「こどものように」
日時場所 2026年8月9日平安教会朝礼拝
聖書箇所 マルコによる福音書10章13ー16節。425/421。
先週の木曜日、8月6日は広島原爆記念日でした。そして今日、8月9日は長崎原爆記念日です。そして今週の土曜日、8月15日に81回目の敗戦記念日を迎えます。神さまの平和がきますように。平和を作り出す私たちの歩みでありますようにと祈りつつ歩みたいと思います。
平和聖日に向けての早天祈祷会で『平安教会100年史』の戦争中の箇所を読みました。1941年6月6日には内山完造が「支那事情講演会」の講師として講演したと書かれてあります。内山完造は上海で内山書店を立ち上げ、中国の作家である魯迅と交流の会った人でした。「支那事情講演会」、どんな話だったのか、なかなか興味深いなあと思いました。
中国近代文学を切り開いた作家であり、思想家である魯迅の作品に、『狂人日記』という作品があります。
ある男の人が自分が食べられるんじゃないかということが気になってしょうがないというふうに思い始めます。周りの人々の目つきがおかしいというふうに思えてきます。町を歩いていてもみんながどうも自分をにらんでいるような気がします。男の人は自分をにらんでいる人々に「何だって言うんだ」というふうに大声を出します。男の人の家の人は、無理やりに引きずって家に連れて帰ります。家の人々もやはり同じような目つきで男の人をにらんでいます。そして男の人が書斎にはいると部屋に鍵をしめてしまいます。男の人はますます自分が食べられるということを確信します。男の人は自分を診察にきた医者や、兄に、「人間を食べることをやめなければならない。そんなことをしているとあなたもいつかは食べられてしまうよ」というふうに説教をします。男の人はとじ込められた部屋の中で考えます。兄たちが自分を食べようとしているように、自分も人間を食べたことがあるんではないか。そして昔、五つの妹がなくなったことを思い出します。そしてその妹は、みんなに食べられてしまったのだと思います。そしてたぶんそのとき、自分もその時の料理の中に入っていた、妹の肉を食べたに違いないというふうに思います。他の人だけでなく自分も人を食べる人間だというふうに思います。このお話の最後は次のような言葉で終わります。【人間を食ったことのない子どもなら、まだいるかも知れぬ?。子どもを救え・・・】。
「わたしは人を食べたことがあります」。と言うと、皆さん、びっくりしてしまうんじゃないかと思います。わたしが人を食べたというのは、べつに人間の肉を実際に食べたということではありません。「純君のモモ肉がうまそう」とか「純君の手の指がこりこりしておいしそう」とかいうのではないのです。そうではなくて、人を人として敬わなかったとか、人を自分のために利用したというようなことです。この『狂人日記』というお話で、魯迅が言いたかったことというのも、世の中の人が、人を人として見ないで、人を物として見ている。人を自分が利用するための道具としてみている。そういう人と人とのあり方が、人を食べているということだということです。(お話の中に出てきた男の人は、心の病を担って苦しんでいたのに、周りの人はこの男の人のことをへんな目つきでみます。また兄弟や肉親たちも、彼を部屋にとじ込めて、人目にふれないようにしています。心の病を担って苦しんでいる人に、やさしく接することなく、その人の自由を奪って、さらに苦しめるというような人々のあり方が、人を人として敬わない、人を食べるようなあり方なのです)。人を傷つけても平気だとか、悩んでいる人をみてもしらんぷりしていいということが、人を食べているというなのです。
そのように考えると、皆さんも人を食べたことがあるのではないでしょうか。人が悩んでいるのをみてしらんぷりしたりしたことはないでしょうか。人が苦しんでいるのをみてしらんぷりしたことはないでしょうか。
私たちの世の中には十分に食べられないで飢えている人々がたくさんいます。働きたくても仕事がなくて働けず、アパートに住むこともできなくて、道の上で生活しなければならない人もいます。日本人でないということのために、いじめられる人々がいます。被差別部落に生まれたために差別される人々がいます。就職できなかったり、結婚できなかったりというような差別を受けています。いじめにあっていることを苦にして、自殺をした子どもがいます。 世の中のこうした出来事を見るときに、私たちの世の中は、「人を食べている世の中」なのではないかと思わされます。
『狂人日記』の最後は【人間を食ったことのない子どもなら、まだいるかも知れぬ?。子どもを救え・・・】という言葉で終わります。これはこのお話を書いた魯迅が、こんな人が人を傷つけ合って成り立っている社会、人を食っているような世界がなくなってほしい。そしてそうした世界に染っていない子どもたちに、人を食べるような世界ではなくて、人が互いに傷つけ合っているような社会ではない、人が助け合って、人が支え合って生きていく社会をつくりだしてほしいという願いが込められています。
大人になるととてもあきらめがよくなります。「どうぜ世の中こんなもんだ」という気になります。傷つけ合って人が人を食べるような社会が人間の社会なのだ。人が助け合って生きる、人が支え合って生きるというような社会は、それは現実の社会ではなくて、理想の社会でしかないのだというふうに思ってしまいます。どうぜ自分がどんなに努力しても、この世の中は変わらないんだというふうに思ってしまいます。魯迅は子どもたちがそんなあきらめのいい大人になるのではなくて、人を食べるような社会を変えてほしいと思っていました。
今日の聖書の箇所は「子供を祝福する」という表題のついた聖書の箇所です。人々がイエスさまのところに、イエスさまに祝福していただこうと、こどもを連れてきます。すると弟子たちが、この人々を叱りました。その様子をみて、イエスさまは弟子たちを叱ります。【「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」】と、イエスさまは言われます。そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されました。
【子どもたちのように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない】。大人たちは人を役にたつとか役にたたないというようなことで人を見ることが多いけれど、子どもたちはみんな神さまから愛されている大切なひとりひとりとして見ることができると、イエスさまは言われます。また大人は世の中こんなもんだというふうに人を食べるような世の中を認めてしまいますが、しかし子どもたちは神さまの愛にふさわしい世の中を求めようとします。
イエスさまは子どもたちを祝福しながら、この人が人を食べるような世の中に負けることなく大きくなってほしい。そして人を傷つけ、苦しめる、人を食べるような世の中を、神の国へと変えてほしいと思いながら、子どもたちを祝福されました。
イエスさまは子どもたちを祝福されたように、大人たちに対しても、やはり招いておられます。子どもたちと一緒に、この人を食べるような世の中を変えてほしい。人の悲しみや苦しみをしらんぷりするような生き方、人を傷つけても平気というような生き方をしないようにしよう。人の苦しみや悲しみを自分のことのように感じることのできるやさしさ、人と助け合い支え合って生きていく力強さを求めて生きてほしい。人を食べる生き方ではなく、人とわかちあう生き方をしなさい。こどもたちのように、神さまの国を求めて生きなさい。イエスさまはそのように私たちを招いてくださっています。
(2026年8月9日平安教会朝礼拝)
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