2025年12月19日金曜日

12月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「クリスマス、小さき私たちのために」 

「クリスマス、小さき私たちのために」

聖書箇所 ルカ2章1-7節。261/264。

日時場所 2025年12月21日平安教会朝礼拝・クリスマス礼拝式


クリスマス、おめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

平安教会は12月10日に教会創立149周年を迎えました。そして来年、教会創立150周年を迎えます。平安教会ではいま、建物の改修に取り組んでいます。大屋根や外壁、また階下室のトイレも改装され、こうしてクリスマスを迎えることができ、とてもうれしく思います。新年からはこの礼拝堂などの改装が行われることになります。また覚えてお祈りくださればと思います。

詩人の工藤直子さんの詩に、「あいたくて」という詩があります。

【だれかに あいたくて

 なにかに あいたくて

 生れてきたー

 そんな気がするのだけれど


 それが だれなのか なになのか

 あえるのは いつなのかー

 おつかいの とちゅうで

 迷ってしまった子どもみたい

 とほうに くれている

 

 それでも 手のなかに

 みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから

 それを手わたさなくちゃ

 だから


 あいたくて】


赤ちゃんが生まれると、「この子に会えてよかった」と思います。こどもさんやお孫さんが生れると、「この子に会えてよかった」と思うだろうと思います。そのような愛のなかに私たちは生れてきているわけですが、でも大きくなると、「わたしは何のために生れてきたのだろう」という孤独感をもつときも出てきます。だれもわたしに関心があるとは思えない。わたしなんかいてもいなくても同じではないか。そのようなさみしい気持ちになることもあります。日常生活を送っていると、いろいろなつまらない出来事やこころがふさぎ込んでしまうような出来事に出会い、前向きに物事を考えることができないときというのがあります。そんなとき、この「あいたくて」という詩を読むと、元気が出るような気がします。


【だれかに あいたくて

 なにかに あいたくて

 生れてきたー

 そんな気がするのだけれど


 それが だれなのか なになのか

 あえるのは いつなのかー

 おつかいの とちゅうで

 迷ってしまった子どもみたい

 とほうに くれている

 

 それでも 手のなかに

 みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから

 それを手わたさなくちゃ

 だから


 あいたくて】


わたしにあうために生れてきたという人がいるのではないか。そのように思えます。赤ちゃんに会うとうれしく思うのは、赤ちゃんが「わたしにあうために生れてきてくれた」と思えるからです。だから赤ちゃんに会うと、元気がでます。赤ちゃんは話さないですから、「いやちがうよ」とは言いません。「わたしにあうために生れてきてくれた」と思えた息子や娘も、大きくなると、どうやらそういうことでもないような気がしてきます。でもそれはそれでいいと思えます。息子や娘が結婚でもすれば、「ああ、この人にあうために生れてきたのね」と思えて、うれしく思うこともあるでしょう。さみしくもあり、うれしくもあるのです。

娘や息子、あるいは近所の赤ちゃんはそうであるわけですけれども、ただひとりの赤ちゃんだけはそうではない赤ちゃんがおられます。ただひとりの赤ちゃんだけが、永遠に、ずっと変わりなく、私たちにあうために生れてきてきてくださったのです。クリスマスは、このだたひとりの赤ちゃんがこの世に生れたことをお祝いする日です。この赤ちゃんは、神さまの御子イエス・キリストです。イエスさまは私たちにあうために生れてこられたのです。「神さまの愛」ということづけを、手のなかににぎりしめて、私たちにそれを手渡すために生れてくださったのです。

今日の聖書の箇所は、「イエスの誕生」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書2章1−3節にはこうあります。【そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った】。

歴史的にはローマ皇帝アウグストゥスが統治していた時代(紀元前27−紀元14年)に、全国的な住民登録があったという記録はないと言われています。キリニウスがシリアの総督であったときにパレスチナで住民登録がありましたが、それは紀元6年頃のことだと言われています。ルカによる福音書の著者は、イエスさまがお生まれになられたということを、政治的、歴史的に位置づけるために、このように記しています。私たちが政治や歴史と無関係に生きているのではないのと同じように、イエスさまもまた一人の民として、世の中の出来事に引きづりまわされながら生きておられたということです。ローマ皇帝が「こうする」と決めれば、そのようにせざるをえないのです。【人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立】つしかないのです。どんな個人的な事情があろうと、そうするしかないのです。

ルカによる福音書2章4−5節にはこうあります。【ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである】。

ヨセフもマリアも、他の人々と同じように、住民登録を行うしかありませんでした。ヨセフもマリアも、【登録するためにおのおの自分の町へ旅立】ちます。ただふつうの人々と違うのは、マリアは身ごもっていたということです。身ごもっていながらの旅であるのです。旅といっても、いまの時代のような旅ではないのです。「新幹線にのってビューッと快適に」、「タクシーに乗り換えて、到着」という旅ではないのです。歩いたり、ロバや馬にのっての旅であるのです。身重のマリアにはつらい旅なのです。

ルカによる福音書2章6ー7節にはこうあります。【ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである】。

旅の途中で、マリアは初めの子を産みました。よく知っている自分の町ではなく、旅先でマリアは初めての子を産んだのです。それがイエスさまでした。マリアとヨセフはイエスさまを布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。飼い葉桶というのは、牛や馬などの家畜に餌をあげるための桶のことです。マリアとヨセフは宿屋に泊まることができませんでした。宿屋に泊まることができず、牛や馬とともに家畜小屋に泊まり、マリアはイエスさまを産み、そしてイエスさまは飼い葉桶の中に寝かせられました。

【宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである】と聖書にありますように、イエスさまはこの世に居場所がない者として、お生まれになられました。【宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである】【布にくるんで飼い葉桶に寝かせた】。そのように聞くと、とてもイエスさまがかわいそうな気がいたします。神殿や王宮とまではいかなくても、もうすこしいいところでお生まれになってくださればよかったと思います。しかしイエスさまが馬小屋でお生まれになられるのは、神さまの御心なのです。イエスさまは小さき者として、この世にお生まれになられました。イエスさまは居場所がない者として、この世にお生まれになられました。それは神さまの御子、救い主が、小さき者の友として、私たちの世に来られたということでした。

イエスさまは小さき私たちのために、この世にお生まれになられました。りっぱであるわけでもなく、よいことをしているわけでもない。思い上がった気持ちをもったり、また人を傷つけたりすることもある、弱く小さな私たちのために、御子イエス・キリストはこの世にお生まれになられました。自分の弱さをなげき、さみしい思いをもったり、自分のことを恥ずかしく思ったりする弱く小さな私たちのために、御子イエス・キリストはこの世にお生まれになられました。

御子イエス・キリストは、小さな私たちにあうために、この世のお生まれになられました。イエス・キリストは、神さまからの愛を握りしめて、私たちのとどけるために、この世に生まれてくださいました。私たちに会うために生れてきてくださった方が、私たちにはいてくださいます。そして私たちはクリスマス、イエス・キリストのご降誕をお祝いするのです。

そしてまた私たちも、イエス・キリストにあうために生れてきたのです。


【だれかに あいたくて

 なにかに あいたくて

 生れてきたー

 そんな気がするのだけれど


 それが だれなのか なになのか

 あえるのは いつなのかー

 おつかいの とちゅうで

 迷ってしまった子どもみたい

 とほうに くれている

 

 それでも 手のなかに

 みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから

 それを手わたさなくちゃ

 だから


 あいたくて】


「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」と言われる、イエスさまに応えて、わたしたちもまた「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」との感謝の思いをあらわしたいと思います。手の中にしっかりと握りしめて生れてきた、みえないことづけを、イエスさまにお渡ししたいと思います。

小さな私たちのためにお生まれになったイエスさまに感謝いたしましょう。そしてクリスマス、大きな喜びをもって、イエスさま、神さまをほめたたえましょう。


(2025年12月19日平安教会朝礼拝・クリスマス礼拝式)


2025年12月10日水曜日

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 


               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

              《聖母子(アルベルティーニの聖母)》


「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」

 

聖書箇所 ヨハネ1章1-5節。242/269。

日時場所 2025年12月14日平安教会朝礼拝式・アドヴェント3


アドヴェントも第三週に入りました。

教会の建物改修も進み、外の足場も取り除かれ、大屋根が外壁もきれいに修復がなされています。来年になりますと、礼拝堂の改修が行われます。クリスマスはこの礼拝堂で行われ、1月4日の礼拝のあとは、下の集会室で礼拝が行われることになります。いろいろとご不便をおかけすることと思いますが、ご協力、よろしくお願いいたします。

クリスマスが近づいていますが、みなさんはどのように過ごされていますか。わたしは明日、クリスマスのプレゼントを買いに行きます。

わたしは毎年、クリスマスに見たいDVDというのがあります。なかなかバタバタとして見ることができなかったりもします。ひとつは『素晴らしき哉、人生!』です。定番というのがあって、クリスマス、この映画をみると、こころがあたたかくなりますね。もう一つは『Mr.ビーン3』の「メリー・クリスマス、ミスター・ビーン」。これは見ても、こころはあたたかくはりません。ならないですけど。ちょっとイギリスの下品な冗談もありますが、でも「メリー・クリスマス、ミスター・ビーン」、おもしろいです。こうしたものをじっくりと見るのも、クリスマスにふさわしいですね。クリスマスはクリスマスにふさわしいDVDや小説などを読んで過ごすのがいいと思います。

絵画を見るのもいいかもしれません。ルネサンスの画家に、ティツィアーノ・ヴェチェッリオという人がいます。ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、《聖母子(アルベルティーニの聖母)》という絵を描いています。週報の説教要旨の上のところに、QRコードがあります。そのQRコードを読み込みますと、聖母子(アルベルティーニの聖母)が出てきます。以前の説教などもこのQRコードから読むことができますので、またご利用くださればと思います。

「聖母子」という絵ですから、マリアさんに抱かれたイエスさまの絵です。この絵のイエスさまの右手は、だらんとなっています。ちょっと態度の悪い赤ちゃんのようにも思えますが、この「だらん」となっている手には意味があるそうです。わたしには態度の悪い赤ちゃんにしか見えない絵の中に大切な意味があるということですから、絵画というのはなかなか奥深いものだなあと思います。この「だらん」となっているイエスさまの右手というのは、イエスさまの死を表しています。十字架につけられて死なれたイエスさまを、マリアさんが抱いている絵というのは、「ピエタ」と言われます。その場合、イエスさまは成人されている大人であるわけです。成人のイエスさまをマリアさんが抱いている絵が「ピエタ」で、赤ちゃんのイエスさまをマリアさんが抱いている絵が「聖母子」であるわけです。

このティツィアーノ・ヴェチェッリオ《聖母子(アルベルティーニの聖母)》という絵は、「聖母子」を描きながら、イエスさまの死を暗示させるために、イエスさまの右手が死んだ人のように「だらん」となっています。御子イエス・キリストが私たちの世に来てくださったのは、私たちのために十字架についてくださるためだからです。ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《聖母子(アルベルティーニの聖母)》は、イエスさまのご降誕のお祝いの絵でありながら、イエスさまの十字架の死を同時に、私たちに伝える絵であるのです。

今日の聖書の箇所は「言が肉となった」という表題のついた聖書の箇所の一部です。イエスさまがお生まれになられたときのお話は、マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれてあります。マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれてあることを合わせて、幼稚園や教会学校でもたれるクリスマスの劇は作られています。マルコによる福音書にはイエスさまがお生まれになられたときのことは書かれてありません。ヨハネによる福音書には、マタイによる福音書やルカによる福音書のように、イエスさまがお生まれになられたときのお話は書かれていませんが、しかしイエスさまがお生まれになられたことの意味について書かれてあります。それが今日の聖書の箇所です。

ヨハネによる福音書1章1ー3節にはこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった】。【初めに言があった】とあります。この「言」というのは、何であるのかということですが、ヨハネによる福音書1章を読み進めていきますと、この「言」がイエス・キリストを表しているということがわかります。ヨハネによる福音書1章14節にはこうあります。【言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた】。「言」というのは、イエスさまのことであることがわかります。イエス・キリストは私たちの世に来てくださり、人間となられた。肉体をもたれ、私たちと同じように、この世にお生まれになられた。神さまの御子であるイエス・キリストは、神さまの大切な大切な独り子であり、神さまからの栄光を受け、恵みと真理とに満ちておられる方である。そのように告げられています。

ヨハネによる福音書1章4−5節にはこうあります。【言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】。ヨハネによる福音書は、イエスさまのことを、言・命・光といったとても象徴的なもので描いています。イエス・キリストは命の源である。イエス・キリストは人間を照らす光である。イエス・キリストはどんなときも光として、暗闇の中で輝いている。しかし暗闇の世は、光であるイエス・キリストのことを理解しなかった。暗闇の世は、イエス・キリストを理解しなかった。

ヨハネによる福音書の今日の聖書の箇所は、イエスさまが私たちの世にきてくださったその理由について書き記しています。イエス・キリストは神さまの御子であり、神さまの独り子であったが、私たちのためにこの世にお生まれになられた。それは私たちの世が暗闇の世であり、神さまのみ旨に反した世の中であるからである。暗闇の世は、私たち人間の罪が作り出した悪しき世の中である。どろどろとした邪な思いを抱え、苦しみ私たちのために、イエス・キリストは私たちの世にきてくださり、私たちの罪をあがなってくださった。イエス・キリストが私たちの罪のために、私たちを代表して、神さまの前に罪を贖ってくださった。イエス・キリストの十字架によって、私たちは神さまによって救われた。イエス・キリストは暗闇の世に生きる私たちの光であり、私たちの救い主である。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。

《聖母子(アルベルティーニの聖母)》を描いた、ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、「聖母子」という絵で、イエスさまのご降誕を描きがら、イエスさまの死を暗示させました。イエス・キリストは私たちの罪を贖ってくださるために、私たちの世にお生まれになられました。

クリスマスは御子イエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。「クリスマスって、何の日ですか」という問いは、日本のいろいろなところでなされる問いです。クリスマスのとき、街角でテレビのアナウンサーが、聞いて回るというようなこともあるような問いです。「クリスマスは、サンタクロースの誕生日です」と答えるような人もいるかも知れません。昔、twitterを見ていますと、クリスマスのショーウインドウの飾り付けに、十字架にかかっているサンタクロースの写真がのっていました。勘違いなのか、前衛的なのか、よくわからないですが、なかなかの迫力でした。実際にみたら、びっくりするだろうなあと思いました。

「クリスマスって、何の日ですか」という問いは、よくなされます。でもクリスマスの意味についての問いというのは、私たちクリスチャン以外の人が問うということは、あまりないことだと思います。イエス・キリストがこの世に来られたのには意味があるのです。私たちの罪をあがなうために、イエス・キリストは私たちの世にきてくださったのです。私たちクリスチャンは、クリスマスのとき、このことをしっかりと受けとめたいと思います。

先週の金曜日に、「外国人との共生をめざず 関西キリスト教代表者会議 関西キリスト教連絡協議会 結成40周年記念」のお祝いの会に、京都教区を代表して出席をしてきました。外国人との共生をめざず関西キリスト教代表者会議というのは、もともと外国人登録法に反対をしてできたキリスト教の代表者の会議です。1985年、全国のキリスト教会は、指紋押捺制度の廃止を求めて、外国人登録法に反対をしていました。わたしが学生の時でしたので、わたしもときどき外国人登録法に反対する学習会などに出席をしていました。それから40年がたちました。40年間ずっとこのことに取り組んでこられた在日朝鮮人の方は、「日本人ファースト」という言葉が飛び交う、いまの日本の現状を危惧しておられました。「在日朝鮮人の立場からすると、『この40年間、日本人ファーストでなかったことがありましたか』と言わずにはいられない」とお話くださいました。

人間の心の闇が広がってくると、かならず排外主義的な主張が、世の中に拡がってきます。そして争いの雰囲気が広がり、世界が不幸な道へと歩み始めていきます。いま、私たちの世界はどうでしょうか。日本だけでなく、いろいろな地域で排外主義的な雰囲気が広がってきています。それは人が自分の心の闇に静かに目を向けることが少なくなってきているからです。こころ静かに、自分のことを顧みる時に、私たちは神さまの深いあわれみを知ることができます。そして私たちは自分が神さまから愛されている大切な人間であることを知ることができます。そしてまた自分がそうであるように、わたしの隣人も同じように神さまから愛されている大切な人間であることに気づきます。

「光は暗闇の中で輝いている」と、今日の聖書の箇所にはありました。ヨハネによる福音書は、御子イエス・キリストは世の光であると告げています。私たちの世の中がどんなに暗くとも、イエス・キリストは暗闇の中で輝いておられる。どんなに私たちの世が暗闇を抱えていても、イエス・キリストはその暗闇を打ち砕き、そして神さまの大きな祝福を、私たちにもたらしてくださる。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。

暗闇の中で輝く光であるイエス・キリストがおられます。イエス・キリストは私たちに勇気を与え、私たちの希望の光となって、私たちに先立って進んでくださっています。



(2025年12月14日平安教会朝礼拝式・アドヴェント3)

12月7日平安教会礼拝説教要旨(大澤宣牧師)「かけがえのない命」

「かけがえのない命」

1コリント12:14~26

東神戸教会 大澤宣牧師

 平安教会創立149周年を心よりお慶び申し上げます。歴史を導いてくださった神様の御名を讃美いたします。そして、この歴史は、今日お集まりの皆様、そして、今日はここにおられない皆様が、主の導きに応えて編みだしてこられたものであることをおぼえさせられます。多くの方たちがこの教会に連なられ、歩んでこられたことを思います。そして、多くの先達たちが、今は天に召されて、主の栄光をたたえている群れに加えられていることを思います。私たちは、この先達たちと目には見えないつながりを与えられ、今も共にあることを覚えたいと思います。

 灰谷健次郎さんが書かれた『わたしの出会った子どもたち』という本の中に麻理ちゃんという女の子のことが書かれています。麻理ちゃんは、筋肉がマヒしていくという、体の不自由さをもっている女の子でした。笑っているのか、怒っているのか、ふだんから接している人でないと、表情を読み取ることができません。この麻理ちゃんに冷たい言葉を発する人がいました。灰谷健次郎さんは、その言葉をひどい言葉だと思いながらも、堂々と反論することができなかったのでした。

 何かが上手に出来ること、速くできること、力が強いこと、そういうことばかりに心が向いていると、見落としてしまうものがあるのではないかと思います。そして、人を切り捨ててしまうことになってしまうことを思わされます。速さや強さや効率の良さだけに目を奪われて、命を慈しむ心、人間としての優しさ、人間らしささえも失ってしまうことを思わされます。

 聖書の言葉は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と語ります。

 わたしたちはそれぞれの課題を抱え、重荷を抱えているものです。心細い思いをし、不安を感じつつ歩むものです。しかし、私たちの主イエス・キリストの言葉を携えて歩むことをゆるされている。その歩みは希望を持って進むことのできる道なのです。

 平安教会の皆様が、教会の大きなご計画を持たれ、希望をもって進もうとしておられることと思います。おひとりお一人の信仰の歩みの中に、課題があり、悩みがおありのことと思います。しかし、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださるのです。どのようなときにも、希望を持つことがゆるされています。いつも喜んでいること。絶えず祈ること。すべてのことに感謝すること。その歩みをすすめてまいりたいと思います。


2025年11月29日土曜日

11月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「もういくつねるとクリスマス?」

「もういくつねるとクリスマス?」

聖書箇所 マルコ13:21-37。231/241。

日時場所 2025年11月30日平安教会朝礼拝・アドヴェント第1週


今日からアドヴェントに入ります。アドヴェントはイエスさまがお生まれになられるのを待ち望む期間です。キリスト教の暦のことを「教会暦」というふうに言いますが、教会暦によると、一年はアドヴェントから始まります。イエス・キリストを待ち望むことから一年が始まるわけです。一年を振り返ってみると、神さまからいろいろな恵みをいただいたと感じます。

一年を振り返ってみて、「わたしの一年はどういう一年だったかなあ」と考えて見ますと、やはり一番大きいのは、みなさんと一緒に教会建物改修を行なうことができたということだと思いました。2月に臨時総会をひらき、そして9月にまた臨時総会をひらき、そして10月9日から建物改修の工事がはじまりました。これからもこころをあわせて、このことに取り組んでいきたいと思います。

今日の聖書の箇所は、「大きな苦難を予告する」という表題のついた聖書の箇所の一部と、「人の子が来る」「いちじくの木の教え」「目を覚ましていなさい」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所は全体として、世の終わり、終末についての聖書の箇所です。アドヴェントに終末の聖書の箇所が読まれるというのは、アドヴェントが「来臨」という意味で「イエスさまが来られる」ということだからです。イエスさまが来られるというのは、ひとつにはイエスさまがお生まれになられるということです。そしてもうひとつは、イエスさまが世の終わりの時に来られるということです。「再臨」と言われますが、世の終わりにイエスさまが来られるということです。ですからアドヴェントにはイエスさまの誕生を待ち望むときであり、再臨のイエス・キリストを待ち望むときでもあるわけです。そういうわけでアドヴェントには終末の聖書の箇所が読まれます。

マルコによる福音書13章21-23節にはこうあります。【そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」】。

世の終わりの時には、預言者エリヤが現われるとか終末の預言者が現われると言われていました。ですからそれに便乗して偽メシアとか偽預言者が現われるわけです。そして「われこそメシアだ」と言う人たちが出てくるわけです。ですからそうした人たちに惑わされることなく、「落ち着いていなさい」と、イエスさまは弟子たちに言われました。そしてあらかじめ、マルコによる福音書13章3節以下のような「終末の徴」について、弟子たちに話しておられました。

マルコによる福音書13章24-27節にはこうあります。【「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」】。

この聖書の箇所は、まさに終末の出来事について記されています。天変地異が起こり、そして再臨のキリストがやってこられるのです。再臨のキリストは終末のときに、大きなる力と栄光を帯びて雲に乗ってやってこられる。そして彼に仕える者を四方から呼び集めるのです。

マルコによる福音書13章28-31節にはこうあります。【「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」】。

木や花はまあまあその季節になると、その季節にふさわしく花開きます。梅はまだ少し寒いときに、そして春になると桜が咲きます。まあ若干、温暖の差や日照条件によって変わってくるのでしょうが、しかしまあだいたいわかるわけです。いちじくの木もやはり同じです。【枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる】。終末もなんとなく気配というものがあるから、なんとなくその気配を感じとりなさいと、イエスさまは言われます。ただし、「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決してほろびない」と言われ、「終末だ。終末だ」と慌てふためかなくてもいいと言われました。【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】とありますように、「あなたたちは確かなわたしの言葉により頼んで生きているのだから、慌てふためいたり、いたずらにあわてたりすることなく、わたしの言葉により頼んで生きているということを大切なこととして歩みなさい」と、イエスさまは言われました。

マルコによる福音書13章32-37節にはこうあります。【「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」】。

終末については、いちじくの木のようになんとなく訪れるという気配というのがあるわけだけれども、しかし「終末がいつであるのか」ということは来てみないとわからない。いつであるのかというのは神さまだけがご存知だ。それは人間がとやかくいうことではなくて、神さまの側のことのなのだ。だから私たちにできることは、いつ終末がきてもいいように「目を覚ましている」ことだ。

旅に出た主人がいつ帰ってくるかはわからない。いまなら電話がありますから、「明日帰る」というふうに連絡を付けることができます。あるいは最近は携帯電話という便利なものもありますから、「いま帰った、玄関の戸を開けて」と言うこともできます。まあそうは言っても、夜寝る前に突然携帯電話にメールが届いて、「明日、終末がくる。神さま」と告げられても困りますが・・・。昔は電話もないですから、旅に出た主人はいつ帰ってくるかわかりませんでした。ですからいつ帰って来てもいいように、備えておかなければなりませんでした。終末もそれと同じように、やはりいつ来てもいいように備えていなければならないのです。

アドヴェントはイエスさまの誕生を待つときであり、また再臨のキリストを待つときであります。ですからアドヴェントのときは、私たちにとっていったい何が大切なことであるのかということを心に留めるときであるのです。私たちは日常生活のなかで、いろいろなことに心を煩わせます。いろいろと考えなければならないことがたくさんあるわけです。「あれも必要だし、これも必要だ」「これもしなくてはならない。あれもしなくてはならない」。なんとなく続く日常生活のなかで、本当に大切なものは何だろうかと、手を休めて考えてみるときなのです。

クリスマス時期になると、本屋さんによく並べられている本の中に、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』(文藝春秋)という本があります。トルーマン・カポーティは映画『ティファニーで朝食を』の原作者です。『あるクリスマス』、トルーマン・カポーティ作、村上春樹訳、山本容子銅版画という、なかなか豪華な本です。「父さんと過ごした最初で最後のクリスマス」と本の帯にあります。

カポーティのお母さんは16歳のときに、28歳だったカポーティのお父さんと結婚をします。そしてカポーティが生まれるわけですが、結婚生活は1年しか続かず、カポーティはアラバマにあったお母さんの実家に預けられることになります。アラバマでの生活が不快であったのかと言うと、カポーティにとってはそうでもありませんでした。お母さんの親戚に囲まれて、そしてとくにいとこでスックという名前の高齢の女性と犬のクーニーと仲良く過ごしていました。カポーティが6歳のときに、ニュー・オーリンズに住んでいた父さんから、クリスマスを一緒に過ごしたいから、ニュー・オーリンズに来ないかと手紙がくるわけです。そして父さんと過ごしたクリスマスが小説となっているのが、『あるクリスマス』です。カポーティは「バディー」という少年として登場します。

バディーは行きたくなかったのですが、スークが「これも主の御こころよ。ひょっとすると雪が見れるかも知れないわよ」というので、行くことにします。バディーのお父さんは、いわゆるジゴロのような人でした。ジゴロというのはフランス語で「女の人から金を巻き上げて生活する男の人」という意味です。ニュー・オーリンズでいい生活をしているわけですが、まああまり上等な人間ではありませんでした。バディーはニュー・オーリンズでお父さんと一緒にクリスマスを過ごすわけですが、こころに大きな痛みを抱えて帰ってくることになります。唯一、ニュー・オーリンズの大きなおもちゃ屋さんで目を引かれた乗り込んで自転車のようにペタルをこぐことができる飛行機を、お父さんに買わせて、それをもってバスに乗って帰ってきます。酒を飲んでよっぱらっているお父さんは、「なあ、お父さんを愛しているって言ってくれ。お願いだよ、バディー、言ってくれ。頼む」と何度もバディーに言ってきます。

帰ってきて、いとこのスックに、さんざんなクリスマスであったということを話し続けます。スックはやさしく慰めてくれて、【さあもうお休みなさい。そして星の数を勘定しなさい。いちばん心の休まることを考えなさい。たとえば雪のこと。雪が見られなくて残念だったわねえ。でも今、雪はお星様のあいだから降ってきているわよ】と言われ、少し心が落ち着きます。そして小説の最後にはこう書かれてあります。

【僕の頭の中で星はきらめき、雪は舞い降りた。僕が最後に覚えているのは、僕がこうしなくてはいけないよと命じる主の物静かな声だった。そして翌日僕はそれを実行した。僕はスックと二人で郵便局に行って、一セント払って葉書を買った。葉書は今僕の手元にある。父は去年亡くなったが、その葉書は彼の貸金庫の中に入っていたのだ。僕はそこにこう書いていた。「とうさんげんきですか、ぼくはげんきです、ぼくはいっしょうけんめいペタルをこぐれんしゅうをしているので、そのうちそらをとべるとおもう、だからよくそらをみていてね、あいしています、バディー」】。

バディーのお父さんは女の人からお金を巻き上げて贅沢な生活をするというような人でした。ろくでもない人であったわけですが、しかし彼はバディーが送った葉書を、生涯、大切に大切にしまっておいたのです。6歳のこどもが書いた、「あいしています」という葉書を、大切に大切にしまっておいたのです。たぶんときどき、空を見上げた時、飛行機の形をした自転車のような子どもの乗り物にのって、息子がやってくるような気がしたことだと思います。「とうさんげんきですか、ぼくはげんきです、ぼくはいっしょうけんめいペタルをこぐれんしゅうをしているので、そのうちそらをとべるとおもう、だからよくそらをみていてね、あいしています、バディー」。バディーのお父さんにとって大切なものは、自分の息子であるバディーであったのでしょう。しかし彼はバディーを大切にするような生き方をしませんでした。

アドヴェントはイエスさまの誕生を待つときであり、また再臨のキリストを待つときです。アドヴェントは、私たちにとっていったい何が大切なことであるのかということを心に留めるときです。アドヴェントは落ち着いて、自分にとって何が大切なのだろうかと考えてみましょう。そしてできれば、自分が大切だと思うことを、大切にする生き方へと変わっていくことができればと思います。しかし『あるクリスマス』のバディーのお父さんのように、そんなふうに生きることができないかも知れません。

ただ、そんな弱さを抱える人間のために、主イエス・キリストをこの世にやってこれました。だめな私たちの光となるために、愚かな私たちを救ってくださるために、主イエス・キリストは私たちの世にやってきてくださいました。イエス・キリストは病いの人々をいやされ、嘆き悲しむ人と共に涙を流されました。イエス・キリストは、友なき者の友となられ、私たちのために十字架についてくださいました。だからこそ、私たちはイエスさまのことが大切で大切でたまらないのです。

アドベントは私たちの大切な大切なイエスさまを待ち望みながら過ごすときです。私たちを救うためにきてくださるイエスさまを待ち望みながら、クリスマスの準備をいたしましょう。


(2025年11月30日平安教会朝礼拝・アドヴェント第1週)


11月23日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「両手にもてるものだけにしなさい」

「両手にもてるものだけにしなさい」

聖書箇所 マルコ10:17-31。490/453

日時場所 2025年11月23日平安教会朝礼拝・収穫感謝日子どもの教会との合同礼拝


今日は収穫感謝日です。秋の実りを、神さまに感謝する日です。神さまから与えられた豊かな恵みは、ひとりじめするものではなく、みんなでわかちあうものであることを、覚えたいと思います。今日は子どもの教会との合同礼拝となっています。子どもの教会に子どもたちが来てくれるようにと、いつも子どもの教会のスタッフのみなさんは、9時10分から子どもの教会の礼拝を守っています。

わたしが新潟県三条市の三条教会にいたときに、教会員のおばあさんが、市に買い物に行ったときの話をしてくれました。市っていうのは道路に臨時の店が出ていて、いっぱい野菜や果物や魚が売っているところです。スーパーで買うより、ものすごく安くかえます。おばあさんは家から橋を渡って、市に買い物に行きました。市につくと、いっぱいいろんなものが安く売っています。そんなのを見ると、もううれしくなって、「これも買おう。あれも買おう。この魚も買おう。このスイカも買おう」って、いっぱいいっぱい買いました。そして市からの帰り道、いっぱい買ったものをもっていると、だんだんとしんどくなってきました。いっぱい、いっぱい、買ったから。ふうふう言いながら、汗をながしながら、両手にあまるような買い物を、必死でもって帰ったそうです。そんな話をおばあさんはわたしにしてくれて、「もう、帰り道の橋の上まで来たとき、もう、この橋の上から買った荷物全部なげすてようかと思いました」「でもまた、市に行ったら、同じように、買ってしまうんですよね。人間て、ばかですねえ」と笑いながら言っていました。

漫画家の西原理恵子(さいばら・りえこ)さんは「ぼくんち」っていうマンガを書いています。これが『ぼくんち』(西原理恵子、小学館)ですけど。なかなか教えられるマンガです。

このマンガには「鉄じい」というじいさんが出てきます。鉄じいは川原に小屋を建てて、しじみをとって生活しています。鉄でも銅でもカナモノなら何でも売り買いしてくれるので、鉄じいと言われています。


鉄じい「おお、これは見事な銅線じゃの。にいちゃんだいぶあぶない橋渡ったんとちがうか」。

二太 「なんか電線やから、あぶないとゆうよりしびれたゆうてたで」


鉄じいの小屋はびっくりするくらい何もない。

それはこの川がしょっちゅうおこる洪水で、小屋の何もかもが流れるからだ。


鉄じいはいつもぼくの持ってきた物はいい値でとってくれる。

ぼくは鉄じいが好きだから、きっと鉄じいもぼくが好きなんだと思う。


ざあああああああああ。


その晩の雨はちょっとちがってた。

ぼくが行った時はちょうど

鉄じいの小屋が川にのまれた時だった。


鉄じい「まあすわれや、二太。貧乏て ええと思うわんかー。こんな時ちょっとも困らんで。これが金持ちの家やったらえらいことや。なくすもんがありすぎると、人もやっておれん。両手で持てるもんだけで、よしとしとかんとな」


ぼくたち、私たちはよくばりですから、「あれもほしい。これもほしい」と思います。そんなことないですか。筆箱のなかに、いっぱいいっぱい色の違ったボールペンがあったりしない?。ですか。新しいゲームが出たら、いっぱいゲームをもっていても、新しいゲームがほしくてほしくてたまらなくなるということはないでしょうか。宝石などもそうですが、もっているけど、なんとなくまたほしくなるというようなことはないでしょうか。デパートですてきな服があったら、服いっぱい持っているのに、ほしくなったりしない?でしょうか。

鉄じいじゃないですが、やっぱり、「両手で持てるもんだけで、よしとしとかんとな」と思います。両手で持てるものだけをもって、あと持てない物は、みんなでわかちあうということが大切です。ぼくたち、私たちの住んでいる社会は、わかちあうってことが、あんまりうまくいっていない社会です。とっても多くのものをもっている人たちがいる一方、食べることもできない人たちがたくさんいます。とってもお金持ちの国と、とっても貧しい国があります。私たちが住んでいる日本という国は、そこそこお金持ちの国です。だからこそ、わかちあうということを、こころにおいて生活しなければなりません。

今日の聖書の箇所は、「金持ちの男」という表題のついている聖書の箇所です。イエスさまのところに、お金持ちの男の人がやってきました。そしてイエスさまに「永遠の命を得るためには、どうしたらいいでしょうか」と聞きました。永遠の命っていうと、すこしむつかしい気がしますが、まあ神さまから「あなたは神さまの国に入れてあげる」って言ってもらえるってことです。神さまから「あなたえらいね」って誉めてもらえるっていうようなことです。

イエスさまのそのお金持ちの男の人に、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという教えをしっているだろ。これを守りなさい」と言われました。するとこのお金持ちの男の人はなかなかすばらしい人で、「そういうことは子供の時から守っています」っていいました。そうするとイエスさまは男の人にこう言いました。「あなたに欠けているものが一つある」。一つしか欠けていないっていうんだから、すごいよねえ。「もうあと一つだけ守ることがある」と、イエスさまはお金持ちの男の人に言いました。いいですねえ。五つも六つも、あれもこれもそれも、あと守ることがあるっていうんだったら、大変だけど、このお金持ちの男の人はあと一つだけでした。そのお金持ちの男の人に、イエスさまは言われました。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。

お金持ちの男の人は、このイエスさまの言葉を聞いて、びっくりしました。男の人にはたくさんの財産があったので、「この財産を貧しい人にあげるなんてことはできない。これはおれのものなんだから」って思いました。そして、イエスさまの前から立ち去ってしまいました。それを見て、イエスさまは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」って言われました。【その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。】って、聖書には書いてあります。「悲しみながら立ち去った」。ちょっと悲しい話ですよね。

ぼくたち、私たちのこころのなかにも、このお金持ちの男の人のようなこころがあります。「おれのものは、おれのもの。だからだれかとわけるなんて、いやだ」。そんな気持ち、私たちのなかにないですか。イエスさまは「おれのもの、おれのもの」っていう世界から、「みんなでわかちあおう」っていう世界にしたいよねって、思っておられました。

写真絵本『アフガニスタン 勇気と笑顔』(国土社)(写真・文、内堀たけし)という本をよみました。【働くこどもたち/「クルチャ」と呼ばれるクッキーを焼くこどもたち。アフガニスタンでは働くこどもたちの姿をよく見かけます。朝から晩まで一日中働き、休日もないのです。たとえ仕事場のとなりに学校ができたとしても誰ひとり学校へは通えません。こどもたちは何百キロも離れた村や難民キャンプにいる家族や姉妹の暮らしを支えているのです】。

この写真絵本をつくった内堀たけしさんは、最後に、アフガニスタンでであった3人の少女の話をしています。

【アフガニスタンとの出会い/

アフガニスタンから帰国するたびに、日本は豊かな国だなあと思わずにいられません。蛇口をひねるだけで簡単に出てくる水道水、駅のホームにはつぎつぎと滑るように列車が到着します。今でも戦火や貧困で苦しむアフガニスタンでは、どれひとつ見られない光景です。

遠くの井戸から、よたよたと重たい水を運ぶこども。雪の降る寒い日にも靴がなく、裸足の指先を丸めているこども。学校には通えず、靴みがきや自動車を洗う仕事をしなければ生きていけないこどもがいます。

 ある時、カブールの宿屋の食堂に10歳くらいの少女3人が、ちょこんと座っていました。実は外国の通信社の女性記者が少女たちを宿に呼んだのです。髪はボサボサ、服はつぎはぎだらけ、手の甲はカサカサになって真っ黒でしたが、3人とも可愛らしい顔立ちで、キラキラと輝く瞳の持ち主でした。

宿の主人が慌てて山盛りのフライドポテト3皿を少女の前にそれぞれ置きました。「さあさあ、食べなさい」と宿の主人は何度も少女にうながしましたが、3人は黙って皿を見つめるだけでした。静かになって時間が止まったようになった時、ひとりの少女が「これ、家へ持っていってもいいですか」と小さい声で尋ねました。主人は急いで、ポテトを紙袋にいれて、3人の膝の上に置きました。少女たちははじめて安心したような笑顔をみせたのです。その時、私はとても恥ずかしくなりました。それは、お腹をへらしたこどもたちはガツガツと食べて、山盛りのポテトの皿をあっという間に空にしてしまうだろうと思ったからでした。しかし、3人の少女は自分の事よりも家族や兄弟の空腹を思い、その場で食べずに持って帰りたいと言ったのでした。

私は自分の考え方を恥じると同時に、アフガニスタンに暮らす、こどもたちの尊くも美しい心に出会えたと感じました。 内堀たけし】。

アフガニスタンの3人の少女のように、ぼくたち私たちも「わかちあう」ってことを大切にしたいと思います。



(2025年11月23日平安教会朝礼拝・収穫感謝日子どもの教会との合同礼拝)


2025年11月15日土曜日

11月16日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「苦労もなくなり、力がわいてくる」

「苦労もなくなり、力がわいてくる」

聖書箇所 マルコ13:5-13。405/464。

日時場所 2025年11月16日平安教会朝礼拝式

      

農業研究者の篠原信(しのはら・まこと)の『そのとき、日本は何人養える? 食料安全保障から考える社会のしくみ』(家の光協会)を読みながら、いろいろと考えさせられました。「戦争、原油高騰、温暖化、大不況、本当は何が飢饉をもたらすのか」と書いてあり、ああ、なかなか大変な世の中だと思わされます。

この本の第一章は問いと答えの形で書かれてあります。

問い1.「日本だけでどれくらいの食料が生産できますか?」

化学肥料・化学農業・トラクターなどの農機具をうごかすためには、石油などの化石燃料が必要です。「米は石油でできている」と言っても過言ではない。石油などの化石燃料が安く手に入るのであれば、9000万人分くらいは大丈夫だ。でも石油が高騰するなどして手に入りにくくなれば、3000万人もむつかしいかも知れない。ということです。江戸時代の日本の人口は、3000万人です。

そのあと、魚をたべたらとか、太陽電池ならとか、原子力ならとか、ああやったらどうですか、こうやったらどうですかと、いろいろな問いがあるわけです。でも「ああ、これで解決」というような感じではありません。そして最後の問いが28です。

問い28.「日本は今後どうすべきでしょうか?」

海外から食料やエネルギーを安定的に輸入するには、世界が平和に活動できている必要があります。日本は人工が多すぎるうえに国土が狭いので、鎖国はできません。世界の国々とどう協調し、食料とエネルギーを輸入できるか。そのことを意識して国の進む道を模索していく必要があるでしょう。とのことです。

いろいろと不安なことがあると、自分たちが助かるために自分たちのことだけを優先して考えるべきだというような気持ちになります。でも落ち着いて考えてみると、実際そういうわけにもいかないように世界は回っていて、みんなで平和に暮らしていくためにはどうのようにすれば良いのかということを考えなければならないわけです。まあそうだろうなあと思います。自分たちにとって不都合なことがあるときは、「あいつが悪い、そいつがわるい」などど、慌てず騒がず落ち着いて考えてみるということが大切なのでしょう。

「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、 私は今日りんごの木を植える」という言葉は、宗教改革者のマルティン・ルターの言葉だと言われたり、いやそうではないと言われたりする言葉ですが、良い言葉だと思います。慌てず、騒がず、落ち着いて考え、自分のできることをするという基本姿勢が感じられます。慌てふためくと、フェイクニュースを信じて、とんでもないことをやってしまうのです。とくに人がいい人はフェイクニュースを信じやすいので気をつけなければなりません。落ち着いて考えるということが大切であるわけです。

今日の聖書の箇所は「終末の徴」という表題のついた聖書の箇所の一部です。マルコによる福音書13章5−8節にはこうあります。【イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。】。

イエスさまの時代、世の終わり・終末が来るということがもうすぐ起こるというふうに考えられていました。私たちは聖書を読んで、「終末の徴」というようなことが書いてあっても、イエスさまの時代から2000年経っても、世の終わり・終末は来ていないので、イエスさまの時代の人々ほど、世の終わり・終末が明日起こるかもしれないというように感じられるわけでもありません。昨日も来なかったのだから、今日も来ないし、明日も来ない、明後日も、一年後も、10年後も、100年後も来ないだろう。2000年経っても来なかったのだからと思えるわけです。しかしイエスさまの時代の人々は、昨日も今日も来なかったけど、明日は来るかも知れないというふうに思っていたわけです。

そして世の終わり・終末には預言者エリヤが現れ、そして方々で地震や災害といった天変地異が起こるというふうに言われていました。ですから「わたしがそれだ」というように、わたしが終末の預言者エリヤの生まれ変わりだというようなことを言う人が出てきます。惑わすことをいう人たちが出てくるけれども、そんな人たちに惑わされてはいけないと、イエスさまは言われます。戦争の騒ぎや戦争のうわさが起こったりするけれども、だからといってすぐに世の終わり・終末になるわけではないので慌てるなと、イエスさまは言われました。

マルコによる福音書13章9−11節にはこうあります。【あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。】。

イエスさまは弟子たちが迫害を受けることになるということを伝えます。イエスさまご自身が十字架につけられるわけですから、弟子たちもまた迫害を受け、地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれることになる。もしかしたら総督や王さまの前に連れていかれることもあるかも知れない。そんなときもあわてることはない。連れていかれても、聖霊があなたたちに働いて、良い証を行なってくれるから、安心しなさいと、イエスさまは言われます。

マルコによる福音書13章12−13節にはこうあります。【兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」】。

人というのはなかなか大変なもので、いろいろなことで対立しあったり、憎しみ合ったりするようなことが起こります。じっさいに死に追いやったりするようなことは、そんなに起こるわけではないですが、しかしそれでも戦争が起こったり、内戦が起こったりすると、大変なことが起こることがあります。そのように迫害が起こると、とても信じられないような悲しい出来事が起こることがあると、イエスさまは言われました。「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われました。

実際、私たちの国であります日本でも、明治時代やアジア・太平洋戦争のときに、キリスト教は迫害を受けることになりました。教会に対して石を投げるというようなことが行われたり、また戦争のときには牧師が逮捕され、獄中で亡くなるというようなことが行われました。治安維持法という恐ろしい法律があり、国家にとって都合の悪い人たちは迫害を受けたわけです。現在、スパイ防止法の制定をというようなこと言われますけれども、それはとても恐ろしいことであるわけです。「おまえはスパイ防止法に反対しているから、スパイに違いない」というような乱暴なことが簡単に行われるようになるわけです。

最近、「ゲバルトの杜〜彼は早稲田で死んだ〜」という映画を見ました。早稲田大学の文学部の川口大三郎さんが中核派のスパイと疑われて殺されたという事件を扱ったドキュメンタリー映画です。「お前はスパイだ」「ちがうスパイじゃない」「おまえはスパイだ」「ちがうスパイじゃない」。佐藤優という評論家が、この映画に出てききます。「これは魔女狩りの論理なんだ」と説明します。「おまえは魔女だ」「魔女じゃない」「おまえは魔女だ」「魔女じゃない」。人はバットで人を殴ったりしておいて、「こんなに殴られても、スパイじゃないと言い張ることができる強い意志をもっているから、やっぱりスパイに違いない」と考えるわけです。「おまえはスパイだ」。スパイ防止法ができると、スパイでない人がスパイにされてしまうわけです。人間というのは、そうした恐ろしさをもっているので、こうした法律に対しては、慎重にならなければならないのです。

世の終わり・終末というと、いろいろな天変地異が起こったり、迫害が起こったりするという聖書に書かれてありますから、ちょっと怖い感じがします。「世の終わり・終末が来たら、もう世の終わりだなあ」と思うわけです。でも世の終わり・終末というのは、ただただ怖い時として、聖書が語っているわけではありません。世の終わり・終末というのは、再びイエスさまが来られるときであるわけです。とんでもなくたいへんなときに、イエスさまが来てくださるということが言われているということです。

世の終わり・終末のときに、あなたたちがしなければならないことは、落ち着いていることだと、イエスさまは言われます。「慌ててはいけない」と、イエスさまは言われます。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない」。いろいろなことが起こって、「もう世の終わりだ」と思えても、慌ててはいけないと、イエスさまは言われます。

地方法院に引き渡されたり、総督や王さまの前に立たされることがあったとしても、慌ててはならない。困った時には、あなたたちに聖霊が働いてくださり、あなたたちを導いてくださる。だから神さまが守ってくださることを信じて、慌てることなく、落ち着いていなさい。そのようにイエスさまは言われました。

私たちはいろいろなことで不安になったり、慌てたりします。まあ人間はちっぽけな存在ですし、不安になったり、あわてたりするわけです。自分に自信のある人はまあそんなに不安になることもないのかも知れません。しかしたとえそういう人であったとしても、病気なったり、ケガをしたりすると、あたりまえですが自信がなくなってくるわけです。

わたしは10月、腰が痛かったので、すっかり自信を失いました。11月に入って、よくなりましたので、また自信を取戻しましたが、腰が痛かったときは、とっても弱気になっていました。いつまでこの痛みは続くのだろう。ずっと続いたらいやだなあ。そんなふうに思います。体が痛かったりすると、やはり不安になったり、慌てたりするようなことが起こります。

イエスさまはあなたたちは人間でちっぽけな存在であるのだから、神さまに頼って生きていきないと言われます。いろいろなことで不安になったり、どうしようどうしようと思うようなことが起こってくるかも知れないけれども、でも聖霊があなたたちを導いてくださるから安心しなさい。取り越し苦労をすることなく、安心して神さまにお委ねしなさいと、イエスさまは言われました。

神さまは私たちを愛してくださっています。神さまは私たち人間を愛を創造されました。私たちは欠けたところが多いですし、すぐ腹を立てたりする弱いところがあるわけです。神さまなんて信じられないというような思いをもったりもします。それでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちを守り導いてくださいます。

イエスさまは「取り越し苦労をしてはならない」と言われました。いたずらに不安になるのではなく、神さまにお委ねして歩んでいきたいと思います。愛の神さまは、私たちに愛を注いでくださり、生きていく力を与えてくださいます。

神さまを信じ、祈りつつ歩んでいきたいと思います。



 

(2025年11月16日平安教会朝礼拝式) 

2025年11月12日水曜日

11月9日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「静かに自らを省みる」

「あの人の思い出・・・・・消さないで・・・・・」

聖書箇所 ヨハネ16:12-24。386/507。

日時場所 2025年11月9日平安教会朝礼拝式


新美南吉は、「ごんぎつね」や「手袋を買ひに」で有名な児童文学作家です。新美南吉の作品に「デンデンムシノ カナシミ」という作品があります。「デンデンムシ」というのは、「かたつむり」のことです。


デンデンムシの悲しみというのは、こんな話です。

デンデンムシが自分の背の殻に、悲しみがいっぱい詰まっていることに気がついて、友人のデンデンムシを訪ねます。そして友だちに、「自分の背中の殻に悲しみがいっぱい詰まっている」と言うと、友だちのデンデンムシは「あなただけではない。わたしもそうだ」と答えます。そうするとデンデンムシはつぎの友だちのところを訪ねて、同じように話します。自分の背中の殻に悲しみがいっぱい詰まっている。そうするとその友だちのデンデンムシもまた、わたしもそうだと答えます。そうやって友だちのデンデンムシを訪ねていきます。そして気がつきます。

【トウトウ ハジメ ノ デンデンムシ ハ キ ガ ツキマシタ。

 「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ。ワタシ ハ ワタシ ノ カナシミ ヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」

 ソシテ、コノ デンデンムシ ハ モウ、ナゲク ノ ヲ ヤメタ ノ デ アリマス。】(『日本児童文学大系28 新美南吉』、ほるぷ社)(P39)。


「ワタシ ハ ナント イフ フシアハセ ナ モノ デセウ。ワタシ ノ セナカ ノ カラ ノ ナカ ニ ハ カナシミ ガ イツバイ ツマツテ ヰル ノ デス」と言っている人に対して、「アナタ バカリ デ ハ アリマセン。ワタシ ノ セナカ ニ モ カナシミ ハ イツパイ デス。」と答えるのは、カウンセリングの方法としては、たぶんあまりいいことではないのだと思います。

この「デンデンムシノ カナシミ」という話は、悲しんでいる人に「これでも読みなさい。悲しみをいっぱい抱えているのは、あなただけじゃないのよ」と言って、聞かせてあげるという話ではないのでしょう。そうではなくて、悲しんでいる人が、自然に「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ」と思えるためにある話なのでしょう。

【「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ。ワタシ ハ ワタシ ノ カナシミ ヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」

ソシテ、コノ デンデンムシ ハ モウ、ナゲク ノ ヲ ヤメタ ノ デ アリマス。】という、このデンデンムシは、たぶん新美南吉自身なのでしょう。

新美南吉は、1913年(大正2年)生まれです。そして1943年(昭和18年)に、結核のため、天に召されています。新美南吉は29年の生涯でした。新美南吉のお母さんは、新美南吉が4才の時に天に召されています。新美南吉はある種のさみしさや悲しみを抱えて生きていたのでしょう。そして1934年、21才の時に結核の症状を自覚します。「デンデンムシノ カナシミ」は、その翌年の1935年に書かれた作品です。そしてその翌年の1936年に再び結核の症状が出ます。そのため新美南吉は、東京での職を辞して、故郷に帰り、先生をしながら、作品を発表するという生活になります。そして近づく死を自覚しながら、書き続け、29才の若さで、天に帰っていきました。

【「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ。ワタシ ハ ワタシ ノ カナシミ ヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」

ソシテ、コノ デンデンムシ ハ モウ、ナゲク ノ ヲ ヤメタ ノ デ アリマス。】

とはいうものの、やっぱり自分が背負っている悲しみというのは、重いものです。「あなたの悲しみより、わたしの悲しみのほうが重いのよ」とか「世界にはもっと悲しんでいる人がいるのよ」とか言われても、自分の背負っている悲しみがなくなるというわけでもありません。やっぱり悲しいのです。

しかし「では、その悲しみの記憶を消してあげることができるのだけれども、その悲しみの記憶を消しましょうか」と言われると、みなさんはどうされますか。たとえば大好きな女の子にフラレタというようなとき、「その悲しみの記憶を消しましょうか」と言われたらどうしますか。

手塚治虫の『鉄腕アトム「地上最大のロボット」』という作品を原作にして、浦沢直樹という漫画家が、『プルートウ』(小学館)というマンガを書いています。漫画『20世紀少年』『YAWARA!』『MONSTER』の作者です。そのマンガの中にこういうシーンがあります。ロボットの刑事が、殺されたロボットのおつれあいのところに、やってきます。そのおつれあいがあまりに悲しそうにしているので、ロボットの刑事はこう言います。【記憶を・・・ データの一部を消去しましょうか?】。ロボットは記憶装置というのがあり、それに書かれてある記憶を消せば、きれいさっぱり忘れてしまうことができるわけです。するとそのおつれあいが【あの人の思い出・・・・・ 消さないで・・・・・】と言います。

『プルートウ』という漫画の中では「思い出」「憎しみ」ということがキーワードとなっています。1巻の最後に「アトム君」が出てきます。そしてそのときアトム君が手に持っているのはデンデンムシ、かたつむりです。浦沢直樹はアトム君を、背中に悲しみがいっぱい詰まったカラをもっているデンデンムシと一緒に登場させるのです。

『プルートウ』という漫画の中、もう一度、デンデンムシ、かたつむりが登場します。最後の巻である8巻です。悲しみや憎しみが心の中に一杯になったアトム君が、自分で自分をどのようにしたらいいのかわからなくなります。そしてそのあと、アトム君はデンデンムシ、かたつむりと一緒に登場します。

みなさんのこころのなかが、怒りや憎しみで一杯になっている時に、道端にかたつむりがいたら、どうされますか。たぶんわたしは踏みつぶしてしまうだろうと思います。背中に悲しみがいっぱい詰ったカラを持っているデンデンムシ、かたつむりを、ぐしゃっと踏みつぶしてしまうだろうと思います。しかしアトム君はそうしませんでした。道端にいたデンデンムシ、かたつむりを木の植え込みのなかに帰してあげるのです。そうすることによって、アトム君は心が穏やかになります。背中に悲しみがいっぱい詰ったカラをもっているカタツムリと、悲しみで一杯のアトム君が心を通わすことによって、アトム君は心が穏やかになったのです。

新美南吉の「デンデンムシノ カナシミ」のデンデンムシも「それじゃあ、あなたの背中の悲しみがいっぱい詰まったカラをとってあげる」ということを望んでいるわけではないでしょう。デンデンムシは悲しみを抱えている友を訪ねていくことによって、悲しみを抱えて共に歩んでいる友がいることに気がついたのでした。デンデンムシが望んでいたことは、悲しみのつまったカラを取り除いてくれということではなくて、共に歩んでいる友がいることを見つけることでした。

新美南吉は「牛」という詩を書いています。どちらかというと、わたしには「デンデンムシノ カナシミ」よりも、「牛」という詩のほうが、なんとなく安らぎを与えてくれるような気がします。

【牛    


牛は重いものを曳(ひ)くので

首を垂れて歩く


牛は重いものを曳くので

地びたを睨(にら)んで歩く


牛は重いものを曳くので

短い足で歩く


牛は重いものを曳くので

のろりのろり歩く


牛は重いものを曳くので

静かな瞳で歩く


牛は重いものを曳くので

輪の音にきゝ入りながら歩く


牛は重いものを曳くので

首を少しづつ左右にふる


牛は重いものを曳くので

ゆっくり澤山喰べる


牛は重いものを曳くので

黙って反芻(はんすう)している


牛は重いものを曳くので

休みにはうつとりしている】

(新美南吉作・杉浦範茂『花をうめる』、小峰書店)(P170)。 

たぶん新美南吉は、重いものを曳く牛の姿をみながら、重荷をかかえて歩む自分の姿を重ね合わせたのでしょう。そして泣き言を言わないで、重い荷物を曳く牛が、自分の友のように思えたのでしょう。

悲しみを受けとめて生きるということは、そう簡単にできることでもありません。わたしの母はアルツハイマー病という病気になり、父が15年間くらい母の介護をしていました。わたしの父はわたしの母が天に召されたあと、旅行にいこうとはしませんでした。気分に転換になるだろうと思って、わたしが「お父さん、旅行にでも行こうか」と言うと、父は「おまえたちだけで行ってこい」と言いました。私たちの家族が旅行に行きたいから、父を誘っているわけではなくて、父を連れ出そうとして「旅行に行こうか」と言っているわけです。なんどか誘ったわけですが、父の答えは「おまえたちだけで行ってこい」でした。

旅行が無理であれば、どこかで一緒に食事でもしようかと思って、誘ったりしました。以前、よく行っていた中華料理屋さんにでも行こうかと誘うと、父は「あそこには行かないようにしている」と言います。「あの中華料理屋さんはお母さんと一緒によく行ったから、行ったらお母さんのことを思い出してしまう」というわけです。外で何か食べても、「ああ、これお母さんと一緒に食べたなあ。これお母さんが好きだったなあ」と思い出してしまうというわけです。それでも母が召されて5年くらいして、ときどき旅行に行くようになりました。それでも旅行先で、おいしいものなどを食べたときには、「お母さんと一緒に来ることができたら、どんなに良かっただろう」と思うと言います。なかなか人間の心というのは、むつかしいものだと思います。

人間の心についての本はたくさん出ていますし、「悲しみの心の癒し方」のような本もたくさんあります。しかし悲しみの癒され方というのは、さまざまでしょう。こうすれば癒されるというのでもないでしょう。しかし悲しみを共にしてくれる方がいてくれると思えるときに、すこし悲しみがいやされるということがあります。私たちの悲しみを知ってくださり、私たちの嘆きを受けとめてくださる方がおられることを知るときに、私たちは悲しみを抱えながらも、歩んでいくことができます。

イエスさまは自分が十字架につけられて、殺されるということを、自分の弟子たちにお話になられました。【「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」】。弟子たちはイエスさまのことを頼っていましたから、イエスさまがいなくなるということは、とても不安なことです。そしてそれは大きな悲しみの出来事です。不安になっている弟子たちに、イエスさまは【はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる】と言われました。

イエスさまの弟子たちにとって、イエスさまにまつわる思い出は、すべてが思い出してうれしいという思い出ではありませんでした。弟子たちはイエスさまが十字架につけられるときに、イエスさまを裏切って逃げ出してしまいます。恥ずかしい思い出、消し去りたい思い出がたくさんありました。聖書を読んでいますと、そうした弟子たちの恥ずかしい思い出、消し去りたい思い出がたくさん出てきます。

イエスさまのお弟子さんのペトロさんは、イエスさまがご自分が十字架につけられて殺されてしまうという話をされ、弟子たちはみんなわたしにつまずくと言われたときに、自分はぜったいにイエスさまを裏切ったりしないと言いました。しかし、ペトロはイエスさまのことを知らないと言いました。マルコによる福音書14章66節以下に「ペトロ、イエスを知らないと言う」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の94頁です。

イエスさまのことを知らないと言った出来事は、ペトロにとっては思い出したくない、できれば消し去りたいような思い出だったと思います。しかしペトロはこの思い出を消し去ろうとはしませんでした。この思い出は生涯にとって大切なイエスさまとの思い出であったからです。そしてペトロはこのイエスさまのことを知らないと言った弱い自分を抱えて、イエスさまのことを人々に宣べ伝えていきます。

イエスさまのお弟子さんたちは、「あの人の思い出・・・・・消さないで・・・・・」という思いを持っていました。イエスさまとの思い出をいろいろな人に伝えたいと思っていました。それはイエスさまが弟子たちの悲しみや苦しみをすべてわかってくださり、共に歩んでくださる方だったからです。そしてイエスさまは弟子たちの悲しみを喜びに変えてくださる方だったからです。

「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。イエスさまはそう言われました。私たちにも悲しいことや辛いことが、ときに起りますが、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」というイエスさまの言葉を信じて歩みたいと思います。そしてイエスさまがそうであったように、悲しんでいる人、つらい思いをしている人の傍らに、そっと寄り添ってあげることのできる歩みでありたいと思います。



(2025年11月9日平安教会朝礼拝式)


8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...