「互いに平和に過ごしなさい」
聖書箇所 マルコ9:42-50。561/536
日時場所 2026年8月2日平安教会朝礼拝式・平和聖日
今日は平和聖日礼拝です。アジア・太平洋戦争が終わり、81年となります。今週木曜日に広島の原爆記念日を迎えます。
ロシアとウクライナの戦争は続いています。アメリカ、イスラエルとイランの戦争も続いています。ここ数年で世界は大国による戦争状態が続き、不安の多い世界となりました。軍事行動が平和の手段のように語られる世界となっています。そのような状況のなかにあっては、勇ましいことを言う政治家が現れます。そんなとき、私たちクリスチャンは私たちがアジア・太平洋戦争のときに、迫害を受け、息苦しい思いを抱えて過ごさざるを得なかったこと、また不本意ながらも戦争に協力せざるを得なかったことを思い起こしたいと思います。
ことし、12月10日に私たちの平安教会は教会創立150周年を向かえます。平安教会百史には、戦争中の教会の様子について書かれてあります。最後のところを朗読いたします。平安教会百年史の130頁です。【一九三九年から一九四五年にいたるこの期間は、軍国主義のもとにおける戦争の暗黒の時代であった。教会には目立った抵抗運動もないまま、結果的には、皇道主義、軍国主義の国家体制の中で、従順にこれに従わざるを得なかったという歴史が深い傷跡のように残されている。この期間中の受洗者は四十八名、信仰告白二名、入会者四十名となっている。しかし、一九四〇年以降はあいつぐ入営、応召、出征による青年、壮年層、戦時下の生活の窮迫、戦争末期の防空体制等によって集会は非常に圧迫され、また混乱したことがうかがわれる。この中にあって、山口牧師をはじめ教会員の苦悩は日増しに大きくなっていったことも想像されるが、遂に山口牧師は一九四五年に至って健康を害し、教会を離れざるを得ないことになった。抵抗によって軍国主義の狂暴な毒牙の下で殉教するか、妥協によってぎりぎりの線まで後退し、そこで教会を守るか、この二つの道のうち、平安教会は他の多くの諸教会と共に後者を選びとったことは史実によって明らかである。しかし、その中における苦悩は第三者の論評のはるかにとどかないものであったことは当事者たちのみが知ることである。山口牧師が敗戦後十一月に帰洛し、早速牧師辞任を申出たことは、体力の問題以上に深い苦悩の総決算であったと理解することが正しいことではないかと思われる。そして山口牧師は、一九四六年から教会の第一線より身を引き、名誉牧師として一九六六年四月十二日に永眠するまでの約二十年間を静かに平安教会と共に歩んだのである】。
平安教会百年史は、【教会には目立った抵抗運動もないまま、結果的には、皇道主義、軍国主義の国家体制の中で、従順にこれに従わざるを得なかったという歴史が深い傷跡のように残されている】と、この時代について、反省を踏まえながら、教会の歩みの苦悩を記しています。戦争が始まると教会は苦悩します。それは戦争が神さまのみ心に反した、人間の暴力的な営みであるからです。神さまのみ心にしたがって「戦争反対」を口にすると、周りから「非国民」の大合唱がわき起こります。そのような時代にならないように、神さまが喜ばれる歩みでありたいと思います。
今日の聖書の箇所は、「罪への誘惑」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所はなんとも不気味な聖書の箇所で、何度も「*地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」という言葉が出てきます。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもないんだ」、怖いなあと思わされます。
イエスさまは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言われました。小さな者をつまずかせる者を、神さまがお許しにならないと、イエスさまは言われます。大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれると、息苦しい思いをして死んでしまいます。でもそのほうがまだましだというふうに言われます。もっとひどいことが起こるというわけです。
そして、「片方の手が悪いことをするなら、その手を切り落としてしまいなさい。両方の手がそろったまま、地獄に落ちて、消えない火に永遠に焼かれて苦しむよりも、片方の手になっても、命に預かるほうがよいだろう」と言われます。なんとなく合理的な感じがしますが、合理的であるがゆえに、怖い言い方だなあと思います。そしてそのあとに「*地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」と来るわけです。なかなか上手な怖い表現だなあと思います。
もし片方の手がに続いて、もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさいと、イエスさまは言われます。
もし、片方の足に続いて、もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさいと、イエスさまは言われます。
そして、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」と、イエスさまは言われます。
あなたは地獄に行くことになっても良いのか、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。なんとも恐ろしいことです。やっぱり地獄は避けたいと思います。地獄に行かないように、小さな者をつまずかせることなく、神さまのみ心をこころにしっかりと留めて歩んでいかなければと思わされます。
そしてイエスさまは、「人は皆、火で塩見を付けられる」と言われます。塩見というのは、神さまのみ心をしっかりと受けとめているということです。小さな者をつまずかせることなく、人間として神さまに恥ずかしくない歩みをするということです。「火で塩見を付けられる」と言われているように、それは簡単にできるということでもないということです。「火」とありますように、ある種の強い思いがなければ、そんなに簡単に身に付くということでもないということです。
ですからイエスさまは「自分自身の内に塩を持ちなさい」と言われました。小さな者の一人をつまずかせない者として、しっかりとした生き方を心がけなさいというのです。人はそんなに強くないですから、いつのまにか周りの人たちに流されてしまいます。「神さまのみ心はわかるけれども、それじゃあ、この世界で生きていけないよ」というような思いになります。
マタイによる福音書18章10節以下に「迷い出た羊のたとえ」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の35頁です。【「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。*人の子は、失われたものを救うために来た。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」】。
イエスさまはここでも「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われます。小さな者を軽んじないという姿勢が失われてしまうと、社会はやさしさを失い、効率ばかりが叫ばれ、「社会に迷惑をかけているものはだれだ」、「泣く子はだれだ」「なまけものはだれだ」と叫ぶ恐ろしい人たちが幅を利かせるようになっていきます。アジア・太平洋戦争中は、私たちの国はそうした社会であったのです。しかしそうした社会は人間の社会ではなく、野獣の社会です。だからこそ、イエスさまはあなたたちの内に塩を持ち、小さな者の一人をつまずかせない者として生きていきなさいと言われるのです。
そして「互いに平和に過ごしなさい」と、イエスさまは言われます。いたずらに対立をあおったりすることもなく、自分自身の内にはしっかりと塩を持ち、平和に過ごしていきなさいと、イエスさまは言われます。
争いが続き、平和とは到底言うことのできない世界ですけれども、神さまの義と平和に満ちた世界になりますようにとの祈りをもちつつ歩んでいきたいと思います。神さまが必ず、正すべきものを正し、神さまの愛に満ちた世界を作ってくださることを信じて歩んでいきたいと思います。
(2026年8月2日平安教会朝礼拝式・平和聖日)
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