2023年6月27日火曜日

6月25日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「神さまの愛がいっぱい」

聖書箇所 ルカ15:1-10。494/482。

日時場所 2023年6月25日平安教会朝礼拝式


谷川嘉浩 (著), 朱喜哲 (著), 杉谷和哉 (著)の「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」(さくら舎)という本を読みました。「「わからなさ」を抱えながら生きる方法を気鋭の哲学者たち、熱論」とあります。

【ネガティヴ・ケイパビリティは、物事を宙づりにしたまま抱えておく力を指しています。つまり、謎や不可解な物事、問題に直面したときに、簡単に解決したり、安易に納得したりしない能力です。説明がすぐにはつけ難い事柄に対峙したとき、即断せずにわからないままに留めながら、それへの関心を放棄せずに咀嚼し続ける力だと言ってもいいでしょう】(P.2)。

「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」という本を読んでいますと、3人の若い哲学者たちが楽しそうに話をしている様子がうかがえます。とくに強い調子で決めつけるというようなこともなく、その様子自体が、「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」とはこんな感じなのかなあと思わされます。

私たちはキリスト教を信じています。信仰というと、「これを信じないと信じていることにならない」というような思いをもつことがあります。しかしそのように信じるということだけが、信仰というわけでもありません。わたしはどちらかというと、「信じているか信じていないかよくわからないけど、信じている」というような宙ぶらりんの信仰というあり方でよいのではないかと思っています。あまり凝り固まった信仰をもってしまうと、自分の信じているもの意外のものは、「不信仰」「サタンのしわざ」というような感じになって、人を裁きがちになってしまいます。聖書を読んでいますと、どうもよくわからないとか、ちょっといまのわたしには信じられないというようなこともあるかと思います。わたしも長年聖書を読んでいますが、よくわからないこともあります。でも細かいところにとらわれるのではなく、よくわからなかったり、信じられない部分もあるけれども、でも全体として信じているというので良いと思います。「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」というのは、まさに信仰の場面で発揮されるような気がします。

聖書のなかに出てくるファリサイ派の人たちや律法学者たちというのは、「こんな感じで信じないといけない」という思いの強い人たちでした。「あの人たちは律法のこの条項に違反しているから、罪人なのだ。だめなのだ」ということで、そうした人たちを裁いていました。いつも人を裁いているので、ファリサイ派の人たちや律法学者たちというのは、いつも怒っている人のような印象を、私たちはもってしまいます。実際のファリサイ派の人たちや律法学者たちにあったら、まあそうでもないかも知れません。「会ってみたけど、案外、いい人だよ」ということもあるような気がします。しかしなんとなく聖書に出てくるファリサイ派の人々や律法学者たちは、いつもイエスさまに反対していて、「なんかなあ」という思いをさせる人たちであるわけです。今日の聖書の箇所でも、ファリサイ派の人たちや律法学者たちは怒っています。

今日の聖書の箇所は、「「見失った羊」のたとえ」「「無くした銀貨」のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書15章1−2節にはこうあります。【徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。】。

イエスさまは人気者でしたので、いろいろな人たちがイエスさまの話を聞きにきました。徴税人や罪人も、イエスさまの話を聞きにきます。徴税人というのは、税金を集める人たちのことです。イエスさまの時代、イエスさまの国であるユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。税金の多くはローマ帝国のために使われます。その税金を集める徴税人は、ローマ帝国の手先ということです。そのため徴税人は人々から嫌われていました。罪人というのは、律法という法律をいろいろな事情のために守ることができない人たちでした。イエスさまの時代の人たちは、「まあやっぱり律法を守って生きていくことができればいいよね」と思っていました。そのため律法を守ることのできない人たちは、神さまの前に罪を犯している人たちということで、「罪人」と言われたわけです。

とくにファリサイ派の人々や律法学者たちは、律法を守ることのできない人たちに対して、とてもきびしかったのです。罪を犯している人たちと一緒に食事をするなんて考えられないという思いを持っていました。しかしイエスさまは徴税人や罪人と言われる人たちとも、一緒に食事をされました。そうした人たちも、悔い改めることのできるところは悔い改めて、神さまの愛のうちに歩むことができたらいいなあと、イエスさまは思っておられました。

ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、「罪人は悪い人たちだ」というような感じで切って棄てるような扱いをしていました。それに対してイエスさまは「そういう感じは、神さまの御心ではない」と、今日のたとえを話されました。

ルカによる福音書15章3ー7節にはこうあります。【そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」】。

百匹の羊のうち、一匹を見失ってしまった。九十九匹を野原に残して、見失った一匹を探し回るだろう。見つけることができたら、とってもうれしいだろう。その羊を担いで家に帰り、友だちや近所の人達を呼び集めて、「見失った一匹の羊が見つかったので、一緒に喜んでください」と言うだろう。神さまも同じように、神さまのところから離れてしまった一人の人が悔い改めて、神さまのところに帰ってきたら、とってもうれしいと思う。悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも、罪人が悔い改めたということのほうが、神さまにとってはとってもうれしいことだと思う。そのようにイエスさまは言われました。

このイエスさまが語られたたとえを聞くと、「野原に残された九十九匹はどうなるんだ。狼に食べられるぞ」というような気持ちになりますが、でもこれはたとえ話ですから、そこに強調点があるわけではないのです。「でも気になって、気になって仕方がない」ということもあると思います。ついつい私たちは自分が何の問題もない優秀な九十九匹の羊のような気がしてしまうのです。そして神さまの言うことを聞かない罪人である一匹の羊を裁くのです。自分が迷子になってしまった一匹の羊であるかも知れないという思いをもつこともなく、「泣く子はいねがぁ〜」「怠け者はいねがぁ〜」「悪い子はいねがぁ〜」と、秋田のなまはげ状態になってしまうわけです。「迷子になるのは自己責任だろう」というようなことを言い始めるのです。でも人はだれしも迷子になることはあるわけです。わたしは子どもの時、万博会場で迷子になりましたし、わたしの母は認知症で迷子になりました。もちろん大人になってからも梅田の地下街で迷子になっています。

人は何かと、細かいところにとらわれて、人を責めることに熱中してしまうというようなことがあります。まあ、羊は狼に襲われたら大変ですので、そうした思いになってしまうのも仕方がないような気がします。ルカによる福音書では「そんなに言われるのであれば、ドラクメ銀貨ということにしましょう」と、同じ内容のことをドラクメ銀貨で、イエスさまはたとえ話をされることになります。ドラクメ銀貨は羊と違って、じっとしていますし、狼に襲われることもありません。羊のたとえは難癖をつけられますが、ドラクメ銀貨のたとえは難癖のつけようがないわけです。

ルカによる福音書15章8−10節にはこうあります。【「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」】

聖書の後ろのほうに、「度量衡および通貨」というところがあります。そこをみますと、1ドラクメというのは、1デナリオンと同じであることがわかります。1デナリオンというのは、一日の賃金ということですので、大ざっぱに考えると、1ドラクメというのは1万円くらいです。ドラクメ銀貨を10枚もっている女性がいて、1枚なくしてしまいます。こりゃ大変だということで、一生懸命に部屋の中を探します。ともし火を付け、家の中を見つかるまで、探し回ります。そして見つけたら、大喜びして、友だちや近所の人を呼び集めて、「無くした銀貨を見つけました。一緒に喜んでください」というだろうと、イエスさまは言われます。それと同じように、一人の罪人が悔い改めたら、神さまの天使たちの間では大きな喜びがあるのだ。一人の罪人が悔い改めたら、天ではみんなで大騒ぎして、喜んでくれているんだと、イエスさまは言われました。そう言われると、とてもありがない話だと思います。私たちが「神さま、本当にごめんなさい」と悔い改めたら、天ではみんなで大喜びしてくれるというわけです。なんかとってもありがたい気がします。

今日の聖書の箇所には、「喜」という感じが、何度も出てきます。喜びに満ちている聖書の箇所であるわけです。イエスさまはうれしいこと出来事を、一緒に喜ぶということは大切なことなのだと、私たちに言っておられます。もちろん見失った一匹を見つけ出すまで探し回るような生き方ができれば、すばらしいと思います。困っている人、さみしい思いをしている人、つらい思いをしている人。私たちの世の中にはそうした人たちがたくさんおられます。迷子になって、一人つらい思いをしておられる人たちもたくさんおられます。そうした人たちが安心することができるようにすることができれば良いと思います。

しかしなかなかそこまでわたしは行なう自信がないということもあると思います。だからイエスさまは言われるのです。「一緒に喜んでください」「一緒に喜んでください」。見失った一匹が見つかったら、一緒に喜んでください。無くした銀貨が見つかったら、一緒に喜んでください。困っている人やつらい思いをしている人が、困っていることやつらいことがなくなったら、一緒に喜んであげてほしい。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」というように、人を裁くのではなく、とにかく一緒に喜んであげてほしいと、イエスさまは言われるのです。

「大きな喜びが天にある」「神の天使たちの間に喜びがある」。神さまの愛がいっぱいある世界に私たちは生きているのです。そのことに気づくことのできる歩みでありたいと思います。

自分だけがなんか損をしているのではないかというような思いになるときがあります。そして人を裁いてみたり、不平を言い出してみたりするのです。「わたしが野原に残されているのは、いかがなものか」「なんで見失った一匹の羊だけを、イエスさまは探し回るのか」。わたしのことはかまってもらえないのか。なんか不公平な気がする。そうした思いにとらわれてしまうときが、私たちにはあります。

しかし私たちは「大きな喜びが天にある」「神の天使たちの間に喜びがある」、そうした出来事を共にしているということを思い起こして、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に喜ぶものでありたいと思います。皮肉を言ったり、人を蔑んだりすることなく、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に、喜ぶものでありたいと思います。

神さまの愛のうちに、私たちは生かされています。その愛に感謝して、共に喜つつ歩んでいきましょう。




(2023年6月25日平安教会朝礼拝式)

2023年6月18日日曜日

6月18日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「ただ信じなさい。そうすれば救われる」


聖書箇所 ルカ8:40-56。513/528。

日時場所 2023年6月18日平安教会朝礼拝

何かしている途中で、何かを始めてしまって、していたことを忘れてしまうということは、よくあることです。週報を印刷している途中に、玄関でピンポンとなったので、出て行くと、宅急便だったので、それを受け取って、受け取ったものを、自宅に届けて、咽が渇いたのでお茶を飲んで、「あっ、そうそう、郵便局に葉書を買いに行かなければならなかったんだ」と思い出して、郵便局に行って帰ってくると、もう夕ご飯の時間になったので、夕ご飯を食べて、コーヒーを飲んでいる途中、「なんか、忘れている気がするなあ。なんだったかなあ」というようなことが、私たちの日常生活には起こります。「やっぱり一つ一つきっちりと終わらせていかないと、だめだよねえ」と思うのですが、でも途中で何かが入るということが、よくあることです。

今日の聖書の箇所は「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」という表題がついています。この話は、マルコによる福音書にも、マタイによる福音書にもある話です。マルコによる福音書はルカによる福音書と同じくらいの分量がある話となっていますが、マタイによる福音書は少し短い話になっています。福音書は、マルコによる福音書が書かれたあと、マルコによる福音書を見ながらマタイによる福音書やルカによる福音書が書かれたと言われています。ヤイロの娘とイエスの服に触れる女の話は、たぶん別々の話であったものが、一つの話とされるようになったということです。もうマルコによる福音書が書かれたときには、すでに一つの話になっていたということのようです。「十二歳ぐらいの一人の娘」と「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女」ということですから、この「十二」という数字が二つの物語をつなげたのでしょう。十二歳というと、私たちの社会では小学6年生くらいですから、ほんのこどもという感じですが、この時代のユダヤの女性は十二歳くらいで結婚しましたので、私たちの感覚とはちょっと違う年齢ということです。

ルカによる福音書8章40−42節にはこうあります。【イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た】。

イエスさまはガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ地方で悪霊に取りつかれた男の人をいやされました。しかし悪霊は豚に乗り移り、豚が崖から転落死するという事件になりましたので、その地方の人々は気味悪く思い、イエスさまに出ていってほしいと願いました。イエスさまは人々の願いを聞き、この地方から出て行くことにしました。そしてイエスさまはまた帰ってこられたのですが、群衆は喜んでイエスさまを迎えました。ヤイロという名のユダヤ教の会堂長が、十二歳くらいの一人娘が死にかけているのを救うために、自分の家にきてほしいと、イエスさまに願い出ました。イエスさまはその願いを聞き入れられ、会堂長ヤイロの家に向かいました。会堂長というのは、ユダヤ教の会堂を管理している人のことです。礼拝のプログラムを考えたり、誰にお話しをしてもらうのかとかを決めたりする人のことです。

ルカによる福音書8章43−48節にはこうあります。【ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」】。

ヤイロの一人娘を救うために、ヤイロの家に向かう途中で、イエスさまは一人の女性をいやされます。十二年間、出血がとまらない女性です。ヤイロの娘は十二歳ですから、ヤイロの娘が生れ育って、そろそろ結婚をするかなあという年齢に達する十二年の間、この女性はずっとこの病気に悩まされてきたのでした。そして単に病気に悩まされてきてしんどいということだけでなく、この病気のために全財産を使い果たしてしまいました。しかし病気は治らない。お金がないので、この先、医者にかかることもできず、病を抱えてつらい思いをして生活をしていかなければならないのです。

出血がとまらないという、血に関する病気ですので、とくにこの女性は汚れたものというふうに考えられていました。ですからこの女性は、後からイエスさまの服の房に、だれにもわからないように、そっと触れたのでした。もしかしたらこのイエスさまはわたしの病気を治す力があるかもしれないと、この女性は思ったのです。そして勇気を持って、ただし誰にも気づかれずに、イエスさまの服の房にさわったのでした。だれかに見つかったら、どんなに非難されるかわからなかったからです。イエスさまの服の房にさわると、彼女の病気はいやされました。

イエスさまは「わたしに触れたのはだれか」と言いました。周りに一杯人がいたので、ペトロはだれかイエスさまを触ったとしても、わからなくても仕方がないでしょうと言うのですが、イエスさまはそれでも「だれだ、だれだ」と探し回ります。女性からすると、病が治ったので、イエスさまがあまり騒いでくださらないほうが良かったのだろうと思います。あとから日を改めて、またいつかお礼にお伺いするということで良かったのだと思うのですが、しかしイエスさまはだれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言います。女性は隠し切れなくなって、イエスさまの前に進み出ます。そしていままでの事情を、イエスさまに話しました。すると、イエスさまは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言い、この女性を祝福されました。

わざわざ大騒ぎをして、この女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言う必要があったのかというような気がするわけですが、イエスさまはこの女性を祝福せずにはいられなかったのです。「ああ、知らないだれか病気がいやされてよかったよね」ということではなく、イエスさまは「いままで十二年間苦しい思いをしていた『この女性』が、『この女性』がいやされたんだ」ということが大切であったのです。そしてこの女性に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言わずにはいられなかったのです。

ルカによる福音書8章49−56節にはこうあります。【イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった】。

十二年間、出血をわずらっていた女性は、イエスさまにいやされたわけですが、もともとイエスさまはヤイロの一人娘をいやすために、ヤイロの家に向かっていたのです。しかし会堂長の家の人がやってきて、「お嬢さんは亡くなりました」と言いました。ヤイロは驚いただろうと思います。そしてヤイロは、「イエスさまがもっと早く自分の家に着いてくださっていたら」という思いにとらわれただろうと思います。十二年間、出血をわずらっていた女性に関わっていなければ、もしかしたら娘が亡くなる前に、イエスさまは自分の家に着くことができたのではないのか。そうした思いにとらわれただろうと思います。

人は悲しい出来事や苦しい出来事に出会うときに、ときに心が弱くなります。そして人のことを恨んだり、人のせいにしたりします。ヤイロの一人娘が亡くなったのは、イエスさまが何かをしたからというわけではありません。イエスさまはヤイロに頼まれたから、一人娘をいやすためにヤイロの家に向かっていただけなのです。しかし人は「もう少し、イエスさまが早く来てくれたなら」という思いを持ってしまうのです。それは人としては仕方のない弱さでもあります。だれかのせいにしなければ、自分がどうにかなりそうなのです。しかしイエスさまはヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と言われました。大切なことはただ信じるということなのだと、イエスさまは言われました。

ヤイロの家に着くと、イエスさまはペトロ、ヨハネ、ヤコブと、ヤイロとヤイロの妻、信頼できる人だけを家に招き入れました。人々はみんな死んだ娘のために泣き悲しんでいます。そうしたなか、イエスさまは「娘は死んだのではない。眠っているだけだ」と言われました。たしかに娘は死んだのです。そのことはイエスさまもご存じなのです。しかしイエスさまは娘に再び命を与えられるのです。人々は娘が死んだことを知っているので、イエスさまのことをあざ笑います。人々はイエスさまがどのような方であるかを知らないのです。イエスさまが命の源であることを、人々は知らないのです。

イエスさまは娘の手をとって、娘に「娘よ、起きなさい」と呼びかけられました。すると娘は生き返り、すぐに起き上がりました。イエスさまは娘に食べ物を与えるようにと言われました。ヤイロとヤイロの妻はこの出来事に驚きます。イエスさまはこのことをだれにも話さないようにとヤイロたちにお命じになりました。信じられない人々は、何があろうと信じられないからです。

私たちには「もうだめだ」と思えるときがあります。十二年間、出血が治まらなかった女性は、医者にかかり続けて、それでも治ることなく、お金も尽きてしまった。女性は「もうだめだ」と思っていたのですが、最後に、イエスさまのところにやってきて、そしてイエスさまがいやしてくださったのです。会堂長のヤイロも「もうだめだ」と思っていました。一人娘が死にかけているのです。ヤイロもまたイエスさまのところにやってきました。しかしイエスさまが家に着く前に、一人娘が亡くなったということを使いの者から聞きました。ヤイロは「やっぱりだめだった」と思いました。しかしイエスさまは「だめだった」と思ったヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言われ、一人娘を生き返らせました。

私たちには「だめだ」と思えるときがある。しかし私たちを救ってくださる確かな方がおられると、聖書は私たちに告げています。不安になったり、信じられなかったり、自分ではどうすることもできず、「だめだ」と思える出来事に出会うときが、私たちにはあるけれども、しかし私たちにはすがる方がおられるのだと、聖書は私たちに伝えています。私たちの命の源であり、私たちの救い主である主イエス・キリストが私たちを導いてくださると、聖書は私たちに伝えています。

この「イエスの服に触れる女」の物語と、「ヤイロの娘」の物語は、十二年という数字が結び合わせた物語であるわけですが、しかしそれだけではなく、この二つの物語は「信仰」の物語であるのです。十二年間、出血が治らなかった女性は、イエスさまからいやされたのち、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われています。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という言葉は、ルカによる福音書7章50節で、「罪深い女をいやす」という聖書の箇所にも出てくる言葉です。ルカによる福音書だけの特別な言葉なのかと言いますと、マルコによる福音書5章34節、新約聖書の70頁の「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」にも出てくる言葉ですから、イエスさまが語られた言葉のようです。しかし「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われているように、この物語は信仰の物語であるのです。そして「ヤイロの娘」の物語においても、イエスさまはヤイロに対して、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言っています。この物語もまた、信仰の物語であるのです。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」「恐れることはない。ただ信じなさい」。イエス・キリストは「神さまを信じなさい」と、私たちを招いておられます。「ただ信じなさい。そうすれば救われる」。これはもう信仰とはそうとしか言いようがないのです。私たちが救われるのに、なにか理由があるわけではありません。なにかできるから救われるのでもないですし、なにかりっぱだから救われるのでもないのです。ただイエス・キリストを信じて、そして救われるのです。なにか資格があれば、それはそれで納得がいくということもあります。これこれのキリスト教の知識があれば救われるとか、これこれの良き行ないをしたら救われるとか、ある種の基準があれば、なんとなく納得がいくのにと思えるかも知れません。でも「ただ信じなさい。そうすれば救われる」です。

イエス・キリストは「神さまを信じなさい」と、私たちを招いておられます。神さまを信じること。このこと以上に確かなものはない。神さまはあなたを愛してくださり、あなたを祝福してくださる。安心して神さまにお任せしなさい。たとえ「もうだめだ」と思えることがあったとしても、神さまから捨てられたのだと、あなたが思ったとしても、神さまはあなたを愛しておられる。だから「神さまを信じなさい」。そのようにイエスさまは私たちを招いておられます。イエス・キリストの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。



(2023年6月18日平安教会朝礼拝)


2023年6月12日月曜日

6月11日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「わがままばかりでごめんなさい」

聖書箇所 ルカ14:15-24。105/507。

日時場所 2023年6月11日平安教会朝礼拝式・花の日こどもの日合同礼拝

 

新型感染症のために、子どもの教会との合同礼拝を行なうことができませんでした。今日はひさしぶりの合同礼拝です。昔はこどもの数が多かったので、日曜学校、教会学校が行われているということは、ふつうのことでした。しかしいまは教会学校を行なっている教会の数も少なくなってきていると言われています。平安教会は子どもの教会が行われているとても恵まれた教会であるわけです。私たちはなんでも当たり前のように思ってしまって、不平や不満に感じることも多いですが、すこし冷静になって考えてみると、このように多くの恵みが私たちに備えられていることに気がつきます。

友だちと旅行にいく計画を立てたり、なにか集まりを考えたりするときがあります。そうしたときに世話役になることが、皆さんもあると思いますが、なかなか大変です。大変なことのひとつに人数の把握ということがあります。わたしもよく牧師の研修会の世話役などをやりましたが、参加と出しているのに何も言わずに欠席をする人や、参加と言わずに参加してくる人がいたりということがあります。まあ牧師さんですから、葬儀のようにどうしても外すことのできない用事ができるということもありますから、あまり腹を立てるのもどうかと思うわけですが、それでも世話役としてはホテルに食事や宿泊をキャンセルしたりするわけです。昨日1名欠席としたのに、今朝はまた2名増やして、昼になると1名減らしてというようなことをしていると、「もうこれが最後ですよね」というようなこともホテルから言われます。

人それぞれですから、几帳面な人もいますし、あんまり几帳面でない人もいます。「あ、こんどの食事会、出席する、出席する」と調子の良いことを言いながら、出席の連絡をしてこない人もいます。「あの人は、出席するといつも言うけど、いつも出席しないから、もう誘わなくてもよいのではないか」と言うことになり、誘わないと、「どうしてオレを誘ってくれなかったんだ」と怒る人がいたりもします。なかなかむつかしいなあと思う時があります。実際自分も年をとってくると、出席の連絡したかどうかわからなくなって来る時があったりして、あんまり人を責めることもできないなあと思ったりもします。

今日の聖書の箇所は「大宴会のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。この箇所の前のルカによる福音書14章7節以下には「客と招待する者への教訓」という表題のついた聖書の箇所があります。どちらも宴会の注意事項のような話であるわけです。

イエスさまは宴会を開く時に、人を招くのであれば、お返しをすることのできない人を招いたほうが良いと言われました。ルカによる福音書14章13−14節にはこうあります。【宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」】。

イエスさまはこの世で宴会を開く時は、貧しい人たちや体の不自由な人たちを招きなさいと言われました。そうした人たちはこの世でお返しをするということができない。そのお返しは神さまがあなたにしてくださる。あなたが天の国に入ったら、神さまがごちそうしてくれる。そのほうがいいだろう。と、イエスさまは言われました。

そのことを受けて、今日の聖書の箇所の話になるわけです。ルカによる福音書14章15ー17節にはこうあります。【食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた】。

イエスさまと一緒に食事をしていた人は、この世で貧しい人たちを招いて、神の国に招かれて、神さまと食事をすることができるのであれば、それはいいですねと言いました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言いました。それに対して、イエスさまのたとえとなるわけです。

ある人が盛大な宴会を開いた。大勢の人を招いてきてもらおうと思っていた。宴会の時間になったので、僕を送って、招いていた人たちに「もう準備ができたので、宴会にいらしてください」と案内をするわけです。

ルカによる福音書14章18−20節にはこうあります。【すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。】。

僕を送って、宴会に来てもらおうとすると、招いた人たちが次々と言い訳をして、断ります。「畑を買ったので、見に行かなければなりません」。まあ畑を買うというのは、なかなか大きなことで、その畑の状態を見に行かなければならないというのも、わからないではありません。でもそれであれば、前もって、「その宴会の日は畑を見に行かなければならないので、申し訳ないけれども、出席できません」と連絡をしておけば良いわけです。いろいろと宴会を催すほうも準備があるわけです。

「牛を二頭ずつ五組かったので、それを調べにいかなければなりません」。たしかに牛を10頭も買ったのであれば、それがどんな牛であるのかを調べにいくことは大切なことだと思います。それであれば、出席できないことを伝えておけば良かったのです。

「妻を迎えたばかりなので、行くことはできません」。現代であれば、まあ妻を迎えたばかりであるのであれば、それは宴会に行かないほうが良いかなあとも思えます。迎えたばかりの妻は生活の環境もすべて新しいわけですから、まあ不安であると思います。知らないところにひとりぼっちというのは、なかなか精神的にきついものがあります。そうしたこともあるので、引っ越してきた妻を一人だけ残して、夫がどこかに出かけていくというのも、まあ考えたほうがええかなあと思えます。まあしかし、そうであるなら、あらかじめそのように伝えておけば良いわけです。

ルカによる福音書14章21ー24節にはこうあります。【僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」】。

僕は帰ってきて、招いた人たちが来ないことを家の主人に報告します。すると当たり前ですが、家の主人は怒ります。そして僕に、町の広場や路地に行って、貧しい人、体の不自由な人たちを連れてきなさいと言いました。それで僕はそのとおりにします。しかしそれでもまだまだ席はあります。そのことを主人に報告すると、主人はもう一度、通りや小道に行って、無理やり人を連れてきて、この家をいっぱいにするようにと命じます。主人はとても怒っているわけです。だれでもいいから連れてこい。ただ始めに招いていた人たちは、もう誰一人、一緒に食事をする気はないと、家の主人は言うのでした。

イエスさまのたとえに出てくる、「家の主人」というのは、神さまのことです。神さまは神の国の宴会に招かれます。まあ一般的なユダヤの人々の感覚から言えば、神の国に招かれるのはユダヤ人でしょう。ユダヤ人のなかでも畑を買ったり、牛を飼ったり、結婚したりすることのできる人たちです。しかしその人たちは、神さまから招かれながら、神さまの招きに応えないいわけです。それで神の国の宴会は、貧しい人たち、体の自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちのものになる。この世でとてもしんどい思いをしている人たちこそが、神の国の宴会に招かれることになると、イエスさまは言われるのです。それでもまだまだ神の国の宴会はいっぱいにならないので、「だれでも入れるようになります」。異邦人でも良いわけです。ただ招かれていたのに、来なかった人たちは、もう二度と入ることはできないのです。

「神さま、そんなに怒らんといてください」と思わないでもないわけですが、でも一生懸命に計画をして招いたのに、急に自分の都合だけを言ってくるというのは、まあ腹の立つことだと思います。

このイエスさまのたとえは、一緒に食事をしていたある人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったことから、このたとえが話されています。このたとえはこの人に対するちょっとした皮肉を含んでいるわけです。この人だけということではありませんが、この人に類する人たちに対する皮肉を含んでいるわけです。

いいことをいうわけです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。なんかわかっているような感じのことを言うわけです。宴会を招くのであれば、貧しい人たち、体の不自由な人たち、弱い立場の人たちを招きなさい。そうすれば神の国に入ることができますよと、イエスさまが言われているのに対して、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と応えるのです。それに対して、イエスさまは「いや、いや、神さまがそのようにあなたたちを招いているのだから、神の国に入るべく、そのようにしなさいよ」と思うわけです。あなたたちは「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」というけれども、そのことがほんとうにわかっているのであれば、そのようにしなさい。そうでないと、あなたたちも「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」ということになってしまうよ。というわけで、今日のたとえを話されたのでした。

この人たちもそうですが、私たちもまた神さまから招かれていることの恵みに気がつかないということがあります。神さまの招きをないがしろにしているようなところが、私たちにもあるわけです。私たちも招かれているにも関わらず、その招きを断るということがあるわけです。「神さまが招いてくださっていることを知りつつ、今日も礼拝を欠席してしまった」というようなことがあったりします。「なんか面倒だ」「それは良いことかも知れないけれども、でもね。こっちの都合もあるわけだし」「畑を買ったので、いけません」「馬を買ったので、いけません」「羊を買ったので、いけません」「犬を買ったので、いけません」「買い物にいかなければならないので、いけません」「雨が降ったので、いけません」「あまりに天気が良いので、いけません」。

まあ理由はいろいろあるわけです。それが日常生活というものです。私たちの都合に合わせていけば、「どうか、失礼させてください」「どうか、失礼させてください」「行くことができません」となってしまいます。

しかしそうした自分勝手な私たちをそれでも招いてくださっている神さまがおられます。私たちは「わがままばかりでごめんさない」という気持ちを思い起こしたいと思います。神さまから招かれているにも関わらず、わがままばかり言っている自分に気がつきたいと思います。神さまからいろいろな恵みをいただいているにも関わらず、それに気がつかないで、不平や不満を口にすることの多い自分に気がつきたいと思います。

「わがままばかりでごめんさない」。そして正気に戻って、神さまに感謝するものでありたいと思います。神さまは私たちを愛してくださっています。私たちに命を与えてくださり、私たちに生きる力を与えてくださいます。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、私たちが共に生きていく知恵を与えてくださいます。私たちがさみしいとき、私たちを慰めてくださいます。神さまが私たちともにいてくださいます。安心して、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。



  

(2023年6月11日平安教会朝礼拝式・花の日こどもの日合同礼拝)



2023年6月7日水曜日

6月4日平安教会礼拝説教要旨(高田太牧師)「百花のさきがけ」

「百花のさきがけ」 高田太牧師

使徒9:3-20節

2015年から同志社教会と梅花女子大学で働いています。以来、この両者の繋がりが、わたし達、会衆主義の伝統に連なる教会のための大切な遺産であると気付かされ続けて来て、これによって信仰を養われています。

 同志社の創立者、新島襄が死の間際に詠んだ有名な漢詩があります。「庭上の一寒梅、笑うて風雪を侵して開く。争わずまたつとめず、自ずから占む百花の魁」。この2年ほど前、1887年4月1日に新島は月ヶ瀬に出かけています。「梅花の消息を問わんと欲し、今朝、俄に思い立って木津に来たる」というのです。なぜ梅も終わりのこの時期なのでしょうか。

 1878年、大阪最初の女学校として梅花女学校が生まれました。その時代、女子の教育は必要と思われておらず、キリスト教への風も優しいものではありませんでした。それでも風雪を侵して、春を告げるべく花は開きました。この梅花学園の創立者は、浪花公会牧師の澤山保羅[ぽうろ]です。新島同様、アメリカに留学しましたが、英語の習得に苦労し、病に倒れることしばしばにして、私費留学で生活も貧しかったのでした。留学の3年目、公費留学扱いにしてもらえないかという願い出も却下され、目の前は真っ暗だったでしょう。ダマスコへの道で視力を失ったサウロの姿がこれに重なります。

 暗闇の中のサウロを訪ねたのはアナニアでしたが、澤山のアナニアは宣教師レビットでした。目からうろこが落ちました。なぜ自分がアメリカにいるのか、立身出世のためだと思えば暗闇であったその同じ状況が、まさに日本へのキリスト教伝道のための完全な備えであったと気付きました。澤山はパウロの名を自らのものとし、パウロのごとくに自給の道を行きました。しかしその精神が、京都と大阪の対立を生み出すこともありました。

 澤山の永眠は1887年3月27日、29日に告別説教をしたのは新島でした。新島の月ヶ瀬行は葬儀の三日後です。「梅花の消息を尋ね」に行ったのです。まさに梅の終わりの時、月ヶ瀬の梅林に新島は澤山の姿を、そして梅花女学校の姿を重ねて祈ったのでしょう。その祈りこそが美しい漢詩を生み出したのではないでしょうか。

 百花のさきがけとして大阪に開いた梅花の自給の精神は、「必要なものは神与えたもう」の信仰です。会堂に関する幻を抱いておられるこの時に、わたしどもの教会の原点にあるこの精神をお伝えできたらと思いました。


2023年5月31日水曜日

5月28日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「良いものを与えてくださる神さま」

聖書箇所 ルカ11:1-13。343/346。

日時場所 2023年5月28日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ   


ペンテコステ、聖霊降臨日と言いますが。イエスさまのお弟子さんたちに、神さまの霊である聖霊がくださり、お弟子さんたちが神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝えはじめます。

ペンテコステは、教会の誕生日と言われます。キリスト教には三つの大きなお祭りがあります。ひとつは、イエスさまの誕生をお祝いする日が、クリスマスです。そして二つ目は、イエスさまが復活なさったことをお祝いする日が、イースターです。そしてもう一つのキリスト教のお祭りが、教会の誕生日と言われるペンテコステです。ペンテコステはイエスさまのお弟子さんに神さまの霊である聖霊がくださり、そして弟子たちがイエスさまのこと、神さまのことを人びとに宣べ伝え、教会が生まれていったということで、ペンテコステは教会の誕生日と言われます。

一番最初のペンテコステの出来事が記されている聖書の箇所は、使徒言行録2章1−13節にはこうあります。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。】。

初期のクリスチャンたちは聖霊に満たされて、生き生きと歩み始めました。喜びの知らせを伝えて行きました。私たちもまた聖霊に満たされて、神さまの愛を、隣人に届けていきたいと思います。

今日の聖書の箇所は「祈るときには」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書11章1節にはこうあります。【イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。】。イエスさまが祈っておられるところに、弟子のひとりがきて、イエスさまに祈りを教えてくださいと言いました。バプテスマのヨハネがその弟子たちに祈りを教えたように、私たちにも祈りを教えてほしいと、弟子の一人が言いました。

ルカによる福音書11章2−4節にはこうあります。【そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」】。

なんだか聞いたような祈りだなあと思われると思います。私たちが礼拝毎に祈る、主の祈りに似ています。この聖書の箇所が、主の祈りの原形であるわけです。私たちが祈る主の祈りは、この主の祈りの原形から、いくつかのことが加えられているわけです。イエスさまが弟子たちに教えられたので、「主の祈り」であるわけです。マタイによる福音書6章9節以下にも、「祈るときには」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の9頁です。マタイによる福音書の方がすこし詳しく説明がなされています。

イエスさまが弟子たちに教えられた祈りは、短い祈りでした。とくに、神さまに対する呼びかけが「父よ」というふうに、とても短い呼びかけとなっています。当時のユダヤ教の祈りにおいては、この神さまへの呼びかけということについても、長々と呼びかけて祈るというのが、良い祈りであるとされていました。しかしイエスさまは「父よ」という簡素な呼びかけで、神さまに祈ることを弟子たちに勧めました。神さまに対して祈る時に、「こう祈らなければならない」というふうに構えてしまうと、こころからの祈りを神さまにお献げすることができません。イエスさまは短く祈ることによって、しっかりと神さまにこころを向けて、自分の祈りを神さまに真剣にお献げすることの大切さを、弟子たちに教えられました。

ルカによる福音書11章5−8節にはこうあります。【また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう】。

イエスさまは熱心に神さまにお祈りすることの大切さを、弟子たちに伝えています。熱心にお願いすると、人間だってその熱心さにほだされるということがあるだろうと、たとえでもってそのことを話されました。

旅行中の友だちが、自分のところに立ち寄ってくれたけれど、何も出すものがない。それで友だちのところに行って、パンを三つ貸してくれるようにお願いをする。だけど真夜中なので、もう勘弁してくれよと断られる。友だちということで願いを叶えてくれるということはないかもしれない。でも何度も何度も頼んだら、やっぱり起きて必要なものをくれるだろうと、イエスさまは言われました。

このたとえは聞いている人たちにとっては、「そういうことあるよね」と思えるたとえであっただろうと思います。「もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています」というところなど、なかなか生活感が出ていて、「そうだよなあ」と思えます。せっかく子供たちを寝かしつけたのに、また起きてしまうかも知れないのです。それは勘弁してほしい。でもやっぱり友だちが熱心に願うなら、何度も何度もお願いをされたら、それはやはり願いをかなえてあげざるを得ないのです。

ルカによる福音書11章9−13節にはこうあります。【そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」】。

イエスさまは神さまに熱心に求めなさいと言われます。魚をほしがる子どもに、蛇を与える父親はいないだろう。卵をほしがるどもに、さそりを与える父親はいないだろう。あなたたちは自分勝手な者だけれど、でも自分の子どもには良い物を与えたいと思っている。まして神さまは、神さまを慕い求めるあなたたちに良いものをくださる。あなたたちに神さまの霊である聖霊を与えてくださる。だから熱心に神さまに求めて歩んでいきなさい。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。

私たちの世の中は、魚を欲しがる子どもに蛇を与えるような父親がいたり、卵を欲しがる子どもにさそりを与える父親がいたりします。そうしたことがニュースになって出てきます。「昔はそんな父親はいなかった」と言いたいところですが、まあやっぱり昔もそんな父親はいたわけです。イエスさまのお話を聞きながら、「いや、そんなあまいもんじゃないんだ。世の中は」と思った人たちもいただろうと思います。そして実際に、人を信頼してひどい目にあって、「もう人を信頼することはできない。たとえそれが父であろうと、母であろう」とというふうに思う人もいたたろうと思います。

わたしが保育園で初めて園長として働くようになったとき、若い保育士の女性が、保育経験のないわたしに大切なことを教えてくれました。それは、「こどもが『これしてほしい』と言って、『あとでね『と応えた時は、かならずあとでそのことをしてあげてくださいね」ということです。園長はなかなか忙しいので、こどもに頼まれたとき、「あとでね」と言うことがあるわけです。でも忘れてしまったりすることが出てきます。でもこどもは「あとでね」と言われたら、覚えていて「あとでしてくれるのだ」と思って、ずっと待っています。でも「あとでね」と言われても、それをあとで行うことがなければ、「あとでね」という言葉は、むなしい言葉になってしまいます。人に対する基本的な信頼感、言葉に対する基本的な信頼感が、成長の過程で失われていきます。どうせ願っても、その願いはかなえられることはないのだということが、幼児のこころのなかで、確かな気持ちとして残っていくわけです。

イエスさまの時代の人たちも、「願いはかなえられないものなのだ」という思いを持っていた人たちがたくさんいただろうと思います。そうした切ない思いを抱えている人たちに対して、イエスさまは「あなたのことを愛してくださっている神さまがおられるから安心しなさい」と語りかけたのでした。

いろいろな悲しい出来事や苦しい出来事、つらい思いをすることがあっただろう。もうだれも信頼することができない。世の中にはたくさんの人がいるのだから、神さまだってわたしのことなど心配している暇はないに違いない。だから希望を持つなんてことは考えないで、ただただ一日が過ぎていけばそれでいいんだ。そんなふうにあなたたちは思っているかも知れない。でもそれはやっぱり違うよ。神さまはあなたのことを愛しておられるのだ。あなたのことを大切な一人として見ていてくださり、あなたのことを愛してくださっているのだ。だから神さまに願いなさい。神さまに祈りなさい。神さまが共にいてくださることを信じなさい。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。そのようにイエスさまは言われました。

イエスさまは「良いものを与えてくださる神さまがおられる」と言われます。あなたたちは邪な思いももつし、悪いこころもある。でもそうしたあなたたちを愛してくださる神さまがおられる。そしてあなたたちに良いものを備えてくださり、あなたたちを祝福してくださる。そして何より、あなたたちに神さまの霊である聖霊を与えてくださる。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。

今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。イエスさまの弟子たちに降った神さまの霊である聖霊は、私たちにも降り、私たちを神さまの民として祝福してくださいます。私たちは小さな者であり、いろいろな不安でこころがいっぱいになってしまうことも多いです。しかし私たちは神さまの民としての祝福を受け、神さまの霊による聖霊によって励ましを受けています。しっかりと神さまの示される道を、私たちも弟子たちのように歩んでいきたいと思います。聖霊でもって私たちを祝福し、私たちを用いてくださる神さまがおられます。神さまにお委ねして、安心して歩んでいきましょう。


(2023年5月28日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ)

2023年5月23日火曜日

5月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「いつまでもイエスと共に」

日時場所 2023年5月21日平安朝礼拝

聖書箇所 マタイ28:16-20。521/522。

新型コロナウイルス感染症のために、お酒を飲みに行く機会も、ここ数年あまりなかったという方もおられるかも知れません。5月の連休明けから、新型コロナウイルス感染症も、五類感染症に移行したので、そろそろ飲みにいくことを考えておられるという方もおられるかも知れません。

お酒を飲みにいき、「お飲物は何になさいますか?」と聞かれたら、人はよく「とりあえずビール」と言います。わたしはビール好きなので、「それの言い方は、ビールに対して失礼だろう」という思います。「お飲物は何になさいますか?」と聞かれたら、やっぱりはっきりと「ビールが飲みたい」と応えるの良いと思います。ビールも「とりあえず」なんかで飲まれたくはないと思っているでしょう。しかし案外、私たちは「とりあえず」というようないい加減なことをいうのです。

バブル期の女性たちは、数人の男の人とつきあっていて、いろんな用途によってつきあいわけていたと言われます。「アッシー」というのは「いい車を持っていて、いろんなところに運転していってくれる人」のことです。いわゆる「あし」がわりの人なのです。「ミツグ君」というのは、「プレゼントをいろいろ買ってくれる人」のことです。「みついでくれる」わけです。そして「キープ君」というのは、「一番好きではないけれども、一番好きな人とうまくいかなかった場合に備えてつきあっておく人」のことです。「本命君」に対する「キープ君」なわけです。しかし最近は、こうしたことがあまり言われなくなってきました。ひとつには女性にとって結婚ということが、人生の中心ではなくなってきたからだと思います。

しかし「とりあえず」とか「キープしておいて」というような生き方を、私たちはよくします。バーゲンセールに行って、「とりあえずこのセーターをキープしておいて」というふうに抱え込んで、そしてもっとよりよいものはないだろうかと探したりします。ものだったら、まあそれでもいいわけですが、やはり人の場合、なかなかそうもいかないわけです。

人間関係だけでなく、私たちと神さまの関係を考えたとき、私たちはかなり自分勝手なことばかりしているのではないかと思います。「神は愛である」というように、キリスト教の神さまは、愛の神さまです。神さまは私たちを一方的に愛してくれている。たえず私たちは神さまから愛の告白をされているわけです。そしてクリスチャンになるということは、その愛の告白を受け入れるということです。

しかし私たちは勝手なもので、神さまがたえず愛してくれているということを知りながら、いつもいつもその愛に応えることをせず、適当にあるいは自分の好きなときだけ応えているのです。神さまから愛されていながら、いつも神さまの方を向いているわけではないのです。他のものに、こころを奪われてしまっていることがあります。とりあえず神さまからの愛を受けておいて、他におもしろそうなことがあると、そちらにいってしまうのです。そういうことを考えると、「神をキープ君」にしてしまっているというように言えるかも知れません。

イエスさまの復活の出来事は、そうしたいいかげんな私たちに対して、またもや神さまの方から「いつもあなたがたと共にいる」という愛の告白がなされるという出来事です。その告白に対して、私たちは今度はどういうふうに応えていくのかということが、イエスさまの復活の出来事を前にして、私たちに問われています。今日の箇所はマタイによる福音書の最後の箇所です。「弟子たちを派遣する」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書28章は、イエスさまの復活物語が書かれてありますが、その復活物語の最後の部分でもあります。

マタイによる福音書28章16節には、【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った】とあります。マタイによる福音書では、弟子たちがよみがえったイエスさまと出会う場所は、ガリラヤであるとされています。「ガリラヤ」という場所は、イエスさまの活動の中心的な場所でありました(MT0424,0412)。そして弟子たちの故郷でもあります。弟子たちはイエスさまとの出会いの場所であるガリラヤから、再出発することになるのです。

弟子たちはイエスさまに言われていたように、ガリラヤの山にのぼります。シナイ山でモーセが神さまから十戒をもらったことなどからもわかりますように、山というところは、神さまと出会う場所です。そしてそこで弟子たちは、イエスさまと出会うことになります。

マタイによる福音書28章17節には【そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた】とあります。復活の出来事に関して「疑う者もいた」と、マタイによる福音書は言っています。しかしマタイによる福音書には、直接的に疑った人のことが書かれてありません。マルコによる福音書の復活物語は、後からの附加であるというふうに言われたりもしますが、私たちの聖書には一応のっています。イエスさまはマグダラのマリヤや旅をしているふたりの人に現れるのですが、その話を聞いてもだれも「信じません」でした。マルコによる福音書16章は、イエスさまの復活について書かれてあるのですが、この1章の中に「信じなかった」という言葉が3度出てきます。ルカによる福音書24章には、よみがえりのイエスを弟子たちが信じることができなかったので、イエスさまに「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と言われています。またヨハネによる福音書20章には、イエスさまの十字架の傷に指を入れてみなければ信じないと言ったトマスの話が出ています。

「キリスト教で一番大切なことは、キリストの復活である」とよく言われます。しかし聖書はこの復活に関して、信じられない弟子たちの様子を描き出しています。

多くの場合、この復活の出来事を信じることができないものに対して、非難がなされます。いつの世にもイエスさまのよみがえりを信じることのできない悪人はいるのだという調子で非難されています。「主イエスの復活について、予言され、それが成就し、目のあたりにこれを見ながら、なぜなお、疑ったのか」という感じで、よく論じられます。信じることのできないものが、まるで極悪人であるかのように論じられるとき、わたしはなにか釈然としないものを感じます。「わたしは信じられる」と胸を張って、信じられない人を裁いてしまっていいのかと思うからです。イエスさまは聖書の中で「人を裁くな」と言われたではないかと思うのです。

椎名麟三という小説家は『私の聖書物語』という本の中で、次のように言っています。【キリストが神だからという理由で全的にその奇跡を肯定している方々よ。もし少し正直になろう。あなた方も内心ではそんな奇跡なんか少しも信じられていはしないのだ。しかしそれを恥ずる必要は少しもない。実は、信じられないという点こそ、他の宗教はいざ知らずキリスト教にとっては、大切な生命の泉なのである。信じられないものであるという事実を消してしまえば、キリスト教は死んでしまうほどなのだ。信じられないなら信じられないでよろしい。むしろそれは人間の誇りであり、名誉だからである。何故ならそれはまごうことのない厳然とした人間の事実であるからだ。そしてキリストは、その人間の誇りをささえるために、いいかえれば限界への意識によって貧しくなっている人間を、むしろ生々といかすためにやって来たのである。限界をとりはずすためにやって来たのではなく、限界があるということが人間の喜びとなり栄光となるためにやって来たのである】(『私の聖書物語』、57頁)。

「キリストが神だからという理由で全的にその奇跡を肯定している方々よ。もし少し正直になろう。あなた方も内心ではそんな奇跡なんか少しも信じられていはしないのだ」という言葉は、言い過ぎかも知れません。

しかし椎名麟三の言いたいことというのは「信じられない限界のある人間だからこそ、人間とはそういう存在であるからこそ、キリストが人間に働きかけてくれるのだ」ということです。信じられない弱い器である私たちを認め、そのままで愛してくれるというのです。「疑う者がいた」ということから、「疑うやつは極悪人だ」「おまえは疑っていないか」「疑っているのはおまえだろう」というように考えていくのではなく、「自分が疑う者であり、そうした弱い自分を神がそのままで愛してくれている」ということを信じることが、大切だというのです。

自分が神さまを信じられない者であるということがわかることによって、神さまを信じて生きたイエスさまの歩みのすばらしさがわかります。イエスさまは神さまを信じた歩みのゆえに、「天と地の一切の権能を授かっている」ことになったのです。聖書はいかなる力も、イエスさまの前には無きに等しい者であることを告白しています。

そして神さまからいっさいの権威を授けられたイエスさまが、いま私たちと共にいてくださるのです。マタイによる福音書28章20節には【わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる】とあります。

神さまあるいはイエスさまが私たちと共にあるということを、私たちは素直にうれしいことと思います。イエスさまが守ってくださるので、絶対安心であるような気がします。しかしイエスさまと共にあるということは、私たちにとって安心であるということだけではなく、同時にイエスさまの歩みに従うということをも意味しています。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙6章8節で「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と言っています。イエスさまは十字架につけられて殺された方です。そういうことを考えると、イエスさまと共にいるということは、いつもいつもいいことばかりが続くことではないかも知れません。この世的に見れば、あまりいいことがないことなのかも知れません。

そんなことを考え始めると、イエスさまの「いつまでもあなたがたと共にいる」という招きの言葉に対して、すなおに「ありがとう」というふうに思うことができないかも知れません。私たちはそうした弱さを抱えて生きています。

しかし、復活の出来事はそんな私たちを神さまが変えてくださる出来事なのです。イエスさまの弟子たちにとって、イエスさまの死は、奈落の底に突落とされるような事件でした。「神さまはどこにもいない」というように思える絶望的な事件でした。しかし「神はいない」と思える絶望の中に、それでも「神共にいます」ということを信じる人々がいたのです。

私たちはなかなか信じることのできない者であり、イエスさまに従うことのできない者です。しかしイエスさまはそれでもなお、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と私たちに言ってくださっています。この招きに応えて、イエスさまと共に歩みたいと思います。いろいろな不安なことや心配なことが、私たちの現実の中にたしかにあります。しかしそれでもなお、イエスさまは私たちを導き、祝福してくださり、私たちに良きものを備えてくださいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださるイエスさまに、「私たちも世の終わりまであなたと共にいたい」と応える者でありたいと思います。


(2023年5月21日平安朝礼拝)

2023年5月15日月曜日

5月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「徳の高い生き方をなさいませ」

聖書箇所 ルカ7:1-10。433/520。

日時場所 2023年5月14日平安教会朝礼拝式・母の日礼拝


今日は、5月の第2日曜日ということで、母の日です。6月の第3日曜日が父の日です。母の日と父の日がどちらが子どもから覚えられているのかと言いますと、まあやっぱりいまの時代であっても、やはり母の日だろうと思います。最近は「父の日のプレゼント特集」というものもやっていますが、それでもやはり「母の日のプレゼント特集」のほうが活発なような気がします。

昔、政治家が自分の言ったおかしなことを指摘された時に、ぜったいに自分が正しいと言い張っていましたが、明くる日に「おかんに怒られた」と言って、自分の言ったことを取り下げるというようなことがありました。わたしは「おかんに怒られた」と言って取り下げるんだと、なんとも不思議な気がしました。わたしの文化のなかでは、いい大人が「おかんに怒られた」と言って、自分の言ったことを取り下げるというようなことは、やっぱりないだろうと思います。しかしこの「おかんに怒られた」という文化は、なんとなくあるような気がします。だからまあ政治家の人は自分に分が悪いと思った時に、自分が自分で言ったことを撤回するのではなく、「おかんに怒られた」という形で取り下げたのだと思います。そして周りの人たちも、「まあ、おかんに怒られたのならしょうがないかなあ」というふうに思うわけです。

2020年、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」という映画をみたときに、主人公の煉獄さんのお母さんが亡くなる前に、煉獄さんに話しかけるシーンはなかなか印象的なシーンでした。お母さんはこう言います。

「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」。やっぱりこの言葉をお母さんが語るというところが、ミソなのだと思います。お父さんが語ったのではだめなのです。お母さんが語るということに意味があるのです。

しかしなんとなくお母さんにもたれかかったような息子のあり様というのは、なんとなくひっかかるような気もするのですが、しかしなんとなく涙を誘うのです。ということで、わたしは今日の説教題を、母が子どもに伝えるという形の言葉遣いにしました。「徳の高い生き方をなさいませ」。「徳の高い生き方をしよう」や「徳の高い生き方をしなさい」ではなく、「徳の高い生き方をなさいませ」といたしました。

今日の聖書の箇所は「百人隊長の僕をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書7章1−5節にはこうあります。【イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」】。

ルカによる福音書6章では、「幸いと不幸」「敵を愛しなさい」「人を裁くな」というような、いわゆるマタイによる福音書の山上の説教に出てくるような内容のイエスさまのお話がされてあります。そうした大切なお話を民衆に話されて、イエスさまはカファルナウムにやってきます。そこである百人隊長に出会います。百人隊長というのは、軍隊組織のなかで、百人の部下をもつ隊長ということです。イエスさまの時代、ユダヤを治めていたのはローマ帝国でしたので、ローマ帝国の百人隊長ということです。この百人隊長の部下が病気で死にそうでした。イエスさまが病気の人たちをいやしておられたということをどこかで聞いたのでしょうか、百人隊長はイエスさまに部下をいやしてもらおうと、ユダヤ人の長老たちに頼みました。長老たちはイエスさまのところにきて、百人隊長の願いを叶えてあげてほしいと、一生懸命にお願いをします。長老たちは「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を立ててくれたのです」と言いました。「わたしたちユダヤ人を愛して」とありますから、百人隊長はユダヤ人ではないことがわかります。ですから百人隊長はローマ帝国の百人隊長で、異邦人ということです。でも異邦人でありながらも、ユダヤ教に対する理解者であり、ユダヤ教に心を寄せていたので、ユダヤ教の会堂を建ててくれたりして、支援をしてくれていました。それでユダヤ人の長老たちは熱心に、百人隊長の願いを聞いてくれるようにと、イエスさまにお願いをしたのでした。

マルコによる福音書7章24節以下には「シリア・フェニキアの女の信仰」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の75頁です。この聖書の箇所は、マタイによる福音書15章21−28節にも同じような話が出てきます。ルカによる福音書には出てきません。この「シリア・フェニキアの女の信仰」という話は、異邦人の女性が、自分の幼い娘をいやしてもらおうと、イエスさまにお願いをするという話です。しかしはじめイエスさまは彼女が異邦人だったので、やんわりと断ります。でも異邦人の女性が熱心にお願いするので、娘の病をいやしてあげるという話です。この話の中では、イエスさまは基本的には、ユダヤ人の病気を治すけれど、異邦人の病気は治さないという話になっています。しかし今日の聖書の箇所では、百人隊長は異邦人ですが、イエスさまは百人隊長の願いを聞いて、部下の病をいやされます。

ルカによる福音書7章6−8節にはこうあります。【そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」】。

イエスさまはユダヤ人の長老たちの願いを聞いて、百人隊長の部下をいやしにいかれました。イエスさまたちが百人隊長の家に近づいた時に、百人隊長は友だちを使いとしてたてて、イエスさまにこう言いました。イエスさま、家にまで来ていただかなくても大丈夫です。わたしは異邦人なので、あなたをお迎えするような立場の者ではありません。わたしのほうからお伺いすることさえ、ふさわしくないと思っていました。どうかひと言、「あなたの部下の病気は治る」とおっしゃってください。そうすればわたしの部下の病気は治ります。わたしも百人隊長という立場の者ですが、わたしが兵士に「行け」と言えば、兵士は行きますし、「来い」と言えば来ます。「これをしろ」と言えば、そのとおりにします。

ルカによる福音書7章9−10節にはこうあります。【イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。】。

イエスさまは百人隊長の言葉を聞いて関心します。そしてイエスさまは「イスラエルの中でも、これほどの信仰をわたしは見たことがない」と言われました。イエスさまは「この人の信仰はすばらしい信仰だ」と、異邦人である百人隊長のことをほめたわけです。そしてイエスさまはいやしのわざを行われました。百人隊長の使いが、百人隊長の家に帰ると、病気の部下は元気になっていました。

旧約聖書の列王記下5章1節以下には、預言者エリシャがアラム王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病をいやしたという話が出てきます。旧約聖書の583頁です。預言者エリシャは使いのものを、ナアマンのところに送り、「ヨルダン川で七回体を洗ったら直るから」と言わせました。それに対してナアマンは怒ります。列王記下5章11節にはこうあります。【ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた】。ナアマンはエリシャが自分のところに来なかったことを怒ったわけです。

まあナアマンの気持ちもよくわかるわけです、病気をみてもらうのに、私たちもやっぱり親身になってみてもらいたいと思います。私たちも病院に行って見てもらう時に、お医者さんがコンピュータの画面ばかりみていると、「あの医者はコンピュータの画面ばかり見ていて、わたしのことをみてくれない」と思います。コンピュータの画面をみるお医者さんよりも、わたしの顔をみて、「ああ、こりゃ、風邪ですね。葛根湯を出しておきましょう」と言うお医者さんのほうが、良いお医者さんのような気がするわけです。みてもらったあと、診察室の外で待っていると、お医者さんのやさしい声が聞えてきます。「ああ、こりゃ、風邪ですね。葛根湯を出しておきましょう」。それでもやっぱりコンピュータの画面ばかり見ているお医者さんよりも、良いお医者さんのような気がするわけです。

まあそれはさておき、百人隊長はナアマンとは違い、イエスさまが自分の家に来てくださらなくても、「あなたの部下は直る」とひと言言ってくださるだけで、大丈夫ですと言いました。百人隊長はナアマンのようにいばったりしませんでした。自分がえらいものであるというような振る舞いをしませんでした。

百人隊長は日頃から、ユダヤ人たちに親切にしています。会堂を建てたのも、百人隊長です。百人隊長は異邦人でありながらも、ユダヤ人の信じる神さまを信じていたのだと思います。そしてユダヤ人に対して敬意をはらっていたのでしょう。イエスさまに部下の病気をいやしてもらうときも、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言っています。当時、ユダヤ人の多くは異邦人のことを汚れた人たちであると考えていました。自分たちは特別な民族であるという考え方は、私たちの時代からすると、「それはちょっと高慢な考え方だろう」と思います。ですから本来であれば、民族的な意味においては、百人隊長はイエスさまに対して、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」というようなことを言う必要はないような気がします。ただ百人隊長は、イエスさまに対して特別な敬意をもっていたのだと思います。「この方は病気の人をいやし、貧しい人々のことを心に留めておられる方だ。神さまの示される道を歩んでおられるすばらしい方だ」。そのような敬意を、百人隊長はイエスさまに対してもっていたのだと思います。

百人隊長が病をいやしてほしいと願ったのは、自分の病気ではなく、また自分の家族の病気ではありませんでした。。百人隊長は自分の部下の病気をいやしてもらうようにと、イエスさまにお願いをしました。百人隊長は部下思いの人であるわけです。

イエスさまは百人隊長をほめられました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と、イエスさまは言われました。それは百人隊長が、まっすぐな信仰をもっていたからです。兵士が上官に命令をされたら、それに従うように、自分も神さまによって良きことを示されたら、神さまの御心をしっかりと行なっていきたい。そういうまっすぐな信仰をもっていたからです。

百人隊長は神さまに対してしっかりとこころを向けて歩んでいました。ですから百人隊長はユダヤ人に対して親切でしたし、部下に対しても配慮がある人でした。神さまの御子としての歩みをされているイエスさまに対して、とても謙虚な思いをもっていました。ひと言で言えば、百人隊長は人徳者であったのです。

徳の高い生き方をするということは、とても大切なことです。とくに現代のように、「法律に違反しなければいいだろう」「立件されなければ、犯罪を犯したことには成らない」というような雰囲気が漂っている社会の中にあって、徳の高い生き方をするということは、それはとても大切なことだろうと思います。

今日は母の日ですので、はじめに紹介いたしました、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」の主人公の煉獄さんのお母さんの言葉をもう一度読んでみたいと思います。「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」。

百人隊長のお母さんが百人隊長にどんな言葉をかけていたのかというようなことは、あたりまえですが、聖書に出てくるわけではありません。しかし私たちは思います。たぶん百人隊長のお母さんは百人隊長に、「徳の高い生き方をなさいませ」と語っただろうと思います。それは私たちの願いであり、私たちもそのように歩んでいきたいと思うからです。

神さまが私たちを祝福し、私たちを愛してくださっています。私たちはそのことをしっかりと受けとめて、神さまに神さまにふさわしい歩みでありたいと思います。



  

(2023年5月14日平安教会朝礼拝式・母の日礼拝)


8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...