれば、そんなふうに思えるわけですが、まあ弟子たちはイエスさまが隣におられるのが普通ですから、そんなふうに思うわけもなく、相変わらず自分たちのうちでだれが一番偉いとか、アイツは私たちに無断でイエスさまの名前を使って商売しているから強く言い聞かせなければならないとか、ちいさなことにこだわっているわけです。小さなことにこだわり、見えを張って生きているわけです。だめな弟子たちです。
しかしだめな弟子たちがいるからこそ、私たちはイエスさまの、神さまの深い愛を知ることができるのです。こんなだめな弟子たちでも、イエスさまは愛してくださっているのだ。こんなだめな弟子たちでも、神さまの祝福にあずかっているのだ。そのように思えるからです。これが弟子たちがとってもりっぱな人間で、謙虚な人間であったりしたら、「そりゃ、こんなにりっぱな弟子たちなんだから、イエスさまから愛されて当然だ」となります。そしてお弟子さんたちはりっぱだけど、「私たちはどうもこんなに立派な人にはなれないよね」と思ってしまいます。
「だめなわたしでも」、神さまはわたしのことを愛してくださっているのです。人と比べて高慢になったり、あるいは卑屈になったりする、恥ずかしいわたしであるわけですが、でも神さまはわたしのことを愛してくださっています。イエスさまの弟子のヨハネがそうであったように、トラの威を借るキツネのように、力におもねりながら、力に屈してしまうような弱さをもっているわたしのことを、でも神さまは愛してくださっています。
イエスさまはこころの広い方であり、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言ってくださるのです。心もとない、信じることの少ない私たちですが、キリストの弟子だという理由で、私たちのことを祝してくださるのです。「一杯の水を飲ませる」という小さな小さなわざを行なう私たちを愛してくださるのです。
どんなときも愛してくださる方が、自分にはいるということは、とても幸いなことです。私たちはとてもさみしい思いになる時があります。だれも自分のことをわかってくれない。ひとりぼっちであるかのような気持ちになる時があります。もちろん、家族や友人がいて、ひとりぼっちであるということはないわけです。いろいろなやさしい言葉をかけてくれる人がいないわけではないのです。それでもやはり、とてもさみしい思いになるときがあります。このさみしさにだれが寄り添ってくれるのだろうかという思いをもつときがあります。
でも私たちには私たちのことを愛してくださる神さまがおられます。自分自身も欠点のない人として生きているわけではないので、ときに人から愛想をつかされることがあってもおかしくないと思います。だめなわたしであるわけです。だめなわたしであるけれども、神さまはわたしを愛してくださり、「あなたはわたしの愛する子、わたしのこころに適う者」という祝福を、わたしに与えてくださるのです。
神さまの深い愛に感謝して、すべてをお委ねして歩んでいきましょう。
(2026年7月26日平安教会朝礼拝式)
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