「暴力の支配は終わり」
聖書箇所 マルコ12:1-12。208/514。 イエスさまの贖罪,讃美歌514
日時場所 2026年8月23日平安教会朝礼拝式
戦争というのは、なかなか終わらないものだなあと思います。イランとアメリカは、6月17日に戦争終結に向けた覚書を交わして、60日間以内に恒久的な停戦に向けた最終合意を行なうことを目指していました。しかしなかなか計画通りには進んでいません。交渉期限は過ぎたわけですが、これからどのようになるのか、私たちは不安です。ロシアとウクライナの戦争も続いています。私たちの世界はとても暴力的な世界になったなあと思います。このことについて、アメリカやロシア、中国といった大国の責任というのは大きいと思います。
2026年1月3日、アメリカのトランプ大統領がベネゼエラに対して軍事作戦を行ない、ベネズエラのマドゥロ大統領と大統領の妻を、アメリカに移送するということが行われました。こうしたことは国際法上、許されることのない行為であるわけです。なんの関係もない市民もこの軍事作戦によって殺されています。日本の総理大臣と夫が、他国によって拉致されて、他国に連れさられてしまうというようなことが起こったら、それは大変です。そんなこと許されないと思います。
力でもって、暴力的に解決していくという大国の態度は、私たちを不安にさせます。アメリカがやるのであれば、ロシアもやる。アメリカがやるのであれば、中国もやる。というような感じになってくると困ります。それで他の国々も、アメリカに「それはだめですよ」と忠告をしています。イギリスの首相も「英国は今回の米国による軍事行動には関与していない」「全ての国は国際法を守るべきだと考えている」と言っています。フランスの外相も「武力行使の禁止という国際法の根幹をなす原則に反している」「外部から押しつけられて持続的な政治的解決がもたらされることはない」と言っています。欧州連合の外交安全保障上級代表も「EUはマドゥロ政権は正統性を欠くと指摘してきた」としつつ、「いかなる状況でも、国連憲章と国際法の原則は尊重されなければならない」と言っています。そろそろ大国が悔い改めて、まともな国になってほしいと思います。
今日の聖書の個所は「ぶどう園と農夫のたとえ」という表題のついた聖書の個所です。イエスさまは、祭司長、律法学者、長老たちに対して、「ぶどう園と農夫のたとえ」を話されました。ある人がぶどう園を作り、垣根を張り巡らし、ぶどうを搾るところをつくり、そとから悪い人たちがやって来ないように見張りのやぐらをたてました。そしてそこで働く農夫たちに任せて旅に出ました。収穫の時期になったときに、ある人は僕を農夫たちのところに送ります。しかし農夫たちはこの僕を袋叩きにして、何も持たせないで返しました。ある人はまた他の僕を農夫たちのところに送りました。しかし農夫たちはその僕の頭を殴り、侮辱して、ある人のところに帰します。そのあともまたある人は農夫のところに僕を送るのですが、ある者は殴られ、そしてある者は殺されました。
それである人はどうしようかと考えます。そして自分の愛する息子を送ることにします。わたしの息子なら敬ってくれるのではないかと思ったのです。しかし農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に投げてました。
イエスさまは「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか」と、祭司長、律法学者、長老たちに問いかけられました。そして「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と言われました。そして、イエスさまは「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」と言われました。私たちには「なんだかよくわからない」と思える言葉です。しかし祭司長、律法学者、長老たちは、イエスさまは自分たちに対して、当てつけて、このたとえ話を語っているということに気がつきます。そしてイエスさまを捕らえようとします。しかしイエスさまは群衆たちに人気がありましたので、群衆を恐れて、イエスさまを残して、祭司長、律法学者、長老たちはこの場を立ち去りました。
祭司長、律法学者、長老たちが自分たちへの当てつけのたとえだと思った、このぶどう園のたとえはどういうたとえなのかと言いますと、「ある人」というのは神さまです。そして「ぶどう園の農夫たち」は祭司長、律法学者、長老たちです。彼らはユダヤの社会というぶどう園の管理を神さまから任されているわけです。しかし彼らはぶどう園を自分たちのもののように扱い、神さまからの預かりものとは考えず、好き勝手にしているわけです。それで神さまは「僕」という預言者を、彼らのところに送ります。神さまは預言者を何度も彼らのところに送るわけですが、しかし預言者は袋叩きにされたり、殺されたりします。そして最後に、神さまの愛する息子を彼らのところに送ります。神さまは自分の愛する息子ならば、彼らも敬ってくれるのではないかと思うのですが、彼らは息子を殺してしまいます。それで神さまは彼らを罰して、ぶどう園であるユダヤの社会を、祭司長、律法学者、長老たちからとりあげ、ほかの人たちにその管理を任せるだろうというわけです。自分たちを批判しているたとえであることに気がついて、祭司長、律法学者、長老たちは怒って、イエスさまを殺そうとするという話です。
イエスさまのたとえはなんとも暴力的な話です。僕たちは殴られ、侮辱され、殺されます。愛する息子も殺されます。そして農夫たちもまた殺されます。救いようのない人間世界の様子が語られています。イエスさまは「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と話されました。しかし神さまはそのようにはなさいませんでした。救いようのない暴力的な世界に対して、暴力でもって解決をされるということを、神さまはなさいませんでした。神さまは暴力的な世界に対して、神さまの愛を示されました。神さまは神さまの愛によって、暴力の支配を終わりにされたのです。それがイエス・キリストの十字架と復活の出来事なのです。
神さまは神さまの独り子であるイエスさまを、私たちの世に遣わされました。イエスさまは世の人々に神さまの愛を示されました。病気の人々をいやされ、悲しんでいる人々に慰めの言葉をかけられました。悔い改めようとしている人々にやさしい言葉をかけられ、悔い改めへと導かれました。イエスさまはさみしい人々の友となり、悩んでいる人々を励まされました。イエスさまは神さまの愛を世の人々に示されました。
マルコによる福音書15章21節以下に、「十字架につけられる」という表題のついた聖書の箇所があります。マルコによる福音書15章25−32節にはこうあります。新約聖書の96頁です。【イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。】。
そしてイエスさまは人々にののしられ、侮辱されながら、私たちの罪のために、十字架についてくださいました。神さまの前に恥ずかしいことをしている私たちの罪を担ってくださり、私たちの代わりに十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。そして三日目によみがえられ、私たちに永遠の命を受け継ぐものとしての希望を与えてくださいました。
私たちは神さまの愛のなかに生きています。私たちは神さまの許しのなかに生きています。私たちは邪な思いをもちますし、人を傷つけたり、人のことをねたんだりもします。神さまの前に恥ずかしい思いを、心の中のもつことも多いです。しかしそれでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちに寄り添ってくださいます。
暴力的な世の中に生きていると、暴力的なことがふつうになってしまいます。少々うそをついてもいいじゃないか。みんなやってることだよ。というような思いになってしまいます。しかし暴力的な世の中だからこそ、少しでも神さまの愛を示していける歩みでありたいと思います。私たちは神さまの愛によって生きています。神さまの愛をゆたかに感じて、神さまの民として歩んでいきましょう。
(2026年8月23日平安教会朝礼拝式)