2025年3月20日木曜日

3月9日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「良い物をくださる神さま」

「良い物をくださる神さま」

聖書箇所 マタイ7:7-12。470/493

日時場所 2025年3月9日平安教会朝礼拝式・きてみてれいはい


3月4日に灰の水曜日を迎え、レント・受難節に入りました。レント・受難節は、イエスさまの御苦しみを覚えて過ごすときです。私たちの罪のために、イエスさまが十字架についてくださったことを覚えて過ごしたいと思います。

今日は、「きてみて・れいはい」です。この日はとくにわかりやすい、親しみやすい話をすることにしています。

今日は一つの詩をみんなに紹介します。小曽根俊子(おぞね・としこ)さんの「花」という詩です。小曽根俊子さんは生れてまもなく高い熱がでて、それがもとで体とことばが不自由になりました。小曽根俊子さんは詩を作るのが好きだったので、いろいろな詩を書きました。その一つが「花」という詩です。


さあ涙をふいて

あなたが花になりなさい

あなたの花を咲かせなさい

探しても探しても

あなたの望む花がないなら

自分がそれにおなりなさい


さあ涙をふいて

あなたが花におなりなさい

あなたの花を咲かせなさい

探しても探しても

あなたの望む花がないなら

自分がそれにおなりなさい


   上田紀行『覚醒のネットワーク』(カタツムリ社)(P.50)より。


悲しいこととか、くやしいこととか、ときどきないですか。

どうして夫はわたしの気持ちをわかってくれないのだろう。どうして父はぼくの気持ちをわかってくれないんだろうとか。どうしておねえちゃんは大きい方のケーキをとったんだろうとか。どうしておとうとはけんかをしたときうそ泣きをして、それでおねえちゃんのわたしが怒られなければならないんだろうとか。

小曽根俊子さんは体が不自由だったので、なかなか自分のことが思い通りになりませんでした。だからね、たぶんとっても悔しい思いをしたり、涙が出ることもあったんだろうなあと思います。でもね。小曽根さんはやっぱり「涙をふこう」と思いました。「さあ涙をふいて」、わたしの花を咲かそうと思いました。

人のことを悪く言ったり、人が自分のことをわかってくれないということに腹を立ててばかりいるのではなく、わたしが人のことを愛してあげて、人のことをわかってあげられるやさしい人になろう。


さあ涙をふいて

あなたが花におなりなさい

あなたの花を咲かせなさい

探しても探しても

あなたの望む花がないなら

自分がそれにおなりなさい


イエスさまは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。それは「あなたたちには神さまがついているから、大丈夫だよ」ということです。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われました。それは「私たちの神さまは私たちに良いものを必ずくださるから、大丈夫だよ」ということです。そしてイエスさまは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われました。「あなたにはやさしい気持ちがあるから、それを大切にしなさい。大丈夫だよ」ということです。

わたしは人生において、やさしさというのは、とても大切なことだと思っています。沖縄には「フクギ」という木がよく植えられているそうです。2月に沖縄に行きましたが、たしかにフクギという木が街路樹などでよく植えられていました。沖縄ではフクギが、その名前のとおり、「この木は福をもたらす」とされてきました。精神科医の中井久夫さんはこ沖縄の「フクギ」についてこんなことを書いています。【フクギは何の役にも立たない木だそうである。とりたてて美しい樹でもない。果実は役に立つどころか、熟して落ちると醜く潰れて悪臭を放つ。だが、ここでは、フクギの名のとおり、この木は福をもたらすと言いならわされてきたという。「子どもの時分には屋敷のまわりにはフクギがあったものです」と案内の人は語った】(P.15)。【役に立たないどころか悪臭を放つ実を降らせるフクギの、いわば存在自体を肯定して、福をもたらすとするのが沖縄の心ばえである。おそらく無用にみえるももの存在を肯定すること自体が福をもたらすのであろう】(P.18)【樹をみつめて】(みすず書房)。

私たち人間は自分たちに利益をもたらすかどうかという判断で、よく植物や生き物をみます。わたしもおいしい実がなる木が好きです。こどものときの家に柿とかいちじくとか夏みかん、なつめ、ざくろなどなど、おいしい実がなる木があったので、とても重宝しました。

しかし私たちはすべての面において、経済効率だけで生きているわけではありません。家で犬を飼っておられる方などもおられると思いますが、別に「お遣いに行ってくれる」ということのために、犬を飼っているわけでもありません。最近は番犬として飼っているわけでもないので、まあ家の中で飼っている場合が多いような気がします。頭がいいから飼っているというわけでもありません。「言うこときかない、ばかな犬なのよ」とか言いながら、でもとてもその犬を愛しておられたりします。経済効率だけがすべてではないわけです。役に立つか役に立たないかだけでなく、その存在を受け入れるというあたたかさが世の中にはなくてはならないわけです。そうしたやさしさを忘れないということが、とても大切なことです。

「人間が人生の最後に願うこと」って、みなさんはどういうことだと思いますか。こんなふうにいう人がいます。児童精神科医の佐々木正美という方がおられました。よく子育ての本などを書いておられました。『子どもへのまなざし』(福音館書店)が有名です。佐々木正美さんはこんなことを言っておられます。【人間が人生の最後に願うことは、もっと勉強をしておけばとか、もっと働いておけばとか、もっとおかねをためておけばよかったとかいうことではなくて、信頼できる家族に見守られていたいということだ】(P205)(佐々木正美『佐々木正美の子育てトーク』、エイデル研究所、1429+税円)。わたしはまあ絶対に家族でなければならないということではないと思います。ただ信頼できるだれかに見守れてることができれば、いいのではないかと思います。【人間が人生の最後に願うことは、もっと勉強をしておけばとか、もっと働いておけばとか、もっとおかねをためておけばよかったとかいうことではなくて、信頼できる誰かに見守られていたいということだ】。

わたしを、そしてみなさんをいつも愛し、見守ってくださっている方がおられます。神さまはいつも私たちを見守ってくださり、私たちに良きものを備えてくださいます。

【「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」】。

イエスさまは私たちに、「神さまはあなたたちのことが大好きだから安心して、悲しいことやつらいことがあっても、勇気を出しなさい」と言われました。神さまはいつも私たちと一緒にいてくださって、私たちを守ってくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。


(2025年3月9日平安教会朝礼拝式・きてみてれいはい)




3月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまに強く願う」

「イエスさまに強く願う」

聖書箇所 マタイ14:22-36。566/528。3/5、灰の水曜日

日時場所 2025年3月2日平安教会朝礼拝式      


京都教区の沖縄現地研修で、2/17から2/20にかけて沖縄を訪れました。わたしはいま京都教区「合同」問題特設委員会の委員長をしています。この委員会が二年に一度、沖縄現地研修を行なっています。激しい沖縄戦が行われた沖縄県南部の戦争の跡を訪ねました。一日目は、平和祈念館、平和の礎、アブチラガマ、ひめゆり平和祈念資料館などを訪れました。二日目は、嘉数高台(かかずこうだい)(上陸後米軍を待ち受けて足止めした激戦地)、沖縄国際大学ヘリ墜落跡、嘉手納道の駅(基地を見る展望台)、読谷・チビチリガマを訪れました。そして3日目は新基地が造られようとしている辺野古を訪ねました。

昔、関東教区の沖縄現地研修に、わたしは参加しました。もう30年ほど前のことになります。しかし当時と同じように沖縄には米軍基地がたくさんあり、そして辺野古には新たな基地が建設をされようとしています。沖縄県はやはり戦争反対ということについては、私たちよりもとても熱心な思いをもっておられます。二度と戦争はしたくない。それはやはり地上戦が行われて、実際にご家族が戦争で亡くなった人たちがとても多いからでしょう。平和を求めて祈ることの大切さを改めて思わされました。

今日の聖書の箇所は「湖の上を歩く」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書14章22−24節にはこうあります。【それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。】。

イエスさま弟子たちを舟にのせて、ガリラヤ湖の向こう岸に行かせます。そして群衆を解散させて、ひとり山に登られました。一人になられて心を静め、神さまに祈っておられたのではないかと思います。山というのは神さまと出会う場所であるわけです。しかしその間に、舟に乗っている弟子たちは大変なことになっていました。逆風が吹いて、なかなか思いどおりに舟を動かすことができませんでした。

マタイによる福音書14章25−29節にはこうあります。【夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。】。

「夜が明けるころ」というわけですから、弟子たちも湖のうえで、ずっと漂っているのは、とても大変だったと思います。イエスさまは湖の上を歩いて、弟子たちのところに行かれます。「湖の上を歩いて」というのは、そんなことできるのだろうかと、私たちは思いますが、それはやはり弟子たちもそのように思ったわけです。イエスさまが海の上を歩いて来られたのをみて、弟子たちは「幽霊だ」と言って脅えます。その様子をみて、イエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。使徒ペトロは、「ほんとうにイエスさまであるのであれば、わたしに命令をして、水の上を歩いて、イエスさまのところに行かせてください」と言いました。そんなことでイエスさまであることが証明されるのかと、まあ不思議な気もいたします。湖の上を歩くことができる幽霊が、その力を使って他の人を歩かせることもできるような気もします。でもまあそうしたことがたいせつなのではないのです。イエスさまがペトロに命令をされるということが大切なのだと思います。ペトロはイエスさまから「来なさい」と言われ、舟から降りて湖の上を歩き始めます。

マタイによる福音書14章30−33節にはこうあります。【しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。】。

イエスさまだと信じて湖の上を歩きはじめてペトロでしたが、強い風が吹いてくると、怖くなります。そしてペトロは湖の中に沈んでしまいそうになりました。。そのときペトロは「主よ、助けてください」と、イエスさまに助けを求めます。するとすぐにイエスさまは手を伸ばしてくださり、ペトロを助けてくださいました。イエスさまは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます。そのあとイエスさまとペトロは舟に乗ります。すると風も静まり、波も穏やかになります。舟の中にいた人たちは「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスさまを拝みます。

マタイによる福音書14章34−36節にはこうあります。【こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。】。

湖の向こう岸に渡ったあと、人々はイエスさまのことを聞いて、イエスさまのところに病気の人たちを連れてきます。そしてイエスさまにいやしてもらいます。「その服のすそにでも触れさせてほしいと願った」という言葉に、その切実さと、イエスさまに対する信頼を見てとることができます。人々はイエスさまのことを信じて、イエスさまのところに集まってきていました。

今日の聖書の箇所の「湖の上を歩く」という聖書の箇所は、初期のキリスト教の状況を表わしている聖書の箇所です。イエスさまが天に帰られ、人々は目の前にイエスさまがいないというなか、イエスさまを信じて歩んでいくことになります。それは私たちと同じであるわけです。イエスさまの直接の弟子たちは、イエスさまと一緒にいるわけですが、それにしても、いつもいつもイエスさまがいるわけでもありません。イエスさまはお祈りに行かれたりするわけです。どんな人も、いろんな時代に、人間ですから不安な気持ちになりますし、また信じられないというような気持ちになります。それは人間ですから、仕方がないのです。初代教会の頭であり、イエスさまの一番弟子である使徒ペトロでも、不安になったり恐れたりするのです。

ペトロはイエスさまから「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。そしてペトロはイエスさまに水の上を歩きたいと願います。水の上を歩くというできそうもないことを、ペトロはイエスさまに願うのです。ペトロは不安であったと思います。できそうもないことを願っているからです。しかしイエスさまは「来なさい」と言われます。わたしをしてわたしのところに「来なさい」と、イエスさまは言われます。。そしてペトロは勇気を出して、イエスさまの招きに応えます。しかし風が強くふき、ペトロは不安になります。やっぱりだめなのではないかと思います。そして事実、ペトロは湖に沈みそうになります。「ああ、だめだ」と思えた時、イエスさまは手を差し伸べてくださり、ペトロを救ってくださいました。「ああ、だめだ」と思えるとき、イエスさまは救いの御手を差し伸べてくださる方であるのです。

人間ですから失敗することもありますし、「ああ、だめだ」とあきらめてしまいそうになることもあります。しかしだから最初から何もしないでおこうというふうになると、何も良き働きを行なうことができません。失敗するかも知れないけれども、イエスさまに強く願って始めてみるということが大切であるのです。

イエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、私たちを励まし、導いてくださっています。私たちはイエスさまに強く願い一歩を踏み出してみたいと思います。「ああ、だめだ」と思えることもあるかも知れません。そんなとき、イエスさまは私たちの手を取ってくださり、私たちを導いてくださいます。

いまは私たちの世の中は、力でものごとを解決する道を選ぶことが多くなり、正しさややさしさがないがしろにされることが多くなっています。ウクライナやパレスチナでは戦争が続き、ミヤンマーでは軍事政権が続いています。「私たちの世界が平和な世界になりますように」という私たちの祈りも、力によってかき消されてしまいような気持ちになってしまいます。しかし私たちはやはり、「平和な世界になりますように」との祈りを、イエスさまに、神さまに強く祈り続けていきたいと思います。

イエスさまはいつも私たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださっています。イエスさまの言葉を信じて、恐れることなく歩んでいきましょう。


  

(2025年3月2日平安教会朝礼拝式)


2月23日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「わたしもイエスさまにほめられたい」

「わたしもイエスさまにほめられたい」 

聖書箇所 マタイ15:21-31。466/512。

日時場所 2025年2月23日平安教会朝礼拝式


「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが、一時期、よく言われていました。いまは「誉めるだけではだめだ」というようなことも言われ、まあこう言うのは流行のようなもので、当り前ですが、程度があるわけです。でもまあ、わたしも怒られる時代に育っていますから、やっぱり「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが言える時代に育ちたかったなあと思います。

まあ昔の日本の若者はよく叱られて育ちました。意味もなく怒る大人がたくさんいたからでしょう。昔の映画監督になりますが、大島渚という人がいましたが、この人は怒ることで有名な人でした。大島渚は『戦場のメリークリスマス』(1983年)の監督をしています。この映画に音楽家の坂本龍一やお笑いタレントのビートたけしが出演しています。出演する時に彼らが大島渚に対して言ったことは、「おれたち怒られたら辞めるから」ということだったと言われています。

最近、京都教区定期総会議事録精査委員というのに選ばれて、2024年度に行なわれた京都教区定期総会の議事録を読んでいました。誤字脱字とかを探したり、意味のわからない表現になっていないかというようなことを探すわけです。京都教区定期総会のなかでいろいろなやりとりがなされているわけですが、やはり激しいやりとりもなされています。精査委員として議事録の校正をしているときに、京都教区の総会議長をしています今井牧夫議長にお会いする機会がありました。今井牧夫議長も最近、2024年度の定期総会議事録を読んでいて、「ぼく、なんでそんなに悪く言われなければならんのかなあ」「ぼく自身というより、まあ京都教区に対して言っているということなんだろうと思うけど」というような感想をもらしておられました。「まあ今井牧夫議長も一生懸命にやっておられるのだから、やっぱり誉められたいよなあ」と思いました。

今日の聖書の箇所は「カナンの女の信仰」「大勢の病人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。この聖書の箇所はマルコによる福音書7章24−30節に、同じような内容の聖書の箇所があります。

マタイによる福音書15章21−23節にはこうあります。【イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」】。

イエスさまはティルスとシドンの地方に行かれたということですから、ユダヤから離れて北の方の外国の地に行かれたということです。そこでカナンの女性に出会います。マルコによる福音書7章24節以下では「シリア・フェニキアの女の信仰」という表題がついています。新約聖書の75頁です。そしてそこでは【女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであった】と記されています。まあ女性はユダヤ人ではなく、外国人であったということです。女性の娘さんは病気にかかっていました。ですからこの女性はイエスさまに治していたいだきたいと思っています。女性は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びながら、イエスさまについてきます。あまりにうるさいので、イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまに「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と言いました。

マタイによる福音書15章24−28節にはこうあります。【イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。】。

イエスさまのように、人々の病をいやしている人が外国人にもいました。ですからイエスさまは、わたしはイスラエルの人々をいやすことにしているので、あなたはそうした人にいやしてもらったよいですよと、やんわりとことわったわけです。まあ外国にいって外国人をいやしていると、外国人のお医者さんから「イエスはおれたちのシマを荒している」というようなことをいわれてしまうかも知れません。まあそうしてことはイエスさまもできるだけさけたいわけです。それでイエスさまは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。「子供たち」というのはユダヤ人たちで、「小犬」というのは外国人ということです。まあ現代的に言えば、あんまりふさわしい例え方ではないような気もします。外国人を小犬呼ばわりするなど、まあ現代ではありえないわけです。

しかし女性はそうしたことにこだわらず、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言いました。小さいこどもは食べ物をよくこぼします。こどもが食べているのか、こどもが着ている服が食べているのかわからないというようなことがあったりします。またこどもが食べ物をたくさん落として、落としたものを小犬が食べているというようなこともあります。女性はそれに例えて、「イエスさまの立場もよくわかります。こどもが落として食べ物を小犬が食べるというようなこともあるんだから、わたしの娘は外国人でユダヤ人でないけれども、でも治してくださっても大丈夫ですよ。なにか言われたら、『あの女はつきまとってきて、うるさくてうるさくてたまらなかったから、迷惑だったけど、特別に娘を治してあげたんだよ。うるさくてしかたがないんだから、どうしようもないよ』って言ってくださったら結構ですから」と言いました。

女性があきらめることなく、一生懸命に、そしてとんちをきかせて、イエスさまに頼み続けたので、イエスさまは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。そして女性の娘の病気は、イエスさまによっていやされました。

マタイによる福音書15章29−31節にはこうあります。【イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。】。

イエスさまはカナンの女性の娘をいやされたあと、ティルスとシドンの地方から、いつも自分たちが活動をしているガリラヤ湖のほとりに帰られました。イエスさまが山に登ると、大勢の群衆がイエスさまのところにやってきます。たくさんの病気の人たちが、イエスさまにいやしていただこうと連れて来られました。足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人。たくさんの人たちをいやされるわけですから、イエスさまもお疲れになられるだろうと思います。ユダヤの人たちも大勢病気の人たちがおられるわけですから、外国人まで手が回らないということも、それはそうかもしれないと思わされるほど、たくさんの人たちが、イエスさまのところに癒やしてもらうとやってきました。そしてみんなイエスさまによって癒やされたのです。それをみた、人々は神さまを賛美しました。

カナンの女性も、ユダヤの群衆たちも、「つらい思いをしている人を助けたい」というまっとうな思いをもっていました。病気の娘をいやしてもらいたい。隣に住んでいる足の不自由な人をいやしてもらいたい。目の見えない友だちが見えるようになってほしい。体の不自由な義理の娘が、歩けるようになってほしい。貧しい生活のうえに、いろいろな病気や不自由なところをかかえて生きていくのは、それはそれは大変であるわけです。自分が病気であるわけではないけれども、「つらい思いをしている人と助けたい」。そうした思いをもっていた人たちは、イエスさまが病気の人や体の不自由な人が癒やされるのをみて、神さまを賛美したのでした。

「つらい思いをしている人を助けたい」というまっとうな思いをもっていた、カナンの女性やユダヤの群衆たちは、私たちと同じように、日常生活のなかで、誉められるというようなことはそんなになかったのではないかと思います。イエスさまの弟子たちはカナンの女性のことを、「叫びながらついてくる面倒な女」「イエスさまに追い払って欲しい女」という目で見ていました。まあ弟子たちだけでなく、いろいろな人が女性をそういう目で見ていたということだと思います。しかしイエスさまはカナンの女性をほめられました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」。

イエスさまはカナンの女性のどんなところをほめられたのかというようなことが気になるということもあるかも知れません。わたしはそれは「カナンの女性がおもしろいことをいったから」だと思いますが、ですからみなさんに「カナンの女性のように、みんなおもしろいことを言う人になりましょう」という説教をするわけにもいきません。

しかしカナンの女性がなにかしたから、イエスさまがほめられたということよりも、ただイエスさまがカナンの女性をほめてくださったということのほうに、わたしは大きな意味があると思います。イエスさまはしんどい思いをしているカナンの女性をほめてくださったように、しんどい思いをしている私たちをほめてくださる方なのです。イエスさまは小さき者たちを顧みてくださる方なのです。私たちの悩みや苦労を知っていてくださり、私たちをほめてくださる方なのです。

いまもイエスさまは一生懸命に生きておられるみなさん、ひとりひとりをほめておられます。「あなたの信仰は立派だ。安心していきなさい」。そんなイエスさまに導かれて、神さまの愛のうちを、私たちも歩んでいきたいと思います。



  

(2025年2月23日平安教会朝礼拝式)


2月16日平安教会礼拝説教(俣田浩一牧師)「ここにいますよ~イエスの神殿」

「ここにいますよ~イエスの神殿」

西陣教会 俣田浩一牧師

イエスは神殿から商人達を追い出します。でも境内で売り買いされていた牛や羊や鳩は捧げもの用でした。遠くから来る巡礼者達は、牛や羊を連れて旅する分けには行きません。身軽に旅をして、捧げ物は神殿で買うのです。また神殿では献金用のユダヤの伝統的な貨幣に交換する必要がありました。そのために両替人が境内にいたのでした。ですからこれらの商売は必要でした。イエスはそれを破壊したのでした。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。」ユダヤ人達はすぐに反応します。「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか。」それに対してイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言います。しかし建てるのに四十六年もかかった神殿を、あなたは三日で建て直すのかと、ユダヤ人達はまた不審に思います。しかしイエスが言う神殿とは御自分の体のことでした。つまり死と復活のことでした。するとなぜイエスはそれを言うために神殿にいる商人達を追い出したのでしょうか。

過越祭の「過越」はギリシア語で「パスカ」、これはあるものから別のものへと変わるという意味の言葉です。別のものに変わるということは交換が可能ということです。それはお金とも交換可能です。つまり商売です。物はお金と交換されます。価値の交換である商売を神殿でしていた。イエスはどうもそれが気に入らなかったようです。価値の交換をしてはならない、商売をしてはならない。それはなぜか。イエスにとって、神殿、父の家とは交換出来ないものを扱うところだったからです。交換できないもの、それは神から与えられたいのちです。十字架の死からの三日後の復活に顕される、神から与えられた永遠のいのち。「建て直す」という言葉は「よみがえる、復活する」と同じ言葉です。死と復活に示される私達を創られた神との根源的な関係は、何を持ってしても交換できない、かけがえのない関係なのだと。そのことを扱う場所が神殿だと。イエスはそれを言おうとした。そしてそれを行動で現したのではないかと思います。結果的にはこの行為がイエスを十字架の死へと招きました。神から与えられたいのちは何を持ってしても代えられないもので、死に勝利する復活の永遠のいのちだと、イエスは自らの命を持ってそのことを伝えたのでした。



2025年2月7日金曜日

2月9日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「すなおにおなり」

「すなおにおなり」

聖書箇所 ルカ5章1-11節。484/493

日時場所 2025年2月9日平安教会朝礼拝

今日は、「きてみて・れいはい」です。この日はとくにわかりやすい、親しみやすい話をすることにしています。

わたしの故郷は四国の愛媛県・今治市です。海の近くの町だからでしょう、教会学校のキャンプは海で行なわれていました。今治の向いの大島という島で行なわれていました。学校の運動会などで使われるようなテントを立てて、側面もちゃんとテントをはります。水もボートにのって近くの民家にもらいにいくというようなところでしたから、用意する教会学校の先生たちは大変だっただろうと思います。

高校生のときなどは、海辺のキャンプ場で、海をみつめながら、みんなでいろいろなことを話しました。人生について、愛について、教会について、などなど、こころの思いを夜遅くまで話し合い、わかちあうことができました。月の光、星が輝き、波の音。それらは高校生であるわたしのこころを素直にさせてくれました。「おれって、こんなにこころがきれいだっただろうか」と思わされます。すこしロマンチックな気分にさせられます。好きな女の子の中山(前田)さんと二人で海を見つめていると、「美穂(敦子)さん、ぼくはあなたのことが、・・・」というような気持ちにもなります。教会学校のキャンプは、そんなすてきなキャンプでした。

またひとりで夜の海をみつめるということもありました。夜、トイレに行きたくなって起きて、トイレに行くと、なんとなく目がさえてしまって、なかなか眠れそうにないとき、ひとり、夜の海を見つめていました。ひとりでみつめる夜の海は、みんなでみつめる夜の海と、また違った感じがします。暗い闇のなかでひとりみつめている海は、自分の心の深淵に通じているような気がします。「なぜぼくの心の中にはよこしまな思いがあるのだろう」「どうしてわたしは人を憎んだり、人につらくあたったりするのだろう」「どうして人の不幸を笑っているような自分がいるのだろう」。自分のこころのなかのどろどろとした感情、どうにもできないような冷たさ。キリスト教の用語では、罪ということができるかも知れません。ひとりでみつめる夜の海は、そうした自分の心の深淵をひしひしと感じさせます。

漁師であったペトロやヨハネやヤコブは、どんな思いで、いつも夜の暗い海をみつめていたのでしょうか。危険を伴う夜の海、すこし間違えばあやうく命を落としてしまうというようなことも経験したでしょう。生と死とがとなりあわせの海です。またペトロやヨハネやヤコブは、暗い夜の海をみつめながら、自分の罪やこころのなかの暗闇に出会うことがあったのではないかと思います。互いに傷つけあったり、いがみあったり、ありのままの自分を受け入れることができず、ののしりあったり。夜の海をみつめながら、自らの心の深淵を嘆くこともあったと思います。

今日の聖書の箇所は、「漁師を弟子にする」という表題がついています。この箇所はイエスさまの弟子たちの召命の物語です。

イエスさまの周りには、いつもイエスさまのお話を聞こうとしてついてくる群衆がいました。群衆たちはイエスさまのお話を聞きたくて聞きたくてしょうがなかったのです。しかしあまりの勢いですので、湖畔にたって話をすることができそうになくなったので、イエスさまは湖の上からお話をしようとさないました。そこで漁から帰ってきていたシモン・ペトロに頼んで、舟を出してもらって、舟の上に腰を下ろして、群衆たちに神さまのお話をすることになりました。

イエスさまは群衆に話し終えられたあと、シモン・ペトロに言われました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。それに対してペトロは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。ペトロは夜通し働き、それでもなんの収穫もなかったわけですから、もう今日はどんなに考えてもだめだろうと思っています。しかしイエスさまが言われるのであれば、網を降ろしてみましょうと言いました。そしてペトロたちはイエスさまの言うとおりにします。

この「イエスさまの言うとおりにする」ということが大切なわけです。私たちは人間ですから、いろんな迷いや疑いというものがあるわけですけれども、とにかくイエスさまの言われるとおりにするということが大切なわけです。そしてペトロたちは、イエスさまの言われるとおりにしました。すると網がやぶれそうになるほどのたくさんの魚がかかりました。一そうの舟ではたりそうにないので、仲間に合図をしてきてもらいます。しかしそれでも魚は二そうの舟にいっぱいになり、舟が沈みそうになるほどでした。

とれるはずのないおびただしい魚がとれた奇跡を見たシモン・ペトロはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。ペトロの漁師仲間であったヤコブやヨハネも、ペトロと同じようにイエスさまにこころを奪われてしまいす。そんなペトロたちにイエスは言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。そしてペトロたちは舟から上がり、「すべてを捨てて」イエスさまに従います。

この聖書の箇所はイエスさまの弟子たちの召命物語です。それは大切な物語ですから、ある意味でよく考えられて書かれています。イエスさまと弟子たちが出会います。そしてイエスさまは弟子たちに漁に出るように言われます。弟子たちは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエスさまの言われたことを行ないます。そしておびただしいほどの魚がとれるという奇跡が行われます。それに対して、使徒ペトロが「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とイエスさまに対する信仰告白を行います。それに対して、イエスさまが弟子たちを「あなたは人間をとる漁師になる」と招かれます。そして弟子たちはすべてを捨ててイエスさまに従います。

私たちはこの箇所を読むと、だいたい【しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう】、【彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った】というような箇所に心をひかれます。「私たちもやっぱり、イエスさまの御言葉を聞いて、素直に従っていこう」「すべてを捨ててイエスさまに従っていこう」と思います。

しかしどうして弟子たちはこうも素直に、イエスさまにつき従うことになったのでしょうか。「すべてを捨てて」イエスさまに従うようになったのでしょうか。わたしは弟子たちが、暗い海を見つめながら、自らの心の深淵に思いをはせる、自分の罪を深く顧みることがあったからだと思います。弟子たちは暗い海をみつめるという日常の生活の中から、イエスさまの御言葉に出会ったのです。ペトロは【先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした】と言いました。ペトロたちは「夜通し苦労する者」だったのです。ペトロたちは貧しい漁師として生きていました。夜通し苦労しても、何もとれないことがある。食べていかなければならないのに、食べていくための魚は十分には得られない。貧しさの中で、互いに口論することもあったでしょう。「あいつが悪いから、漁がうまくいかなかった」「なんであいつはいつもいばってるんだ」「ちゃんとだんどりをやっとけよ」「なんだその言葉遣いは」。そんなことが私たちの日常生活と同じように起こっていただろうと思います。

そして暗い海をみつめながら、自らのことを思うのです。「なぜ自分はもっと思いやりのある言葉をかけることができないのだろう」「みんな貧しくて苦労しているのに、自分のことだけ考えて、うまくたちまわるのだろう」「どうして仲間のたらないところを、心優しくおぎなっていくということができないのだろう」「なぜいつもいらいらいらいらして、互いに傷つけあっているのだろう」。暗い夜の海をみつめながら、正しく生きられない自分の罪を顧みていたのです。「神さま、わたしはほんとうにあなたから祝福されているのでしょうか」「神さま、わたしはあなたから愛されているのでしょうか」。暗い海のうえ、舟に揺られながら、自分の揺れるこころと向き合っていたのだと思います。

そして弟子たちは、イエスさまの御言葉に出会ったのです。「おまえたちの苦労を神さまは知ってくださっている」「おまえのよこしまな心を神さまは許してくださっている」「おまえを神さまはかけがえのないたったひとりの人として愛してくださっている」。夜の海で揺られながら、自らの罪について考えていた、ペトロたちの心にイエスさまの御言葉はしみわたったのです。そして二そうの舟にいっぱいの魚がとれたという奇跡のあとの、ペトロの信仰告白になるのです。【主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです】。ペトロは自分たちが夜通し苦労する者であり、そしてまたそれゆえに互いに傷つけあいながら生きている。そしてそのことをこころの痛みとして生きている。苦しみながら生きている。しかしそんなわたしを神さまは見捨てられないで、「よし」としてくださっている。そうした思いが、【主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです】と現れたのでした。

私たちもまた、ペトロたちと同じように、夜通し苦労する者です。暗闇の中で悩んだり、叫んだり、傷つけあって生きています。「わたしはこんなに一生懸命しているのに、だれもわたしのことを理解してくれない」。「わたしの一生懸命さは、神さまが知ってくださっているのだから、わたしはこれでいいんだ、しかたがないんだ」と居直ったりします。ほんとは自分ではいいと思えなくても、「もうどうしようないんだ」との叫びとともに、強がってみたりします。人を恐れ、自分のなかのどうしようもない不安におそれ、だれもわかってくれないという孤独を恐れます。

イエスさまは「恐れることはない」と言われました。そんな私たちにとって「恐れるな」というイエスさまの御言葉は、なにか確信をついているような気がします。強がったり、居直ったりするのではなくて、もっと神さまに委ねて歩みなさい。心から神さまにすべてを委ねて歩むとき、あなたは強がったり、居直ったり、「これでいいんだ」と無理矢理に思い込んだりしなくても、もっと自然に周りの人々とともに歩んでいくことができるのです。互いに傷つけあう必要はなく、互いにわかちあい支えあうことができるように、神さまが道を整えてくださるのです。

イエスさまは弟子たちに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。「人間をとる」とは「人間を生け捕りにする」ということです。それは「人を生きたまま危険から救う」ということです。いろいろな問題をかかえながらも懸命にいる生身の人間をそのままで救うということです。そのままで、ありのままで神さまから救っていただくということなのです。それは恐れたり、格好をつけたり、強がったり、居直ったりすることではなく、こころ素直に神さまの救いをそのままで待つということです。

夜の暗闇の海に揺られながら、自らの魂の深淵をみつめていたペトロやヨハネやヤコブは、イエスさまと出会い、イエスさまについていきました。私たちもまた罪と暗闇の海に揺れながら、迷い、傷つき生きている者です。そんな私たちをイエスさまは「恐れるな」「そのままでいいんだ」「素直になりなさい」と招いてくださっています。イエスさまの招きに応え、イエスさまにつきしたがっていきましょう。



(2025年2月9日平安教会朝礼拝)



2月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「ほっとできるところがいいよね」

「ほっとできるところがいいよね」

聖書箇所 マタイ21:12-16。486/487。

日時場所 2025年2月2日平安教会朝礼拝式 

2年ほど前、長野市の公園が閉鎖になるというニュースがありました。住宅街にある公園で、周囲には学童保育施設や小学校、保育園があり、日中は保育園児が、夕方は小学生たちが多数訪れて遊んでいた公園でした。しかし子どもの声がうるさいということがありました。公園の閉鎖が残念と感じる人もいるでしょうし、静かになってほっとすると感じる人もいるでしょう。なかなか解決のむつかしい問題です。

いろいろな教会のなかでも長年、礼拝は静かに守りたいという人と、少々うるさくてもこどもたちも一緒に守ることができたら、とても豊かな礼拝を守ることができるのではないかということが話されてきました。平安教会ではいま、こどもと一緒に礼拝を守るということも考えて、子ども連れでお父さんやお母さんが来やすい教会の礼拝の形を、すこし考えてみたらよいのではないかというようなことが、子どもの教会のスタッフ会や、役員会の中でも話されています。

わたしの友人が牧師をしている教会は、おかあさんと一緒に赤ちゃんがやってくるときは、出席者の人数が増えるそうです。遠くにすんでいる牧師の娘さんが赤ちゃんと一緒にやってくるときは、出席人数が増えるのです。赤ちゃんに会いにくるのです。「先生、娘さんの聖子ちゃん、こんどいつ赤ちゃんと一緒に帰ってくるの」と聞かれるそうです。そして娘さんの聖子ちゃんがいつも出席している教会の方は、出席人数が減るそうです。「あかちゃんの力って、すごいなあ」と教えてくれました。

まあ人間ですから、あかちゃんが好きという人もいれば、あかちゃんは苦手という人もいるだろうと思います。飛行機のサービスで、座席を指定する時に「赤ちゃんマーク」が出るようにしている航空会社があります。赤ちゃんが苦手な人は、あらかじめ赤ちゃんがいる席が分かるので、あかちゃんがいるところから遠く離れた席を予約することができるわけです。

いろいろな人が事情を抱えた人が、教会に集ってきます。ですから自分の思いどおりにならないこともやはりあると思います。集う人が安心してくることができるということは、とても大切なことだと思います。当り前のことですが「怒られた」とか「どなられた」ということを経験すると、やはりその場所から足が遠のいてしまいます。しかし互いに思いやりを大切にして、みんながほっとできる教会でありたいと思います。

今日の聖書の箇所は「神殿から商人を追い出す」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書21章12−13節にはこうあります。【それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」】。

多くの人々が神殿に礼拝のためにやってきていました。礼拝のなかで羊や山羊や鳩を、犠牲の献げ物としてささげるということが行われていました。神さまにささげる献げ物ですから、傷ついたものをささげることはできません。ですから遠くから来ている人たちは、自分で持ってくるというわけにもいかず、神殿の境内でそうした献げ物を買うというようなことが行われていました。まあ便利と言えば便利ですから、まあ商売としてもそんなに変な商売というわけでもなかっただろうと思います。お墓の入り口に花屋がやって、そこで花を買ってお墓に飾るというようなことが行なわれいるのと同じような感じです。まあ人が集まるわけですから、礼拝にきている人たちに、ちょっとした食べ物を売るというようなことも行われていたかも知れません。いろいろな神殿の境内にいろいろな店が出てきたとしても、まあそんなにびっくりぎょうてんするような話でもないわけです。

でもそもそも、神殿は「祈りの家」であるわけですから、そこで商売が行われ、いろいろな利権がからむようになってくると、それはふさわしいことではないわけです。でもまあやっぱりそうしたことが行われていて、「神殿は祈りの家であるはずなのに、どうしたもんかなあ」というような状態になってしまっていたということです。それで、イエスさまは神殿の境内で商売をしている人を追い出して、神殿は「祈りの家」と呼ばれるのにふさわしいものでありたいと呼びかけられたということでしょう。

それはまた神殿の境内で商売が行われているということについての批判ということだけではなかったと思います。神殿そのものが、神さまの祈りの家にふさわしいものであるのかということを、イエスさまは問われたのでした。神殿が神さまの御心を行なうところとなっているのか。神さまは小さき者たちを大切にされ、こころにかけておられる。そうした神さまの御心にふさわしい神殿であるのかということを、イエスさまは問われたのでした。

マタイによる福音書21章14−16節にはこうあります。【境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」】。

イエスさまに病気をいやしてもらうと、いろいろな人がイエスさまのところにやってきていました。神殿の境内でも同じように、イエスさまがおられるということで、目の見えない人や足の不自由な人たちが、イエスさまのところにやってきます。イエスさまは人気です。神殿の境内にいた子どもたちも、イエスさまを「ダビデの子にホサナ」と言ってほめたたえました。それをみた祭司長たちや律法学者たちは、イエスさまに嫉妬して怒ります。祭司長たちや律法学者たちは、神殿で大きな声を上げている、子どもたちの声が耳につくのです。「神殿は子どもが大きな声をあげるところではない」「だれだこの原因を作っている張本人は、とんでもないやつだ」。そしてその原因をつくっているイエスさまを非難するのです。それに対してイエスさまは「子どもたちが讃美の声を上げるのはよいことだ」と、反論しました。

『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』というのは、詩編8編3節からの引用です。詩編8編2−3節にはこうあります。【主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。 幼子、乳飲み子の口によって。】。詩編8編3節には、神さまをほめたたえる者として、幼子、乳飲み子が出てきます。

ユダヤの社会でもちいさな子どもは、邪魔者扱いされることが多くありました。それはまあいまの私たちの社会と変わらないわけです。まあ小さなこどもにも都合があるわけですから、泣いたりすることもあります。そのため大切な話をしているのに、声が聞えないというようなことがあったりするので、まあ邪魔者扱いされるわけです。しかしそうしたユダヤの社会の中にあっても、子どもは神さまをほめたたえる者として記されているのです。

私たちの時代はいま、とても対立の多い時代になっています。国と国とが争い、政治の世界でも対立が多く、「自分の国さえよければそれが良い」というような世の中になっています。わたしはもう少し、お互いに対話をして、穏やかな解決策を少しでも見いだしていく社会形成をしたほうが良いと思います。

政治哲学者のマイケル・サンデルは、朝日新聞のインタビューのなかで、「公の場の再構築」ということを言っています。【「家族から地域、そして国家へと続く共同体において、人々の帰属意識や相互義務感、社会的調和が失われています。自分たちがどう統治されるべきか、意味のある発言権を持っていると誰もが感じられるよう、自治のプロジェクトを活性化させなければなりません】【「公園や公民館、図書館、公共交通など、多様な階層の人が交ざりあう公の場を再興しましょう】。

マイケル・サンデルは「多様な階層の人が交ざりあう公の場を再興しましょう」と言っています。みなさんは「多様な階層の人が交ざりあう公の場」と言われて、何を思い浮かべられますか。わたしはそれはまさに「教会」という場だと思いました。これからの社会の中で、「多様な階層の人が交ざりあう公の場」としての「教会」の果たす役割というのは、とても大きなものだと思います。教会ではどの人も、神さまの前に立つ一人の人です。その人が社会的にどのような地位にあっても、どのような仕事をしていても、女性であろうと、男性であろうと、あかちゃんであろうと、壮年であろうと、みんなな神さまの前に立つ一人の人であるのです。そしてみんな礼拝に集い、神さまをほめたたえるのです。教会は社会の緩衝材としての大切な役割があるのだと思います。

「ほっとできるところがいいよね」という、説教題にしています。「ほっとできるところがいいよね」というのは、教会の雰囲気のことです。教会はほっとできるところがいいのだと思います。ほっとできるところに、人が集まってくるのです。

祭司長たちや律法学者たちは、自分の都合の悪い人たちに対して、腹を立てていました。こどもがイエスさまのことを「ダビデの子にホサナ」「イエスさまに神さまの祝福がありますように」と言うのを聞いて、腹を立てていたのです。それに対して、イエスさまは「子どもたちが自由に語ることができるようなところでないと、その場所は神さまから祝福を受けた場所とは言えないよ。聖書にも、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』と書いてある」と言われました。

対立の多い社会の中にあって、私たちは安心して集うことのできる場所としての教会の歩みを大切にしたいと思います。教会がほっとできる場所となる。また教会に集う私たちが、世の人に対して、ほっとできる人になることを、心がけていきたいと思います。




 

(2025年2月2日平安教会朝礼拝式)

1月26日平安教会礼拝説教要約(大谷隆夫牧師)「怒りについて」

「怒りについて」    大谷隆夫牧師

 「ヨハネによる福音書2章13~22節」

     (2025年1月26日、平安教会)


 私が、関西労働者伝道委員会の専任者として働き始める直前の半年間ほど、アメリカのホームレスの人たちの実態を知るために、アメリカに滞在したことがあります。そのアメリカ滞在中の出来事ですが、ある時、ルカ福音書10章25~37節に書かれている、サマリヤ人にならって、テレビを観ているみなさんも、ホームレスの人々に出来るだけ支援していくためにカンパをしてください!という内容のテレビのコマーシャルが流されたのです。

 実は、私はその時、アルバイトをしていたのですが、そのアルバイトの賃金は非常に低賃金だったのですが、ちょうどこのテレビのコマーシャルが流された時に、私の雇い主もこのテレビのコマーシャルを一緒に観ていて、「TAKOさん!私はホームレスの人たちにもカンパをし続けているんです!」ということを言ったわけです。

 その時に私が思ったことですが、ホームレスの人たちにカンパをするのも良いが、もっと自分の賃金を上げて欲しいと思いましたし、このルカ福音書10章25~37節に書かれている、「善いサマリヤ人のたとえ話」は、単純に隣人愛の話だと考えてはいけないのではないかということでした。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていたある人に出会った時に、サマリヤ人がどう感じたのかということです。私はそこにサマリヤ人の「怒り」というものを感じるわけであります。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていた、そういった不条理な状態にある人が置かれていることに対する、社会悪に対するサマリヤ人の「怒り」であります。このサマリヤ人の「怒り」はイエスの「怒り」でもあるわけですが、このイエスの「怒り」の総決算と言うべきものが、今日、選んだ聖書の箇所に書かれている、イエスが神殿から商人を追い出した行為であると言えます。

 良く考えて見れば、私の30年以上に渡る釜ヶ崎の歩みを支えて来た原動力は、釜ヶ崎日雇労働者、野宿を余儀なくされている労働者が置かれている、不正義、不当な、社会悪に対する怒りであり、憤りであったと思います。

 今日の聖書の箇所に書かれている、イエスのように、いわゆる「社会悪」に対して、本当に怒るべき時は、たった一人でも、支持してくれる人が誰もいないような状況であっても、怒り続けて行きたいと改めて思わされている次第です。


8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...