2024年6月16日日曜日

6月16日平安教会礼拝説教要旨(小笠原純牧師)「決して渇かない世界がある」

「決して渇かない世界がある」

聖書箇所 ヨハネ4:5-26。120/521。

日時場所 2024年6月16日平安教会朝礼拝式

  

詩人の中原中也は「生い立ちの歌 Ⅰ」において、自分が若い時のことを区切りをつけて、雪にたとえて歌っています。

生い立ちの歌

   Ⅰ

幼 年 時

私の上に降る雪は

真綿(まわた)のようでありました

少 年 時

私の上に降る雪は

霙(みぞれ)のようでありました

十七〜十九

私の上に降る雪は

霰(あられ)のように散りました

二十〜二十二

私の上に降る雪は

雹(ひょう)であるかと思われた

二十三

私の上に降る雪は

ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

二十四

私の上に降る雪は

いとしめやかになりました……


幼年期は、私の上に降る雪は、真綿のようで心地よかったわけですが、そのうち、少年期、17−19歳と年を重ねていくうちに、みぞれやあられ、雹や吹雪となってくるわけですが、しかし24歳では、「私の上に降る雪は、いとしめやかになりました」というように、穏やかになります。


そして、生い立ちの歌Ⅱに続きます。

   Ⅱ

私の上に降る雪は

花びらのように降ってきます

薪(たきぎ)の燃える音もして

凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は

いとなよびかになつかしく

手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は

熱い額(ひたい)に落ちもくる

涙のようでありました

私の上に降る雪に

いとねんごろに感謝して、神様に

長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は

いと貞潔(ていけつ)でありました


若い頃は中原中也もいろいろなことがあり、激しい生活を送ることになりますが、しかし良き出会いがあり、すこしおだやかな気持ちになることができたのだと思います。「私の上に降る雪に いとねんごろに感謝して、神様に 長生(ながいき)したいと祈りました」。中原中也は30歳で天に召されていますから、長生きをしたわけではありませんが、私たちのこころを打つ詩をたくさん残してくれました。

今日の聖書の箇所に出てくる女性も、いろいろとつらい気持ちを抱えながら生きていました。その女性がイエスさまに出あいます。今日の聖書の箇所は「イエスとサマリアの女」という表題のついている聖書の箇所です。

ヨハネによる福音書4章5−9節にはこうあります。【それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである】。

サマリアの女性がイエスさまと出会ったのは、正午ごろのことでした。サマリアの女性はお昼に水をくみにきました。ふつうは水をくみにくるのは朝であったりするわけです。しかしサマリアの女性はあまり人と会いたくないので、人がいないときに水をくみにきていたのです。あとのイエスさまとの会話のなかにも出てきますが、サマリアの女性は男女関係のことで、あまりよく言われていなかったのだと思います。

イエスさまはサマリアの女性に水を飲ませてほしいと頼みます。イエスさまはユダヤ人です。ユダヤ人とサマリア人は仲が良いわけではありませんでした。ユダヤ人はサマリア人のことを差別していました。それでサマリアの女性は、「なんでわざわざあなたたちが嫌っているサマリア人の女性であるわたしに水をのませてくれと頼んだりするのか」と言うわけです。

ヨハネによる福音書4章10ー12節にはこうあります。【イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」】。

イエスさまはサマリアの女性に、「あなたがわたしのことをどういう人か知っていたら、あなたのほうから、命の水を飲ませてくださいと言っただろう」と言われました。サマリアの女性は、イエスさまがちょっともったいぶった、わけのわからないことを言うので、ちょっと戸惑います。サマリアの女性は、「あなたは水を飲ませるといっても、水をくむ物をもっていないじゃないですか。井戸はとっても深いのですよ。どうやって、その生きた水を手に入れることができるのですか。あなたはもったいぶって自分のことを偉い人のようにほのめかすけれども、私たちの先祖のヤコブよりも偉いのですか。この井戸はヤコブが私たちのために用意してくださった井戸なのです」と言いました。

ヨハネによる福音書4章13−15節にはこうあります。【イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」】。

イエスさまはわたしがあなたに与える水は、飲む者が決して渇くことがない水だと、サマリアの女性に言いました。わたしが与える水はその人の中で泉となり、永遠の命に至る水なのだと、イエスさまは言われます。サマリアの女性はイエスさまが言われることが、いまひとつよくわかりません。何度も何度もここにくみにくることのないように、その水をわたしにくださいと、サマリアの女性は言いました。井戸に水をくみにくることは、サマリアの女性にとってとても大変な労力であるとともに、いろいろな人からの不快な出来事を経験するかも知れないことでした。できればそうした不快な出来事を経験することなく生きていきたいと、サマリアの女性は思っていたことだと思います。

ヨハネによる福音書4章16−20節にはこうあります。【イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」】。

イエスさまもまたサマリアの女性があまりふれてほしくないことを話し出されます。サマリアの女性は五人の夫がいました。そして今連れ添っている人もいました。まあ現代であれば、だれがだれと付き合っていようといまいと、「余計なお世話よ」と言えば良いわけですけれども、イエスさまの時代はそういうわけでもありません。いろいろな事情があるにしても、サマリアの女性はあまりふれてほしくないことだっただろうと思います。しかし初対面であるのに、イエスさまはサマリアの女性のことについてよく知っているので、サマリアの女性はイエスさまのことを預言者だと思います。

ヨハネによる福音書4章21−26節にはこうあります。【イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」】。

イエスさまはサマリアの女性に「わたしを信じなさい」と言われました。そしていまはサマリア人はゲリジムさんというこの山で神さまを礼拝し、ユダヤ人はエルサレムで神さまを礼拝している。そして互いに憎みあったり、傷つけあったりしている。しかしそうしたことを越えて、聖霊によって真理によって、神さまを礼拝するときがくると、イエスさまは言われました。そのことを聞いて、サマリアの女性は「わたしはキリストと呼ばれるメシアが、やがて私たちのところにきてくださり、私たちを救ってくださることを知っています」と言います。そしてイエスさまは「あなたと話をしているこのわたしがキリストと呼ばれるメシアなのだ」と言われました。

サマリアの女性は、五人の夫とおつれあいとのことで、周りの人々からいろいろと言われたり、冷たくあしらわれるというようなことがあったのだろうと思います。そのため人々がいないときを見計らって、昼に水をくみにきていました。彼女は渇いていたのだと思います。どのような状態が渇いた状態なのかというのは、なかなか説明がしにくいのです。わたしは個人的に、サマリアの女性と知り合いであるというわけでもないわけです。しかしサマリアの女性は、イエスさまに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と応えた言葉には切実なものがあります。辞書によりますと、「渇く」とは「満たされぬ気持ちがいらだたしいほど高まる。心から強く欲しがる」とあります。サマリアの女性はもういやになっていたのです。

中原中也の「生い立ちの歌」のように、みぞれが・あられが・ひょうが・ひどいふぶきが、サマリアの女性のうえに吹いているような気持ちを、彼女は抱えていたあろうと思います。

私の上に降る雪は

霙(みぞれ)のようでありました

私の上に降る雪は

霰(あられ)のように散りました

私の上に降る雪は

雹(ひょう)であるかと思われた

私の上に降る雪は

ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

そして、そんなときに、サマリアの女性は、イエスさまと出会います。サマリアの女性は自分の渇きをいやしてくれる人と出会ったのでした。そして決して渇かない世界があることを、サマリアの女性は知ったのです。

イエスさまは私たちも、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言ってくださっています。

私たちもときに何もかもいやになって、自分だけの世界に閉じこもりたいような気になることがあります。サマリアの女性のように、だれからも離れて、ひとりになりたいと思うときがあります。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言いたい時があります。

毎日、いろいろなニュースがテレビやインターネットなどで流れていきます。高齢者が詐欺の被害にあったりします。どうしてこんな人が詐欺の片棒を担いで、逮捕されるのだろうというような若者がいたりします。悪質なホストによって、若い女性が風俗店に売られていくというようなことがあったりします。ロマンス詐欺が殺人事件に発展したというような事件が起こります。検察による違法捜査によって逮捕され、のちに冤罪事件であることがわかったりします。労働組合に対する弾圧が行われるというようなことあったりします。外国人に対するヘイト事件が起こったりします。なんとなく、ニュースを聞きながら、つらい気持ちになり、私たちの住んでいる世界はとても渇いた世界のような気がして、かなしい気持ちになります。

しかしイエスさまは私たちに決して渇かない世界があると教えてくださっています。わたしにつながっていなさい。わたしがあなたたちに、永遠の命に至る水を与えてあげる。わたしの水を飲む者は、決して渇くことがない。

イエスさまは私たちを招き、渇いた世界に生きるのではなく、わたしの愛に満ちた世界に生きなさいと招いてくださっています。

私たちに命の水を与えてくださる方がおられます。私たちはイエス・キリストにつながって、よりよい歩みをしていきたいと思います。





(2024年6月16日平安教会朝礼拝式)

2024年6月13日木曜日

6月9日平安教会礼拝説教要旨(仲程愛美牧師)「いのちに仕える」

「いのちに仕える」 仲程愛美牧師

マタイによる福音書 6:25-34節

昨年、スペイン語に由来する「ケセラセラ」がタイトルになった曲が流行しました。歌詞を見ると単純な応援ソングとは言い切れず、息詰まりそうな人生でも「なるようになる」からと、もがきながら歩んでいく姿が感じられます。

人間にはそれぞれ、悩みや心配事は尽きません。どうにもこうにもならないことは、運や天に任せて手放すしかない。先人たちは、思い煩いを抱える人間の有り様をこのように考えるに至ったのです。

イエスさまの時代も同じようなことが起こっていたようです。何を食べようか。何を飲もうか。何を着ようか…そのような人々に向けてイエスさまはこう語りかけます。

「空の鳥、野の花々に目を向けてごらん。鳥も花もあくせくせず、ただその日その日を生きている。しかしそうした鳥も花々もちゃんと神に養ってもらっているではないか。あなたたちは鳥や花以上に、神が思いを込めて創造された人ではないのかい?なぜ鳥や花も悩んでいないようなことで心配し、自分が生きるために何をしようかと悩むんだ?生きるために必要なことはすべて神が知っておられる。だから人が思い悩むことはない。悩みや心配事を神に任せなさい。」

人が悩むのは生きている証拠とも言えます。知識や経験があるからこそ、分析し物事を予測して不安になるのです。人間だからこそ悩む。その私たちに「思い悩むな」というのですから、イエスさまの発言は楽観的すぎる?あるいは無責任?と感じるかもしれません。けれどもこうした悩み尽きぬ私たちに、イエスさまは神という存在がいることを語り、人生を委ねてみてはどうかと言うのです。そして「委ねる」の先にある私たちにできることを提示しています。

「まず神の国と義を求めよ」と。これらを言い換えるならば、それらは命を思うこと、命に仕えることだと思います。神の国が実現する時、神の義が守られる時は、その存在が何よりも大切だとされる時間、空間だからです。

命を取り巻く事柄を心配するなと語ったイエスが示す先にあったのは、いのちに仕えること。いのちに向き合うことでした。結局、同じことを言っているようにも思えますが、明日のことを思い悩む姿は、つまり自分のことで余裕がなくなり身動きが取れなくなっている状態を表しています。そうした状態から解放され、神に委ねる歩みへとイエスさまは招いています。自分だけでなくすべての「いのち・存在」に仕える、豊かな生き方へと導かれていきましょう。


2024年6月6日木曜日

6月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「新しく生き直そうよ」

「新しく生き直そうよ」

聖書箇所 ヨハネ3:1-15。340/575。

日時場所 2024年6月2日平安教会朝礼拝式


5月は、同志社高校の礼拝で説教をしたり、同志社女子中高の礼拝で説教をしたり、同志社大学チャペルアワーで説教をしたり、中学生、高校生、大学生の前で説教をするということがよくありました。普通に生活をしていますと、そんなに多くの中高生や大学生に接するということがありませんから、自分が年をとっているということを意識することはあまりありません。中高や大学の中を歩いていると、この人たちから見るとわたしは「おじいさん」なのだなあと思いました。そのようにわたしも少し気が引ける年頃になりましたので、自分が自分がというよりは、すこしここは若い人にお任せしてという気持ちをもたなければならないなあと思うようになりました。

評論家のレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』を読みました。本の題を初めてみた時、「おお、説教をしたがる男たち」ということなので、わたしのような牧師の話なのかと思いました。まあ確かに牧師さんは説教をするのが好きだなあと思います。「説教とお説教は、にぎりとおにぎりくらい違う」と言われますので、「お説教」にならないように注意をしないければならないと言われます。この『説教したがる男たち』の「説教」というのは、いわゆる、男の人は若い女性などをみると、自分の知識を教えたがるというようなことです。

レベッカ・ソルニットが、パーティーに参加したときの話です。その家の主人が帰ろうとしているレベッカ・ソルニットと彼女の友だちのサリーに話しかけてきます。【「いやいや、もう少しゆっくりしていきなさい。まだ君たちとは碌に話していないじゃないか」。威圧的な感じの、大金持ちの男だった」。・・・。「君は二冊ほど本を出しているそうだが」「ええと、あと何冊かはあるんですが」「で、何について書いているの?」。・・・。その表情にはすごく既視感があった。はるか彼方までおよぶ自分の権威、そのぼんやりと霞む地平線をじっと見つめながら蕩々と長話をする男の、自己満足しきった表情。・・・。ミスター・インポータント氏が私が当然知っているべき件(くだん)の本について自慢げに語っていると、サリーが「それ、彼女の本ですけど」と割って入った。というか、とにかく男を黙らせようとした。だが彼は聞いちゃいなかった。「だからそれ、彼女の本ですって」とサリーが三、四度繰り返したところで、ようやく彼は理解した。そして十九世紀小説の登場人物か何かのように青ざめた。・・・。彼はショックで口も利けないほどだった】(P.8-10)。

この男性は若い女性に説教をしたいわけです。そして自分の知識を語ったわけですが、でもレベッカ・ソルニットはその分野の専門家です。そしてこの男性は、彼女の本に書いてあることを彼女に教えてあげるということをしてしまうのでした。

この話を読みながら、「ああ、でもこういうことって、わたしにもあるなあ」と思わされました。自分の娘などに対して、いろいろと教えてあげるつもりで話をしているわけですが、あとからよく考えてみると、わたしの知識などもう娘はすでによく知っているのかも知れないなあと思うようになりました。たとえば、アメリカのコロンビア大学でイスラエルによるガザ地区への攻撃に抗議するでもの参加者が300人逮捕されるという事件がありました。するとわたしは娘に知識をひけらかしたいという気持ちになるわけです。そして「昔、『いちご白書』という映画があって、デモの舞台は同じくコロンビア大学だった」というような知識を語りたくなるわけです。でもまあ、そうしたことはわたしが語らなくても、もうすでに娘は知っているだろうと思います。

世の若い人たちはやさしいですから、「そんなこと知ってるよ」というようなことは言うことなく、黙って聞いてくださるとは思いますが、あまりご迷惑をおかけするのもいけないかなあと思うようになりました。とは言うものの、わたしも知識や年齢を重ねて来たわけですから、新しく生まれ変わるということは、なかなかむつかしいですので、どうしたものかなあと思います。

今日の聖書の箇所は、イエスさまから「あなた、新しく生まれ変わったほうが良いよ」と言われた人の話です。ヨハネによる福音書3章1−4節にはこうあります。【さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」】。

ファリサイ派のニコデモはユダヤの議員でした。イエスさまのところに、ある夜、訪ねてきます。夜訪ねてくるというのは、隠れて訪ねてきているということです。昼間にイエスさまのところを訪ねていくと、「ニコデモが、イエスのところを訪ねた」というような噂が広まって、立場が悪くなるかもしれないからです。それで夜、こそこそと訪ねているわけです。それでもやはりニコデモはイエスさまと話したくてたまらなかったのだと思います。まあユダヤの議員であるわけですから、そんな政治的な危険を冒してまで、イエスさまのところに行く必要はないわけです。しかしそうした政治的な危険を冒しても、やはりイエスさまと話がしたかったのです。

ニコデモは一生懸命に、イエスさまのことをユダヤ教のすばらしい教師であると語ります。「あなたは神さまのところから来られたとしか思えない」とまで言うわけです。そのように語るニコデモに、イエスさまは「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。でもニコデモは年を重ね、ファリサイ派のユダヤの議員になっているわけです。いまさら「新たに生まれなければ」と言われても、「はい、そうします」とは言えないのです。まあ年を取るということはそういうことで、いままでに積み重ねてきたものを、そうそうぱっと投げ出してしまうというわけにもいきません。それでちょっと極端な話をニコデモはするわけです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」。すこし前のドラマで「ブラッシュアップライフ」というのがありました。赤ちゃんから2周目の人生を始めるというヒューマンコメディーのドラマでした。また赤ちゃんから始めるというのも、またそれは大変です。

ヨハネによる福音書3章5−8節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」】。

ニコデモは一般的な意味で、「新しく生まれる」「生き方を変える」「人生やり直す」というような意味で、イエスさまの言葉を受け取り、「そんな、年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。しかしイエスさまは、一般的な意味ではなく、永遠のいのちの問題として、新しく生まれるということを語っておられます。

イエスさまは「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。「水と霊によって」というのは、洗礼を受けて、そして神さまの霊によって生きるということでなければ、神の国に入ることはできないということです。洗礼を受けて、神さまからの祝福を受けて、永遠の命に連なる者として生きるということです。それは洗礼を受けることによって、神さまがそのようにしてくださるのだということです。私たちは肉体をもった肉から生まれた者です。肉から生まれた者ですから、当然、限界をもっていきています。私たちはずっと生きるのではなく、必ず死を迎えます。しかし洗礼を受けて、神さまに連なって生きる時に、神さまは私たちを祝福してくださり、私たちを霊から生まれた者としてくださるということです。

そしてイエスさまは、水と霊とによって新しくうまれた者は、自由だと言われます。風のように自由なのです。何かに縛られているのではなく、自由に、自分の感じるままに歩んでいくことができるのです。「こうしたらだめだろうか」「ああしたら、みんなから非難を受けるだろうか」。そうしたことにとらわれることなく、自由に歩んでいくことができるのです。

ファリサイ派の議員であるニコデモからすると、風のように自由に、聖霊のように自由に歩むということは、とても信じられないことです。ユダヤの社会は律法というものがあり、それを守らなければならないということがありました。何かの事情で律法を守ることができなければ、多くの人々から非難されるというようなことがありました。イエスさまは安息日に違反していると、いつもファリサイ派の人々や律法学者たちから非難を受けていたのです。

私たちはいま日本である程度の自由のある生活をしています。アジア太平洋戦争前のように、女性に参政権がないという時代に生きているわけでもありません。女性は裁判官になれないというわけでもありません。しかしイエスさまの時代のユダヤの社会は、私たちの社会には考えられないほど、自由に生きることを妨げるものがありました。

ヨハネによる福音書3章9-15節にはこうあります。【するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。】。

イエスさまは、水と霊によって新しく生まれる者は、神さまの祝福を受けて、自由に生き生きと生きていくことができると言われます。しかしニコデモはそうしたイエスさまが言われる生き方が、どうも理解できません。「どうして、そんなことがありえましょうか」というのです。

イエスさまは「どうもよくわからない」と言うニコデモに対して、それでも働きかけます。あなたは私のことを神さまのもとから来た教師であると言ったではないか。いままでわたしがいろいろなところで話したことや、行なった癒しや奇跡を見てきただろう。わたしを信じなさい。「できない」「わからない」と言っているのではなく、【天から降って来た者】であるわたしを信じなさい。「ただ神さまのもとから来たわたしを信じなさい」。そうすればわたしによって、あなたは永遠の命をえる者になることができる。そのように、イエスさまは言われました。

イエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。私たちクリスチャンは洗礼を受け、新たに生まれた者として生きています。まあ、そのわりにはイエスさまが言われるように、自由に生き生きと生きていないのではないのかというようにも思えます。昔ながらのしきたりにとらわれて、霊から生まれた者として生きていないのではないかと思えます。

新たに生まれた者として生きるということは、神さまを中心にして生きていくということです。神さまを中心にして生きていくときに、私たちは自由に生きることができます。人間のことばかりを考え、自分のことばかりを考えて生きていくと、自由に生きていくことができません。

私たちクリスチャンは、洗礼を受け、新しく生まれた者として生きています。ですからやはり、神さまを求めつつ歩んでいきたいと思います。神さまから罪赦され、神さまから祝福を受けている者として、永遠のいのちに連なる者として、勇気をもって歩んでいきたいと思います。聖霊に導かれて、軽やかに生きていきたいと思います。

神さまが私たちを愛し、導いてくださっています。神さまを信じて、すこやかに、そして軽やかに歩んでいきましょう。



  

(2024年6月2日平安教会朝礼拝式)


2024年5月31日金曜日

5月26日平安教会礼拝説教要旨(山﨑道子牧師)「名を呼ぶ神」

2024年5月26日(日)平安教会礼拝メッセージ

「名を呼ぶ神」 山﨑道子(豊中教会)


キリスト教の教えの中で、一番大事で一番分かりにくいのが復活です。なんせ死んだ人間が生き返るなんて非現実的なことをそう簡単に信じられるはずもありません。イエスの時代にも、復活を否定していたサドカイ派というグループがありました。そのサドカイ派の人々が、聖書のある掟を逆手に取り、復活についてイエスに意地悪な質問をしてきました。 「7人兄弟の長男が妻を迎えたが跡継ぎを残さないで死んだので、次男が掟に従ってその女性を妻にしたが、その次男も亡くなった。そうやって7人兄弟が次々この女性を妻としたが、皆跡継ぎがないまま死に、最後はこの女性も死んでしまった。この場合、全員が復活したときにこの女性は誰の妻になるのか。」

 私にはこの箇所を読む度に思い出すおじさんがいます。彼はある日突然教会に来て、「若い頃から血の気が多く、アルコール中毒となった挙句に親兄弟から縁を切られ、一時はホームレスだった。今はお酒をきっぱりやめたが、最近病気が見つかった。礼拝に出るのは恐れ多いが、自分のような人間は死んだらどうなるのか気になってここに来た」と言い、当時牧師になりたてだった私を大変困惑させました。

その後、2か月に一度程のペースで彼と平日に話をしました。話題の半分くらいはタイガースでしたが、この不思議な面談が1年半程続いた後、彼は禁酒サポートで世話になっていた聖公会の教会で受洗することになったのです。その年のクリスマスの朝、駅前の喫茶店で一緒にモーニングを食べていた際、自分など救われるはずがないと頑なだったそのおじさんが、「洗礼を受けると決めた瞬間から、心がとても楽になり安心できるようになった」と何とも晴れ晴れしい笑顔で言ったのです。

 復活の命とは、死んだ後に頂くものではありません。私たちは神に名を呼ばれ、神と出会うことによって、すでにもう復活の命を生き始めているのです。神は今も生きて私たちと共におられ、たとえ私が死んでも神は私の名を記憶し続け、永遠に存在し続けてくださるのです。その意味で、わたしたちは限りあるいのちを持つ生き物であるにも関わらず、神と共に永遠に生きる命を与えられているのです。それは、神が今もアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、あなたの父母の神であり、あなた自身の神であると自己紹介してくださっているようなものです。恐れ多いことではありますが、そう呼ばれるに少しでも値する人間でありたいと思います。


2024年5月23日木曜日

5月19日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「神さまと共に生きる幸い」

 「神さまと共に生きる幸い」

聖書箇所 ヨハネ14:15-27。346/343。

日時場所 2024年5月19日平安教会朝礼拝・ペンテコステ礼拝式

ペンテコステ、おめでとうございます。

ペンテコステは「教会の誕生日」と言われます。イエスさまのお弟子さんたちが集まっている家に聖霊が降り、そして聖霊の力によって、お弟子さんたちがいろいろな国の言葉で、神さまのこと、イエスさまのことを話しはじめ、そしてそのことによってキリスト教が広まっていき、そして教会が誕生していくことになるからです。

ペンテコステは赤いものを身に着けるというキリスト教の風習がありますから、赤いネクタイをしています。今日は南部地区の青年部の方がきておられるので、赤いクリアファイルに週報や教会案内を入れてお渡しいたしました。そしてほかにペンテコステのプレゼントとして、教会のペーパークラフトをお渡ししています。ガウディのサグラダファミリアです。

ペンテコステはキリスト教の三大祭りの一つであるわけですが、クリスマスやイースターに比べると、お祭りとしての位置づけが弱いような気がします。クリスマスはアドベントを経て、イースターはレント・受難節を経てやってきますが、ペンテコステは突然やってきます。そしてクリスマスにはクリスマスケーキやクリスマス・プレゼントがありますし、イースターにはイースターエッグがあります。しかしペンテコステはそうしたものがあまりありません。

わたしはペンテコステにもふさわしいものがないのかと考えました。いちばんふさわしいのはもちろん「聖霊はthe Holy Spirit」ですから「お酒(アルコール分の強い蒸留酒、ブランデー・ウオツカなど)、spirits」ということなのでしょう。しかしまあそれもなあと思いますので、よくあるのは鳩サブレです。でもなかなか身近で手に入りにくいので、どこででも手に入るものいいと思い、わたしはみなさんにアイスクリームをお勧めしています。ペンテコステは聖霊によって熱くなった体を冷やすために、アイスクリームがふさわしいと思いました。わたしはペンテコステにアイスクリームを食べることにしています。わたしは今日も食べるつもりです。アイスクリームを食べるようになって、なんとなくペンテコステが待ち遠しくなりました。でも「アイスクリームはちょっと。お腹がひえちゃうわ」という人に、新たにペンテコステにふさわしい新しいものを見つけました。みなさん、知りたいですか?。と言っても、まあそんなに知りたくはないと思いますが。それはティラミスです。

ティラミスは、イタリア発祥のチーズケーキの一種です。ティラミスはイタリア語です。「tira」は「引っ張って」、「mi」は「わたしを」、「su」は「上へ」という意味です。「わたしを上に引っ張って」ということですから、「わたしを元気にして」という意味です。聖霊に満たされて、元気になった弟子たちが、イエスさまのこと、神さまのことを宣べ伝え始めたのが、ペンテコステの出来事であったわけですから、「わたしを元気にして」という意味のティラミスは、ペンテコステにふさわしいデザートだと思います。ただちょっと気をつけなくてはならないのは、ティラミスは「わたしを元気にして」という意味のほかに、「わたしを恋人にして」という意味があります。「わたしを一段、上へと引き上げて」ということで、「友だちから恋人にして」という意味になります。だからちょっと異性(もちろん同性の場合もあるかもしれませんが)と食べる場合は、ちょっと相手に誤解を与えないか気をつけたほうがいいでしょう。

今日、家族にティラミスを買って帰って、「今日はペンテコステだから、ティラミスを食べるの」と言って、みんなでティラミスを食べると、たぶんみなさんのご家族は「来年のペンテコステはいつ?」と尋ねてくださるだろうと思います。2025年、来年のペンテコステは6月8日(日)です。たぶん、来年、ご家族はペンテコステが来るのを楽しみにしてくれて、5月の下旬頃になると、「もうすぐペンテコステよね」と教えてくださるだろうと思います。ぜひご家族とペンテコステをお祝いしてください。こういうのを家族伝道と言います。

もしかしたらご家族の方が、「ペンテコステって、どんな出来事」と質問されるかも知れませんから、ペンテコステの聖書の箇所を読みましょう。ペンテコステの聖書の箇所は、使徒言行録2章1−13節です。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた】。

イエスさまの弟子たちはイエスさまのことを裏切り、そしてイエスさまを十字架につけました。イエスさまは三日目によみがえってくださり、弟子たちを赦し、そして弟子たちを世に遣わされました。そしてイエスさまは天に帰られます。そしてイエスさまはご自分の代わりに、聖霊をあなたたちのところに遣わすと、弟子たちにお約束になりました。そしてペンテコステに聖霊が弟子たちに降ったのです。

今日の聖書の箇所は「聖霊を与える約束」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書14章15ー18節にはこうあります。【「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る】。

イエスさまは「別の弁護者を遣わす」と言われました。イエスさまがおられないと弟子たちは不安です。その不安な弟子たちのところに、イエスさまは「別の弁護者」、すなわち聖霊を送ると言われました。それは「私たちはどんなときでも恐れることはない」ということです。私たちはいつも守られているということです。聖霊はいつも私たちと共にいてくださり、私たちの内にいる。神さまは私たちを一人にしたりはしない。神さまはいつも私たちと共にいてくださる。私たちは神さまの平安の中に生かされているのです。

ヨハネによる福音書14章19−21節にはこうあります。【しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」】。

イエスさまはご自分が天に帰っても、あなたたちは大丈夫だと、弟子たちに言われました。それは「わたしが神さまの内におり、あなたたちがわたしの内におり、わたしもあなたたちの内にいる」からだ。「わたしと神さまとあなたたちはひとつなのだ」と、イエスさまは言われました。あなたたちはわたしを愛している。だからかみさまはあなたたちのことを愛しておられる。あなたたちは何の恐れもない。あなたたちには何の不安もない。神さまがあなたたちと共にいてくださる。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書14章22−25節にはこうあります。【イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した】。

イエスさまは神さまのことを信じない世の人々と、イエスさまの弟子たちとの違いを明らかにしておられます。イエスさまを愛する人は、イエスさまの言われたこと、イエスさまの御教えを守って生きようとします。もちろんすべての御教えを守ることはできないかも知れません。私たちは弱さを抱えていますから、イエスさまのようには生きられません。しかし私たちはイエスさまを愛し、イエスさまの言葉を守っていきようと、イエスさまに希望を置いて生きていきます。自分の弱さを知っているからこそ、私たちはイエスさまに希望を置いて生きています。そしてそんな私たちにイエスさまは聖霊を送り、私たちを祝福し、導いてくださるのです。

ヨハネによる福音書14章26−27節にはこうあります。【しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな】。

「心を騒がせるな。おびえるな」と、イエスさまは言われました。私たちは弱さを抱えて生きていますから、心を騒がせたり、おびえたりすることが、よくあります。年中、なんかかんかの煩いのなかにあるのが、私たちだと言えるかも知れません。そうした弱さを抱える私たちに、イエスさまは別の弁護者、すなわち聖霊を送ってくださるのです。私たちに聖霊が送られるというのは、私たちが強いからではありません。私たちがイエスさまの御言葉、御教えを守って、イエスさまがおられなくなっても、未来永劫、しっかりと歩んでいくことができるというのであれば、私たちに聖霊が送られる必要はないのです。私たちが弱く、力のないものだからこそ、聖霊は私たちを包み込み、私たちを守り、私たちを励まし、元気にしてくださるのです。

私たちは神さまによって生きています。私たちはイエス・キリストによって生きています。【わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる】と、イエスさまは言われました。私たちは神さまと共に生きています。これが私たちにとっての大きな幸いです。イエス・キリストは「神、われらと共にいます」ということの徴として、私たちの世に来てくださいました。そして聖霊もまた「神、われらと共にいます」という徴として、私たちの上に注がれるのです。

神さまは私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださいます。ペンテコステ、聖霊を受けて、神さまに感謝して歩みましょう。神さまはいつも私たちと共にいてくださいます。


(2024年5月19日平安教会朝礼拝・ペンテコステ礼拝式)


2024年5月17日金曜日

5月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「広がりゆく神の国」

 「広がりゆく神の国」

聖書箇所 ヨハネ7章32-39節。155/412。

日時場所 2024年5月12日平安教会朝礼拝・母の日礼拝

わたしは岡山教会で伝道師・副牧師をしたあと、新潟県の三条教会という教会に赴任しました。三条教会は現住陪餐会員20名くらいの教会でした。礼拝出席15名くらいの教会でした。祈祷会や集会も参加者一人ということもめずらしいことではありませんでした。だれも来ないので、ヒムプレーヤーでよく一人で讃美歌の練習をしていました。

三条教会は1948年6月に創立され、今年創立76周年を迎えます。三条教会の信徒の方から聞いた話で、とても印象的な話があります。それは三条教会の創立期に、集会をもつ家が与えられた時の話です。創立期の信徒の方でとても熱心な方がおられました。集会をもつ家が与えられて、ものすごく喜ばれたそうです。その方はとてもうれしかったので、おつれあいに「礼拝や集会をもつ家が与えられたから、今度は専任の牧師さんが来てくれたらいいねえ」と言ったそうです。そのときそのおつれあいさんは「おとうさん、そんなばかなことあるわけないでしょ!。こんなところにだれが来ますか」と答えたそうです。

「あーんなこというんじゃなかった」と、その熱心な信徒さんのおつれあいが、わたしに話してくださいました。「あのときはぜったいそんなことになるわけないと思っていたけれど、おとうさんのいうとおり、牧師さんがきてくれる教会になったんだから、やっぱりおとうさんが正しかったんですね」。わたしはこの話を聞きながら、「ああ、こういう信徒の方々のあつい願いや祈りによって、教会が立っているんだなあ」と思いました。この熱心な信徒さんのおつれあいは、わたしが赴任した時にはとても熱心な信徒さんでした。でもそのときはおつれあいが言われた「礼拝や集会をもつ家が与えられたから、今度は専任の牧師さんが来てくれたらいいねえ」という言葉が、まったくばかばかしい言葉に聞こえたわけです。「ありえない!」と思ったのです。

教会の創立期であり、たぶん集っている人たちも数人であったのでしょう。たしかに「おとうさん、そんなばかなことあるわけないでしょ!」と言うのも無理のないことだったと思います。三条市はそんなに大きな街でもないですし、仏教の強いところです。そんなに簡単に教会に集う人々が増えていくとも思えない。冷静に考えれば「ありえない」と考える方がまともな考え方だと思います。しかしこの人の冷静な判断が誤りで、おつれあいの夢のような話が正しかったわけです。「そんなばかなことあるわけないでしょ!」と思えることが実現していくというのが信仰のなせる業です。

今日の聖書の箇所は「下役たち、イエスの逮捕に向かう」という表題のついた聖書の箇所です。今日は教会暦で「キリストの昇天」、イエスさまが十字架につかれよみがえられたあと、天に帰っていかれたということを記念する日です。マルコによる福音書16章19-20節にはこうあります。新約聖書の98頁です。「天に上げられる」という表題がついています。【主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕】。イエスさまは天に帰られ、そして来週はペンテコステを迎えて、イエスさまの代わりに聖霊が私たちのところに来てくださるということになります。

ヨハネによる福音書7章32-34節にはこうあります。【ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」】。

イエスさまは祭司長たちとファリサイ派の人々の企てによって捕えられ、十字架につけられ、そして殺されます。イエスさまはそのことを知っておられました。祭司長たちの側からみれば、イエスさまの十字架の出来事は、自分たちに歯向かった犯罪人であるイエスが裁きを受けるということでした。「犯罪人イエスが十字架につけられる。ざまあみろ」という出来事でした。しかしイエスさまは神さまの側からみたイエスさまの十字架の出来事について淡々と語っておられます。【「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」】。イエスさまにとっては十字架につけられるということは、ご自分をお遣わしになった神さまのところに帰っていくということでした。

ヨハネによる福音書7章35-36節にはこうあります。【すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」】。

祭司長たちやファリサイ派の人々がイエスさまを捕えようとしています。それでイエスさまはどこかに行ってしまおうとしているのではないかと、ユダヤ人たちは考えました。どこかに逃げていくのではないか。このガリラヤ湖畔から逃げ出して、遠く遠く離散しているユダヤ人のところまで、イエスは逃げていくのではないか。そのようにユダヤ人たちは考えました。

ヨハネによる福音書7章37-39節にはこうあります。【祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである】。

イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と人々を招かれました。そして「わたしを信じる者は、聖霊を受ける」と言われました。イエスさまが十字架につけられ、よみがえられ、天に帰って行かれたあとに、イエスさまを信じる者たちは聖霊を受けて、そしてイエスさまのことを宣べ伝えることになります。

ユダヤ人たちは【「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」】と言いました。これは嘲りの言葉です。「イエスはいなくなると言うけれども、どこか遠くに逃げて行くのか」。そのような嘲りの言葉です。そして「イエスはいなくなると言うけれども、ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところにでも行って、ユダヤ人ではなくギリシャ人に教えるのか。アーハハハハハ」という言葉です。

このときユダヤ人たちは「そんなばかなことあるわけないでしょ!」「ありえない!」と言って笑っているわけです。しかし奇妙なことにキリスト教の歴史というのはこのユダヤ人たちの嘲りが実現したという歴史であるわけです。のちにこのユダヤ人たちは「『そんなばかなことあるわけないでしょ!』『ありえない!』と自分たちは言ってたけど、あのとき自分たちが言っていたことが正しかったんだなあ」と思うことになるわけです。

イエスさまが十字架につけられ、よみがえられ、天に召されたあと、聖霊が弟子たちにくだり、弟子たちはイエスさまのことを宣べ伝えます。使徒パウロは【ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教える】のです。テサロニケの教会、フィリピの教会、コリントの教会などなど、使徒パウロは手紙を書いて、その手紙が私たちの聖書の中に記されています。ギリシャからローマへそして世界中に教会が建っていくことになります。

イエスさまは弟子たちに「『種を蒔く人』のたとえ」という話をしておられます。マルコによる福音書4章1−9節に記されてあります。新約聖書の66頁です。【イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた】。

このたとえは、マルコによる福音書4章13節以下に「『種を蒔く人』のたとえの説明」というところで説明がされていて、ちょっとややこしいのですが、もともとは「神さまの御言葉は御言葉自体に力があるから、どんどんどんどん広がって行くんだ」という意味のたとえです。【ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった】というところが大切なのです。

讃美歌21の412番には「昔主イェスの」という讃美歌があります。【昔主イェスの蒔きたまいし、いとも小さきいのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、樹とはなりぬ】。この「『種を蒔く人』のたとえ」からつくられた讃美歌です。

【種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった】】。私たちにとって大切なのは、この御言葉の力を信じるということです。神さまの御言葉には力があり、そして神さまの国は広がって行くんだということを信じるということです。そして広がり行く神さまの国を信じて、私たちは御言葉の種を蒔き続けるのです。御言葉を隣人に、友人に届けて行くのです。

私たちの周りにはまだイエスさまの言葉を知らない人たちがたくさんいます。イエスさまの言葉は、私たちを励まし、私たちを支えてくださいます。私たちは御言葉によって支えられ、そして生かされています。この言葉を待っている人たちがいます。私たちはイエス・キリストの命の言葉に支えられ、そして命の言葉を伝えていきましょう。



(2024年5月12日平安教会朝礼拝・母の日礼拝)


2024年5月9日木曜日

5月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「大丈夫。わたしがいるから」

「大丈夫。わたしがいるから」

聖書箇所 ヨハネ16:25-33。57/459。

日時場所 2024年5月5日平安教会朝礼拝式

岩倉図書館にいくと、『死にたいけどトッポッキは食べたい』という本が、おすすめの本棚にあったので借りてきました。【韓国の大ベストセラーエッセイ『死にたいけどトッポッキは食べたい』。世界中で爆発的な人気を誇る、韓国のヒップホップアイドルグループ「BTS」(防弾少年団)のメンバーで、読書家としても知られる「RM(ナム)」の部屋の枕元にも置いてあったとファンの間で話題になっている作品】だそうです。

【なんとなく気持ちが沈み、自己嫌悪に陥る。ぼんやりと、もう死んでしまいたいと思いつつ、一方でお腹がすいてトッポッキが食べたいなと思う…。気分変調症(軽度のうつが長く続く状態)を抱える女性が、精神科医とのカウンセリングを通して、自分自身を見つめ直した12週間のエッセイ。韓国で200冊限定の自費出版から異例の大ヒット、若い世代を中心に40万部を超えるベストセラーに! 人間関係や自分自身に対する不安や不満を抱え、繊細な自分自身に苦しんだ経験のある、すべての人に寄り添う一冊です。】。

韓国は日本以上に競争の激しい社会です。少子化が日本以上に進み、若者がなかなかしんどい社会であると言われます。競争が激しいので、やる気のある元気な人は良いですけれども、そうした競争に付いていけない人たちにとっては、「なんとなく気持ちが沈み、自己嫌悪に陥る」ということがあるだろうなあと思います。気分変調性障害というのは、「軽度のうつが長く続く状態」ということだそうです。死にたいと思っていても、また一方で「トッポッキは食べたい」ということですから、周りの人から見れば、なんかわがままにも思え、そうした周りの人たちの視線が苦しいというようなこともあるのだろうと思います。

【特に問題があるわけでもないのに、どうしてこんなに虚しいのだろう】(P.8)。【今日という日が、完璧な一日とまではいかなくても、大丈夫といえる一日になると信じること。一日中憂鬱でも、小さなことで一度くらいは笑うことができるのが、生きることだと信じること】(P.11)。なかなか切ない状態だなあと思えます。

今日の聖書の箇所は、「イエスは既に勝っている」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまが十字架につけられる前に、弟子たちに大切なことを伝えるという設定の聖書の箇所の一部です。このあと、ヨハネによる福音書17章1節以下は「イエスの祈り」。そしてヨハネによる福音書18章1節以下は「裏切られ、逮捕される」という聖書の箇所となります。

ヨハネによる福音書16章25ー28節にはこうあります。【「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」】。

たとえというのは、よくわかる場合もありますが、なんか聞いていてわかったようなわからないようなときというのがあります。イエスさまはよくたとえ話をされました。イエスさまがたとえ話をされたときはよくわかったけれど、年月がたって状況とかが変化してくると、たとえが意味をなさないようなことになる場合があります。またイエスさまのお弟子さんの時代になると、イエスさまのはなされたたとえ話は、いろいろな場所で聞かれるようになってきます。そうするとこの場所ではよくわからないというようなことが出てきます。たとえば雪の降らないところの人に、「雪のように白い」とたとえても、よくわからないというようなことが出てくるわけです。

イエスさまは弟子たちにたとえではなく、直接はっきりと神さまのことについて弟子たちに知らせると言われます。まあ直接はっきりと知らせることができるのであれば、それが良いのです。それだけ神さまと弟子たちとの間が、密接な関係になるということです。イエスさまはわたしはあなたたちのところを去って、神さまのところに帰っていくから、わたしをとおしてではなく、直接あなたたちが神さまにお願いをすれば良いようにしてあげると、弟子たちに言われました。あなたたちがわたしの名によって、神さまに直接お願いをするのだと、イエスさまは言われました。あなたたちはわたしを愛し、わたしが神さまのところからやってきたことを信じている。だから神さまもあなたたちのことを愛しておられる。わたしがいなくなっても、大丈夫だと、イエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書16章29−30節にはこうあります。【弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」】。

イエスさまが言われたことについて、弟子たちが応えるという形式になっています。イエスさまの言われたことをなぞっているような感じですから、読んでいて、ちょっとしらじらしいような感じを受けます。それはまあ、信仰告白ような形で弟子たちが応えているという形式があるので、そのように感じるわけです。イエスさまがすべてのことを知っておられること、そして神さまのところから来られた方であることを、弟子たちは信じると応えるのです。

ヨハネによる福音書16章31−3節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」】。

弟子たちがイエスさまに応えたのに対して、今度はイエスさまが弟子たちに応えます。イエスさまは弟子たちが「今、分かりました」と信仰を告白していることに対して、「今ようやく、信じるようになったのか」と応えられます。まあイエスさまからすれば、もうちょっと早くわかってほしかったよねということがあるのでしょうが、まあ私たちの側からすると、そんなに簡単に信じられるものでもないのです。いろいろと私たちには考えることがあるのです。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたあと、イエスさまを捨てて逃げてしまいます。そして自分の家に帰ってしまいます。イエスさまは一人でユダヤの指導者たちによって裁判を受け、そして十字架への道を歩まれます。それはとても孤独なことのように思えます。信頼していた弟子たちから裏切られ、周りの人々からは蔑まれ、ののしられながら、イエスさまは十字架につけられます。とても耐えられるようなことのように思えないわけですが、しかしイエスさまは「わたしはひとりではない」と言われます。どんなに孤独に思える時も、神さまが私たちと共にいてくださるのだと、イエスさまは言われます。そしてどうしてこんな話をするのかと言うと、弟子たちもまた迫害にあい、イエスさまと同じようなことを経験するからです。「あなたがたには世で苦難がある」とイエスさまはいわれます。「しかし、勇気を出しなさい」。そうした苦難はわたしがあなたたちの前に経験した苦難なのだ。人から見れば、それはとても孤独で絶望に思えることであるけれども、しかしそうではない。どんなときも、神さまが私たちと共にいてくださる。神さまは私たちの見方なのだ。わたしは既に世に勝っているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

イエスさまと弟子との関係は、どちかと言えば、イエスさまが「わたしについてきなさい」と言われ、弟子が「はい、ついていきます」という感じでついていき、いろいろなことがあるけれども、いけいけどんどんで歩んでいくというような感じです。ですから「ちょっとメンタルやられて、もうちょっとだめです」というような話はあまり出てきません。

使徒パウロは体の調子が悪かったというようなことを、ガラテヤの信徒への手紙4章13−14節に書いています。新約聖書の347頁です。【知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。】。使徒パウロが体の調子が悪かったのを、ガラテヤの教会の人たちがパウロを大切にしてくれたことによって、ガラテヤの教会はできました。使徒パウロは「ちょっとメンタルやられて、もうちょっとだめです」というような経験をしているのですが、でも全体としては使徒パウロはいろいろなところに果敢に伝道旅行に出かける人ですから、まあ強い人なのだと思います。

エパフロディトという人は、使徒パウロが獄中生活を送っている時に、フィリピの教会の人たちから使徒パウロのお世話をするために送りだされたのですが、途中でちょっとしんどくなって、フィリピに帰りたいと思います。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙で、エパフロディトのことを書いています。新約聖書の364頁です。フィリピの信徒への手紙2章25ー28節にはこうあります。【ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。】。

人生いろいろなことが起こります。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたとき、イエスさまを裏切り、逃げてしまいます。そのあとイエスさまはよみがえられて、弟子たちに会いに来てくださいます。そしてイエスさまはそのあと天に帰られます。そのあと弟子たちは聖霊を受けて、イエスさまのことを力強く宣べ伝えていきます。そしていろいろなところに、教会ができていきます。というのは、まあキリスト教の歴史の流れであるわけです。

そうした全体的な流れのなかでは、イエスさまの弟子たちがとても不安になってやる気もなくなったというようなことは感じられないわけです。しかし実際問題、やはりいろいろなことがあっただろうと思います。イエスさまが天に帰られ、弟子たちのところに聖霊が降るというよなところまでは、気が張っているので、元気そうにみえたかも知れないですが、しかしイエスさまがおられなくなくなったあとの喪失感というのは、あとからじわーっと弟子たちに重くのしかかってくるということがあったのではないかと思います。

大切な人を失ったあとの喪失感というのは、あとからじわーっときいてくるということがあるわけです。「ああ、イエスさま、もうおられないんだ」。イエスさまの弟子たちはユダヤ人、韓国人ではないですから、『死にたいけどトッポッキは食べたい』とは思わないでしょうけれども、『死にたいけどデーツは食べたい』というような気持ちになる弟子たちもあっただろうと思います。

不安になったり、さみしいと思えるときもあったことだと思います。しかし弟子たちはイエスさまが自分たちに示してくださった愛を思い起こしつつ、イエスさまの御言葉を信じて歩みました。だれしも一人に思える時があるだろう。わたしにも自分がひとりぼっちに思えるような時があった。あなたたちが去っていき、さみしい思いで一杯になった時もあった。【あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る】。そういうときがあっただろう。【しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ】。

弟子たちも去り、一人孤独でユダヤ人たちからの裁判を受け、人々からののしられていたときも、わたしは一人ではなかった。神さまが共にいてくださり、わたしを守ってくださっていた。そのようにイエスさまは言われました。

わたしと共にいてくださった神さまは、あなたと共にいてくださる。だから勇気を出しなさい。勇気をもって、歩み始めてみてほしい。イエスさまは少し疲れた私たちを招いておられます。無理せず、ゆっくりと歩み始めてみましょう。神さまは私たちを守り導いてくださり、私たちに必要なものを備えてくださいます。





(2024年5月5日平安教会朝礼拝式)


8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...