2022年12月26日月曜日

12月25日平安教会クリスマス礼拝説教(小笠原純牧師)

 「クリスマス、すべての人への良き知らせ」

 

クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

秋に、大山崎山荘美術館に、「こわくて、たのしいスイスの絵本」という美術展を見にいきました。今日が最終日です。エルンスト・クライドルフ(1863-1956)、ハンス・フィッシャー(1909-1958)、フェリクス・ホフマン(1911-1975)の三人の作品が紹介されていました。

なかでもフェリクス・ホフマンの絵本は、とても印象的でした。フェリクス・ホフマンは自分の家族たちにプレゼントするために絵本を書いています。三女のために「おおかみと七匹のこやぎ」を描き、次女のために「ねむりひめ」を描き、そして長女のために「ながいかみのラプンツェル」を描きました。フェリクス・ホフマンの最後の絵本は「クリスマスのものがたり」です。この「クリスマスのものがたり」は、福音館書店の松居直の依頼で、フェリクス・ホフマンが作った絵本だと言われています。松居直もこの2022年11月2日に天に召されました。

フェリクス・ホフマンの原画をみていると、ほんとうによく描かれていて、とてもこころがこもっているなあと思わされます。まあ自分の娘たちにプレゼントするために描いていたりするわけですから、それはそれは心がこもっているのだと思いました。この「クリスマスのものがたり」という絵本も、内容はとても一般的なクリスマスページェントのような話ですが、絵はとても味わいに満ちた絵になっていて、クリスマスの喜びがじわっと伝わってくるような感じがします。とてもいやされる気がします。

絵本というのはおもしろい媒体で、いろんな感じの絵本があります。フェリクス・ホフマンの絵本は、とてもこころのこもった絵をみるような絵本です。わたしがクリスマスに手にとってみた別の絵本に、「バーバパパのクリスマス」という絵本があります。バーバパパはこどもに人気のキャラクターです。バーバパパはフランス語で「ぱぱのおヒゲ」という言葉で、「わたがし」という意味に使われたりします。バーバパパを描いたアネット・チゾンは、パリの公園で子どもが「綿菓子」を欲しがっている姿をみて、バーバパパを思いつきました。バーバパパの形は、「まだ絵をうまく描けない小さな子供でも、何にでも変身できるバーバパパなら、楽しく描けるはず」という思いから生まれたそうです。そしてバーバパパはどんな形にも姿を変えることができます。ですからどんな小さな子どももバーバパパを上手に描くことができるわけです。

フェリクス・ホフマンの「クリスマスのものがたり」は、フェリクス・ホフマンしか書けない絵だと思います。それはそれでとてもすばらしいものです。そして「バーバパパ」はだれが描くことができるところが、バーバパパのすばらしさであるわけです。フェリクス・ホフマンの「クリスマスのものがたり」と、アネット・チゾン、タラス・テイラー夫妻の「バーバパパのクリスマス」を見ながら、「ああ、クリスマスらしいなあ」と、わたしは思いました。いろんな人がクリスマスをお祝いするのです。これが正しいクリスマスのお祝いということではなく、みんながそれぞれにクリスマスをお祝いします。クリスマスは聖書に記されているように、「民全体に与えられる大きな喜び」であるのです。

今日の聖書の箇所は「イエスの誕生」「羊飼いと天使」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書2章1−7節にはこうあります。【そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。】。

ローマ皇帝アウグストゥスが行なった住民登録のために、人々は自分の故郷へと向かいます。故郷で登録をするわけです。イエスさまのお父さんのヨセフさんも、住んでいたガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムへと行きました。イエスさまのお母さんのマリアさんも登録をするために、身重であったのですが、一緒にベツレヘムへと向かいます。旅先であるベツレヘムで、マリアさんはイエスさまを産むことになりました。ヨセフさんとマリアさんは宿屋に泊まることができませんでした。多くの人々が住民登録のために、ベツレヘムにやってきていたので、宿屋に泊まることができなかったのです。それで仕方なく、マリアさんとヨセフさんは、馬小屋に泊まることことになります。それでイエスさまは布にくるまれ、飼い葉桶に寝かせられることになります。

ルカによる福音書2章8−14節にはこうあります。【その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」】。

羊飼いは野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていたと記されてあるとおり、なかなか大変な仕事です。人々の役に立つ仕事であったわけですが、人々からは嫌われていました。そうした羊飼いのところに、イエスさまの誕生の知らせが、最初に届きます。

天使はイエスさまの誕生の出来事は、「民全体に与えられる大きな喜び」の出来事だと言います。それは「民全体に与えられ」た出来事であり、羊飼いだけに与えられた喜びの出来事というわけではありません。すべての人に与えられている大きな喜びの出来事であるということです。すべての人々が分け隔てなく、その大きな喜びに預かることができるということです。すべての人々の救い主であるイエスさまがお生まれになる。ただ羊飼いたちは、いち早くその救い主であるイエスさまにお会いすることができるのです。

ルカによる福音書2章15−20節にはこうあります。【天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った】。

羊飼いたちは天使が教えてくれた出来事を見にベツレヘムに向かいます。マリアさんとヨセフさん、そして飼い葉桶に寝かせてあるイエスさまを見つけます。羊飼いたちは天使が話してくれた出来事を人々に知らせます。それは民全体に与えられる大きな喜びだからです。天使がそのように羊飼いたちに知らせたのです。これはすべての人に開かれているすばらしい出来事なのだ。すべての人々にとっての大きな喜びなのだ。だから羊飼いたちは人々に知らせるのです。羊飼いたちの話を聞いた人々は、不思議な出来事だと思いました。「天使が知らせてくださったんだ」と羊飼いたちは言ったわけですから、聞いた人々は不思議な出来事だと思ったことでしょう。マリアさんは羊飼いたちが話してくれた不思議な出来事を、心に留めました。羊飼いたちは天使が離してくれたとおりだったので、神さまをほめたたえながら、自分たちの故郷に帰っていきました。

わたしはなんとなくこの【羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った】という聖書の御言葉が好きです。羊飼いたちが、「なんかよかったよね。天使が言ったとおりだったよね。あかちゃんかわいかったよね」とか言いながら、神さまを讃美しながら、わいわいと帰っていくという感じが好きです。大した気負いもなく、神さまからの祝福を受け、神さまを讃美しながら生きていくという羊飼いの歩みのようでありたいと思います。

主の天使が言ったように、イエスさまの誕生の出来事は、「民全体に与えられる大きな喜び」の出来事です。すべての人に開かれている出来事です。特定の人に対してもたらされた喜びの知らせではなく、すべての人にもたらされた救いの出来事です。どんな小さな子どもも、バーバパパの絵を描くことができるように、クリスマスもどんな小さな子どももお祝いすることができます。

【マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。】と聖書に記されてあるので、イエスさまは馬小屋、家畜小屋で生まれたと言われます。占星術の学者たちは、ユダヤ人の王さまが生まれるということで、ヘロデ王の宮殿を訪ねていきます。しかし宮殿には、イエスさまはおられませんでした。イエスさまは宮殿ではお生まれになりませんでした。宮殿はだれでも入れるところではないからです。特定の人たちしか入ることができないので、みんなでお祝いすることができないのです。みんながお祝いできるところである、馬小屋・家畜小屋で、イエスさまはお生まれになられるのです。

馬小屋・家畜小屋であれば、人だけでなく、馬や羊や山羊も、イエスさまの誕生をお祝いすることができるのです。イエスさまの誕生をお祝いしにきた馬や羊や山羊は、イエスさまを見てどのように思ったでしょうか。「あっ、寝てる」と思っただろうと思います。あかちゃんのイエスさまは飼い葉桶で寝ておられるのです。「あっ、寝てる。私たちは生まれてすぐ立ったのに、イエスさまはまだ寝てるんだ」と思ったと思います。イエスさまは飼い葉桶で眠っています。人はだれでも赤ちゃんで生まれてきて、そして人に助けられて生きていくのです。人はそのように創られているのです。

私たちはイエスさまを囲んで、クリスマスをお祝いいたします。飼い葉桶の中で眠っているイエスさまは、私たちの社会が支え合いの社会であり、わかちあいの社会であることを、私たちに教えてくれます。すべての人がクリスマスをお祝いすることができるようにと、救い主イエス・キリストは馬小屋・家畜小屋で生まれ、飼い葉桶の中で眠るのです。

あなたたちの社会のすべての赤ちゃんが、わたしのようにすやすやと眠ることができるようになる。そういう平和でわかちあいの世の中がやってくる。神さまの御心に叶う平和な世の中がやってくる。救い主イエス・キリストは、私たちに告げ知らせ、飼い葉桶の中で眠るのです。

救い主イエス・キリストが、私たちの世にきてくださいました。神さまにこころから感謝をして、世のすべての人々と共に、イエスさまのご降誕をお祝いいたしましょう。




  

(2022年12月25日平安教会朝礼拝式)

2022年12月21日水曜日

11月6日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」

今日は召天者記念礼拝です。毎年、召天者記念礼拝は多くのご親族の方々と共に礼拝を守っています。平安教会に連なる人々が共に集い、神さまを賛美する礼拝です。ここ数年、新型感染症のために、大勢で集うことができません。ことしは以前と同じように案内をして、ご親族の方々も共に集うということにしています。

キリスト教は天上と地上の両方で礼拝がもたれていると考えています。クリスチャンは地上での生活を終えて天に帰ります。そして地上で礼拝を守っていたように、今度は天上で礼拝を守ります。今日もまた天に帰られた私たちの信仰の先達は、天上の礼拝で神さまを賛美しています。ご家族を天に送られて、とてもさみしい思いをしておられる方々もおられると思います。そのさみしさはなかなか癒えることない深いものだと思います。今日、私たちは地上で礼拝を守り、天に帰られた方々は天上で礼拝を守っておられます。そしてご家族の皆さんが、地上の礼拝で共に、神さまを賛美しておられるのをとても喜んでおられると思います。

私たちの教会のメンバーの方々は、ご家族の方々が思っておられる以上に、教会の礼拝に出席してくださることをとてもうれしいことと思っておられると思います。みなさんの教会だと思って、またぜひ教会の礼拝にいらしてください。お母さま、お父さまの信仰を受け継いで、神さまにより頼んで歩んでくださればと思います。 

今日の聖書の箇所は「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という表題のついた聖書の箇所です。洗礼者ヨハネは、イエスさまが来られる前に、その備えをするために、人々に悔い改めを迫った預言者です。ルカによる福音書1章57節以下には、「洗礼者ヨハネの誕生」という表題のついた聖書箇所があります。そこには洗礼者ヨハネが生まれたときのことが記されてあります。また読んでいただければと思います。

今日の聖書の箇所であります、ルカによる福音書3章1−3節にはこうあります。【皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた】。

ルカによる福音書の著者は、こういう詳しい書き方が好きです。ルカによる福音書1章3節に、

【そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました】とありますように、詳しく調べているので、詳しく書きたいわけです。だれが治めている時代なのかということが詳しく書かれてありますので、そうした時代にまぎれもなく洗礼者ヨハネが生きていたのだということわかります。洗礼者ヨハネはヨルダン川で、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。神さまは憐れみ深い方であり、赦してくださる方だから、あなたたちは悔い改めて、神さまにふさわしい良い生き方をしなさいと、人々に洗礼者ヨハネは呼びかけたのでした。

ルカによる福音書3章4−6節にはこうあります。【これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」】。

イザヤ書40章3−5節にはこうあります。【呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。】。旧約聖書の1123頁です。

【主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ】とありますように、洗礼者ヨハネはイエス・キリストがこの世に来られる前に、人々に悔い改めを迫り、そして神さまへと帰る道筋を整えるようにと呼びかけたのでした。イザヤ書の40章の聖書箇所は、バビロン捕囚にあって、囚われの身となっていたイスラエルの人々が解放されて、イスラエルに帰ることができるということが告げられているという聖書の箇所です。イスラエルに帰るための道を整える。神さまの道に反して歩んだために、バビロン捕囚という異国に連れて行かれるという苦しみにあって苦しんだ。しかしいまイスラエルに帰るときが訪れ、神さまのところにみんなで悔い改めて帰っていくというようなことが言われているわけです。そのようにいま悔い改めて、神さまのところに帰ろうと、洗礼者ヨハネは人々に呼びかけているわけです。

ルカによる福音書3章7−9節にはこうあります。【そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」】。

洗礼者ヨハネはなかなか恐ろしい言葉で、人々に悔い改めを呼びかけました。一応、悔い改めて洗礼を受けようと思っている人々に対して、洗礼者ヨハネは「洗礼を受けることで、神さまの怒りを免れるというようなことを考えてはいけない」と言いました。そんな簡単なことではない。しっかりと悔い改めるのでなければ、それは悔い改めにはならない。悔い改めにふさわしく、神さまの御心にそって生きるということをしなければならない。

「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」と洗礼者ヨハネは言いました。イスラエルの人々は自分たちはアブラハムの子孫で、神さまから特別に選ばれた民だから、神さまが特別扱いをしてくださると思っていました。「神さま、ごめんなさい」とちょっと謝ると、神さまが「ああ、いいよ、いいよ。あなたたちはアブラハムの子孫だから」と言ってくださると思っていました。しかし洗礼者ヨハネは、神さまは石ころからでもアブラハムの子たちを造ることができる。もう裁きのときは来ている。斧はもう木の根元に置かれていて、悔い改めてしっかりと生き直さない人たちは、切り倒されて、地獄の火に投げ込まれてしまう。そのように洗礼者ヨハネは言いました。。

ルカによる福音書3章10−14節にはこうあります。【そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。】。

洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言いました。それを聞いた群衆は、「私たちはどうしたらよいのですか」と素直に洗礼者ヨハネにたずねました。洗礼者ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えます。徴税人もたずねます。洗礼者ヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と言いました。兵士もたずねます。洗礼者ヨハネは「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えました。

洗礼者ヨハネはとても具体的にこうしたら良いよということを答えます。洗礼者ヨハネは群衆たちにできないことをしなさいと言ったわけではありません。できることを言っています。とくに徴税人や兵士に対してはそうです。規定以上のものを取り立てたり、金をゆるったりすることは、それはいけないことです。しかしそうしたことが世の中に蔓延し、みんな「まあいいか」というふうになっていたということです。悪いことではあるけれども、まあみんなやってるから、まあわたしもやってもいいか。そういう世の中になってしまっていました。洗礼者ヨハネはそういた世の中にあって、群衆に「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ」。みんなわかちあって生きていきなさい。みんなで助け合い、支え合って生きていく、そういう世の中にしていこうと、洗礼者ヨハネは言いました。

倫理的でない社会は、どんどんと貧しくなっていきます。倫理的でない社会は、滅んでいきます。使わなくて良いことのために、力がそがれていくからです。たとえば私たちの社会が嘘が蔓延する社会であったとします。政治家が嘘を言っているのを、それが嘘であるかどうかということを確かめるために、多くの人々の力が注がれることになります。政治家が嘘をつかなければ、そうしたことに労力を使う必要はないわけですが、政治家が嘘をつくので、そうしたことに労力が使われることになります。もっと世の中が良くなることのために労力が使われていけば、社会はもっとよくなるわけですが、しかし政治家が嘘をつくために、仕方なくそれを正すことのために労力が使われ、そしてその間に社会はどんどんと貧しくなります。政治家が嘘を隠すために、役所の人たちを使います。本来であれば、世の中の人のためになる仕事をしたいわけですが、しかし政治家の嘘を隠すために、役所の人たちの労力が使われます。その間に、社会はどんどんと貧しくなります。政治家は嘘を言います。政治家が嘘を言うのだから、私たちも嘘を言って良いのではないかと思って、嘘を言う人々が多くなります。そうしてその社会はどんどんと良くない社会になってしまいます。

人が倫理的でないのを見ていると、だんだんと自分も倫理的でなくて良いのではないかと思い始めます。洗礼者ヨハネの時代もそうしたことがあったと思います。「規定以上のものを取り立てている」徴税人をみて、「おれもしようかなあ」と思った徴税人がいただろうと思います。「金をゆすり取ったり」する兵士をみて、「おれもしようかなあ」と思った兵士がいただろうと思います。しかしそうした世の中にあって、洗礼者ヨハネは人々に、神さまの御心にかなうように、「倫理的に生きていこう」と呼びかけたのでした。

マルコによる福音書の著者は、預言者イザヤの言葉を引用して、洗礼者ヨハネがこの世に現れたことの意味は、【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】ということなのだと言っています。洗礼者ヨハネはなかなか怖いことを言いますし、「これするな。あれするな。悔い改めろ」と言いますから、なんかちょっと近寄りがたいところがあります。しかし洗礼者ヨハネは、人々に神さまの御心にかなった生き方をしてほしい。あなたが倫理的に生きようと思うことによって、あなたたちの世の中は良い世の中になる。。そしてあなたたちはみんな、神さまの救いを仰ぎ見ることになると、人々に告げたのです。【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】。「あなたたちの思いにかなってすてきな社会に必ずなるから」と、洗礼者ヨハネは言いました。

いま私たちの住んでいる社会を見回しますと、ウクライナでは戦争があり、いろいろなところで争いがあり、貧しさがあり、人と人が対立して、ののしりあったりしています。ウクライナでの戦争もなかなか終わりが見えません。新型感染症のために、とてもしんどい思いをしている人たちがいます。大人の暴力に脅えながら生きている子どもたちがいます。

なかなか私たちの思いにそった、神さまの愛に満ちた社会になりそうにありません。そうしたことを考えると、とても暗い気持ちになります。洗礼者ヨハネが生きた時代もそうでした。洗礼者ヨハネの思いとは違った、不正の多い、貧しい人々が互いに傷つけあって生きているような社会でした。人々から嫌われている徴税人が、規定以上のものを取り立てて、貧しい人々を苦しめていました。貧しい兵士たちは剣でもって、人をゆすり、人から物を奪ったりしていました。みんなが自分勝手な思いになってしまいそうな社会にあって、洗礼者ヨハネは悔い改めて、私たちを愛してくださる神さまにふさわしい歩みをしようと呼びかけました。

【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】。人はそんなふうにつくられているのだ。自分勝手な思いに引きずられてしまうような気がするときもあるけれども、しかし思い直して、神さまの救いを仰ぎ見ながら、みんなで歩んでいく。あなたが望んでいるような神さまの国が必ずくるから、あなたの思いにかなったすてきな世の中に必ずなるから。そのように洗礼者ヨハネは人々に呼びかけました。

【人は皆、神の救いを仰ぎ見る】。私たちも神さまの救いを仰ぎ見る歩みでありたいと思います。希望を持って、神さまの愛を信じて、歩んでいきましょう。


 

(2022年11月6日平安教会朝礼拝式・聖徒の日)

11月18日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「なんで、私が天国に」

今日は収穫感謝日の礼拝です。新型コロナウイルス感染症が拡がる前は、子どもの教会のこどもたちと一緒に礼拝を守っていました。神さまが秋の実りを私たちに与えてくださり、私たちの世界がわかちあいの世界であることを知ることができ、こころから感謝いたします。

地下鉄にのっていますと、予備校の案内を見ることがあります。わたしはもう受験ということに関係のない年齢になっていますので、あまり興味がわくということはないわけです。しかし興味のある人にとっては、どこの予備校に入学するのかということは、とても関心の高いことだのだろうと思います。四谷学院という大学受験予備校のキャッチコピーに、「なんで、私が東大に!?」というのがあります。「なんで、私が東大に!?」というキャッチコピーは、なかなか目をひくキャッチコピーだなあと思います。「なんで、私が東大に!?」「なんで、私が京大に!?」「なんで、私が医学部に!?」。「合格すると思っていなかったけど、四谷学院で勉強して、合格することができた」という感じで、なかなか良いキャッチコピーだと思えます。

そして今日の説教題は「なんで、私が天国に!?」にしてみました。大学に入ることは人生の中のとても大きな関心事であるわけです。「なんで、私が東大に!?」「なんで、私が京大に!?」「なんで、私が医学部に!?」というキャッチコピーに多くの人が魅かれていきます。しかし私たちはそろそろ、そうしたこの世でのことだけでなく、「なんで、私が天国に!?」ということに関心を寄せたほうが良いのではないかと思います。

「天国に入る方法を教えます。平安教会」ということで、今日の聖書の箇所は「十字架につけられる」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書23章35−38節にはこうあります。【民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。】。

イエスさまは十字架につけられます。ユダヤの議員たちはあざ笑います。「神さまのメシアであるのなら、自分を救ってみろ。いままでいろいろな人たちを救っただろう。自分を救ったらいいじゃないか」。兵士たちもまたイエスさまのことを侮辱します。兵士たちはイエスさまに近寄って、イエスさまに酸いぶどう酒を飲ませようとします。酸いぶどう酒というのは、まあ気付け薬のようなものです。イエスさまが気を失ってしまわないようにするわけです。そうするとイエスさまは痛みを感じ続け、苦しむことになります。イエスさまがつけられた十字架には、罪状書きとして「これはユダヤ人の王」と記されてありました。イエスは自分のことをユダヤ人の王と偽っているということです。兵士たちは「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と、イエスさまをあざけりました。

ルカによる福音書23章39−41節にはこうあります。【十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」】。

イエスさまが十字架につけられたとき、二人の強盗が一緒に、十字架につけられたということは、マルコによる福音書にも書かれてあることです。マタイによる福音書でも、【イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた】と記されています。マタイによる福音書では【一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった】と記されてあります。マタイによる福音書では、二人の強盗がどちらもイエスさまをののしるわけですが、ルカによる福音書では片方の強盗だけがイエスさまをののしります。

犯罪人のひとりが、「おまえはメシアなんだろ。自分とそしておれたちを救ってみろよ」と言いました。するともう一方の犯罪人はたしなめます。「おまえは神さまを恐れないのか。この人は神さまのメシアなんだぞ。メシアなのに私たち強盗が受ける十字架刑を受けている。私たちは強盗をして十字架刑につけられているけれども、この人は何も悪いことをしていない。貧しい人たちや困っている人たちに、神さまが共にいてくださることを知らせ、病気にかかっている人たちをいやしておられただけだ。

ルカによる福音書23章42−43節にはこうあります。【そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。】。

犯罪人のひとりは、最後にイエスさまに「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。あなたは神さまのところに帰られる。あなたはメシアだから神さまのところに帰られる。わたしはそのことを信じています。あなたが神さまのところに帰られたとき、わたしのことを思い出してください。自分のしたことを悔いている。愚かなことをしていた人生だった。人を傷つけてしまい、人から奪うことしか考えていなかった、愚かなわたしを赦していただきたい。あなたが神さまのところに帰られたとき、一緒に十字架につけられた愚かな強盗が、神さまの前に申し訳ない人生であったことを悔いていたことを思い出してほしい。そのように強盗は言いました。強盗の悔い改めを聞き、イエスさまは強盗に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。

最後の最後に、悔い改めることができた強盗は幸せであると思います。人はなかなか悔い改めたり、自分のことが悪かったと認めることはできません。ですから悔い改めることのできた強盗はとても幸せだと思います。人はなかなか悔い改めることができないですし、わたし自身もそうですから、悔い改めなかったほうの強盗を、「あいつはだめなやつだ。あいつはおろかな奴だ」と言うことも、わたしにはできません。ただ最後に悔い改めることができた強盗は幸せだと思います。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、イエスさまに言っていただけるなんて、とても幸せだと思います。

この悔い改めた強盗の気持ちを表す言葉が今日の説教題であります、「なんで、私が天国に!?」ということです。強盗であるわたしが天国にいるなんて信じられない。「なんで、私が天国に!?」。

「人はなぜ救われるのか」ということについて、キリスト教は「イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」というふうに考えています。イエスさまのお弟子さんの使徒パウロが言い表している「信仰義認」ということです。ローマの信徒への手紙3章21節以下に「信仰による義」という表題のついた聖書の箇所があります。

新約聖書の277頁です。ローマの信徒への手紙3章21−26節にはこうあります。【ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。】。

律法を守るということが、神さまから救われる、神さまから愛されるということの前提であると考えられていました。しかし使徒パウロは、人が救われる、人が義とされるのは、律法を守ることができるからではないと言いました。何かをすることによって、人は義とされるのではない。神さまの義は、イエス・キリストを信じることによって、すべての人に与えられるものだと言いました。神さまの義、神さまの救い、それは人が何かをしたから与えられるものではなく、神さまの憐れみによってそれはすべての人にあたえられるものだと、使徒パウロは言いました。

神さまの憐れみによって人は救われるのです。十字架の上で悔い改めた強盗は、神さまの憐れみによって救われたのです。イエスさまの憐れみによって「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と声をかけられ、救われたのです。人は神さまの憐れみによって、人は神さまの恵みによって救われるのです。その人がりっぱば行ないをしたから救われるのではありません。ですから人はみんな、「なんで、私が天国に」という思いをもって、天国に行くのです。

今日は収穫感謝日です。収穫の実りも恵みとして与えられています。もちろん畑を耕す人々や、くだものの木を手入れし、管理する人々の労力によって、収穫の実りがもたらされます。農機具を開発する人たちがいたり、そうした起業にお金を融資する銀行の人たちがいたり、多くの人々の手によって収穫の実りがもたされます。しかしそれでもやはり収穫の実りは恵みとして与えられているのです。

宇宙で農業ができるようにしたいということで研究しているそうです。「火星で可能か研究中」ということです。【宇宙で農業はできるのか? 普段、わたしたちは、何気なく呼吸し、ご飯やパン、肉、魚、野菜、果物などを食べて生活しているけれど、それは地球が資源の豊かな星だからできることなんだ。気温や水、光などの環境が、ぜんぜん違う宇宙ではどうなんだろう?。・・・。宇宙航空研究開発機構(JAXA)は現在、火星で農業ができないか、研究中だよ。・・・。火星は地球と比べて直径は半分なんだ。火星の地表面の気温は20度~氷点下130度(平均で氷点下55度)、重力は地球の3分の1で、日射量はおよそ半分。1日の長さは地球と同じだけれど、1年は地球の2倍。大気は160分の1しかなくて、9割以上が二酸化炭素だ。地表面は主に玄武岩と安山岩の岩石でできている。このままでは、農業はできないよね。】(JAグループ福岡、アキバ博士の食農教室「宇宙で農業はできるの?」、https://www.ja-gp-fukuoka.jp/archives/akiba/2755/)

私たちが住んでいる地球では、農作物が育つ土地があり、適度な気温があり、さまざまな条件が合って、作物は実りをもたらします。それら神さまが備えてくださっているものです。私たちは神さまからの多くの恵みを受けて生きています。

私たちが生きていることも、また私たちが天に召されることも、神さまの御手のうちにあります。神さまは私たちに多くの祝福を備えてくださり、そして私たちの歩みを守り導いてくださっています。神さまにお委ねし、安心して歩んでいきましょう。



  

(2022年11月20日平安教会朝礼拝式・収穫感謝日)


11月27日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「自由に解き放たれ」

今日、ローソクの灯りがひとつ点きました。今日は、イエスさまの誕生をお祝いするクリスマスを待ちわびる期間である、アドベントの始まりです。

アドヴェントという言葉は、来臨という意味です。【アドヴェントとは来臨の意で、主の受肉来臨すなわちクリスマスを迎える心の準備をするとともに再臨の準備の時にもなった】(キリスト教大事典、教文館)ということですので、イエスさまの誕生をお祝いするための準備のときであり、また世の終わりの時にイエスさまがやってこられるのを待ち望むときという意味もあるけです。ですから、アドヴェントには終末の聖書の箇所が読まれます。

今日の聖書の箇所は、「人の子が来る」「いちじくの木のたとえ」「目を覚ましていなさい」という聖書の箇所です。ルカによる福音書の21章5節ー38節までは、マルコによる福音書の13章1-37節の「小黙示録」と呼ばれる聖書の箇所とよく似ています。ルカによる福音書21章5節以下から「神殿の崩壊を予告する」「終末の徴」「エルサレムの滅亡を予告する」、そして今日の箇所であります「人の子がくる」「いちじくの木のたとえ」「目を覚ましていなさい」。なるほど、世の終わりの時についての一連の流れについて書かれてあるということが、おぼろげにわかってきます。

私たちにとっては、世の終わりというものが、良い悪いは別にして、すぐに起こることとしては、なかなか考えることができません。しかしイエスさまの時代や弟子たちの時代は、世の終わりについての確かな確信というものがありました。世の終わり、終末は、もうすぐそこに来ているというふうに、当時の人々の多くは考えていました。

ルカによる福音書21章25-26節にはこうあります。【「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである】。終末の出来事として、天変地異が起こると言われます。まあおそろしい出来事です。私たちは津波や竜巻、地震などの自然の前に、立ちすくんでしまいます。一瞬のうちに建物が崩れ、波にさらわれ、吹き飛ばされてしまう。多くの人々のいのちと生活が、一瞬のうちに、奪われてしまう、恐ろしい出来事です。

ルカによる福音書21章27-28節にはこうあります。【そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」】。ルカによる福音書の著者は、天変地異が起こったあと、キリストの再臨があると言います。十字架につけられ、天に召された、主イエス・キリストが、世の裁きのためにこられるのです。そして世の終わりを迎えます。

しかしそうしたことは、突然、やってくるのではないと、ルカによる福音書の著者は言います。突然、この世が滅びてしまうということではない。ルカによる福音書21章29-33節にはこうあります。【それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏に近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない】。いちじくの木やほかの木も様子を見ていると、季節がわかる。そのように世の終わりの出来事も、いろいろなことを落ち着いてみているとわかる。ひとつひとつの出来事にあわてふためくのではなくて、じっくりと出来事を見据えて、その時を、その意味を考えなさい。そんなふうにルカによる福音書の著者は、言っています。

ユダヤの人々はエルサレムの神殿が破壊されるという出来事に出会います。神さまの神殿が破壊されるわけですから、人々は非常に同様するわけです。まさに世の終わりのような気がします。「ああどうしよう。世の終わりだ」。そんな雰囲気になるわけです。しかし結局、世の終わりは、そのとき来なかったのです。地震だ、津波だ、神殿の崩壊だ。ひとはそのつど、あわてふためいて、世の終わりだと騒ぎました。しかし世の終わりはきませんでした。そして「世の終わりだ」と騒ぐわりには、同じような生活をしていたわけです。悔い改めて、真剣に生きようとしたわけではありません。「世の終わりだ」という空騒ぎをしただけであったのです。ですからルカによる福音書の著者は、今日の聖書の箇所のあとに、「目を覚ましていなさい」ということを言いました。ルカによる福音書21章34節には【放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい】とあります。

終末の出来事、世の終わりの出来事というのは、たしかに恐るべき出来事であるわけです。天変地異が起こり、【恐ろしさのあまり気を失うだろう】と聖書にはあります。しかしそれはただただ恐れるべきものであるということではありません。聖書は【あなたがたの解放の時が近いからだ】と言っています。そしてまた、【神の国が近づいていることを悟りなさい】とあります。それはいたずらに恐れたり、あわてたりするのではなく、しっかりと出来事を見据えることが大切だということです。

終末において、私たちに求められていることは、平静さを失わないということです。それは終末においてだけではなく、私たちの日常の生活のなかでも、同じことです。いたずらにこころを騒がすのではなく、しっかりと出来事を見据えるということが大切です。私たちはいろいろなことでおろおろとします。終末の出来事のように、天変地異が起こるのでなくても、私たちは日々、おろおろします。そしていたずらに騒ぎたち、こころを乱すのです。こころを乱す必要のないようなことにまで、私たちはこころを乱します。

イエスさまは言われました。【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】。それは「主にあっては、恐れはない」ということなのです。私たちはイエスさまにつながっている限り、何ものからも自由であるのです。びくびくする必要はない。たとえ天地が滅びるとしても、私たちは滅びることはないのです。私たちはそうした平安のなかに導かれています。

イエスさまは【天地が滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】、「主にあっては、恐れはない」と、私たちに言ってくださいました。私たちはイエスさまにつながっている限り、何ものからも自由なのです。私たちは自由に解き放たれて生きることが許されているのです。

マリアと婚約していたヨセフの夢に現れた天使は言いました。【ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい】。マタイによる福音書1章18節以下には「イエス・キリストの誕生」の話があります。新約聖書の1頁です。【イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである】。

ヨセフは世間体や、律法の上での正しさのために、マリアと別れようとしていました。しかし天使の【ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい】という御言葉を受けとめ、イエスさまにつながることを、恐れず、受け入れたのでした。そのとき、ヨセフは自由に解き放たれたのです。「主にあって、恐れはない」という生き方へと導かれたのでした。

私たちは不安で奇妙な世の中にあって、「主にあって、恐れはない」という生き方へと招かれたいと思います。「主にあって、恐れはない」のです。この世の流れに身をまかせてしまうとき、私たちの流れてしまう先は、不安であり、恐れです。そして恐れは、憎しみを生みだします。イエスさまの誕生の知らせを聞いた、ユダヤのヘロデ王は【不安を抱いた】と聖書にあります。そして不安を抱いたヘロデ王がしたことは、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺すことでした。

憎しみの炎は、ぱっと燃え広がります。そして取り返しのないことをしてしまいます。私たちの心は弱いですから、憎しみの炎を簡単に消し去ることはできないかも知れません。いくら自分の言葉で「人を憎むことはいけないことだ」と戒めてみても、私たちの憎しみの炎は消え去ることがないかもしれません。繰り返し繰り返し、自分の言葉で自分を諭してみても、どうすることもできないような気持ちになってしまうときも、私たちにはあります。

しかし私たちは、【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】という、イエスさまの言葉に、身を置く者でありたいと思います。私たちの言葉は憎しみをうち砕くことができなくても、イエスさまの言葉は私たちの憎しみをうち砕いてくださいます。

そして、私たちは何に依り頼んでいるのかを思い起こしたいと思います。私たちは自分のプライドのために、生きているのでしょうか。私たちは人を憎むために生きているのでしょうか。私たちは、主イエス・キリストによって生きているのです。

私たちの世の中は、私たちの不安をあおり、私たちの憎しみをあおる、そんな雰囲気に満ちています。私たちは【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】という、たしかな言葉を大切にして歩んでいきましょう。

今日はアドベントです。ローソクの灯がひとつ点きました。私たちの心のなかにも、憎しみの炎ではなく、愛のローソクの灯をひとつ灯したいと思います。


(2022年11月27日平安教会朝礼拝・アドヴェント第1週)


12月11日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「さみしさに寄り添われる神」

NHKの「ドキュメンタリー72時間」という番組を見ていると、「阿蘇・ライダーたちの夏 10年に一度の撮影会」というのがありました。10年に一度、8月の終わりにオートバイのライダーが、阿蘇山に集まって、記念撮影を行なっているといいます。2019年に行われましたから、次は2029年です。「あー、なんかいいなあ」と思いました。わたしは大学生の頃、250CCのオートバイに乗っていました。それ以来乗ったことはないので、もうちょっと乗れないと思います。ずっと乗っていたのならともかく、いまから急にオートバイにまた乗るのは、ハードルが高いなあと思います。もう少し若ければ、「まあ、挑戦するぞ」と思いますが、60歳も近くなってくると、「やっぱりケガをしたら怖いなあ」と思えます。でも2029年にオートバイに乗って、阿蘇山にいって記念撮影したら、とっても愉快だろうなあと思えました。そんなことを考えていると、新聞の広告にホンダのオートバイの公告が入っていて、「なんかかっこいいなあ」と思いながら、しばらく見ていました。乗りたいけど、乗れない。乗りたいけど、乗れない。

年を取ってくると、やっぱり止めたほうが良いだろうなあと思えることとかが出てきます。みなさんも、そうしたことがあるのではないかと思います。車に乗るのが大好きだったけれども、やっぱりもう車に乗るのはやめたという方もおられるかも知れません。登山に行くのが趣味だったけど、やっぱりもうあぶない感じがして止めたという方もおられるかも知れません。なんか自分の中では納得しているのだけれども、なんかちょっとさみしいなあと思えることがあります。

いまわたしが見ているドラマに「Silent」というドラマがあります。途中で聴覚障害者となった人と初めから聴覚障害者である人と、そしていわゆる健常者との微妙なずれを恋愛模様の中から描いているドラマです。その中に、初めから聴覚障害者の女性が、可愛い青いハンドバックを買っておしゃれをして、そして携帯電話で思いを寄せる途中から聴覚障害者となった男性を話をする。携帯電話で「どこにいるの」という会話をして、「ここここ」と見つけあって、そして手をつないで、会話をしながら歩くというシーンがありました。そして次のシーンでは女性がベッドで寝ていて、それが夢であったことがわかります。

聴覚障害者である女性は、耳が聞えないので、声で電話で話すことはできないのです。そして手話で話をしているわけですから、好きな人と手をつないで会話しながら歩くということできないのです。可愛いハンドバックではなく、会話をするために手を空けるために、いつもTバックを背負って歩いています。「ああ、恋人と手をつないで、声で会話をして歩けたらなあ」。しかしそれは現実には叶わぬことであるわけです。生まれながらの聴覚障害者ですから、そのことはよくわかっているけれども、でもそんなことができたらなあと、夢を見るのです。自分でもよくわかっているけど、ちょっと切なくさみしいのです。

そうした切なさやさみしさを感じる時が、私たちにはあります。わたしの母はわたしが若い頃にアルツハイマー認知症になりました。もう母もずいぶん前に亡くなっていますし、もう父も亡くなっています。わたしの母はわたしが結婚する前に、認知症になったので、わたしが結婚するということもしっかりとはわかりませんでした。わたしはいまでも、母から「純君はすてきな人と結婚できて良かったね」と言ってもらいたかったなあと思います。しかし母はアルツハイマー認知症でしたので、それは叶わぬことでありましたし、そのことはよくわかっているけれども、そしてもう30年以上前の話であるわけですが、でもやっぱりちょっと切なくさみしい気がするのです。

今日の聖書の箇所は「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」という表題のついた聖書の箇所です。洗礼者ヨハネのお父さんのザカリアと、お母さんのエリザベトの話です。

ルカによる福音書1章5−7節にはこうあります。【ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。】。

バプテスマのヨハネのお父さんのザカリアは祭司でした。そしてお母さんのエリサベトも、アロン家の娘の一人ということですので、祭司の家系の人でした。二人はユダヤの掟を守り、神さまの前に正しい人で、人々からもすばらしい人だなあと思われていました。ただ二人の間には子どもがなく、そして二人とも年を取っていたので、もうこのあと子どもが産まれるということはないだろうと思っていました。

ルカによる福音書1章8−12節にはこうあります。【さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。】。

ザカリアは祭司としての務めを果たしている時に、主の天使に出会います。主の天使がザカリアの前に現れ、ザカリアはとても不安になります。「恐怖の念に襲われた」とありますから、とっても怖かったのだと思います。かわいらしい感じの天使ではなくて、いかつい感じの天使だったのかも知れません。まあふつうは現れることがないものが現れるわけですから、まあそれは怖いだろうと思います。

ルカによる福音書1章13−17節にはこうあります。【天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」】。

主の天使は怖がっているザカリアに「恐れることはない」と言いました。そして「神さまがザカリアの願いを聞いてくださった」と言います。妻のエリザベトに男の子が生まれる。その子にヨハネという名前を付けなさい。その子はあなたに楽しみを与えてくれるし、あなたもとっても喜ぶことになる。そしてその子自身はとっても偉大な人になり、イスラエルの人たちを神さまのもとに立ち返らせる働きをするだろう。その子は偉大な預言者エリヤのような働きをする。そして人々を神さまのもとへと立ち返らせる。主の天使はそのように言いました。

ルカによる福音書1章18−20節にはこうあります。【そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」】。

主の天使がエリザベトは子どもを授かるという、とてもうれしい知らせを届けてくれたわけですから、ザカリアは「ありがとうございます」と言えばよかったわけです。でもまあなかなかそれは信じられることではありません。ですからやんわりとザカリアは主の天使に、「なんか信じられない」というわけです。「そんなことは信じられない」というのではなく、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか」と、ザカリアは言うのです。「何によって」って、徴(しるし)もなにも、エリザベトが子どもを産んだらわかるだろうと思うわけです。

自分とエリザベトの間にこどもがないということは、もう年をとったザカリアにとってはふれてほしくないことでありました。若い頃であれば、ああ子どもがいたら良いのにとか、いろいろと思ったけれども、もうそのことはずっとそのように思い続けたことであり、年をとり、もうそのことから自分たちなりに、心の中の整理をつけて、そしてもう年齢的にも子どもが産まれるという年でもなくなったということであったのです。

しかし人生には叶わないことと、叶うことというのがあり、それではいま自分が不幸かと言うと、そうではない。人々から信頼をされ、そして神さまの前にとても良い働きをしている。祭司として、正しくりっぱな歩みをしている。それはとても幸いなことであるのです。

ザカリアが主の天使に対して、「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と応えたことについて、「それはどうかと思う」「どうして主の天使の言うことを信じられないのか」と責めることは、私たちにはできません。でも主の天使は信じることができなかったザカリアに対して、あなたは信じなかったので、エリザベトの子どもが産まれるまで、口が利けなくなると言い、そしてザカリアは口が利けなくなりました。

ルカによる福音書1章21−25節にはこうあります。【民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」】。

聖所に入ったっきり出てこないザカリアのことを、人々は心配をしていました。「ザカリア、何してるんかなあ。なんか変なことがあったのかなあ」。そんなふうに思っていました。ザカリアはやっと出てきたのですが、彼は話すことができませんでした。その様子を見て、人々はザカリアが聖所で幻をみたのだと思います。まあそれでも祭司としての役目を果たして、ザカリアは自分の家に帰っていきます。そしてエリザベトは主の天使がザカリアに告げたように、あかちゃんをみごもります。そしてエリザベトは言います。「神さまが、わたしに目をとめてくださり、わたしが人々から辱めをうけることを取り去ってくださいました」。

エリザベトの生きていた時代は、子どもが生まれないということは、恥ずかしいことだとされていました。とくに女性に対して、そのように思う人々がたくさんいました。現代でもそのような雰囲気がないわけではありません。しかしいまはいろいろな生き方があります。男性同士のゲイのカップルもいますし、女性同士のレズビアンのカップルがいます。結婚をしない人もいますし、結婚をしてもこどもをもたないということを選ぶ人たちもいます。もちろんそうした人たちに、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」というような差別的な発言を繰り返す政治家が現代でもいます。そうした発言は現代においては、とても差別的な発言です。しかしエリザベトの時代は、そういう時代ではありませんでした。子どもが生まれないということが、あからさまに恥ずかしいこととして考えられる時代でありました。

ザカリアとエリサベトの間にこどもがいないということは、それはもう二人にとっては納得しているけれども、さみしいと思えることでした。ザカリアもエリサベトももう年をとっていますし、もうこのことについては、ある意味、心の整理をしていたのです。ザカリアもエリサベトも神さまの前に正しい人として、周りの人々から信頼を受けて生きています。「ザカリア、あの人はとても立派な人ですよ。そしてエリサベトもとっても立派な人」。そのようにみんなから言われて生きています。子どもを授かることはなかったけれども、神さまの前に良い人生を送ることができました。でもふと思うと、こどもを授からなかったことは、さみしい気がするのです。そのことはもう納得しているけれども、さみしい気がするのです。

ザカリアとエリサベトが子どもを授かるという話は、さみしさに寄り添ってくださる神さまがおられるということを、私たちに教えてくれます。私たちの神さまは、私たちのさみしさに寄り添ってくださる方なのです。こころの底に押し込めている、だれにも見せることのない私たちのさみしさに、神さまは寄り添ってくださり、そして私たちに平安を与えてくださるのです。

ザカリアとエリサベトの話を読むとき、私たちはザカリアとエリサベトの願いがかなって、ほんとうによかったと思います。叶えられることのない願いを抱えながら、ザカリアとエリサベトは生きてきました。もう叶うことはないだろうと思っていた願いが叶えられたのです。私たちもまたかなえられることはないだろうと思える願いをもって生きています。なんかちょっとさみしいという思いをもって生きています。だからザカリアとエリサベトの願いが叶えられて、ほんとうによかったねと思うのです。そうした思いをもつ人々が、このザカリアとエリサベトの物語を語り伝えてきたのだと思います。わたしの願いは叶えられるかどうかはわからないけれども、ザカリアとエリサベトの願いが叶えられてよかったねと思うのです。

そして私たちはこのザカリアとエリサベトの物語をとおして、私たちの切ない思いやさみしさに寄り添ってくださる神さまが、私たちにおられることを知るのです。神さまは私たちの切ない思いやさみしさに寄り添ってくださり、私たちに平安を与えてくださる。

クリスマス、神さまは私たちのところに、主イエス・キリストを送ってくださいます。イエスさまは私たちと共に歩んでくださり、私たちの切ない思いやさみしい気持ちをしってくださり、私たちを暖かく包み込んでくださいます。クリスマス、イエスさまをお迎えして、こころ平安に歩んでいきましょう。


  

(2022年12月11日平安教会朝礼拝式・アドヴェント第3週)

12月18日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「神さまの愛に包まれて」

昔、アドヴェントの時に大阪教区の用事で外出をしていて、家に帰ってきたら、机の上に紙の束がありました。そしてその上に、「先生、不用です」と書いた張り紙がはってありました。それを見て、「えっ、わたしはもう必要ないのか」と思って、びっくりしたことがあります。よく見ると、その紙の束がもう既に終わったバザーの案内だったりして、どうやら「先生、(この紙の束、)不要です。(捨ててください)」ということのようでした。しかし「もっとよく働きなさい」という神さまの啓示のような気がして、アドヴェントの間、一生懸命に働いたことがありました。わたしはクリスチャンでありながら、いろいろなことで、驚いたり、不安になったり、戸惑ったりします。どっしりと構えていればいいのでしょうが、なかなかそんな感じにも慣れません。みなさんはいかがでしょうか。

「先生、不要です」という言葉も、びっくりする言葉ですが、「おめでとう、恵まれた方」と突然言われると、私たちもびっくりするでしょう。「先生、不要です」ではなくて、「おめでとう、恵まれた方」という言葉は、祝福の言葉であるわけですから、喜べばいいようなものですが、私たちはそんな言葉、かけられることがあんまりないですから、やっぱりびっくりしてしまうでしょう。イエスさまのお母さんも、突然、天使ガブリエルから「おめでとう、恵まれた方」と言われ、戸惑ったと聖書に記されてあります。

今日の聖書の箇所は「イエスの誕生が予告される」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書1章26-28節にはこうあります。【六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」】。

天使ガブリエルは天使ですから、屈託のない明るさで、マリアを祝福して言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。天使ガブリエルにしてみれば、長い間待っていた救い主のお母さんにあなたがなりますよという知らせを、マリアに伝えに来ているわけですから、マリアも「そりゃー、喜んでくれるだろう」と思っているわけです。「よかったねえ。マリアさん、おめでとう、恵まれた方」ということです。しかしマリアはこの言葉に戸惑います。

ルカによる福音書1章29-33節にはこうあります。【マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」】。

しかし、マリアは戸惑います。マリアは私たちと同じように、そんな言葉をかけてもらうことがあまりないからです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。そんな言葉、かけられたことがないですし、またそうした出来事もあまり思い当たりません。それでマリアは考え込んだわけです。すると天使ガブリエルは天使ですから、いい調子で言うわけです。「マリア、恐れることはない。あなたは神さまから恵みをいただきました。あなたは身ごもって男の子を産むから、イエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き子と言われるから」。

マリアにしてみれば、いろいろとマリアの側の都合ということがあるわけです。ヨセフと結婚をして、そしてまあヨセフとの生活に慣れてから、ぼちぼちと先のことは考えていこうというようなことです。しかし天使ガブリエルはもう天使ですから、一方的に「マリア、こうなるからね。おめでとう。恵まれた方」というわけです。

ルカによる福音書1章34-38節にはこうあります。【マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った】。

マリアはイエスさまの母となります。聖母マリアと言われるようになります。聖なる者、神の子、救い主イエス・キリストの母となるわけですから、それはたしかに恵まれたことであったでしょう。しかしこの時のマリアにしてみれば、「どうして、そんなことがありえましょうか」という出来事でした。「ちょっと、そんなことと言われても・・・」という出来事だったわけです。「わたしの都合もあるんだけど・・・」という出来事でした。しかし天使ガブリエルは天使ですから、屈託なく「神にできないことは何一つない」と言います。マリアは神さまの祝福を謙虚に受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言いました。

ルカによる福音書1章29節にはこうありました。【マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ】。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と、天使ガブリエルから祝福の言葉をかけられたにも関わらず、マリアはこの言葉に戸惑いました。恵みは戸惑いと共にやってきたのです。私たちはなにか「恵み」と言えば、もううきうき気分でやってくるもののように思えます。「待ってました。ありがとう」というふうに、神さまの恵みはやってくるように思えます。しかしマリアにとって恵みは戸惑いと共にやってきたのでした。

マリアがイエスさまの母になるということは、マリアにとって大きな恵みでありました。しかしマリアはこのことのゆえに、大きな悲しみを経験します。イエスさまは私たちの救い主として、十字架につけられるために、この世に来られたのです。マリアはわが子が、十字架につけられて、人々にののしられながら殺されるという悲しみの経験をするのです。マリアの戸惑いや不安は、取り越し苦労ではなく、もともとマリアへの祝福と一体になっていることでした。しかしマリアはそうしたことも含めて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と、神さまからの祝福を受け入れたのでした。

経済学者の暉峻淑子(てるおか・いつこ)さんは、『サンタクロースってほんとにいるの?』(福音館書店)という絵本を書いています。暉峻淑子さんは旧ユーゴスラビアの難民を支援するNGOの活動をしておられたりしました。暉峻淑子さんの『サンタクロースを探し求めて』(岩波書店)という本の中に、こんなことが書かれてありました。【救援の中では、貧困のための盗みにも争いにも詐欺ににも出会ったが、一方では多くの現代のサンタクロースにも出会った。私たちの救援活動を助けて続けてくれる多くの無名の市民たち。寄付金にそえられた手紙や励ましに、どんなに私たちは助けられたことだろう。荷造りや宛名かきの仕事など、無償で労力を提供してくれた人たちも数えきれない。ユーゴスラビアまで出向き、職業訓練の指導をしてくれたベテランの教師もいる。誰も何も見返りを考えずにー。】(P164)。

暉峻淑子さんは難民を支援するNGOの活動を通して、多くの現代のサンタクロースに出会ったと言います。多くの善意に出会ったわけです。それは大きな恵みであったと思います。でもまた同時に悪意に出会うこともあったようです。【救援の中では、貧困のための盗みにも争いにも詐欺ににも出会った】。【私達の援助物質が届いたときには、タオルや靴下、防寒ヤッケなどを積み上げる片端から、管理者と称する人がどこかへ持ち去る。学生があとをつけてみると、じゃがいもが積んであるところに隠している。それをまた取り戻して、元の場所に積み上げ、見張りをたてて】(P154)(『豊かさの条件』、岩波新書)というようなこと、【あるとき、私達も、六トンあまりの救援物資を三日間だけ現地赤十字の倉庫に預けたが、引き取りに行くと、箱の数は合っているものの、蓋がみな開けてあり、中身は半分になっていた】(P150)(『豊かさの条件』、岩波新書)というようなことがあるわけです。それでも暉峻淑子さんは、世の中には多くのサンタクロースがいると言います。多くの現代のサンタクロースに出会うことができた暉峻淑子さんは、幸せだと思います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ということだと思います。しかし暉峻淑子さんもまた、【救援の中では、貧困のための盗みにも争いにも詐欺ににも出会った】ということですから、多くの戸惑いも経験されたことだろうと思います。

マリアのところにもたらされた祝福は、戸惑いと共にやってきました。私たちの住んでいる世界は、いろいろなことがあります。私たちはいつもいつも順風のなか、にこにこと歩むことはできないでしょう。悩みがあったり、戸惑いがあったり、悲しみを経験したり、人に裏切られたり、人から誤解されたりすることがあるでしょう。マリアの生涯もやはりそうでした。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と天使ガブリエルから祝福を受けた、マリアの生涯は、絵に描いたような幸せな生涯ではありませんでした。しかしマリアは、そのときどきの戸惑いのなかで、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」という信仰に生きたのでした。そうしたマリアを、神さまは豊かに祝福してくださいました。

マリアを祝福してくださった神さまは、私たちをも豊かに祝福してくださいます。神さまは私たちのために、イエスさまを送ってくださいました。イエスさまはいつも私たちと共におられます。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。

「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。

私たちは神さまの愛に包まれています。力ある方が、私たちを守り、祝福してくださっています。神さまの愛に包まれて、イエスさまと共に、こころ平安に歩みましょう。



(2022年12月18日平安教会朝礼拝・アドヴェント第四週)


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》