2024年7月10日水曜日

7月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさま、す・て・き」

 「イエスさま、す・て・き」

聖書箇所 ヨハネ5:19-36。226/280。

日時場所 2024年7月7日平安教会朝礼拝式


夢のなかで、自分がいやなことをしてしまい、夢から覚めて、「ああ、夢でよかった」というふうに思うことがあります。殺人事件を起こすとか、そういうことではないのですが、「倫理的にどうよ」というようなことをしてしまい、どうなるんだろうと思っていると、夢から覚めるというような感じでしょうか。まあ詳細を覚えているということではないのですが、とにかくなんか良くないことをしてしまい、「ああ、夢でよかった」と思うのです。しかし夢のなかとはいえ、自分のなかの良くないことが、まざまざと現れるということですから、なんとなく意気消沈してしまいます。良き人として生きられない自分に出会うということです。イエスさまを信じ、イエスさまに従って歩もうと思いつつも、しかしイエスさまの御心に反したことをしてしまう。そうしたどうしようもない自分がいるからこそ、イエスさまのことがとてもすてきな方だと思えるのでしょう。自分はどうしようもない弱さを抱えているけれども、イエスさまがわたしを導き、守っていてくださる。わたしの弱さやこころの醜さを知っておられるのだけれど、それでもわたしのことを愛し、励ましてくださる方がおられる。わたしにはすてきな方がついてくださっている。そのように思いながら、自分なりの歩みをしていきます。

今日の聖書の箇所は「御子の権威」という表題のついた聖書の箇所と、「イエスについての証し」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ヨハネによる福音書5章19−23節にはこうあります。【そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。】。

ヨハネによる福音書は、イエスさまが神さまの御子であることを、私たちに伝えています。そして今日の箇所は、イエスさまと神さまとの関係がどのようなものであるのかということを伝えています。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」とありますように、イエスさまは神さまの御心にしたがって歩んでおられるということです。自分勝手に好きなことをしているのではないということです。そしてイエスさまは神さまと同じように、悔い改める者に永遠の命を与えられます。神さまは律法による裁きを求められるのではなく、イエスさまにすべてのことを任せられます。

ヨハネによる福音書5章24−27節にはこうあります。【はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである】。

イエスさまの御言葉を信じて、神さまのことを信じる人は、永遠の命を得ることができる。でもイエスさまのことを知らないで死んでしまった人はどうなるのということがあります。イエスさまが生まれる前に生きていた人はどうなの。イエスさまが活動しておられた地域から遠く離れていて、イエスさまのことを知ることができなかった人たちはどうなの。というように、いろいろな疑問があるわけです。しかしそうした細かな疑問に対して、イエスさまは「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る」と言われます。イエスさまの力はとても大きなものだから、たとえ死んだ人であったとしても、イエスさまが良きようにしてくださるのだと言うわけです。神さまがイエスさまに力を与えてくださっているのだから、安心しなさいと言うわけです。

ヨハネによる福音書5章28−30節にはこうあります。【驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」】。

「時が来ると」というのは、世の終わり・終末のときということです。世の終わり・終末の時に、善を行なっていた人はよみがえり永遠の命を受ける。そして悪を行なっていた人はよみがえり、そして裁きを受ける。イエスさまは神さまの御心に従って、裁きを行われる。すべてのことにおいて、イエスさまは神さまの御心に従って行われるということです。

ヨハネによる福音書5章31-36節にはこうあります。【「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。】

イエスさまは自分のことを自分で誇るようなことはされないと言われます。神さまがわたしのことを証してくださると、イエスさまは言われます。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを迫り、そしてヨルダン川で洗礼を授けます。洗礼者ヨハネは、燃えて輝くともし火のように、世を照らし、世の不正や不正義を明らかにしました。世の指導者たちは貧しい人々のことを顧みようとはしませんでした。洗礼者ヨハネは指導者たちを糾弾しました。その姿をみて、世の人々は喜びました。しかし洗礼者ヨハネはヘロデ王によって殺されます。そのあと神さまは洗礼者ヨハネとは違った形で、イエスさまを世に遣わされます。イエスさまは世の罪を取り除く神の子羊として、私たちの世に来られます。そしてイエスさまは私たちの罪のために十字架につけられます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」とは、イエスさまの十字架ということです。イエスさまは十字架は、世の人々を救うために、神さまが用意された出来事でした。

イエスさまは神さまの御子として、神さまの御心に従って歩まれる。神さまの御心に従って、私たちの罪のための十字架についてくださり、私たちを救ってくださる。イエスさまは自分のことを誇ることなく、謙虚に神さまに従って歩まれる。ヨハネによる福音書は、今日の聖書の箇所でそのように、イエスさまのことを記しています。

フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という表題のついた聖書の箇所があります。フィリピの信徒への手紙は、イエスさまのお弟子さんのパウロが書いた手紙です。この「キリストを模範とせよ」という箇所には、初代のクリスチャンたちが、イエス・キリストはこんな人だったと言い表している信仰告白が使われています。フィリピの信徒への手紙2章6ー11節の御言葉です。新約聖書の363頁です。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。】。

イエスさまは神さまの御子でありながら、僕の身分となり、私たちの世にきてくださいました。そしてへりくだり、謙虚に歩まれました。そして私たちの罪のために十字架についてくださいました。イエスさまは神さまから託された業を行われ、そして高ぶることなく謙虚に歩まれます。

イエスさまは本当にすてきな方だと思います。「イエスさま、す・て・き」。初期のクリスチャンたちもまた、そのような思いをもって、イエスさまに付き従っていったのだと思います。すてきな方が、私たちを導いておられます。神の御子が私たちのところにきてくださり、私たちと共に歩んでくださいます。その恵みに感謝をして、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。



  

(2024年7月7日平安教会朝礼拝式)


2024年7月1日月曜日

6月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまの言葉に希望を置く」

 「イエスさまの言葉に希望を置く」

聖書箇所 ヨハネ4:43-54。211/361。

日時場所 2024年6月30日平安教会朝礼拝式


毎月第一、第三土曜日の午前10時半から、「おっとり学ぶキリスト教」という会をもっています。あまり堅苦しい会でなく、率直に来ておられる方々が、率直に話し合うことができれば良いなあと思っています。いま感じていることなどをお話しくださる方もおられ、「ああ、キリスト教について、そんなふうに思っておられるのだなあ」ということがわかります。

「神さまがおられるのに、どうして世の中には悲しい出来事が起こるのですか」。世界ではいろいろな戦争が行われて、罪のない子どもたちが殺されるというような出来事が起こります。どうしてこんなことが起こるのかということが、私たちの世界では起こるわけです。「それはこういう理由です」と答えられるということでもありませんが、私たちもまた「神さまどうしてですか」との思いをもちつつ、神さまに「御国がきますように」と祈りながら、教会生活を送っています。

いまNHKの朝の連続テレビ小説で「虎に翼」というのをやっています。主人公のモデルは、日本で初めて女性として弁護士になった三淵嘉子(みぶち・よしこ)です。いまドラマは、戦後、家庭裁判所がつくられ、三淵嘉子がそこで働いているところです。戦後、日本国憲法は施行(しこう)されています。ドラマの中ではなんども日本国憲法第14条が出てきます。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地(もんち)により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。しかしそのような世の中になっているかと言えば、そうではないわけです。ましてドラマは戦後、まだ間もない時ですから、世の中は混乱し、だれからも世話をされない戦争孤児たちがあふれています。

日本国憲法第14条に書かれてあるような社会であるわけはありません。いろいろなところで差別が行われていたりします。しかしそれでも戦後、日本国憲法が施行されたとき、多くの人々はそのような社会ではないけれども、そのような社会になってほしい、そのような社会を作っていくのだという思いをもって、戦後の苦しい時期を歩んだのです。

清永聡(きよなが・さとし)『家庭裁判所物語』(日本評論社)には、家庭裁判所の父と言われる宇田川潤四郎について書かれてあります。糟谷忠男(かすたに・ただお)という新任の裁判官がいました。どのようにすれば良いのかわからないので、いろいろと先輩に聞いていました。糟谷は、宇田川潤四郎を訪ねて、「少年審判の心得とは何か」と直接質問したそうです。

【糟谷は新任判事補の研修で、宇田川と面識があった。「家庭裁判所の父」として名高い宇田川であれば、役立つテクニックを教えてくれるのではないか。そう考えたのだ。訪ねてきた若い裁判官の質問に、宇田川は大きくうなづくと、こう言った。「ぼくはね、祈るんだ」。予想外の言葉であった。「少年事件をやる時は、審判を受ける少年に祈るんだ。そして拝むんだ。どうか、立派になってくれ。立ち直ってくれと」。宇田川は糟谷の顔の近くまで来ると、おもむろに彼の手を取り、両手で胸の前へと持ち上げ、ぐっと握った。「審判が終われば、こうやって握手をするんだ。いいかい、ここにいる人たちはみんな君の味方だ。君の未来を、一生懸命考えているんだ。どうか、どうか、これから頑張るんだよ。そう言うんだ。 オレ、頑張ろう・・・・・。六〇年あまり前のこの日の思いを語る時、糟谷は今も、涙で言葉を詰まらせる】(P.118)清永聡『家庭裁判所物語』、日本評論社)。

今日の聖書の箇所は「役人の息子をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書4章43−45節にはこうあります。【二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。】。

イエスさまはサマリアの町で、サマリアの人たちに神さまのことを宣べ伝えていました。サマリアの女性がサマリア人たちに、イエスさまのことを紹介したのでした。そのあと、イエスさまはサマリアの町をたって、故郷のガリラヤに帰られます。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」というのは、まあそうしたこともあるでしょう。小さい時からその人のことを知っているわけです。「赤ちゃんのときに抱っこしてあげた」というような人たちがたくさんいるわけです。「故郷の誉れ」というようなことはあるにしても、「敬う」というのとはまた違った感覚があるということもあると思います。しかしイエスさまはガリラヤの人たちが歓迎を受けました。イエスさまがエルサレムで「神殿から商人を追い出す」というようなことをしていたのを、彼らも見ていたので、「なんかイエスさま、すごいなあ」という雰囲気があったのだと思います。「神殿から商人を追い出す」という話は、ヨハネによる福音書2章13節以下に書かれてあります。新約聖書の166頁です。

ヨハネによる福音書4章46−50節にはこうあります。【イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。】。

イエスさまはガリラヤのカナに行かれます。イエスさまが結婚式に水をぶどう酒に代えるという奇跡を行われた町です。ヨハネによる福音書2章1節以下に「カナでの婚礼」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の165頁です。

カファルナウムに住んでいる王の役人の息子が重い病気にかかり、死にそうになっていました。この役人はイエスさまがカナに来られたということを知り、イエスさまにカファルナウムに来ていただいて、息子の病気を治してもらおうと思い、イエスさまにお願いをします。イエスさまは役人に「あなたがたはしるしや不思議な業を見なければ、わたしのことを信じないだろう」と言われました。まあ言葉としてはちょっといじわるな言葉です。しかし役員はそうしたイエスさまの言葉に反応することなく、とにかく自分の子どもが生きているうちいやしにきてくださいと、ただただイエスさまにお願いをします。するとイエスさまは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とだけ、役人に言われます。役人はそのイエスさまの言葉を信じて、家に帰りました。

ヨハネによる福音書4章51−54節にはこうあります。【ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。】。

役人は家に帰る途中、僕たちに出会い、息子が元気になってきたことを知らされます。役人は息子がいつ元気になったのかを僕たちに尋ねます。僕たちは「昨日の午後1時に熱が下りました」と答え、それはイエスさまが役人に「あなたの息子は生きる」と言われた時間だということに、役人は気づきました。そして役人も、役人の家族もイエスさまのことを信じるようになりました。

この物語で印象的なのは、役人が「あなたの息子は生きる」と言ったイエスさまの言葉を信じたということです。「そんなことを言われても信じることができません。どうかイエスさま、カファルナウムまできてくださり、わたしの息子をいやしてください」というふうにお願いするのが、まあふつうのことだと思うわけですが、しかし役人はただイエスさまの言葉を信じるのです。

ヨハネによる福音書では、同じように「見ないで信じる」ことの大切さが記されている聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書20章34節以下に「イエスとトマス」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の210頁です。イエスさまは復活されて、トマス以外の弟子たちに合うのですが、トマスは自分だけがあっていなかったので、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言います。イエスさまはトマスのところにもやってきてくださいます。そしてイエスさまはトマスに言われます。ヨハネによる福音書20章27−29節にはこうあります。【それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】。

イエスさまの時代の人たちも、イエスさまをなかなか信じることができずにいた人々も多かったと思います。しかしそれでも、イエスさまの言葉を信じて、私たちの世が神さまの御心にそった世の中になりますようにと祈りつつ歩んでいきました。なかなか信じることはできないけれども、しかしイエスさまの言葉を信じて生きていきたい。そのような思いが、今日の聖書の箇所にも現れているように思います。

役人はただ「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というイエスさまの御言葉を信じて、そしてカファルナウムの家に帰っていきます。イエスさまの言葉を信じよう。イエスさまが必ず、息子をいやしてくださる。

その姿は、日本の戦後、日本国憲法第14条を掲げて、歩み始めた人々と似ていると、わたしは思います。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。いまそのような社会でないことは重々承知だけれども、いつの日かそのような社会になってほしい。いつかそのような社会になるはずだ。

いつの日か、神さまの御心が実現する。アメリカの公民権運動の指導者でありました、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、その思いを、I have a dream that one day.「わたしには夢がある」という言葉で言い表わしました。1963年8月28日の「ワシントン大行進」のときの演説です。「私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である」。「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」。

キング牧師、「いつの日か」と言います。「いつの日か」ですから、それはいま叶っているということではないのです。しかしキング牧師は、演説の終わりを、「ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝する。われわれはつい に自由になったのだ!」という言葉で終わります。いま叶っているわけではないけれども、神さまがおられるのだから、それは必ず実現するなのだと言う信仰です。

そして祈るのです。神さま、私たちはあなたにより頼んで生きていきます。どんなことがあったとしても、神さま、あなたが私たちに良きものを備えてくださり、私たちを導いてくださることを信じています。神さま、私たちはあなたの御言葉を信じて歩みます。どうかあなたの国が来ますように。私たちをあなたの愛で満たしてください。

神さまが私たちを守り導いてくださいます。安心して歩んでいきましょう。




  

(2024年6月30日平安教会朝礼拝式)


6月23日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「神さまがもたらしてくださる豊かな実り」

 「神さまがもたらしてくださる豊かな実り」

聖書箇所 ヨハネ4章27-42節。197/566。

日時場所 2024年6月23日平安教会朝礼拝


翻訳という仕事は一風変わった仕事です。翻訳家の鴻巣友季子さんは『全身翻訳家』(ちくま文庫)という本の中で、翻訳家という職業についてこんなふうに書いています。

【役者(俳優のことです)は数々の他人の人生を生きる。それに倣っていえば、訳者(翻訳家のことです)は他者のことばを生きる。そんなことを今さらながらしみじみと思う。この夏で、翻訳の仕事を始めてから丸二十年が経った。・・・。以前、自分が翻訳に費やした時間を計算してみたら、六万時間ほどになった。六万時間、他人として生きてきたのかと思うと、おかしくなった。「きみはこれまでどんな仕事をしてきた?」「三十年間、翻訳をやってきたよ」「なるほど、三十年間、何もしてこなかったということだな」たしか、ルネサンスの哲人たちのこんな会話があった。わたしも「わたし」としては、ほとんど何もしてこなかったわけだ】(P.218)。

小説を書きながら翻訳をしているとか、大学で教えながら翻訳をしているとか、何かしながらという人も多いのでしょうけれど、自分の作品を書くというのではなく、他人の作品を訳すというのは、楽しそうではありますが、やはり地味な感じがします。たんに本を読むのとは違って翻訳は時間もかかるでしょう。でもよく考えてみると、わたしはこの翻訳家の人たちのお世話になっていると思います。わたしは日本語以外の言語を読むことができませんから、なおさらです。聖書やキリスト教の知識などもほとんど翻訳してくれた人たちによってもたらされたものです。そもそも聖書自体が、日本語の聖書です。

翻訳する人はその言語を読むことができるわけですから、その人自身にとっては、その本は翻訳される必要はない本です。にもかかわらず翻訳をするというのは、それは自分以外の人のためにしてくれているわけです。もちろん仕事であるわけですから、それで食べているということはあるわけですが、でもやはり「この本を多くの人々に知ってもらいたい」という強い思いがあるからできるのでしょう。翻訳家という人の存在を思うとき、【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】というイエスさまの言葉は、わたしにとってはほんとにそうだなあと思います。

今日の聖書の箇所は「イエスとサマリアの女」という表題のついている箇所の一部です。先週の礼拝も「イエスとサマリアの女」の話でした。いろいろな事情のあるサマリアの女性に、イエスさまが「水を飲ませてください」と話しかけたのでした。そしてサマリアの女性はイエスさまこそ、自分の魂の渇きをいやしてくださる方であることに気がつきました。イエスさまは永遠の命に至る水をくださる方であるからです。

そして今日の箇所になるわけです。ヨハネによる福音書4章27−30節にはこうあります。【ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た】。

イエスさまとサマリアの女性が話しておられたのは、弟子たちが食べ物を買うために町に行っている間のことでした。イエスさまとサマリアの女性が話をしておられるのに、弟子たちはすこしびっくりします。イエスさまが女性と二人で話をしておられるということにも、すこし驚いたでしょう。そして相手がユダヤ人とけんかをしているサマリア人であるということにも驚いただろうと思います。弟子たちはどうしたものかよくわからなかったので、あえてイエスさまに聞いてみるということをしませんでした。

サマリアの女性は町に行って、自分がすばらしい人に出会ったことを、町の人々に告げ知らせます。【水がめをそこに置いたまま】ということですから、急いで町に行ったのでしょう。自分がすばらしい人に出会ったということを、町の人々に知らせたくて知らせたくてたまらなかったのだと思います。サマリアの女は正午頃に井戸に水をくみにいく人であったわけですから、たぶん町の人々からはあまりよく思われていなかっただろうと思います。またサマリアの女性も町の人たちのことをよく思っていなかっただろうと思います。そんな関係であったわけですが、でもイエスさまのことは知らせずにはいられなかった。すばらしい人がいたということを、町の人々に知らせずにはいられなかったのです。サマリアの女性はイエスさまのことを町の人々に伝道します。サマリアの女性が町の人にイエスさまのことを伝えたのです。

ヨハネによる福音書4章31−38節にはこうあります。【その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」】。

サマリアの女性が伝道をしている間に、弟子たちはイエスさまから「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」という話を聞きました。【「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである】ということですから、イエスさまの食べ物とは神さまのことを宣べ伝えるということなのでしょう。【目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている】ということですから、神さまのことを信じる人々がどんどんと出てくるということでしょう。でも弟子たちはそのことに気づいていません。弟子たちは【『刈り入れまでまだ四か月もある』】と思っています。でも実際には種を蒔いてくれている人がいて、どんどんと成長しているのです。【あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした】ということですから、弟子たちは福音の種まきをしていないけれど、でも刈り入れるために弟子たちはイエスさまによって招かれているのです。

『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』とイエスさまは言われるわけですが、ではだれが種を蒔いているのでしょうか。今日の聖書の箇所の場合は、サマリアの女性であるわけです。サマリアの女性は町の人々のところにイエスさまのことを伝えに行っています。サマリアの女性はサマリアの町の人々からあまりよく思われていないにも関わらず、彼らのところにイエスさまのことを知らせに行っています。

ヨハネによる福音書4章39−42節にはこうあります。【さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」】。

多くのサマリア人はサマリアの女性の言葉によって、イエスさまのことを信じました。サマリアの女性がイエスさまのことをサマリアの町の人々に伝えたのです。そして弟子たちはその実りに預かることになりました。サマリア人たちはでももう少し、いろいろな話をイエスさまから聞きたかったのでしょう、イエスさまにもう少し自分たちのところに留まってほしいと願いました。イエスさまは二日間サマリアに滞在されました。そのことによって更に多くの人々が、イエスさまの言葉を信じることになりました。そしてサマリアの人々ははっきりと自分で、イエスさまが本当に世の救い主であるということがわかりました。そしてそのようにサマリアの女性に言いました。

イエスさまの弟子たちではなく、サマリアの女性がサマリアの町の人々に、イエスさまのことを宣べ伝えました。『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』。そして弟子たちは労苦しなかったものを刈り入れることになります。

イエスさまは【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】と言われました。私たちの世の中というのは、そうした面があるということを、やはり心にとめておかなければならないと思います。【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】。人の労苦の実りを、自分の労苦の実りとしてかすめ取っていく人々がいます。そしてそうしたことこそが、この世にあって頭のいい人のすることであるかのような雰囲気を作り出していく社会のあり方があります。どれだけ自分が能力があるのかということをアピールして、他の人々がした労苦の実りさえも自分の労苦の実りであるかのように強弁して、自分をアピールしていく。そうしたことがスマートな生き方であるかのように思わせる社会のあり方があります。わたしはそうした社会のあり方は、なんかとてもいびつな気がします。

イエスさまは【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】と言われました。私たちの社会はいろいろな人たちの労苦でなりたっています。それはおもてに見えない場合が多いですし、だれがしてくださっているのかもよくわからないというようなこともあります。ですから私たちは自分たちがだれかの支えによって助けられているということに感謝をもって生きていきます。そして自分もまたときに労苦し、たとえその労苦の実りが、自分に対してもたらされることがなかったとしても、そのことを受け入れます。支えたり、支えられたりして、私たちの社会はなりたっています。

サマリア人がサマリアの女性に言った言葉は、ある意味ではすこし釈然としない言葉です。【「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです】。なんとなくサマリアの女性に対して、とげのある言葉のように思えます。サマリアの女性がイエスさまのことを伝えることによって、多くのサマリア人がイエスさまを信じることができたのです。ですからサマリア人はサマリアの女性に「ありがとう。あなたのおかげでイエスさまにお会いすることができた」と言ってあげてほしいと思います。【「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」】という言葉は、なんとなくこころない言葉のように思えます。サマリアの女性の労苦によって、サマリア人たちはその労苦の実りにあずかっているということを認めてほしいと、わたしは思います。

しかしこの【「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです】という言葉は、すこし別の側面のある言葉なのです。それはこの言葉が「信じる」ということに関しての言葉だからです。この言葉はサマリア人がサマリアの女性に言った言葉ということだけでなく、「信仰とはこういうものだ」ということを言い表している言葉です。信仰とはたんにだれかから聞いて信じたということではなく、その人の個人のなかで「確かにこの方が本当に世の救い主だ」と心の底から感じることができたということが大切なのだということです。なんとなく誘われたからとか、なんとなくこの人に勧められて、ということではなく、その人自身が心底「信じる」ということでなければだめなのだということです。

サマリアの女性にとっては少し気の毒なことかも知れませんが、結局は、「だれがどうした」ということを越えて、「感謝は神さまに帰す」というところがあるのです。イエスさまは弟子たちに「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。弟子たち、私たちには「知りえない」ことがあるのです。ある意味、私たちの世の中には秘密が隠されているのです。私たちが知りえないことがたくさんあるのです。「だれがどうした」か、わからないことがたくさんあるのです。ですから私たちはだれかわからないので、「だれがどうした」ということを越えて、「感謝は神さまに帰す」のです。そして神さまの前に、【種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ】という世界へと導かれていきます。【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】のですが、そのことを受けとめた上で、【種を蒔く人も刈る人も、共に喜】び、神さまに感謝して生きていきます。

私たちは豊かな実りをもたらしてくださる神さまを信じて歩んでいます。私たちの神さまは必ず、私たちに良きものを用意してくださるということを、私たちは信じています。そして私たちは神さまのために働きます。

【目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている】。私たちの世の中にはイエスさまの御言葉を待っている人たちがおられます。イエスさまの御言葉を必要としている人たちがおられます。サマリアの女性のように、また私たちのように、心の渇きを覚えて、永遠の命に至る水を必要としている人たちがおられます。ですから私たちはそのことのために働きます。わたしが刈り入れたいとか、わたしが種を蒔いたのにということではなくて、【種を蒔く人も刈る人も、共に喜】び、私たちは神さまのために働きます。

私たちは自分だけで生きているのではありません。いろいろな人々のお世話になって、私たちは生きています。神さまは私たちに命を与えて生かしてくださり、また他の人々にも私たちと同じ命を与えて生かしてくださっています。私たちは自分だけで生きているのではなく、神さまによって共に生かされています。そして神さまがもたらしてくださる豊かな実りによって、私たちは生かされています。私たちは、神さまの前には小さな者です。私たちは神さまによって造られた者にすぎません。しかし神さまから愛され、神さまがもたらしてくださる豊かな実りに預かって生かされています。その意味では私たちは一人一人尊い存在です。

私たちは神さまから愛されている尊い一人一人です。ですから【種を蒔く人も刈る人も、共に喜】び、豊かな歩みをしていきたいと思います。



(2024年6月23日平安教会朝礼拝)

2024年6月16日日曜日

6月16日平安教会礼拝説教要旨(小笠原純牧師)「決して渇かない世界がある」

「決して渇かない世界がある」

聖書箇所 ヨハネ4:5-26。120/521。

日時場所 2024年6月16日平安教会朝礼拝式

  

詩人の中原中也は「生い立ちの歌 Ⅰ」において、自分が若い時のことを区切りをつけて、雪にたとえて歌っています。

生い立ちの歌

   Ⅰ

幼 年 時

私の上に降る雪は

真綿(まわた)のようでありました

少 年 時

私の上に降る雪は

霙(みぞれ)のようでありました

十七〜十九

私の上に降る雪は

霰(あられ)のように散りました

二十〜二十二

私の上に降る雪は

雹(ひょう)であるかと思われた

二十三

私の上に降る雪は

ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

二十四

私の上に降る雪は

いとしめやかになりました……


幼年期は、私の上に降る雪は、真綿のようで心地よかったわけですが、そのうち、少年期、17−19歳と年を重ねていくうちに、みぞれやあられ、雹や吹雪となってくるわけですが、しかし24歳では、「私の上に降る雪は、いとしめやかになりました」というように、穏やかになります。


そして、生い立ちの歌Ⅱに続きます。

   Ⅱ

私の上に降る雪は

花びらのように降ってきます

薪(たきぎ)の燃える音もして

凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は

いとなよびかになつかしく

手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は

熱い額(ひたい)に落ちもくる

涙のようでありました

私の上に降る雪に

いとねんごろに感謝して、神様に

長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は

いと貞潔(ていけつ)でありました


若い頃は中原中也もいろいろなことがあり、激しい生活を送ることになりますが、しかし良き出会いがあり、すこしおだやかな気持ちになることができたのだと思います。「私の上に降る雪に いとねんごろに感謝して、神様に 長生(ながいき)したいと祈りました」。中原中也は30歳で天に召されていますから、長生きをしたわけではありませんが、私たちのこころを打つ詩をたくさん残してくれました。

今日の聖書の箇所に出てくる女性も、いろいろとつらい気持ちを抱えながら生きていました。その女性がイエスさまに出あいます。今日の聖書の箇所は「イエスとサマリアの女」という表題のついている聖書の箇所です。

ヨハネによる福音書4章5−9節にはこうあります。【それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである】。

サマリアの女性がイエスさまと出会ったのは、正午ごろのことでした。サマリアの女性はお昼に水をくみにきました。ふつうは水をくみにくるのは朝であったりするわけです。しかしサマリアの女性はあまり人と会いたくないので、人がいないときに水をくみにきていたのです。あとのイエスさまとの会話のなかにも出てきますが、サマリアの女性は男女関係のことで、あまりよく言われていなかったのだと思います。

イエスさまはサマリアの女性に水を飲ませてほしいと頼みます。イエスさまはユダヤ人です。ユダヤ人とサマリア人は仲が良いわけではありませんでした。ユダヤ人はサマリア人のことを差別していました。それでサマリアの女性は、「なんでわざわざあなたたちが嫌っているサマリア人の女性であるわたしに水をのませてくれと頼んだりするのか」と言うわけです。

ヨハネによる福音書4章10ー12節にはこうあります。【イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」】。

イエスさまはサマリアの女性に、「あなたがわたしのことをどういう人か知っていたら、あなたのほうから、命の水を飲ませてくださいと言っただろう」と言われました。サマリアの女性は、イエスさまがちょっともったいぶった、わけのわからないことを言うので、ちょっと戸惑います。サマリアの女性は、「あなたは水を飲ませるといっても、水をくむ物をもっていないじゃないですか。井戸はとっても深いのですよ。どうやって、その生きた水を手に入れることができるのですか。あなたはもったいぶって自分のことを偉い人のようにほのめかすけれども、私たちの先祖のヤコブよりも偉いのですか。この井戸はヤコブが私たちのために用意してくださった井戸なのです」と言いました。

ヨハネによる福音書4章13−15節にはこうあります。【イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」】。

イエスさまはわたしがあなたに与える水は、飲む者が決して渇くことがない水だと、サマリアの女性に言いました。わたしが与える水はその人の中で泉となり、永遠の命に至る水なのだと、イエスさまは言われます。サマリアの女性はイエスさまが言われることが、いまひとつよくわかりません。何度も何度もここにくみにくることのないように、その水をわたしにくださいと、サマリアの女性は言いました。井戸に水をくみにくることは、サマリアの女性にとってとても大変な労力であるとともに、いろいろな人からの不快な出来事を経験するかも知れないことでした。できればそうした不快な出来事を経験することなく生きていきたいと、サマリアの女性は思っていたことだと思います。

ヨハネによる福音書4章16−20節にはこうあります。【イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」】。

イエスさまもまたサマリアの女性があまりふれてほしくないことを話し出されます。サマリアの女性は五人の夫がいました。そして今連れ添っている人もいました。まあ現代であれば、だれがだれと付き合っていようといまいと、「余計なお世話よ」と言えば良いわけですけれども、イエスさまの時代はそういうわけでもありません。いろいろな事情があるにしても、サマリアの女性はあまりふれてほしくないことだっただろうと思います。しかし初対面であるのに、イエスさまはサマリアの女性のことについてよく知っているので、サマリアの女性はイエスさまのことを預言者だと思います。

ヨハネによる福音書4章21−26節にはこうあります。【イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」】。

イエスさまはサマリアの女性に「わたしを信じなさい」と言われました。そしていまはサマリア人はゲリジムさんというこの山で神さまを礼拝し、ユダヤ人はエルサレムで神さまを礼拝している。そして互いに憎みあったり、傷つけあったりしている。しかしそうしたことを越えて、聖霊によって真理によって、神さまを礼拝するときがくると、イエスさまは言われました。そのことを聞いて、サマリアの女性は「わたしはキリストと呼ばれるメシアが、やがて私たちのところにきてくださり、私たちを救ってくださることを知っています」と言います。そしてイエスさまは「あなたと話をしているこのわたしがキリストと呼ばれるメシアなのだ」と言われました。

サマリアの女性は、五人の夫とおつれあいとのことで、周りの人々からいろいろと言われたり、冷たくあしらわれるというようなことがあったのだろうと思います。そのため人々がいないときを見計らって、昼に水をくみにきていました。彼女は渇いていたのだと思います。どのような状態が渇いた状態なのかというのは、なかなか説明がしにくいのです。わたしは個人的に、サマリアの女性と知り合いであるというわけでもないわけです。しかしサマリアの女性は、イエスさまに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と応えた言葉には切実なものがあります。辞書によりますと、「渇く」とは「満たされぬ気持ちがいらだたしいほど高まる。心から強く欲しがる」とあります。サマリアの女性はもういやになっていたのです。

中原中也の「生い立ちの歌」のように、みぞれが・あられが・ひょうが・ひどいふぶきが、サマリアの女性のうえに吹いているような気持ちを、彼女は抱えていたあろうと思います。

私の上に降る雪は

霙(みぞれ)のようでありました

私の上に降る雪は

霰(あられ)のように散りました

私の上に降る雪は

雹(ひょう)であるかと思われた

私の上に降る雪は

ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

そして、そんなときに、サマリアの女性は、イエスさまと出会います。サマリアの女性は自分の渇きをいやしてくれる人と出会ったのでした。そして決して渇かない世界があることを、サマリアの女性は知ったのです。

イエスさまは私たちも、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言ってくださっています。

私たちもときに何もかもいやになって、自分だけの世界に閉じこもりたいような気になることがあります。サマリアの女性のように、だれからも離れて、ひとりになりたいと思うときがあります。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言いたい時があります。

毎日、いろいろなニュースがテレビやインターネットなどで流れていきます。高齢者が詐欺の被害にあったりします。どうしてこんな人が詐欺の片棒を担いで、逮捕されるのだろうというような若者がいたりします。悪質なホストによって、若い女性が風俗店に売られていくというようなことがあったりします。ロマンス詐欺が殺人事件に発展したというような事件が起こります。検察による違法捜査によって逮捕され、のちに冤罪事件であることがわかったりします。労働組合に対する弾圧が行われるというようなことあったりします。外国人に対するヘイト事件が起こったりします。なんとなく、ニュースを聞きながら、つらい気持ちになり、私たちの住んでいる世界はとても渇いた世界のような気がして、かなしい気持ちになります。

しかしイエスさまは私たちに決して渇かない世界があると教えてくださっています。わたしにつながっていなさい。わたしがあなたたちに、永遠の命に至る水を与えてあげる。わたしの水を飲む者は、決して渇くことがない。

イエスさまは私たちを招き、渇いた世界に生きるのではなく、わたしの愛に満ちた世界に生きなさいと招いてくださっています。

私たちに命の水を与えてくださる方がおられます。私たちはイエス・キリストにつながって、よりよい歩みをしていきたいと思います。





(2024年6月16日平安教会朝礼拝式)

2024年6月13日木曜日

6月9日平安教会礼拝説教要旨(仲程愛美牧師)「いのちに仕える」

「いのちに仕える」 仲程愛美牧師

マタイによる福音書 6:25-34節

昨年、スペイン語に由来する「ケセラセラ」がタイトルになった曲が流行しました。歌詞を見ると単純な応援ソングとは言い切れず、息詰まりそうな人生でも「なるようになる」からと、もがきながら歩んでいく姿が感じられます。

人間にはそれぞれ、悩みや心配事は尽きません。どうにもこうにもならないことは、運や天に任せて手放すしかない。先人たちは、思い煩いを抱える人間の有り様をこのように考えるに至ったのです。

イエスさまの時代も同じようなことが起こっていたようです。何を食べようか。何を飲もうか。何を着ようか…そのような人々に向けてイエスさまはこう語りかけます。

「空の鳥、野の花々に目を向けてごらん。鳥も花もあくせくせず、ただその日その日を生きている。しかしそうした鳥も花々もちゃんと神に養ってもらっているではないか。あなたたちは鳥や花以上に、神が思いを込めて創造された人ではないのかい?なぜ鳥や花も悩んでいないようなことで心配し、自分が生きるために何をしようかと悩むんだ?生きるために必要なことはすべて神が知っておられる。だから人が思い悩むことはない。悩みや心配事を神に任せなさい。」

人が悩むのは生きている証拠とも言えます。知識や経験があるからこそ、分析し物事を予測して不安になるのです。人間だからこそ悩む。その私たちに「思い悩むな」というのですから、イエスさまの発言は楽観的すぎる?あるいは無責任?と感じるかもしれません。けれどもこうした悩み尽きぬ私たちに、イエスさまは神という存在がいることを語り、人生を委ねてみてはどうかと言うのです。そして「委ねる」の先にある私たちにできることを提示しています。

「まず神の国と義を求めよ」と。これらを言い換えるならば、それらは命を思うこと、命に仕えることだと思います。神の国が実現する時、神の義が守られる時は、その存在が何よりも大切だとされる時間、空間だからです。

命を取り巻く事柄を心配するなと語ったイエスが示す先にあったのは、いのちに仕えること。いのちに向き合うことでした。結局、同じことを言っているようにも思えますが、明日のことを思い悩む姿は、つまり自分のことで余裕がなくなり身動きが取れなくなっている状態を表しています。そうした状態から解放され、神に委ねる歩みへとイエスさまは招いています。自分だけでなくすべての「いのち・存在」に仕える、豊かな生き方へと導かれていきましょう。


2024年6月6日木曜日

6月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「新しく生き直そうよ」

「新しく生き直そうよ」

聖書箇所 ヨハネ3:1-15。340/575。

日時場所 2024年6月2日平安教会朝礼拝式


5月は、同志社高校の礼拝で説教をしたり、同志社女子中高の礼拝で説教をしたり、同志社大学チャペルアワーで説教をしたり、中学生、高校生、大学生の前で説教をするということがよくありました。普通に生活をしていますと、そんなに多くの中高生や大学生に接するということがありませんから、自分が年をとっているということを意識することはあまりありません。中高や大学の中を歩いていると、この人たちから見るとわたしは「おじいさん」なのだなあと思いました。そのようにわたしも少し気が引ける年頃になりましたので、自分が自分がというよりは、すこしここは若い人にお任せしてという気持ちをもたなければならないなあと思うようになりました。

評論家のレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』を読みました。本の題を初めてみた時、「おお、説教をしたがる男たち」ということなので、わたしのような牧師の話なのかと思いました。まあ確かに牧師さんは説教をするのが好きだなあと思います。「説教とお説教は、にぎりとおにぎりくらい違う」と言われますので、「お説教」にならないように注意をしないければならないと言われます。この『説教したがる男たち』の「説教」というのは、いわゆる、男の人は若い女性などをみると、自分の知識を教えたがるというようなことです。

レベッカ・ソルニットが、パーティーに参加したときの話です。その家の主人が帰ろうとしているレベッカ・ソルニットと彼女の友だちのサリーに話しかけてきます。【「いやいや、もう少しゆっくりしていきなさい。まだ君たちとは碌に話していないじゃないか」。威圧的な感じの、大金持ちの男だった」。・・・。「君は二冊ほど本を出しているそうだが」「ええと、あと何冊かはあるんですが」「で、何について書いているの?」。・・・。その表情にはすごく既視感があった。はるか彼方までおよぶ自分の権威、そのぼんやりと霞む地平線をじっと見つめながら蕩々と長話をする男の、自己満足しきった表情。・・・。ミスター・インポータント氏が私が当然知っているべき件(くだん)の本について自慢げに語っていると、サリーが「それ、彼女の本ですけど」と割って入った。というか、とにかく男を黙らせようとした。だが彼は聞いちゃいなかった。「だからそれ、彼女の本ですって」とサリーが三、四度繰り返したところで、ようやく彼は理解した。そして十九世紀小説の登場人物か何かのように青ざめた。・・・。彼はショックで口も利けないほどだった】(P.8-10)。

この男性は若い女性に説教をしたいわけです。そして自分の知識を語ったわけですが、でもレベッカ・ソルニットはその分野の専門家です。そしてこの男性は、彼女の本に書いてあることを彼女に教えてあげるということをしてしまうのでした。

この話を読みながら、「ああ、でもこういうことって、わたしにもあるなあ」と思わされました。自分の娘などに対して、いろいろと教えてあげるつもりで話をしているわけですが、あとからよく考えてみると、わたしの知識などもう娘はすでによく知っているのかも知れないなあと思うようになりました。たとえば、アメリカのコロンビア大学でイスラエルによるガザ地区への攻撃に抗議するでもの参加者が300人逮捕されるという事件がありました。するとわたしは娘に知識をひけらかしたいという気持ちになるわけです。そして「昔、『いちご白書』という映画があって、デモの舞台は同じくコロンビア大学だった」というような知識を語りたくなるわけです。でもまあ、そうしたことはわたしが語らなくても、もうすでに娘は知っているだろうと思います。

世の若い人たちはやさしいですから、「そんなこと知ってるよ」というようなことは言うことなく、黙って聞いてくださるとは思いますが、あまりご迷惑をおかけするのもいけないかなあと思うようになりました。とは言うものの、わたしも知識や年齢を重ねて来たわけですから、新しく生まれ変わるということは、なかなかむつかしいですので、どうしたものかなあと思います。

今日の聖書の箇所は、イエスさまから「あなた、新しく生まれ変わったほうが良いよ」と言われた人の話です。ヨハネによる福音書3章1−4節にはこうあります。【さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」】。

ファリサイ派のニコデモはユダヤの議員でした。イエスさまのところに、ある夜、訪ねてきます。夜訪ねてくるというのは、隠れて訪ねてきているということです。昼間にイエスさまのところを訪ねていくと、「ニコデモが、イエスのところを訪ねた」というような噂が広まって、立場が悪くなるかもしれないからです。それで夜、こそこそと訪ねているわけです。それでもやはりニコデモはイエスさまと話したくてたまらなかったのだと思います。まあユダヤの議員であるわけですから、そんな政治的な危険を冒してまで、イエスさまのところに行く必要はないわけです。しかしそうした政治的な危険を冒しても、やはりイエスさまと話がしたかったのです。

ニコデモは一生懸命に、イエスさまのことをユダヤ教のすばらしい教師であると語ります。「あなたは神さまのところから来られたとしか思えない」とまで言うわけです。そのように語るニコデモに、イエスさまは「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。でもニコデモは年を重ね、ファリサイ派のユダヤの議員になっているわけです。いまさら「新たに生まれなければ」と言われても、「はい、そうします」とは言えないのです。まあ年を取るということはそういうことで、いままでに積み重ねてきたものを、そうそうぱっと投げ出してしまうというわけにもいきません。それでちょっと極端な話をニコデモはするわけです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」。すこし前のドラマで「ブラッシュアップライフ」というのがありました。赤ちゃんから2周目の人生を始めるというヒューマンコメディーのドラマでした。また赤ちゃんから始めるというのも、またそれは大変です。

ヨハネによる福音書3章5−8節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」】。

ニコデモは一般的な意味で、「新しく生まれる」「生き方を変える」「人生やり直す」というような意味で、イエスさまの言葉を受け取り、「そんな、年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。しかしイエスさまは、一般的な意味ではなく、永遠のいのちの問題として、新しく生まれるということを語っておられます。

イエスさまは「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。「水と霊によって」というのは、洗礼を受けて、そして神さまの霊によって生きるということでなければ、神の国に入ることはできないということです。洗礼を受けて、神さまからの祝福を受けて、永遠の命に連なる者として生きるということです。それは洗礼を受けることによって、神さまがそのようにしてくださるのだということです。私たちは肉体をもった肉から生まれた者です。肉から生まれた者ですから、当然、限界をもっていきています。私たちはずっと生きるのではなく、必ず死を迎えます。しかし洗礼を受けて、神さまに連なって生きる時に、神さまは私たちを祝福してくださり、私たちを霊から生まれた者としてくださるということです。

そしてイエスさまは、水と霊とによって新しくうまれた者は、自由だと言われます。風のように自由なのです。何かに縛られているのではなく、自由に、自分の感じるままに歩んでいくことができるのです。「こうしたらだめだろうか」「ああしたら、みんなから非難を受けるだろうか」。そうしたことにとらわれることなく、自由に歩んでいくことができるのです。

ファリサイ派の議員であるニコデモからすると、風のように自由に、聖霊のように自由に歩むということは、とても信じられないことです。ユダヤの社会は律法というものがあり、それを守らなければならないということがありました。何かの事情で律法を守ることができなければ、多くの人々から非難されるというようなことがありました。イエスさまは安息日に違反していると、いつもファリサイ派の人々や律法学者たちから非難を受けていたのです。

私たちはいま日本である程度の自由のある生活をしています。アジア太平洋戦争前のように、女性に参政権がないという時代に生きているわけでもありません。女性は裁判官になれないというわけでもありません。しかしイエスさまの時代のユダヤの社会は、私たちの社会には考えられないほど、自由に生きることを妨げるものがありました。

ヨハネによる福音書3章9-15節にはこうあります。【するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。】。

イエスさまは、水と霊によって新しく生まれる者は、神さまの祝福を受けて、自由に生き生きと生きていくことができると言われます。しかしニコデモはそうしたイエスさまが言われる生き方が、どうも理解できません。「どうして、そんなことがありえましょうか」というのです。

イエスさまは「どうもよくわからない」と言うニコデモに対して、それでも働きかけます。あなたは私のことを神さまのもとから来た教師であると言ったではないか。いままでわたしがいろいろなところで話したことや、行なった癒しや奇跡を見てきただろう。わたしを信じなさい。「できない」「わからない」と言っているのではなく、【天から降って来た者】であるわたしを信じなさい。「ただ神さまのもとから来たわたしを信じなさい」。そうすればわたしによって、あなたは永遠の命をえる者になることができる。そのように、イエスさまは言われました。

イエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と言われました。私たちクリスチャンは洗礼を受け、新たに生まれた者として生きています。まあ、そのわりにはイエスさまが言われるように、自由に生き生きと生きていないのではないのかというようにも思えます。昔ながらのしきたりにとらわれて、霊から生まれた者として生きていないのではないかと思えます。

新たに生まれた者として生きるということは、神さまを中心にして生きていくということです。神さまを中心にして生きていくときに、私たちは自由に生きることができます。人間のことばかりを考え、自分のことばかりを考えて生きていくと、自由に生きていくことができません。

私たちクリスチャンは、洗礼を受け、新しく生まれた者として生きています。ですからやはり、神さまを求めつつ歩んでいきたいと思います。神さまから罪赦され、神さまから祝福を受けている者として、永遠のいのちに連なる者として、勇気をもって歩んでいきたいと思います。聖霊に導かれて、軽やかに生きていきたいと思います。

神さまが私たちを愛し、導いてくださっています。神さまを信じて、すこやかに、そして軽やかに歩んでいきましょう。



  

(2024年6月2日平安教会朝礼拝式)


2024年5月31日金曜日

5月26日平安教会礼拝説教要旨(山﨑道子牧師)「名を呼ぶ神」

2024年5月26日(日)平安教会礼拝メッセージ

「名を呼ぶ神」 山﨑道子(豊中教会)


キリスト教の教えの中で、一番大事で一番分かりにくいのが復活です。なんせ死んだ人間が生き返るなんて非現実的なことをそう簡単に信じられるはずもありません。イエスの時代にも、復活を否定していたサドカイ派というグループがありました。そのサドカイ派の人々が、聖書のある掟を逆手に取り、復活についてイエスに意地悪な質問をしてきました。 「7人兄弟の長男が妻を迎えたが跡継ぎを残さないで死んだので、次男が掟に従ってその女性を妻にしたが、その次男も亡くなった。そうやって7人兄弟が次々この女性を妻としたが、皆跡継ぎがないまま死に、最後はこの女性も死んでしまった。この場合、全員が復活したときにこの女性は誰の妻になるのか。」

 私にはこの箇所を読む度に思い出すおじさんがいます。彼はある日突然教会に来て、「若い頃から血の気が多く、アルコール中毒となった挙句に親兄弟から縁を切られ、一時はホームレスだった。今はお酒をきっぱりやめたが、最近病気が見つかった。礼拝に出るのは恐れ多いが、自分のような人間は死んだらどうなるのか気になってここに来た」と言い、当時牧師になりたてだった私を大変困惑させました。

その後、2か月に一度程のペースで彼と平日に話をしました。話題の半分くらいはタイガースでしたが、この不思議な面談が1年半程続いた後、彼は禁酒サポートで世話になっていた聖公会の教会で受洗することになったのです。その年のクリスマスの朝、駅前の喫茶店で一緒にモーニングを食べていた際、自分など救われるはずがないと頑なだったそのおじさんが、「洗礼を受けると決めた瞬間から、心がとても楽になり安心できるようになった」と何とも晴れ晴れしい笑顔で言ったのです。

 復活の命とは、死んだ後に頂くものではありません。私たちは神に名を呼ばれ、神と出会うことによって、すでにもう復活の命を生き始めているのです。神は今も生きて私たちと共におられ、たとえ私が死んでも神は私の名を記憶し続け、永遠に存在し続けてくださるのです。その意味で、わたしたちは限りあるいのちを持つ生き物であるにも関わらず、神と共に永遠に生きる命を与えられているのです。それは、神が今もアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、あなたの父母の神であり、あなた自身の神であると自己紹介してくださっているようなものです。恐れ多いことではありますが、そう呼ばれるに少しでも値する人間でありたいと思います。


8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...