日本基督教団平安教会は、京都市の岩倉にあるキリスト教会です。「自由で明るく思いやりのある教会」の歩みでありたいと思っています。教会のwebsiteは、http://heian-church.com/index.html。教会のTwitterは、https://twitter.com/heian2019。教会へのメールは、heiankyoukai@live.jp。郵便振替は、01010-7-22442。
2023年10月25日水曜日
10月22日平安教会礼拝説教要旨(同志社女子大学 小﨑眞牧師)
2023年10月18日水曜日
10月15日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「見えないけど、感じる神さまの愛」
「見えないけど、感じる神さまの愛」
聖書箇所 ルカ17:20-37。227/476。
日時場所 2023年10月15日平安教会朝礼拝式
『絶対音感』という本で有名な最相葉月(さいしょう・はずき)というノンフィクションライターは、2022年10月に、『証し 日本のキリスト者』(角川書店)という本を出しています。5センチくらいある分厚い本で、大判の旧新約聖書くらいの大きさです。
【なぜ、神を信じるのか。全国の教会を訪ね、135人に聞いた信仰のかたち。「証し」とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や言動を通して人に伝えることである。本書は、北海道から沖縄、五島、奄美、小笠原まで全国の教会を訪ね、そこで暮らすキリスト者135人に、神と共に生きる彼らの半生を聞き書きしたものだ】。
最相葉月は、インタビューにあたって何度も聞いた質問というのがあります。【インタビューにあたって、キリスト者にたびたび回答を求めた質問があった。その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してなお、信仰はゆるぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないのか、それでも信じるのはなぜかということ】。
大きな災害で家族が犠牲になることや、自分が大けがをしてしまうこと、また財産を失い、どのように生きていけばよいかわからなくなること。そうしたなかにあって、どのように神さまを信じて生きてきたのか。人間的なことを考えたら、どうしてそのようなことができるのか、私たちにもよくわかりません。しかし実際に、大きな災害を経験しても、神さまを信じて生きてきた人たちは、私たちの周りにもたくさんおられます。それはもう神さまのわざとしか言いようのないような気がわたしにはいたします。
今日の聖書の箇所は「神の国は来る」という表題のついた聖書の箇所です。世の終わり・終末や、神さまの国の到来ということは、イエスさまの時代にも、いろいろと議論がなされている事柄でした。イエスさまの時代は、世の終わり・終末ということが、いまにも起こるというふうに考えられていた時代です。ですからどのような形で、世の終わり・終末がやってくるのか。世の終わり・終末が起こる前に、なにかその兆候というものがあるのかというような事柄が議論されていました。だいたいは世の終わり・終末の前には、天変地異が起こって大変なことになると言われていたり、偽預言者が現れるというようなことが言われたりしていました。今日の聖書の箇所もそうした世の終わり・終末についての議論の中にある話であるわけです。
ルカによる福音書17章20−21節にはこうあります。【ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」】。
ファリサイ派の人々は、イエスさまに「神の国はいつ来るのか」と尋ねます。ファリサイ派の人々は、世の終わり・終末、そして神の国が来るというようなことを考えていました。そしてそれがいつ起こると考えているのかということを、イエスさまに質問をします。ファリサイ派の人たちは、神の国が来て、自分たちが神さまによって義とされると考えていました。私たちは一生懸命に、悪い罪人たちを罰してきたのだから、神の国の中で自分たちは義とされる。その神の国はいつ来るのかと、イエスさまに質問をしたわけです。
しかしイエスさまはその質問について、すこしはぐらかすような答えを語られました。イエスさまは「神の国は、見える形では来ない」と言われます。それはあなたたちが考えているような形では、神の国というのは来ないのだと、ファリサイ派の人たちに言われたということです。「ここにある」「あそこにある」「私たちが義とされる」というように、あなたたちに都合の良いようには神の国は来ない。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というのは、神の国ということが、世の終わり・終末に、私たちが神さまから義とされる、神さまから誉められるというようなことなのではなく、いまあなたたちがどのように生きているのかということの問題であるのだということです。
そしてそれはイエスさまを受け入れるのかどうかということと関係しているということです。ファリサイ派の人たちは、律法を守ることのできない人たちを裁き、自分たちが義の裁き人であるかのようにふるまっていました。しかしイエスさまはそうしたファリサイ派の人々を批判されました。批判をされただけでなく、イエスさまはファリサイ派の人々が罪人と非難した人々を愛され、罪人と共に食事をされます。神さまの御子であるイエスさまは、神さまの御心を行ない、そして罪人を悔い改めと新しい命への導かれました。そうしたイエスさまを受け入れるのか、どうかということが問われているということです。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というのは、あなたたちはさも自分たちが義とされる神の国がやってくることを望んでいるけれども、そのような神の国はやってこない。いまあなたたちに必要なことは、悔い改めるということなのだ。イエスさまが支配しておられる神の国はあなたがたの間にある。そしててあなたがたがイエスさまに従うかどうかの決断をするかどうかということ大切なことなのだと、イエスさまはファリサイ派の人々に問われたのです。
ルカによる福音書17章22−25節にはこうあります。【それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。】
ここで言われている「人の子」というのは、いわゆる世の終わり・終末にやってくるとされている救い主・メシアということです。その方がどのような方であるのかということは、世の終わり・終末の出来事がどのような出来事であるかはっきりとしないので、まあいろいろなことを言う人たちがいるわけです。まあでもみんなやっぱりその方に会ってみたいと思うわけです。でもイエスさまは「見ることができない」と言われます。ここでも「見ることができない」というのは、あなたたちが頭のなかで想像しているような感じのこととしては「見ることができない」ということです。みんないろいろというわけです。「見よ、あそこにいるぞ」「見よ、ここにいるぞ」というふうに言うわけですが、そうしたことはあてにならないと、イエスさまは言われます。
イエスさまはあなたたちが考えているような感じで「人の子を見ることはできない」と言われます。そして「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排除されることになっている」と言われます。ここで言われていることは、イエスさまご自身が経験されることであるわけです。イエスさまは多くの苦しみを受け、人々から排除され、十字架につけられます。ですからここで言われている「人の子」というのは、イエスさまのことであるわけです。
弟子たちは自分の頭の中で勝手に、「世の終わり・終末には救い主・メシアと呼ばれる「人の子」がやってきて、私たちに敵対している悪いやつらをやっつけてくれる。そして私たちは神さまによって、良き者として特別に祝福を受けるのだ」というようなことを考えているわけです。しかし実際に起こることは、弟子たちは救い主であるイエスさまを裏切り、イエスさまは人々から蔑まれ、そして十字架につけられるのです。そしてそのことは神さまの御心であり、避けることのできないことであるのです。イエスさまの十字架によって、私たちの罪は赦されるのです。
ルカによる福音書17章26−29節にはこうあります。【ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった】。
ノアの時代のことは、創世記6章ー10章に書かれてある、ノアの洪水物語の話です。旧約聖書の8頁以下に書かれてあります。ロトの時代のことは、創世記の19章「ソドムの滅亡」に書かれてある物語です。旧約聖書の25頁に書かれてあります。物語として興味深い話ですから、あとでじっくりと読んでくだされば良いかと思います。ノアの時代のことも、ロトの時代のことも、要するに神さまが人々に罰を与えられ、洪水が起こったり、町が滅ぼされたりする大災害の話であるわけです。しかしそうした災害は突然やってくるのです。同じように世の終わり・終末も、明日来るとか明後日来るとか、3ヶ月後にとか、1年後にとか、その日について言うことはできないということです。ただいつ来るかわからないけれども、必ずやってきて、そして飛んでもないことになってしまうと、イエスさまは言われるのです。
ルカによる福音書17章30−37節にはこうあります。【人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」*畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」】。
人の子が現れる日、いわゆる世の終わり・終末ということです。そのときもやはりノアの時代やロトの時代と同じようなことが起こる。同じことをしていても、一人は被害にあい、一人は生き延びることができる。そうしたことは避けがたいことであり、「どうしてわたしが生き延びることができたのだろう」というような思いになることもあるかもしれない。「どうして、どうして」というような問いかけの中に生きていくことがあるかもしれない。しかしそれはただそのようなことが起こるとしか言いようがない。そのようにイエスさまは言われました。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが語られたつらい出来事をこころに留めながら、それならそうした災害にあうことがないように、そのことが起こる場所を教えてほしいと、イエスさまに言うのです。「主よ、それはどこで起こるのですか」と、イエスさまに弟子たちは尋ねたのです。するとイエスさまは「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」と言われました。それはどこで起こるというようなことではなく、人のいるところではどこでも起こることであるということです。人がいるところではどこでも災害が起こり、そして人が死んでしまうということが起こる。そしてその死体をみて、はげ鷹も集ってくるということです。
イエスさまの時代、世の終わり・終末が、いつ・どのような形で来るのかということは、とても不安なことでした。ですからファリサイ派の人も、世の終わり・終末はいつ来るのかと、イエスさまに尋ねました。イエスさまも、世の終わり・終末がどのような形で来るのかということを語っています。しかしまあそれから2000年ほどの年月がたっているわけですから、私たちの人生という尺度からすると、結局は世の終わり・終末ということについてはよくわからないというのが、私たちの感覚だと思います。世の終わり・終末は来るけれども、それはいつ来るか、どのような形で来るのかということは、わからないのです。でも同時に、明日来ないということでもないわけです。いつ来るかわからない。それはイエスさまの時代から変わらないことです。
世の終わり・終末に事柄に関わらず、私たちは不安がつきまとう人生を生きています。あるときは信仰のゆらぎを感じる時もあります。神さまはわたしのことを忘れておられるのではないか。神さまはわたしを見捨てておられるのではないか。そのような思いになるときもあります。信仰とはゆらぎのあるものです。
しかしまた私たちは自分が神さまの救いの中に生きていることを感じます。私たちは神さまの愛を感じて生きています。それは「ここにある」とか「あそこにある」というふうに言えるものでもありません。私たちの都合の良いように、神さまが働いてくださるというわけでもありません。現実の生活の中で、いろいろなことで私たちは右往左往させられ、不安になったり、悩んだりもします。しかしそうした中にあっても、私たちは神さまの愛を感じて生きています。「ここにある」とか「あそこにある」というように見えるわけではないので、説明をするのがとてもむつかしいわけですけれども、私たちは弱い私たちを支え、導いてくださる神さまの愛を感じて生きています。
信仰とはほんとに不思議なものだと思います。いろいろな出来事にあい、もちろん信仰がゆらぐということもあるわけです。しかしそれでも、私たちは神さまの愛を感じて歩んでいます。わたしはそれはとても幸いなことであり、そしてとても平安なことだと思います。
ぜひ「わたしも共にそのような歩みに導かれたい」との思いをもつ方がおられましたら、私たちと一緒に、神さまを信じて、共に歩んでいくことができればと思います。
(2023年10月15日平安教会朝礼拝式)
2023年10月11日水曜日
10月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)
「ごめんね。いいよ。謝罪と赦し」
聖書箇所 ルカ17:1-10。211/445。
日時場所 2023年10月8日平安教会朝礼拝式・神学校日礼拝
今日は神学校日です。神学校・神学部の働きを覚えてお祈りいたします。神学校・神学部で学ぶ神学生、事務職の方々、教師の方々の上に、神さまの恵みが豊かにありますように。私たちの教会には、村上みか牧師(同志社大学神学部教授)が教会員としてお働きくださっています。奏楽のご奉仕をしてくださっています。
わたしも同志社大学の神学部で学びました。同志社大学の神学部はとても良いところでした。ぜひ志のある方は、同志社大学の神学部に入って、神学を学んでいただきたいなあと思います。もちろん同志社大学の神学部に入って、牧師になる人たちがたくさん出てきてほしいと思います。しかしそれだけでなく神学を学ぶことによって、いろいろな事柄について洞察力が深まることが、その人の人生にとって、わたしはとても良いことだと思います。
テレビで最近、謝罪会見が行われます。いま話題の謝罪意見はジャニーズ事務所です。創業者であるジャニー喜多川が未成年に対する性的虐待を行なっていたことがわかりました。そのためにジャニーズ事務所は廃業することになります。先日の謝罪会見では、謝罪会見を取り仕切っている企業が、「この記者には当てないようにしよう」というリストを作っていたということが報じられていました。あんまりまじめに謝罪をしようという気持ちがないのだろうなあという印象を振りまくことになり、企業体としても不安のつきまとう謝罪会見となりました。
ジャニーズ事務所は未成年の育成を行なう部門のある会社でありながら、創業者が未成年に対する性的虐待を多くの人たちに対して、長年行なっていたということですから、まあそれはほかのことと比較にならないくらい罪深い犯罪です。しかしジャニーズ事務所のほうが、あまりそうした意識がなかったのだろうと思います。いいかげんな対応をし続けてきました。たぶんジャニーズ事務所は、政治の世界などでいろいろな不祥事が起こっているけれども、いいかげんな対応でお茶を濁すようなことで乗り切ることができているから、私たちもそうした対応で良いのではないかと思っていたのだと思います。たしかに旧統一協会との関係についても、うやむやなことですませているような政治家もたくさんおられます。私たち日本の社会が、あまりにもいいかげんなことを赦してきたので、ジャニーズ事務所のような対応が生まれてきてしまうのだと思います。それはあまり良いことではないと思います。
「うまく立ち回ってごまかすことができればそれで良いのではないか」というような雰囲気がどんどんと拡がっていくというのは、社会にとって良いことではありません。謝罪会見が混乱することのないように、「この記者には当てないようにしよう」リストをつくって、その場しのぎの会見を行えばよいというのは、やはり良いことではありません。やはり悪かったことをしっかりと謝罪し、誠実に対応していくということを大切にする社会であったほしいと思います。ウソやごまかしが幅を利かすようになると、私たちの社会はとめどもなく衰退していくだろうと思います。
今日の聖書の箇所は「赦し、信仰、奉仕」という表題のついた聖書の箇所です。赦し、信仰、奉仕ということですので、書かれてあることは、そうしたことであります。ですから個別のことが書かれてあるわけですが、しかし赦し、信仰、奉仕ということを通して、クリスチャンとしての生き方、どのように神さまに向き合いつつ、私たちが私たちの人生を歩んでいくのかということが書かれてあります。
ルカによる福音書17章1−4節にはこうあります。【イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」】。
つまずきというのは、元来、獣などを捕らえるときに罠のことをです。ですから、つまずきというのは人を罠に陥れることを意味します。「つまずきは避けられない」というのは、それが良いことであるというのではなく、そういうことは悲しいけれども起こってしまうということです。でもそれを行なうことはしてはいけないことなのです。ですからつまずきをもたらす者は不幸であるのです。そうした人は必ず神さまによって罰せられ、首にひき臼をかけられて、海の中に投げ込まれるよりもひどい目にあうことになる。弱い立場の人を陥れるというようなことは、絶対にしてはならないことなのだと、イエスさまは言われます。
罪を犯すというようなことをしてしまうことが、人にはあるわけです。もし仲間が罪を犯したなら、「それはしてはいけないことなのだ」と戒めなさい。それでその人が悔い改めるのであれば、赦してあげなさい。一日に七回、あなたに対して罪を犯しても、七回、悔い改めると言って、あなたに赦しを乞うのであれば、赦してあげなさい。七という数字は、ユダヤ教の中では特別な数字です。ですから単なる七回という数字ということではなくて、「必ず」とか「何があろうと」というようなことを意味しています。あなたのところに赦しを乞いに来たならば、どんなことがあろうと、必ず赦してあげなさいということです。
「赦し」ということのあとは、「信仰」ということについて、イエスさまは言われます。ルカによる福音書17章5−6節にはこうあります。【使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう】。
イエスさまの弟子たちは、イエスさまに「私たちの信仰を増やしてほしい」と願いました。イエスさまから「信仰の薄い者たちよ」と叱られることが、弟子たちはときどきありました。弟子たちも自分たちは信仰が薄いということを自覚していたのだと思います。それで「私たちの信仰を増やしてほしい」と願うのです。わたしも信仰の薄い者ですから、弟子たちの気持ちはよくわかりません。もう少し自分に信仰があったら、イエスさまを悲しませるようなことはないのではないかと思います。しかしイエスさまは「私たちの信仰を増やしてほしい」と言う弟子たちに対して、「あなたたちの信仰はからし種一粒ほどの小さいもので大丈夫だ」と言われます。からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても言うことを聞くと、イエスさまは言われます。
これはいったいどういうことなのだろうと思います。桑の木が言うことを聞くということはないでしょうから、弟子たちにはからし種一粒ほどの信仰もないのかということですが、そもそもイエスさまは弟子たちが信仰があるかどうかということを、あまり問題にしておられないのだと思います。私たち人間の側に、信仰があるとかないとか、信仰が深いとか信仰が薄いとか、そういうことはある意味、あまり重要なことではないと、イエスさまは言われます。「あなたたちにはからし種一粒ほどの信仰がないのか」と、イエスさまが弟子たちを叱っておられるということではなく、そんな薄い信仰しかない、だめな弟子たち、そして私たちを愛してくださる神さまがおられるということがたいせつなのです。
ルカによる福音書17章7−10節にはこうあります。【あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」】。
この箇所は「奉仕」について書いてあります。僕が畑から帰ってきた時に、主人が「すぐに来て食事の席に着きなさい」とは言わない。「わたしの食事を用意してくれ。そしてわたしの食事の間は給仕をし、その後でおまえは夕食を食べなさい」と言うだろう。主人が命令したことを僕が行なったからと言って、主人が僕に感謝することはない。あなたたちも同じように、神さまから命じられていることを行なうことができたら、「私たちは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。私たちがこんなすばらしいことをしたというように、自分のことを誇るのではなく、謙虚に神さまから任されている業を行なう者でありなさい。自分は神さまに仕える僕であるということを、しっかりとこころに留めて、謙虚に生きていきなさい。そのようにイエスさまは言われました。
私たちはいつのまにか自分の力で生きているような気持ちになってしまいます。自分の力で生きている気持ちになるので、人に対しても厳しくなります。「わたしはこんなにしっかりと生きているのに、あの人はどうして失敗したり、罪を犯したりするのだ。怠け者だからだ。悪い奴だからだ」。そうした思いになり、人の失敗や罪を赦すことができないという思いが強くなります。それで自分の力で生きていると思って高慢になっている私たちに、弱い立場の人をつまずかせるようなことをしてはいけない。またあなたに対して罪を犯した人を赦してあげなさいと、イエスさまは言われるのです。
また自分の力で生きていると思っている私たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と願うときに、「あなたの信仰が深いとか、信仰熱心だということが大切なのではなく、信仰の弱いあなたのことを愛してくださっている神さまの憐れみに気づくことが大切なのだと、イエスさまは言われたのです。
そして神さまが私たちに託してくださった能力を生かして、神さまの前に立つ者として、仕える生き方をしなさいと、イエスさまは私たちに言われました。高慢な思いになるのではなく、あなたに託された良き業を誠実に行なっていくような生き方でありなさいと、イエスさまは言われました。
イエスさまは私たちに「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」と言われました。「赦してやりなさい」。赦すということはなかなかむつかしいことです。私たちはそんなに心が広くないですが、そんな「赦してやりなさい」と言われても、そう簡単に赦すことはできないと思います。まあじっさいにできないわけです。私たちが赦すことのできない者であることは、イエスさまもご存知です。イエスさまは頑なな私たちの気持ちをご存知です。もっと言えば、「あなたのその気持ちもわかる」と、イエスさまは思っておられるだろうと思います。それでも「赦してやりなさい」と、イエスさまは言われます。ですから「7度、赦してやりなさい」といわれるのです。
「あの人のことを赦すことはできない」という思いに、私たちはなることが多いですけれども、しかし私たちもまた「神さまの前に立つ一人の罪人である」ということを、私たちは知っています。神さまの前に立つとき、私たちは自分がだめな人間であることを、罪深い人間であることに気づかされます。
昔、保育園で園長をしていたときに、ときどきこどものけんかの仲裁をするということがありました。砂場で砂をかけられたとか、つきとばされて転んだとか、いろいろな理由でけんかになります。あまりひどいけんかにならないように、仲裁に入るわけです。そして「太郎君がこうした。次郎君がこうした」という説明を受けて、そして謝罪と赦しの儀式を行なうのです。「ごめんね」「いいよ」という儀式です。「ごめんね」「いいよ」。こどものけんかですから、私たち大人のようなどろどろとしたどうしようもないけんかというわけでもありません。ですからまあ和解しやすいということもあります。それでもこどもたちもそんなに簡単に「ごめんね」「いいよ」というふうになるわけでもありません。大人にとっても謝罪と赦しはむつかしいように、こどもにとってもやはりそれなりに「ごめんね」「いいよ」はむつかしいことであるわけです。
それでもはやり私たちは謝罪と赦しを、「ごめんね」「いいよ」を繰り返しながら、私たちの世界で生きていきます。
神さまがイエス・キリストのゆえに、私たちを赦してくださり、そのイエスさまが私たちに言われるのです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。私たちは欠けたところも多いですから、失敗をしたり、傷つけあったりすることもあります。ですから補い合い、赦しあい、支え合って生きていきます。そしてそうした誠実な私たちの歩みを、神さまは導いてくださり、支えてくださいます。
神さまの導きのもと、互いに支え合い、互いに赦しあい歩んでいきたいと思います。
(2023年10月8日平安教会朝礼拝式・神学校日礼拝)
2023年10月5日木曜日
10月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)
「やっぱり世のため人のため」
聖書箇所 ルカ16章19-31節。197・411。
日時場所 2023年10月1日平安教会朝礼拝
今日は世界聖餐日です。世界中の教会の人たちと、共に聖餐に預かる日は、私たちにとってとても大きな喜びの日です。
世界聖餐日・世界宣教の日に、在日大韓基督教会関西地方会京都地区と、日本基督教団京都教区京都南部地区は、合同礼拝をもちます。今年は京都丸太町教会でもたれます。
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の冒頭の言葉は有名な言葉で、こころにとまる言葉です。【僕がまだ年若く、こころに傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えたくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではないのだと」】(P9)(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』、中央公論新社)。
こどもの頃は、自分が義務教育を終え、高校で受験勉強をして、そして大学に行くということ、わたしはあたりまえのことと思っていました。父もそのことを望んでいましたし、また兄も大学に行ったので、わたしも受験勉強をして大学にいくのだと思っていました。しかし実際、大学にいくというようなことは、とてつもなく恵まれているということです。
【世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではない】というのは、そのとおりです。世界を見回せば、貧困や暴力が満ちています。そうしたなかで、勉強をしたくてもできない人々はたくさんいます。ペンをもって勉強したいにも関わらず、銃をもって闘わざるを得ない人々が、この世の中にはたくさんいます。あるいは家族を食べさせるために、道ばたでタバコやキャンディーを売らなければならないというこどもたちがたくさんいます。そうしたことを思うときに、せっかく大学まで出たのだから、やはり自分のできる形で、少しずつであるにしても、世の中に返していかなければいけないと思うようになりました。「やっぱり世のため人のため」ということは、私たちが忘れてはならない大切なことだと思います。そして自分が学問をすることができたということについて、やはり誠実でなければならないと思います。
今日の聖書の箇所は「金持ちとラザロ」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書16章19-21節にはこうあります。【「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた】。
このたとえ話はなかなか衝撃的なたとえ話です。あるお金持ちがいつもいい服を着て、毎日ぜいたくな暮らしをしていました。このお金持ちの門の前にラザロという名前の人がいました。ラザロという名前は、「神は助ける」(エリエゼル、エルアザル)をいう意味の名前です。ラザロはできものだらけで、そして貧しい人でした。お金持ちの【食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた】というわけですから、とくにこのラザロという人はりっぱな人であったということでもありません。とくにラザロが信心深いということでもないでしょう。ラザロはできものだらけで、そして【犬もやって来ては、そのできものをなめた】ということですから、たぶん多くの人々はラザロを見るのをいやがったことでしょう。
ルカによる福音書16章22-23節にはこうあります。【やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。】。
死は貧しい人にもお金持ちにも、等しく訪れます。お金持ちだからと言って、死なないわけではありません。ラザロはこの世では貧しく大変な生活であったわけですが、死んだあとは天使たちによって天上の宴会に連れていかれ、そしてアブラハムのすぐそばにくることになりました。お金持ちも死にました。たぶんこの世で丁重に葬られただろうと思います。しかし死んだあとお金持ちは陰府でさいなまれることにあります。お金持ちが目をあげると、天上で宴会が行われているのが見えます。そしてアブラハムのすぐそばに、自分の家の門の前にいたあのラザロがいるのが見えました。
ルカによる福音書16章24-26節にはこうあります。【そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』】。
お金持ちは「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」と、アブラハムに呼びかけています。またアブラハムも「子よ、思いだしてみるがよい」と答えています。「父よ」「子よ」という具合に答え合っています。ですからお金持ちはアブラハムの子孫です。しかしアブラハムの子孫であるということは、ほとんど意味を持たないことだということです。ユダヤ教において「アブラハムの子孫である」ということは、神さまから特別に愛され、選ばれているということを意味します。しかしそうしたことは、何の意味もないことだと、イエスさまはこのたとえ話をとおして言っておられるのです。
このお金持ちは【ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください】と言っています。陰府にあっても、このお金持ちはラザロを自分の僕のように考えているわけです。このお金持ちは、この世にあってラザロが苦しんでいるときに、直接手を差し伸べることもなかったでしょう。しかし自分が苦しんでいる時には、【ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください】と言うのです。その姿は憐れです。
ラザロは行ないが立派であったから、アブラハムのそばにあげられたわけではありません。ラザロがアブラハムのそばにいる理由は、「この世で貧しかったから」です。アブラハムはこう言っています。【子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ】。
「生きている間に良いものをもらっていたから、今はお前はもだえ苦しむのだ」と言われると、「えーっ、それはちょっと」というような気が、私たちはします。しかしお金持ちがお金持ちであるのは、たぶんお金持ちの父親とか母親がお金持ちであったからです。彼の兄弟もお金持ちです。たまたま、お金持ちの家に生まれたから、お金持ちであるのです。ラザロがお金持ちの家に生まれたとしたら、ラザロはお金持ちです。お金持ちであることは、たまたまのことであり、それはあたえられたものです。ですからこのお金持ちは、自分のようなことにならなように、自分の兄弟たちにこのことを告げたいと言うのです。この世で配慮のない生き方をしていたらとんでもないことになるということを、自分の兄弟であるお金持ちに告げたいというのです。
ルカによる福音書16章27-31節にはこうあります。【金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 】。
お金持ちはまだ「ラザロを遣わしてください」と言います。まだラザロのことを自分の僕のように考えています。なかなか身に付いたものは抜けないのです。アブラハムはお金持ちに、【『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』】と言います。彼らが耳を傾けるべきモーセと預言者の言葉というのは、小さき者への配慮ということです。出エジプト記22章20節以下には「人道的律法」という表題のついた聖書の箇所があります。【寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない】(出エジプト22章20-21節)とあります。モーセの律法には小さき者への配慮ということがしっかりと記されてあります。また多くの預言者たちも小さき者への配慮ということを語りました(アモス書8章4-7節)。
お金持ちは【死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう】と言います。しかしアブラハムは【『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』】と言います。もうすでに語られるべきことは語られている。しかしそれを行おうとしないだけだと、アブラハムは言うのです。
ユダヤ教では「ヘセドを施せ」ということが、よく言われます。「ヘセド」というのは「慈しみ」ということです。慈愛というような意味です。箴言11章17節には【慈しみ深い人は自分の魂に益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る】という言葉があります。この「慈しみ」というのが「ヘセド」です。ユダヤの人々は小さい頃から「ヘセドを施せ」ということを言われながら成長します。
イエスさまもまた【『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』】(マタイ22章37-39節)と言われました。神さまを愛し、隣人を自分のように愛することが、イエスさまが言われた大切な教えです。
ハロルド・S・クシュナーという人が書いた『天国に行くための8つの知恵』(聖公会出版)という本があります。『天国に行くための8つの知恵』。「みなさん、天国に行きたいですか!」。クシュナーは『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(岩波書店)という本を書いています。この『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(岩波書店)も、なかなか考えさせられる本です。
『天国に行くための8つの知恵』という本の中で、クシュナーは恩師のヘッシェルの言葉を引用しています。【恩師アブラハム・ジョシュア・ヘッシェル先生の次のような言葉をよく思いだします。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」】(P3)。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」。わたしはヘッシェル先生(1907年-1972年)ほど年を重ねてはいませんが、なんとなく自分の中でそうした気持ちが出て来たような気がします。そして賢い人間にならなくても、親切な人、良き人でありたいと思います。
クシュナーはこんなことも書いています。【最近、たまたま、あるアメリカ先住民の部族指導者が自らの内なる葛藤について記述した話を読みました。「私の中に二匹の犬がいる。一匹は意地悪で悪だ。もう一匹はいい犬だ。意地悪な犬はいつも「いい犬」(注:『悪い犬』と日本語で訳されているけれど、文脈からすると『いい犬』という気がする。確かめることはできなかったけど・・・。『いい犬』だということで話をすすめる)と喧嘩している」と、彼は言いました。「どちらの犬が勝つんですか」と聞かれたとき、少し考えて、「餌をたくさんやった方だ」と答えました】(P64)。
私たちはいつもいつもいい人間ではありません。善人であるときもありますし、悪人であるときもあります。心の中で善と悪が闘っているということがあります。で、どちらが勝つのかというと、「餌をたくさんやった方だ」というわけです。ですから生き方として、「小さな良き業に励む」ということは、わたしはとても大切なことだと思います。私たちは完全な善き人ではないかもしれません。しかし小さな良き業に励むことは、私たちが悪人に成り果てることを阻んでくれるのです。だから「ヘセドを施す」のです。慈しみを大切にして生きるのです。箴言14章22節にも同じような言葉があります。【罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る】。【罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る】。
たしかに私たちの世の中は「正直者が馬鹿を見る」ような世界です。「お金をたくさんもうけて、何が悪いんですか」と言われたりする世の中です。わたしは「お金はたくさんもうけていい」と思います。ただもうけたお金を自分のためだけに使うのは良いことではないと思います。なぜかというと、今日のたとえ話のお金持ちのようになってしまうからです。
世の人から笑われるかも知れませんが、私たちキリスト者は「やっぱり世のため人のため」という心意気で生きていきたいと思います。私たちは一人で生きているわけではありません。私たちは神さまから命をあたえられ、そして周りの人々に支えられて生きています。小さな善き業に励み、神さまの御前に誠実に生きて行きましょう。
(2023年10月1日平安教会朝礼拝)
2023年9月27日水曜日
9月24日平安教会礼拝説教要旨(堀江有里牧師)
「〈怒り〉を力に」 堀江有里(京都教区巡回教師)
マルコによる福音書 11:15〜19
いまでは治療方法や薬が開発されましたが、ほんの数十年前まで「死に至る病」であったエイズ。性感染も経路であったため、多くの偏見と差別をもたらしました。米国の市民運動に「アクトアップ」(力を解放するエイズ連合)の記録映画『怒りを力に』に収められた「教会を止めろ」と名付けられた抗議行動(1989年12月)は、ニューヨークの聖パトリック大聖堂での印象深いコントラストを描き出しています。一方では礼拝堂の通路になだれこみ、無言のうちに死体を模したダイ・インで抗議する人びと。これは仲間たちの命が奪われてゆく現実を示す行為でした。他方で粛々と進むミサ。気にもかけず聖書が朗読され、会衆は聖歌をうたう。そして唐突に繰り返される「わたしたちを殺すのをやめろ!」という抗議行動参加者の叫びは、死にゆく人びとを放置し、無関心のなかで儀式を守りつづける会衆への怒りと嘆きでした。この行動は、HIV感染予防の性教育を敵視する教会への、そして「エイズは同性愛者への天罰だ」と主張してやまない人びとの思想を支えるキリスト教への抗議でした。
本日の聖書箇所は「宮潔め」として解釈されてきました。神殿に到着したイエスは両替人や鳩を売る人たちの場をひっくり返します。周囲は騒然としたはずです。イエスは平穏な神殿を取り戻したかったのでしょうか。しかし、この人たちが追い出されてしまったら神殿は機能しません。供物も献金もできないからです。だとしたら、イエスがおこなったのは神殿のあり方そのものの否定、腐敗した価値観への根源的な問いであったはずです。だからこそ、イエス殺害の計画がもちあがったわけです。
引用されているイザヤ書は「すべての国民の祈りの家」と翻訳されています。もとのイザヤ書では単数で書かれていて、「イスラエルの民」が意識されているわけですが、イエスはこの聖書の箇所を複数形で引用したことになっています。つまり、さまざまに境界線によって分断されている人びとを分け隔てなく一緒にいられる場として、神殿をとらえているわけです。
まさにイエスが起こしたことは古代ユダヤ世界のなかでのノイズであり、秩序を乱す行為です。宗教の権威によってもたらされる人びとの分断への問いかけであったのではないでしょうか。イエスの起こしたノイズを、そしてその根底にある〈怒り〉の出来事をわたしたちはどのように受け止めることができるのか、考えつつ、歩み続けたいと思います。
9月17日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)
「抱きしめられたい夜もある」
聖書箇所 ルカ15:11-32。449/475
日時場所 2023年9月17日平安教会朝礼拝式
今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。ご高齢になり、若いときのように体が動かないということもあると思います。もっと昔はしっかりとしていたような気がするのだけれども、昔に比べると、ちょっとおぼつかない時と思えるときもあると思います。そのように感じておられるご高齢の方々も多いと思います。しかしそうした中にあっても、しっかりと神さまを見上げて歩んでいきたい。イエスさまの声を聞いて歩んでいく。そうしたご高齢の方々の真摯な歩みをみるときに、私たちはとても励まされます。どんなときも、神さまが恵みを与えてくださり、そして私たちを守ってくださると、ご高齢の方々の歩みから確信することができます。とてもうれしいことだと思います。
ジェーン・スーは、日本の作家、コラムニストです。同世代である、30、40代の女性に人気のある女性です。ラジオのパーソナリティなどもしています。ちょうどわたしの娘の世代に人気があるようなので、ジェーン・スー『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎文庫)という本を読みました。
「パパ、アイラブユー」というエッセイの中に、こんな話がありました。ジェーン・スーはFacebookに友だちや知人が、自分の子供の写真を載せているのをみて、自分がいらいらするのに気がつきます。そしてどうしてそのような感情が出てくるのかということを考えます。自分が未婚で子供がいないからか。でも毎日楽しく過ごしているので、そういうことでもない気がします。それでもっと自分のそのいやな気持ちを観察するために、どういう写真に自分がいらっとするのかということを、丁寧にみていくことにします。そして兄弟姉妹や母親との写真に自分の心が乱されることはなく、子供が一人で写っている写真を父親が投稿している場合か、子供が父親と一緒に写っている写真の投稿ばかりに気を取られることに気づきます。
【私の持っていない「婚姻関係」や「親子関係」を持つ同年代の友人知人に、嫉妬していたのではなかった。むしろ立ち位置は逆でした。私は、父親に世話をされている女児(つまり数十年前の私と同じ存在)に嫉妬していました。なぜなら、子供時代にそんな風に父親に可愛がられた覚えが、私にはなかったから】(P.252)。
ジェーン・スーのお父さんが特別、ジェーン・スーに対して冷たかったとか、ひどい父親だったというわけではありません。典型的な昭和の自営業者で、とくに子育てに積極的に関わるということの無かった時代のお父さんでした。ですからジェーン・スーが子供だったときは、自分の周りの子どもたちのお父さんもそういう感じですから、当時は何も思わなかったわけです。でも自分が大人になって自分の友人や知人が娘を可愛がっている写真を見ると、「私もこうやって可愛がって欲しかった」という思いが出てきたのです。そして可愛がってもらっている女の子に嫉妬しているのです。そして積極的に育児に参加している男性に「子供の世話なんかしないで働けよ」という意地悪な気持ちが沸き起こったりするわけです。その気持ちはどう考えても、悪意に満ちた社会的に許されることのない気持ちです。まあそれで、ジェーン・スーは自分のことながら、「こまったなあ」と思うのです。
ジェーン・スーは、「小さな女の子救済作戦」というコラムのなかで、女性はみな自分のなかに「小さな女の子」をもっているのだと言います。【さみしくて傷ついた気持ちや、嬉しくて飛び上がりたい気持ちを素直に感じている存在を、便宜上「小さな女の子」と名付けましょう。・・・・・。「小さな女の子」は、いくつになっても自分の中に存在する、時に大人にはみっともないとされる類の感情を抱く存在です。強い女にも五分の小さな女の子と言いますか、私にもパブリックイメージ(しかも自分で作り上げたもの)と反する、小さな女の子=さみしさや傷ついた気持ちをダイレクトに感じる存在がいます。見た目には不釣り合いな、砂糖菓子の世界にあこがれるフワフワした気持ちだって、ちょっとはもっているのです。・・・。小さな女の子の気持ちを外に出すと、副産物としてコミュニケーションがうまくいくようにもなりました。「これは怒りではなく、傷心なのだ」と人に伝えるのはなかなか恥ずかしくハードルの高い行為。私もまだまだ完璧にこなせるとは言えません。気が付くと嫌みを言って、本心を伝えぬまま事態をややこしくしてしまう】(P.284)。
だれしも「小さな女の子」を持っているというのは、そういう感じのことはあるなあと、わたし自身も思います。「小さな男の子」と「小さな女の子」は同じなのか、違うのかというようなこともあるかと思いますが、ただただ切なかったり、悔しかったり、いやだったりする気持ちを、大人であるわたしは表面上は隠すわけですが、でもわたしの中の「小さな男の子」は、「いやだ。悲しい。くやしい」と泣き声をあげるのです。皆さんはどうでしょうか。「小さな女の子」「小さな男の子」が、自分のなかにいるでしょうか。
わたしはジェーン・スーの「パパ、アイラブユー」「小さな女の子救済作戦」というコラムを読みながら、今日の聖書の箇所の放蕩息子のお兄さんを思い浮かべました。お兄さんはお父さんに言うのです。【『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』】。放蕩息子のお兄さんの「小さな男の子」は、お父さんに「愛していると言ってくれ」と叫んでいるような気がします。
今日の聖書の箇所は「放蕩息子のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書15章11ー16節にはこうあります。【また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。】。
ある人に息子が二人いて、弟の方がお父さんに財産の分け前をくださいと言います。そして分けともらうと、それを全部お金に替えて、家を出ていきます。そして放蕩生活を送ります。すべてを使い果たした時に、ひどい飢饉がおこって、食べるにも困るようになります。どうにか知り合いのところに住み込んだけれども、ひどい扱いを受けます。「豚の世話をさせた」とありますけれども、ユダヤ人にとって豚というのは汚れた動物であるわけです。でもその豚の餌となっているいなご豆を食べたいと思うくらいお腹をすかせているわけですが、しかし彼のことを助ける人はいませんでした。
ルカによる福音書15章17−24節にはこうあります。【そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた】。
放蕩息子は「お父さんのところに帰ろう」と思います。お父さんのところにはたくさんの雇い人がいる。その一人にしてもらえば良いのではないか。自分勝手なことをして家を出てきたけれども、息子として扱われることはないだろうけれど、でも雇い人の一人くらいにはしてもらえるのではないだろうか。そうすれば少なくともいまの生活よりは良い生活ができるだろう。いまはもう飢え死にしそうな状態なのだから。そう思って、お父さんのところに帰ります。
放蕩息子のお父さんは、放蕩息子を見つけると、遠くのほうにいるのに気づいてくれて、そして走り寄って、首を抱いて、接吻してくれました。放蕩息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」といいます。しかしお父さんは帰ってきた放蕩息子を、雇い人の一人ではなく、自分の息子として扱います。「手に指輪をはめてやり」というのは、そういうことです。良い服を着せ、指輪をはめてやり、履物をはかせ、そして放蕩息子が帰ってきたことをみんなでお祝いします。
ルカによる福音書15章25−31節には行あります。【ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」】。
放蕩息子がお父さんによって暖かく迎えられたことに、放蕩息子のお兄さんは腹を立てるわけです。怒って家に入ろうとしない兄を、お父さんがなだめにきます。しかしお兄さんはお父さんに言い放ちます。弟は自分勝手に家を出ていったけれども、わたしは何年もお父さんに仕えてきた。お父さんの言いつけに背くこともなかった。でもわたしが友人と宴会をするときに、お父さんは子山羊一匹くれたことはなかった。でも弟がやりたい放題して家に帰ってくると、弟を暖かく迎え、大宴会を催している。どうしてそんなことをするのか。
そんなふうにお兄さんは怒るわけです。しかしお父さんは答えます。お前はいつもわたしと一緒にいるし、わたしのものは全部お前のものだ。でもお前の弟はもう死んでしまったのではないかと思っていたのに、生きて帰ってきた。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前だろう。
この「放蕩息子のたとえ」の前の聖書の箇所は、「見失った羊のたとえ」とか「無くした銀貨のたとえ」です。ルカによる福音書15章7節にはこうあります。【言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」】とあります。またルカによる福音書15章10節にはこうあります。【言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」】とあります。
この「放蕩息子のたとえ」もまた、「悔い改めて帰ってくる」ということに重きが置かれているわけです。罪を犯した人が悔い改めて、神さまのところに帰ってくる。これほどうれしいことはないだろう。ということが言われているわけです。まあそう言われると、私たちも罪深い者ですから、悔い改めて、神さまのところに帰ってきたら、赦されて、そのうえ、神さまが大喜びしてくださるということであれば、「まあ言うことないよね」というふうにも思えます。
しかしまあそれは大枠のことであって、個別のこととなるとまた違ってくるわけです。どうしてあんなに弟の方が特別扱いされなければならないのか。わたしのことをお父さんは愛してくれていないのではないのか。お兄さんのなかの「小さな男の子」は叫ぶのです。「愛してくれと言ってくれ」「わたしのことを愛しているといってほしい」。
ルカによる福音書15章20節にはこうあります。【父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した】。いま京都市京セラ美術館で、「ルーヴル美術館展 愛を描く」の美術展が行われています。展示している絵画の中に、「放蕩息子の帰宅」という絵があります。リオネッロ・スパーダという画家の作品です。「放蕩息子の帰宅」は、このルカによる福音書15章20節のところが描かれています。レンブラント(レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン)の絵に、「放蕩息子の帰還」という絵がありますが、その絵もやはり、この聖書の箇所が描かれています。ひざを折って悔い改めている放蕩息子の肩に、お父さんが手を置いて、憐れみ深く抱きしめている絵です。
放蕩息子はお父さんに抱きしめられて、とってもうれしかったと思います。傷つき、疲れ果てて、倒れそうなとき、だれしも「抱きしめられたい」と思います。放蕩息子はお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。そしてまた放蕩息子のお兄さんも、お父さんに抱きしめてもらいたかったのです。父のもとを離れず、父のそばにいて、一生懸命に父のもとで働いていた。父の言いつけをすべて守るような人だったので、父もあまり気にしていなかったわけですが、放蕩息子のお兄さんはお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。しかし放蕩息子のお兄さんは、そのことをお父さんに言うことができず、逆にお父さんに対して、「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」と叫ぶのです。
人はだれしも「抱きしめられたい夜がある」のです。放蕩息子もそうですし、また放蕩息子のお兄さんもそうなのです。父の下にいて、父の言うことも良く聞いて、何の問題もないように思うわれる放蕩息子のお兄さんにも、抱きしめられたい夜があるのです。
そして私たちにも抱きしめられたい夜があるのです。人に傷つけられたり、また人を傷つけてしまったり。人に辛くあたったり、人から辛くあたられたり。仕事で大きな失敗をしてしまったり、失恋をしてしまったり。親しい友が天に召されたり、最愛の人を天に送ったり。どうしようもなくさみしくて、どうしようもなく悲しくて、だれかに抱きしめられたいと思う夜があるのです。
そして私たちには、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられるのです。身勝手な放蕩息子を許して、抱きしめたように、私たちの悲しみや辛さに寄り添ってくださり、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられます。【まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した】。そのように愛に満ちた神さまが、私たちにはおられます。悲しみの中にある私たち、さみしさの中にある私たちの傍らにいてくださり、私たちを慰め、支えてくださる神さまがおられます。
神さまが私たちを守ってくださいます。安心して、神さまの祝福のなか歩んでいきましょう。
(2023年9月17日平安教会朝礼拝式)
9月10日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)
「だめな人だけど、でもいいよそれで」
聖書箇所 ルカ14:25-35 137 434 470
日時場所 2023年9月10日平安教会朝礼拝
「いい人」とか「悪い人」という言葉は、男女関係・恋愛関係などの場合、微妙な言葉として使われます。ふつうであれば、善し悪しであるわけですから、その言葉のとおりであるはずです。「あの人いい人よ」とか「彼は悪い人だ」とか。しかし男女関係・恋愛関係などの場合が「あの人、いい人だけど・・・」とか「悪い人♡」とか、いい人だけどのあとに・・・があったり、悪い人の後に♡マークが使われるような感じで、いい人・悪い人という言葉が使われるわけです。「いい人だけど・・・」って、いい人だったらええやんと思いますが、人間、そういうわけでもないわけです。すべて合理的な判断で人間は生きているわけではありません。
イスラエルの王様で、ダビデ王という人がいます。ダビデ王には何人かの子どもがいますが、その一人がアブサロムという人です。アブサロムはダビデ王の子どもですが、ダビデ王に反旗をひるがえし、ダビデ王を殺そうとしました。旧約聖書のサムエル記下15章あたりに書かれてある話です。旧約聖書の503頁です。ダビデ王はアブサロムの兵によって都落ちすることになります。しかしのちにダビデ王は形勢を逆転させて、アブサロムの兵をやっつけ、アブサロムは逃げる途中に木に宙吊りになり、ダビデ王の部下のヨアブによって殺されます。ダビデ王はアブサロムによって大変な目に合わされたわけですが、自分の兵にアブサロムを殺すことのないようにと言っていました。ダビデ王は息子であるアブサロムのことを大切に思っていました。どんな目に合わされようとも、しかしアブサロムはわたしの愛する息子だと思っていました。
アブサロムが死んだということを聞いて、ダビデ王は嘆くのです。ダビデ王は家来に「若者アブサロムは無事か」と尋ねます。しかし家来は「主君、王の敵、あなたに危害を与えようと逆らって立った者はことごとく、あの若者のようになりますように。」と答えます。それを聞いて、アブサロムの死を知ったダビデ王は、「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」と嘆き悲しみます。
ダビデ王はアブサロムの死を嘆き続けます。それを見た部下のヨアブはダビデ王を諭すのです。【「王は今日、王のお命、王子、王女たちの命、王妃、側女たちの命を救ったあなたの家臣全員の顔を恥にさらされました。あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか。わたしは今日、将軍も兵士もあなたにとっては無に等しいと知らされました。この日、アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょう。】(サムエル記下19章6−7節)。
ダビデ王がまったくの私人であったのであれば、息子のために涙を流しても、それはそれで許されることであったと思います。しかしダビデは王様でした。彼は王としての合理的な振る舞いをしなければなりません。とはいうものの、ダビデ王は息子アブサロムのことを愛していました。それはもう合理的な判断というよりも、ダビデ王のこころからわきでる気持ちとしかいいようがないのです。自分を殺そうとした息子であるわけですが、それでもダビデ王はアブサロムのことを愛さずにはいられないのです。ダビデ王のしていることはとても愚かなことであるのですが、しかしそれはダビデ王自身にとっては、どうしようもないことなのでした。
このダビデ王のアブサロムに対する気持ちは、私たちに対する神さまの気持ちに似ています。私たち人間は心の中に邪な思いをもったり、自分勝手な気持ちをもっています。傲り高ぶったり、また自分のことをだめな人間だと思い込んでみたり。互いに傷つけあったり、互いにうらやましがったり。神さまの前に立つには、私たち人間は罪深い者です。神さまに愛されるのに私たちはふさわしくないわけですが、しかし神さまは私たちを愛してくださっています。私たちを愛して、私たちを憐れみ、私たちを救うために御子であるイエス・キリストを私たちのところに送ってくださいました。神さまの振る舞いはどう考えても合理的なものではありません。神さまはろくでもない私たちを救うために、自分の大切な御子イエス・キリストを十字架につけられたのです。しかし神さまはだめな私たちを愛さずにはいられないのです。
今日の新約聖書の箇所は「弟子の条件」「塩気のなくなった塩」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書14章25−27節にはこうあります。【大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない】。
初期のクリスチャンはクリスチャンであるがゆえに迫害にあったりしました。ですからまさにイエスさまに付き従っていくということは、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹から恨まれることや、自分の命を危険にさらすことでありました。イエスさまは犯罪人として十字架につけられました。十字架という刑罰は極悪人が受ける刑罰でした。またローマ市民権をもつ人には適応されない残酷な刑罰でした。十字架につけられたということは、どうしようもない人間ということです。そのどうしようもな悪い人についていくということですから、まさに自分の十字架を背負ってついていくということでした。そうでなければイエスさまの弟子ではあり得なかったのです。
ルカによる福音書14章28−30節にはこうあります。【あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう】。
これはイエスさまについていく、クリスチャンになったら途中でやめないということです。ときどき途中で建てるのをやめられた建築物というのがあります。いま中国では不動産市場が悪化して、工事が止まっているマンションがたくさんあるというようなニュースを、最近、聞きました。天津市に建設中の巨大マンションも、工事が止まっているようです。わたしが同志社大学の神学部にいた40年ほど前に、琵琶湖半に途中までしかたっていないホテルの建築物がありました。琵琶湖畔幽霊ホテルといわれたりしていました。費用がなくなったら建てることができなくなるわけですから、十分に考えて建てなければならないわけです。腰をすえてじっくりと考えなければならない。イエスさまについていくというのも、腰をすえて、じっくりと考えて、ちゃんとイエスさまに生涯つきしたがっていくことができるようにする。一度、イエスさまについていくと決心をしたら、ちゅうと半端な歩みではなく、生涯イエスさまに付き従っていく覚悟が必要だということです。
ルカによる福音書14章31−33節にはこうあります。【また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」】。
これも先ほどの「完成できない塔の話」とよく似ています。戦争をするときはちゃんと戦争をして勝つことができるかどうかということを判断して戦争をしなさい、勝つことができないのであれば、使節を送って和平をしなさいということです。日本も昔、戦争をしましたが、いまから考えると勝てるように思えないのに、戦争をしています。なかなかむつかしいのでしょうが、しかしはやり腰をすえてちゃんと考えてから戦争をしなければならなかったわけです。戦争をするには覚悟が必要なのです。勝てなければ殺されてしまいますし、また和平を結ぶにしても王は自分の命を差しだすということや、すべてのものを相手に明け渡してしまわなければならないかも知れません。そのようにイエスさまに付き従うということは、すべての持ち物を失う覚悟が必要だということです。
ルカによる福音書14章34−35節にはこうあります。【「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」】。私たちは「塩から塩気がなくなる」というのは、どうしてだろうと思いますが、当時の塩は製塩技術が未熟ですから、純粋な塩ではなく塩化化合物のようなものもあり、塩気がなくなるというようなことが起こりました。塩気がなくなると、もうその塩は捨てるしかなくなるわけです。イエスさまに従うということも、しっかりとした気持ちがなくなって、いい加減な気持ちだけになってしまったら、それはもう惰性になってしまい、信仰生活というものではないということです。
イエスさまは「弟子の条件」「塩気のなくなった塩」というたとえの中で、なかなかきびしいことを言われます。イエスさまの弟子になるためには、 1)自分の十字架を背負ってついてくる。2)途中でやめない。3)自分の持ち物を捨てる。そんなことを言われると、ちょっと「わたしには無理かも」というふうに思えます。とくにキリスト教に出会って、いまから洗礼を受けてクリスチャンになろうとしておられる方など、「弟子の条件」などと言われると、「これは無理だわ」と思います。なかなかイエスさまの弟子になる条件は高いのです。どうみても自分がこの条件を満たすことはできそうもありません。それではイエスさまのお弟子さんになることはできないのか。クリスチャンになることはできないのか。
そのように考えてみると、おかしなことに気がつきます。どう考えてもこの「弟子の条件」を満たしていると思えない人が、実際にクリスチャンになっているからです。周りをしげしげと見回してみて、「どう考えても、イエスさまが言われる条件を満たしているとは思えない」と思います。でも実際にクリスチャンになっています。なんかおかしいわけです。「おかしい???」。そして気づくわけです。「たぶんクリスチャンになるには裏口があるに違いない。じゃないと、この人がクリスチャンになることができるわけがないじゃないか」。
まさにそうです。わたしは裏口から入ってクリスチャンになりました。このイエスさまが言われた弟子の条件を満たしたからクリスチャンになったわけではありません。というか、だいたい多くのクリスチャンはイエスさまが言われた弟子の条件を満たして、クリスチャンになるわけではありません。イエスさまの言われた弟子の条件を満たすことができないからこそ、クリスチャンになるのです。自分はイエスさまが言われることはできないだめな人間だ。しかしだからこそ、イエスさまに付き従いたいと思うのです。イエスさまの言われる弟子の条件を満たすことができるほど、りっぱな人間であれば、別にイエスさまに付き従おうとは思わないのです。だめな人間だからこそ、イエスさまの言われることは到底できないけれども、イエスさまに付き従いたいのです。
使徒パウロは「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」と言いました。ローマの信徒への手紙3章21節以下に、「信仰による義」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の277頁です。ローマの信徒への手紙3章21ー26節にはこうあります。【ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。】
人は何かできるから義とされるのではありません。何もできたくても、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのです。何もできないけれども、神さまの愛と憐れみによって、私たちは罪赦され、そしてクリスチャンになるのです。この「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」というのが、いわばクリスチャンになる裏口です。しかしこの裏口こそが、ある意味、表口であるのです。
イエスさまのお弟子さんたちはすべてを捨ててイエスさまに付き従いました。その点においては、イエスさまが言われた弟子の条件に当てはまるところもあります。しかしイエスさまが十字架につけられたとき、弟子たちはみんなイエスさまから逃げ出してしまい、イエスさまを裏切ってしまいました。イエスさまの弟子たちはイエスさまを裏切るだめな人間でした。しかしだからこそ、弟子たちにはイエスさまに惹かれ、イエスさまに付き従おうとしたのです。
そして神さまはだめな人間のために、イエス・キリストを私たちの世に送ってくださったのです。神さまは私たちを愛してくださるのです。それは合理的な考えではないでしょう。愚かでわがままな私たちを神さまは愛されるのです。イエスさまの言われることに聞き従うことのできない弱い私たちを神さまは愛してくださるのです。神さまの前にふさわしくない私たちを神さまは愛してくださるのです。
そして弱さや高慢さのゆえに罪を犯す私たちのために、イエスさまは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださったのです。イエスさまは「自分の十字架を背負ってついてきなさい」「途中でやめてはだめです」「自分の持ち物を捨てて、わたしについてきなさい」と厳しいことを言われます。でも結局、イエスさまは私たちに言われます。「だめな人だけど、でもいいよそれで」「わたしのところにやってきなさい」。
イエスさまの招きに応えましょう。イエス・キリストこそわたしの救い主と告白し、そして神さまの深い愛によって祝福され、こころ平安に歩んでいきましょう。
(2023年9月10日平安教会朝礼拝)
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