2025年5月28日水曜日

5月25日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「祈りによってわたしが整えられる」

「祈りによってわたしが整えられる」

聖書箇所 マタイ6:1-15。18/518。

日時場所 2025年5月25日平安教会朝礼拝

 

いま、フジテレビは芸能人によるフジテレビ元女性社員への性加害問題で、社会的な信用を失っています。企業風土を一新するための具体的な取組みを発表しました。【「社内の一部に『楽しくなければテレビじゃない』を過度に重視した風土が根付いていたことを心より反省」するとしたうえで、「楽しくなければテレビじゃない」からの脱却を明らかにした。】ということです。まあいいかげんなことをしていると、やっぱり企業もだめになっていくということなのでしょうか。

フジテレビは20年前に、買収問題でゆれていました。2005年3月から4月にかけてライブドアとフジテレビが、にっぽん放送をめぐって買収合戦を行ないました。そのとき日本中で「いったい会社は誰のものなのか」という議論がおきました。会社は株主のものだ。会社は経営者のものだ。いやいや社員のものだ。社会のものだ。いろいろなことが言われました。

『会社は株主のものではない』(洋泉社)に、マイクロソフトのビルゲーツについてのエピソードが書かれてあります。パソコン・ソフトで有名なウインドーズをつくったマイクロソフト(ビル・ゲイツが設立)という会社は、過去は明らかに「社員のもの」だったそうです。【マイクロソフト社は設立28年間ものあいだ、株主への配当をしていなかったからです。配当を始めたのは最近のこと、2003年からです。・・・。誰が儲かっているのかというと、長期的な株主と社員でした。「ビルと社員が楽しければいい」というすごい世界だったんですね。1995年ごろに、わたしはビルに訊きました。「会社って、株主のものだよね?」。すると、「バカいうんじゃない。顧客、ユーザーのものだ」と答えました。でも、それはあくまで営業トークであって、本音では「自分と社員のものだ」と考えていたと疑っています(笑)】(P.161)(成毛眞、Makoto Naruke、「株主主義という考え方もトレンドにすぎない」『会社は株主のものではない』、洋泉社)。

ビル・ゲーツは大金持ちですが、慈善家でもあります。【ビル・ゲイツ氏、2045年までに資産の99%を寄付すると発表。感染症や貧困の対策に】(2025年5月9日BBCNEWSJAPAN)ということです。「私が死んだときに『彼は金持ちのまま死んだ』とは言われたくない」ということです。アメリカと日本とでは社会システムも違いますから、ビル・ゲーツはすごいと誉めたえようとも思いませんが、でも「私が死んだときに『彼は金持ちのまま死んだ』とは言われたくない」というコメントは良いコメントだと思います。

平川克美という実業家は、「会社は誰のものでもない。幻想共同体としての会社という視点」という文書のなかで、こんなことを言っておられます。【お金という指標を至上目的とした競争のなかで会社を考えると、どうしても3年ぐらいのスパンでしか考えられませんが、会社というものをもっと長いスパンで考えてみませんかと。10年や20年、あるいは100年というようなスパンで考えると、どういうあり方があるのかを考えてみませんか、ということです。実際、会社を100年というスパンでどうこうしていこうという考えのなかに、株主という考え方が入ってくるかというと、そこには投機的な株主はもういません。だいたい100年でなんとかしようという会社には誰も投資しないでしょうし。そのくらい時間と価値の指標を変えてみると、会社というものもまったく別の顔をもって見えるようになるということです】(P.129)。

こんなふうに考えると、会社と教会というのはある意味、似ているところばあります。教会というところは、神さまを相手にしていますから、長いスパンで物事をみています。神さまが相手ですからすぐに評価をしてもらえなくてもいいわけです。「まあ、そのうち」と言いますか、「まあ、神さまのところに帰ったときに評価してもらえたらいいか」と思います。なにか善行をしたとしても、直接、そのことを善行をした相手やあるいは周りの人々から返してもらわなくても、あとから神さまからほめてもらえたらいいかということになります。投機的な株主はそうはいかないわけです。短期間でお金という形で回収しないといけないわけですから、あんまり悠長なことはいっておられません。投資した事柄に対して「即、回収」しないといけないわけです。しかしイエスさまは今日の聖書の箇所で、「投機的な株主のような歩みは結局は損だ」と言われます。「そんなことがどこに書いてあっただろうか???」と思いながら、今日の聖書の箇所を見てみましょう。

今日の聖書の箇所は「施しをするときには」「祈るときには」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書5−7章は「山上の説教」と言われる聖書の箇所です。マタイによる福音書5章1節のところの表題には「山上の説教(五ー七章)を始まる」とあります。山上の説教はイエスさまが語られた説教がまとめられている聖書の箇所です。

マタイによる福音書6章1−4節にはこうあります。【「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」】

イエスさまは善行、良い行ないをするときは注意しないといけないと言われます。だれかから見てもらおうと思って善行をしたら損だと、イエスさまは言われました。だれかにこの世でその善行に対する報いを受けてしまったら、もう神さまが報いてくださることがなくなるから、隠れてしないと損だよと、イエスさまは言われました。偽善者たちは人からほめてもらえるように、わざと会堂や街角で施しをする。そうすると「ああ、あの人えらいわ!」と言ってもらえるわけです。そうするとまあその人の評判も上がるわけですから、まあうれしいわけです。それでもう報いを受けてしまっているわけですから、神さまからは報いを受けることはないと、イエスさまは言われます。「それって、損やろ」と、イエスさまは言われます。「どうせ報いを受けるのなら、人から受けるよりも神さまから受けたほうがええことない?」。そんなふうにイエスさまは言われます。

マタイによる福音書6章5−8節にはこうあります。【「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ】。

善行と同じく祈るということも、人々から評価される大きなポイントでした。「あの人は信仰熱心な人で、いつもお祈りをしている」というふうに見られることが、とてもうれしいことであるわけです。だから偽善者たちは人から見てもらうために、会堂や大通りの角でお祈りをしたがりました。しかしイエスさまはそれではもうすでに人々から報いを受けてしまうから損だろと言われます。お祈りは隠れたところでしなさい。そうすれば神さまが報いてくださるから。そして神さまはあなたの願っていることをもうすでに知っていてくださっているから、ながながと、くどくどと祈る必要はないと、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書6章9−15節にはこうあります。【だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」】。いわゆる私たちが礼拝でいつもお祈りをしている「主の祈り」の原形です。長々とくどくどと祈らなくても、短くこのように祈りなさいと、イエスさまは弟子たちに教えられたのでした。

イエスさまは「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と言われます。マタイによる福音書6章4節にありますし、マタイによる福音書6章6節にはもあります。またマタイによる福音書6章18節にもあります。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。

人は何か良いことをしたら、すぐにほめてもらいたいと思います。なかなかほめてもらえなかったら、どうして自分はこんなに評価が低いんだと怒りたくなったりします。しかしイエスさまはそんな人間の小さな評価よりも、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということの方が大切だと言われます。そんな投機的な株主のようにすぐに報いを回収しようとするのではなく、長期的な展望に立って「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということを心に留めて生きていきなさいと、イエスさまは言われました。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」のであれば、私たちはあまり小さなことで一喜一憂する必要がなくなります。

今日の聖書の箇所で、イエスさまが語っておられることです。「施しをするときには」「祈るときには」ということです。小さな良き業に励み、そして神さまにお祈りをするということです。

【隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる】というのは、不平不満の多い私たちに対するイエスさまのユーモアです。私たちは何かいいことをしたりすると、評価されることを望みます。そしてなかなか自分が評価されないと、「なんでこんなにいいことをしているのに、わたしは評価されないのだろう」と腹立たしく思えてきます。

「イエスさま、わたしはこんなにいいことをいろいろとしたのに、だれも評価してくれません」と、私たちがイエスさまに愚痴をこぼすと、イエスさまはこう言われるわけです。「よかったよ。とっても、ラッキーだと思う、あなたは。人が報いてくれなかったから、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。あなたは、天国で赤丸急上昇中や。天国の積立貯金の額がめちゃめちゃ増えてるよ」。そしてマタイによる福音書6章19-21節の「天に宝を積みなさい」という話へとつながっていくわけです。

小さな良き業に励み、そして神さまに祈りをする。小さな良き業に励むと言われても、わたしは悪人だから自信がないという方もおられるかも知れません。わたしと同じですね。わたしもそうです。でも神さまは私たちを祈りによって変えてくださいます。神さまに毎日毎日お祈りをしていると、必ず神さまは私たちをつくり変えてくださいます。私たちは祈りによって整えられていきます。ですから祈るということはとても大切なことなのです。私たちの神さまは願う前から、私たちに必要なものをご存じです。それじゃあ、祈る必要はないじゃないかと思えますが、それは違うわけです。私たちが祈ることによって、私たち自身が整えられていくのです。自分勝手な願いをする私たちから、神さまの御旨を求めていく私たちへと整えられていくのです。

【隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる】。私たちに報いてくださる神さまを信じて、そして小さな良き業に励む。祈りながら、神さまが私たちを整えてくださることを信じて歩んでいく。

お一人お一人の歩みを、神さまは豊かに祝福してくださいます。


(2025年5月25日平安教会朝礼拝)




5月18日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「わたしは道であり、真理である。」

「わたしは道であり、真理である」

聖書箇所 ヨハネ14:1ー11。17/456。

日時場所 2025年5月18日平安教会朝礼拝式


ファン・ジョンウンの『誰でもない』(晶文社)という短編集を読みました。韓国の小説家ファン・ジョンウンは、ノーベル文学賞をとったハンガンの次に期待をされている小説家だと言われています。

【それが必要だった。すべてのものが消えていくときに。暗闇を水平線で分ける 明かりのようなものがー  喪失、暴力、孤独、格差、貧困・・・・・・。“今”をかろうじて生きる人々の切なく、まがまがしいまでの日常を、圧倒的な筆致(ひっち)で描いた8つの物語。いま最も期待される韓国文学の<新しい顔>ファン・ジョンウン、待望の初翻訳】ということです。

ファン・ジョンウンは『誰でもない』という本のタイトルについてつぎのように記しています。【この本のタイトルもまた、『誰でもない』ではなく『何でもない』と誤解されることがありました。多くのは無意識の言い間違いやことば遣いのくせによるものなのでしょうが、私には、私が属している社会で人々が自分自身について、そして他の人について考えるときの姿勢が、ここに反映されているのだと思えます。私/あなたは、何でもない。韓国は金融危機から比較的早く抜け出しましたが、その後ずっと後遺症をわずらっています。過去二十年間の日常と非日常のいたるところで人々は、自らが「何でもない人」とされる瞬間を味わい、他人が「何でもない人」として扱われる瞬間を見てきました。私はつまらないものを好む方ですが、人間をつまらないものと見なす社会全体の雰囲気が人々のことばに表れているのを目撃することは、どうにも、わびしいことです】。

世の人々は「誰でもない」というと、「何でもない」、つまり「何にもできない」とか「つまらない」という意味にとるということです。しかしファン・ジョンウンが語るところの「誰でもない」ということは、「他の誰でもない」「何者にもかえがたい」大切な者という意味であるのです。ですからファン・ジョンウンは韓国社会で、孤独・格差・貧困のなか、いまかろうじて生きている人々の姿を小説の中に記しているということです。

「誰でもない」小さな者である私たちですが、しかし「他の誰でもない」大切な一人の人間であるのです。イエスさまもまた私たちにそのことを教えてくださいました。あなたは神さまから愛されているかけがえのない一人の人間である。イエスさまは病気の人々、悩みの中にある人々のところをお訪ねになり、そしてその人が神さまの愛の中にあるかけがえのない大切な一人であることをお伝えになりました。

今日の聖書の箇所は「イエスは父へ至る道」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書14章1−4節にはこうあります。【「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」】。

ヨハネによる福音書14章1節からの話は、十字架につけられるイエスさまが弟子たちに、「心を騒がせるな」と言われ、弟子たちを安心させるという聖書の箇所であるわけです。「わたしは十字架につけられて殺されるけれども、それはあなたがたが天の国に行く時のために、ちょっと部屋を用意しにいくだけのことだから。そしてまたあなたたたちのところに戻ってくるから安心しなさい」と、イエスさまは言われました。まあこのところは不安になっている弟子たちを励ますための、イエスさまの冗談であるわけです。

そのあと、イエスさまは「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われました。しかし実際は弟子たちはよくわかっていません。そんなによくわかっている弟子であるわけではないのです。しかし弟子たちがよくわかっていないということを、イエスさまはよくわかったうえで、弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言っているのです。それだけイエスさまは弟子たちを愛し、弟子たちを信頼しているのです。

ヨハネによる福音書14章5−7節にはこうあります。【トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」】。

トマスはとても正直な人なので、イエスさまに「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と応えます。イエスさまは「あなたたちは知っている」と言われるのですが、でもトマスは「わたしたちには分かりません」と、正直に応えるのです。そして「どうやったら、その道を知ることができるでしょうか」と、イエスさまに尋ねます。

「道とは何であるのか」ということですが、イエスさまは「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言っておられます。ですから道とは神さまへの道ということです。イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。イエスさまによって、私たちは真理を知り、命を得ることができる。そしてイエスさまによって、私たちは神さまへと導かれていきます。そしてイエスさまによって、イエスさまの十字架と復活によって、私たちは永遠のいのちを得ることができるということです。

イエスさまは弟子たちを励まします。イエスさまは「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と言われます。弟子たちは自分勝手な弟子たちですし、イエスさまが捕まると、イエスさまのことを知らないのと言ってしまうような弟子たちです。しかしイエスさまはそんな弟子たちに対して、あなたたちは既に神さまを知っていて、神さまを見ていると言われます。もうあなたたちは神さまの祝福のうちにあり、そして神さまに連なる永遠の命を得ているのだと、イエスさまは弟子たちに言われます。

ヨハネによる福音書14章8−11節にはこうあります。【フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。】。

イエスさまは弟子たちに、あなたたちはもう十分に神さまのことを知っていて、神さまに連なっているのだと言われるわけですが、しかしフィリポはとてもまじめな人間なので、「わたしたちに御父をお示しください」と応えます。フィリポにしてみえば、なんとなくこころもとないのです。イエスさまは自分たちのことを誉めてくださるけれども、フィリポは自分たちがそんな神さまにふさわしい者でないことを知っています。そしてイエスさまのことは知っているけれども、父である神さまに会ったことはないのです。

そんなフィリポにイエスさまは、わたしに連なっているということが、神さまを知っているということなのだと言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である」。わたしが神さまへの道であり、神さまの真理であり、神さまの命である。わたしが神さまのなかにあり、神さまがわたしのなかにおられる。わたしが語る言葉は、わたしの言葉ではなく、神さまがわたしを通して語っておられるのだ。神さまがそのようにわたしを用いておられるのだ。わたしが神さまの内にいて、神さまがわたしの内におられる。神さまとわたしは一つであり、わたしは神さまの御心にしたがって、神さまの御業を行なっている。そのようにイエスさまは言われました。

十字架を前にして、イエスさまは弟子たちを励まします。なんとなく不安になっている弟子たちに「あなたたちは大丈夫だ」と言われます。「あなたたちは道であり、真理であり、命であるわたしのことを知っているのだから、大丈夫だ」と言われます。弟子たちは自信がありません。自分がちっぽけな存在であることを知っているのです。誰でもない、何者でもない、自分であることを知っています。そして不安になります。しかし、誰でもない、何者でもない弟子たちを愛してくださる方がおられます。イエスさまは弟子たちを、他の誰でもない大切な一人として愛してくださいます。そしてわたしを信じなさい。わたしにつながっていなさい。わたしは道であり、真理であり、命である。このわたしはあなたたちを離しはしない、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、弟子たちを招かれたのでした。

イエス・キリストは私たちを招いておられます。誰でもない、何者でもない私たちを、イエスさまは他の誰でもない大切な大切な一人として、私たちを招いてくださっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。私たちはこのイエスさまが示してくださった神さまへの道を、しっかりと歩んでいきたいと思います。


     

  

(2025年5月18日平安教会朝礼拝式)


5月11日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「母の願いをこえて」

「母の願いをこえて」

聖書箇所 マタイ20章20−28節。333/493。

日時場所 2025年5月11日平安教会朝礼拝・母の日礼拝・きてみてれいはい


5月の第二日曜日は母の日です。先日、同志社女子高等学校に朝の礼拝説教にいったときも、宗教部員のこどもが、「母の日のカーネーション」の話をしておられました。同志社女子中高では、「母の日礼拝」のときがあり、この日は生徒、教職員ともに、カーネーションの造花を身につけて1日を過ごすそうです。お母さんもうれしいでしょうね。

ちいさなこどもは自分のお世話をしてくれる人をたよりにして生きています。わたしの娘も小さい頃、母親をたよりにしていました。下の娘が保育園のときに、家族と保育園をつなぐ「おたよりノート」というのがありました。保育園でどのように過しているかを、ご家庭に知らせたりするわけです。

ある日のおたよりノートにはこう書かれてありました。【4/24 (今日のまなちゃん声がかれてかわいそうでしたね。お弁当も少し残しています)。お昼寝の時、他のお友達が泣いているのを見てつらくなったのか、「かあか、かあか、いる」と泣き出しました。だっこしたりトントンすると眠りました】。わたしはこれを読んで、なんで娘が「おとうと、いる」と言ってくれないんだと思いました。その夜、わたしは娘とお風呂に入ったときに、娘に言いました。「まな、保育園でお昼寝のときは、『とうと、いる』と言いながら寝るんやで。『とうと、いる』、わかった?。ゆうてみ」「おとうと、いる」「そうそう、とうと、いる、な」「とうと、いる」。そしてまたしつこく、夜、一緒に寝ながら、「まな、こうやって、保育園でねんねするときも、『かあか、かあか、いる』やない、『とうと、いる』ゆうんやで、わかった?」と教え込んだのですが、おたよりノートに【まなちゃん、『とうと、いる』と言いながら、眠りました】とは書かれることはありませんでした。やはり母をたよりにしているようでした。

今日は母の日なので、わたしの母の思い出の出来事をお話いたします。それは「石油ストーブ丸焼け事件」という出来事です。小学校の低学年くらいでしょうか、わたしはストーブが消えかけてきたので、ストーブに灯油を入れることにしました。当時はカートリッジのストーブではありませんでした。石油タンクをもてきて、ストーブの給油口をあけて、大きなスポイトのような、頭の赤いやつで入れようとしました。ストーブの火をちゃんと消してから、入れないといけないわけですが、たぶんだれかがものぐさなことをやっていたのを見ていたのでしょう。とんでもないやつです。わたしもまたストーブの火を消さないで、灯油を入れはじめました。赤いところを圧すと灯油がストーブに入ります。そしてそのときストーブの火がぼっと赤くなります。「おお、はいっとる、はいっとる」。はじめは順調に入っていたのですが、突然、給油口から灯油があふれ、飛び散りました。満杯になってしまっていたのです。給油口からあふれ飛び散った灯油は、ストーブの火にかかり、なんとストーブが燃えはじめました。わたしはこりゃたいへんなことになったと思って、ストーブの取っ手を消火の位置に回したのですが、ときすでに遅しです。ストーブはしだいに燃えていきます。「ああ、ああ、どうしよう」。よく見ると、灯油があふれ出てストーブの下の受け皿のようなところにたまっています。わたしは思いました。「おお、この下にあふれている灯油をなにかで吸い取ってしまえば、燃える灯油がなくなるのだから、消えるに違いない」。燃えるものがなくなれば、火は消える。まあなんと冷静な頭のいい少年です。わたしはティッシュをいっぱい持ってきて、あふれている灯油を吸い取ろうとしました。すると突然、わたしの手のなかのいっぱいのティッシュは火だるまになりました。わたしがびっくりして、「わあー」と大きな声をあげたとき、母ややってきて、「なにやっとるん。のきなさい」とわたしを叱りました。母は「のきなさい」と言いながら、ふとんをもってきて、火だるまになっているストーブをふとんでくるんで抱えて、家から庭に出しました。その途中で、ストーブのもえかすを足でふんずけて火傷をしてしまいました。まあしかし、それで事なきを得、消防車を呼ぶという大事にもなりませんでした。わたしは泣きながらずっと、燃えたストーブを見つめながら立っていると、父が自転車にのって仕事から帰ってきました。燃えたストーブと泣いているわたしをみて、父は笑いながら、「どうしたんや」と言ったのを覚えています。

わたしの母はそんなに大きな人ではなかったし、力持ちというような人でもありませんでした。しかしこのときの母は力強かったなあと、いまでも思います。そしてこども心に、母がいてくれて心強いなあと思いました。まあ「母はつよし」というところでしょうか。りっぱな母の思い出です。どうでもいいことですが、わたしはこの出来事以来、ストーブに灯油を入れるときは、かならず火を消してから入れることにしています。それは大人になった今日でも忘れない、わたしの幼き日の教訓です。まあもっとましなことを教訓として生きていくべきだなあとも思いますが・・・。

今日はわたしのりっぱな母の思い出をお話ししましたが、聖書にも、ある母親の物語があります。イエスさまのお弟子さんのヤコブとヨハネのお母さんのお話です。こういうお話です。イエスさまのお弟子さんのヤコブとヨハネのお母さんが、ヤコブとヨハネと一緒にイエスさまのところにやってきました。ヤコブとヨハネのお母さんが、なにか言いたそうなのに気がついたイエスさまが、「お母さん、どうしました?」と声をかけます。するとお母さんは「イエスさま、あなたがえらくなって、ユダヤの王様になったときは、わたしの息子のヤコブとヨハネを大臣にしてください」と言いました。するとイエスさまはお母さんに言いました。「お母さん、あなたはちょっと勘違いしてますよ。わたしがどんなになっても、あなたの息子さんたちは、わたしについてこられますか?」。そういうとヤコブとヨハネは「できます」と答えます。

ヤコブもヨハネもお母さんも、イエスさまがまさかこれから十字架につけられて殺されるとは思っていませんでした。イエスさまはこれからユダヤの王様になると考えていたのでした。でもイエスさまは自分が十字架につけられて殺されてしまい、お弟子さんたちもちりじりばらばらに逃げてしまうということを知っておられたのです。イエスさまは貧しい人々や悲しんでいる人々に慰めの言葉をかけ、そうした人々に仕える歩みをしておられました。しかしイエスさまのお弟子さんたちはみな、そのうちイエスさまは王様になられると思っていたのでした。それでイエスさまが十字架にかけられたときに、イエスさまを捨てて逃げてしまうのです。しかしそののち、弟子たちは(ヤコブやヨハネもそうですが)、悔い改めて、イエスさまのなさったことを宣べ伝えるようになりました。

ヤコブやヨハネのお母さんが勝手な願いをしたので、みんな怒りました。イエスさまが王様になったとき、じぶんこそ大臣にしてもらおうと思っていたからです。イエスさまのお弟子さんたちはみんな自分勝手です。なさけない人たちです。そうした弟子たちにイエスさまは言われました。【あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい】。わたしもみんなに仕える生き方をしているのだから、あなたたちもいばったり、えらくなりたいと思うのではなくて、人に仕える生き方をしてください。それが神さまが喜ばれる生き方ですよ。イエスさまはそんなふうに、お弟子さんたちに言われました。

ヤコブとヨハネのお母さんは「息子がえらい人になってほしい」と思って、イエスさまにお願いにいったわけです。【「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」】。まあなんとも身勝手なお願いです。皆さまはどう思われるでしょうか。わたしは若い頃、熱血漢でしたから、このお話を聞いて、「この、ヤコブとヨハネのお母さんは、なんちゅうやつや」と思いました。「それにこの、お母さんについていってもらって、イエスさまに頼んでもらうというヤコブやヨハネは、なんとも言えない、いやなやつだ」と思いました。

しかしわたしもまた人の親になると、このお母さんの気持ちがわかるような気がします。やはり親というのはこうした愚かさをもっているのです。「自分の子がかわいい。そのためには少々、勝手なことをしてでも・・・」という気持ちがあるのです。マタイによる福音書20章20節には、母親の微妙な気持ちがうかがわれます。【そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした】。お母さんはイエスさまのところに来て、すぐにお願いすることはできなかったのです。なかなか切り出すことができませんでした。それはお母さん自身も、身勝手なお願いだということを知っていたからです。「こんなお願いをするのは、本当は正しいことじゃないんだ」ということをお母さんは知っていたのです。しかし自分の子はかわいい。そしてやはり愚かな願いをイエスさまにするのです。ここに、わたしは「切ってすてられない母の愛がある」と思います。それは愚かな愛であったとしても、やはり切って捨てることのできない愛があると思うのです。

しかしこどもはそうした親の思いとは違った生き方をし始めます。ヤコブやヨハネは、イエスさまのところにお母さんと一緒にいって、お母さんに「この二人を大臣にしてください」とお願いしてもらうような人間でした。しかしイエスさまが十字架につけられ、三日目によみがえられたあと、イエスさまを宣べ伝える生き方をし始めます。彼らは十字架につけられた犯罪人の生き方を宣べ伝えました。人々の上にたつのではなく、人々に仕える生き方をし始めました。この生き方はたぶんヤコブやヨハネのお母さんが望んだ生き方ではなかったでしょう。「そんなことやめてくれたら・・・」とお母さんは思ったでしょう。しかしお母さんはまた自分のこどもたちを誇らしく思ったことでしょう。そしてこどもたちのために、神さまにお祈りしただろうと思います。「わたしの願いとは違ったけれども、この子たちが、自分の思いどおり、人々に仕え、あなたに仕えて生きていけますように」。

私たちは人間ですから、身勝手な思いで、人間的な思いをもつときがあります。「わが子がかわいい。わが子さえよければ・・・」。しかし神さまはヤコブやヨハネのお母さんの思いを越えて、人として確かな道へと、ヤコブやヨハネを導いてくださいました。

神さまは私たちを愛してくださり、私たちをよき歩みへと導いてくださいます。こころのなかに邪な思いをもつ私たちを、それでも愛してくださり、私たちの歩む道を整えてくださいます。その神さまの愛の中を安心して歩んでいきたいと思います。



(2025年5月11日平安教会朝礼拝・母の日礼拝・きてみてれいはい)


5月4日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「すこやかな歩みを大切に」

「ここにソロモンにまさるものがある」

聖書箇所 マタイ12章38-42節。325/463。

日時場所 2025年5月4日平安教会朝礼拝


人は何か確かに見えるものを求めようとします。まあ何か形があれば、安心できます。「これが証拠の写真です」と言われて、出されると、なんとなくそのことが起こったような気がします。しかしいまはほんとうに簡単に映像もあったかのようにつくることができるようになりました。そういう意味では写真や映像をみても、ほんとうにあったことかどうかなどということは、わからなくなってきました。

また写真や映像というのは、全体の一部分を表していたりして、本来はそのまま信じることなどできないものです。1945年8月16日の毎日新聞の一面は、「皇居二重橋前広場で土下座する人々」という写真が載っています。「“忠誠足らざる”を詫(わ)び奉る(宮城前)」という写真説明がついています。人々が皇居で、戦争に負けたことを天皇に詫びるために、整然と並び土下座をしている写真です。こんな写真を見たら、みんな戦争に負けたことを天皇に詫びているというふうに思います。人々が整然と並び土下座をしているわけですが、この写真は合成写真だそうです。【「戦争中は、紙面に掲載される写真のほとんどが切り貼りだった習慣から、なんの抵抗感もなく合成してしまった」】(新藤健一『映像のトリック』、講談社現代新書)そうです。8月15日に敗戦を迎えても、新聞は相変わらず戦争中の新聞でありました。人間の営みというのは、まあ、そういうものなのだろうなあと思います。

イエスさまの復活という出来事は、証拠がない出来事でした。あったのは「空の墓」ということです。イエスさまの遺体がないというという出来事があったわけです。遺体がないわけですから、復活したと言えば復活したわけですが、しかし盗まれたと言えば盗まれたというふうになってします。信仰に関する出来事は、信じるしかないということがあります。

イエスさまがよみがえられたことを信じられなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。まあそれでイエスさまはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と言われてしまいます。「見ないで信じる人は、幸いである」というのは、「ただ」信じるということです。

私たちは「たら」の信仰ではなくて、「ただ」の信仰でありたいと思います。しるしを求めるというのは、「たら」の信仰ということです。「・・・してくれたら」信じよう。「しるしを見せてくれたら」信じよう。しかし信仰というのは、本来、「見ないで信じる人は、幸いである」ということですから、「ただ」信じるということです。

基本的に、信仰というのは、二つの「ただ」でなりたっています。使徒パウロは信仰義認ということを言いました。信仰義認というのは、何かをしたから救われるというのではなく、「ただ」信じることによって、救われるということです。神さまも私たちに「・・・してくれたら」とは言われないのです。「律法を守ってくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、神さまは言われませんでした。「りっぱなことをしてくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、言われませんでした。私たちが救われるのは、神さまの憐れみによって救われるのです。いわば、私たちが救われるのは、「ただ」で救われるのです。こんなふうに、信仰の世界というのは、基本的に、「たら」の世界ではなくて、「ただ」の世界であるのです。「ただ」で救われたのだから、「ただ」信じるのです。「・・・してくれたら」の「たら」の世界ではなく、「ただ」信じるという世界に、私たちは生きているということです。

「しるし」というのは、「しるし」であって、それは本体ではありません。結婚するときに、わたしが妻に送った10カラットのダイヤモンドの指輪、そんなものはないですが・・・。みなさんがおつれあいに贈られたダイヤモンドの指輪は、それは愛のしるしです。それはしるしであって、ほんとうに大切なのは、愛のほうです。ダイヤモンドの指輪だけを見つめ続けられると、贈った方も動揺してしまいます。しかし愛は、なにか特別なことでも起こらない限り、なかなか見えません。船が沈没したときに、たった一つの浮き輪を渡してくれたとか、暴漢にさされそうになったときに、身代わりにさされてくれたとか。そんなことが日常に頻繁に起こってくれたら、「この人、わたしのことを愛してくれている」ということがわかりますが、だいたいそんことは普通は起こらないわけです。愛は確かめようもないですから、どうしても愛のしるしに頼ってしまいます。人はなんとなく、しるしを求めてしまうものです。しかし本当に大切なのは、しるしではなくて、そのしるしの実体が大切なのです。

今日の聖書の箇所でも、イエスさまにしるしを求める人たちが出てきています。今日は「人々はしるしを欲しがる」という表題のついた聖書の箇所です。

マタイによる福音書12章38節にはこうあります。【すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った】。律法学者とファリサイ派の人々は一応、イエスさまに「先生」と言っていますから、ある意味で友好的なもののいい方をしているのでしょう。しるしというのは、まあ奇跡のようなものでしょう。イエスさまはいやしのわざや奇跡を行なっておられました。「なにかすごいことをして、私たちにお前が神の子、メシア、救い主であることを証明して見ろ」ということでしょう。

これに対して、イエスさまはこう言われました。マタイによる福音書12章39-40節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる】。

イエスさまは律法学者やファリサイ派の人々に対して、【よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが】というように、ちょっと挑発的な口調で、彼らを非難しておられます。ヨナというのは、旧約聖書のヨナ書の主人公です。旧約聖書の1445頁です。ヨナは神さまから命令されて、ニネベの町に人々に悔い改めるように告げにいくようにと言われます。しかしヨナはそのことが嫌で船にのって逃げ出すのですが、船が嵐に遭い、嵐がヨナのせいだとされて、船から海に投げ込まれます。溺れそうになったヨナを、神さまは大きな魚に飲み込ませることによって、助けます。ヨナはその魚の腹の中で、悔い改めるのです。そしてニネベに行き、ニネベの人々を悔い改めにに導きました。

預言者ヨナのしるしというのは、ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)の腹の中にいたということのようです。そして【人の子も三日三晩、大地の中にいることになる】というのは、イエスさまが十字架につけられて殺され、そして埋葬されて、三日目に甦られるということです。大切なことは、イエスさまの十字架と復活の出来事だと、マタイによる福音書の著者は言っています。

マタイによる福音書12章41-42節にはこうあります。【ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」】。

南の国の女王というのは、シェバの女王のことです。列王記上10章に「シェバの女王の来訪」という聖書の箇所があります。旧約聖書の546頁です。シェバの女王は、イスラエルの王であるソロモンがとても知恵のある王であることを聞いて、イスラエルに訪ねてきました。そしてソロモンが本当に知恵ある王であるとわかったときに、シェバの女王はイスラエルの神さまをほめたたえました。

ニネベの人はヨナの説教を聞いて悔い改めたし、シェバの女王はソロモンの知恵を聞いて、神さまをほめたたえた。しかしあなたたちは、ヨナにまさるものであり、ソロモンにまさるものであるわたしの話を聞かないし、悔い改めもしない。わたしを信じるのではなくて、しるしを求めて、信じる真似事をしようとしている。「しるしを見せてくれたら」と、「たら」の世界に生きようとしている。そんなふうに、イエスさまは律法学者たちやファリサイ派の人々を非難されました。

イエスさまは私たちに与えられるしるしは、ヨナのしるしだけであると言われました。ヨナのしるしというのは、イエスさまの十字架と復活の出来事です。三日三晩、大魚のお腹の中にいたヨナのように、イエスさまも十字架につけられて葬られ、三日目に甦られるということです。そしてイエスさまのことを信じて、神さまの前に悔い改めて生きていく。このことが大切だということです。

イエスさまの十字架と復活の出来事は、人間の罪の出来事であり、神さまの救いの出来事です。イエスさまの十字架と復活の出来事によって、神さまが私たちを救ってくださった。このことを信じるということが大切なこことであり、ヨナにまさるものであり、ソロモンにまさる、イエスさまが私たちと共にいてくださることを信じることが大切だということです。

私たちはなんとなく不信仰な者ですから、信仰生活のなかで、迷路のようなところに入り込んでしまうということがあります。困難なことや、自分に不都合なことが起こると、「なんで、わたしがこんな目にあうだろう」と思います。自分だけが神さまから愛されていないような気がしてくるときもあります。そんなとき、ただ信じるのではなく、・・・してくれたら信じるというような気持ちになってしまうこともあります。自分のこころが弱くなっているとき、私たちは神さまに対して、しるしを求めようとします。イエスさまも十字架の前に、ゲッセマネで、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(MT2636)と祈られたのです。もちろん、イエスさまはそのあと、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(MT2639)と祈られました。でもイエスさまも苦難の中で、「父よ、できたら」と祈られたのです。人はそういう弱さを持ちながら生きています。しかしそれでも人は、クリスチャンとして、「御心のままに」と祈りに導かれていくのです。

それは、私たちには、イエスさまが共にいてくださるからです。どんなときにも、私たちと共にいてくださる方がおられる。十字架を経験され、私たちのみじめさや弱さを知ってくださっている方が、私たちと共にいてくださる。だから私たちはしるしを求めて生きていくのではなく、ただ信じて生きていくのです。

イエスさまは言われました。「ここに、ヨナにまさるものがある」「ここに、ソロモンにまさるものがある」。ヨナにまさる方が、ソロモンにまさる方が、私たちと共にいてくださるのです。

イエスさまと共に歩みましょう。ただ信じて歩んでいきましょう。



(2025年5月4日平安教会朝礼拝)


4月27日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「すこやかな歩みを大切に」

「すこやかな歩みを大切に」

聖書箇所 マタイ28:11-15。333/323。

日時場所 2025年4月20日平安教会朝礼拝式・定期総会

  

社会から倫理というものが失われてくると、「まあ少々嘘をついてもまあええか」という人が出てくるようになります。一般的な人は「嘘をつく」ということに罪悪感を感じます。たとえば「6時に行くね」と約束をしたのに、6時にいけなくなってしまって、しかたなく7時に行った。すると約束した相手から「あなたは嘘をついたのか」と言われる。「いや嘘をついたわけではないけど、結果的には嘘になってしまった。ごめんなさい」と言うわけですが、「あなた嘘をついたのか」と言われると、とても傷つきます。「嘘をついてしまった」ということが、こころのなかでトゲとして残って、気になって気になってしょうがいないというようなことが起こったりします。

でも最近は積極的に嘘をついても、大丈夫な人たちも出てくるようになりました。アメリカのトランプ大統領は、日本の自動車の安全基準について「ボウリングの球を6メートルの高さから車のボンネットに落とし、少しでもへこんだら不合格になる。われわれはとんでもない扱いを受けている」というような嘘をつきます。2018年にそのようにトランプ大統領は言っていて、「それは間違いですよ」と指摘されています。嘘であることがわかっていて、嘘をつくわけです。現代は嘘活用社会です。嘘を活用して、うまくこの世を乗り切ろう。嘘を証明するのには、証明するのに時間がかかる。嘘をついて、その場をごまかし、ことを有利に運んでいけば、成功すること間違いなし。嘘かどうかというようなことは大したことではない。という「嘘活用社会」です。

日本でもやはり政治の世界で嘘が蔓延しています。最近は、偽名で不倫をしていた衆議院議員が謝罪をしていました。同志社大学出身の議員なので、なおのこと残念です。同志社大学の良心教育が足りなかったと思いました。わたしは政治家はやはり倫理を大切にしたほうが良いだろうと思っています。芸能人や一般人と政治家の不倫を、同じように考えるのは、やめたほうが良いだろうと思います。政治家は法律を作るという仕事があるわけですから、やはり道徳的でない法律を作られて、それを守らされるようになると困るわけです。もちろん政治家も人間ですから、ふさわしくないことをしてしまうこともあると思います。そういうときはやはり一度、辞職をしてけじめをつけて、時を経て、またやり直したら良いと思います。「不倫していても、政治家としての仕事をしてくれる政治家がいい」というように言って、倫理的なことをないがしろにしてくると、「偽名で不倫」というような感じの政治家が、やはり出てくるようになるわけです。そして嘘を言っても平気というような感じが蔓延し、嘘を活用してこの世を乗り切ろうというような感じの社会になってくると、もうそれは止めようがないのです。

今日の聖書の箇所は「嘘」が話題になっている聖書の箇所です。「番兵、報告する」という表題がついています。今日の聖書の箇所の一つ前は、マタイによる福音書28章1節以下で、「復活する」という表題のついた聖書の箇所です。マグダラのマリアともう一人のマリアが、イエスさまの遺体を納めたお墓にいきます。しかしお墓のなかには、イエスさまの遺体はありませんでした。そして主の天使から、イエスさまが復活されたことを聞きます。そして女性たちはそのことをお弟子さんたちに伝えにいきます。その途中で復活されたイエスさまに出会いました。そして今日の聖書の箇所となります。

「復活する」という聖書の箇所の前の聖書の箇所は「番兵、墓を見張る」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまの墓を番兵が見張っているのには理由があるわけです。その理由というのは、イエスさまの弟子たちがイエスさまの遺体を盗みだして、そして「イエスさまが復活した」と言って回るかもしれないから、そんなことにならないように、イエスさまのお墓には番兵がおかれていました。そうしたことを踏まえて、今日の聖書の箇所となります。

マタイによる福音書28章11節にはこうあります。【婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。】。番兵たちがイエスさまの墓を見張っていた時に、大きな地震にあいます。主の天使が天から降ってきて、イエスさまのお墓の石をわきに転がし、その上に座るのをみます。番兵たちは恐ろしくなります。そしてマグダラのマリアたちがやってきます。そして主の天使がマグダラのマリアたちに、イエスさまが復活されたことを話すのを、番兵たちは見ます。そしてそのことを、祭司長たちに報告しました。

マタイによる福音書28章12−14節にはこうあります。【そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」】。

祭司長たちはイエスさまが復活されたということについて、弟子たちがイエスさまの遺体を盗んでいったということにします。兵士たちが寝ているうちに、弟子たちが来て、イエスさまの遺体を盗んでいったということを、兵士たちに広めてもらおうとします。兵士たちが寝ているうちにということですから、「おまえたち、寝ていたのか」と叱られないために、総督ピラトには話をつけておくから安心しろというわけです。まあそういう面倒なことをしてもらうわけですから、兵士たちには大金が支払われるということです。

マタイによる福音書28章15節にはこうあります。【兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。】。兵士たちは自分たちにとって悪い話ではないので、祭司長たちの言うことを聞いて、そのような噂を広めます。そしてそのうわさは広がっていって、ユダヤの人々はそれを信じるようになるわけです。祭司長たちは嘘を作り出します。そして兵士たちはその嘘を容認し、そして嘘をつくる手助けをします。そしてユダヤの人々は嘘を信じるようになります。

気軽に嘘が広がっていく社会は、その社会に住んでいる人々にとって、あまり良い社会にはなりえません。嘘は簡単につくことができます。しかしその嘘が嘘であることを証明するためには、いろいろな労力が必要になります。どんどん嘘をついていけば、嘘を嘘であると証明する労力はもっともっと大変になってきます。そういう意味では嘘には勝てないのです。しかし嘘がなければ、その嘘を証明する必要はないわけですから、ほかのもっと良いことのためにその労力をつかうことができるので、社会にとっては良いことです。嘘は社会を疲弊させ、社会を貧しくさせていきます。

やはり私たちはすこやかに生きていかなければならないのです。みんながずるいことをする社会は、すみにくい社会です。賄賂が横行し、嘘が蔓延しするような社会はすみにくいのです。ずるいことをしている人がうまいことをやっていると思える社会は、やはりすみにくい社会です。だんだんとみんながまあ少々ずるいことをしても、まあうまいことやったほうが得だよね、みんなそうやっているんだから、ばれなければいいんじゃないというようになってしまうと、だんだんと良くない社会になってしまいます。やはりみんなが健やかな思いを大切にして生きていくような社会でありたいと思います。

エフェソの信徒への手紙には、「クリスチャンはこんな感じで生きたいよね」ということが書かれた聖書の箇所があります。エフェソの信徒への手紙4章25−32節には、「新しい生き方」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の357頁です。

【だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。】。

まあ倫理的な教えですから、あんまりいろいろ言われると、「ちょっとしんどいかなあ」という思いになるかも知れません。「悪い言葉を一切口にしてはなりません」などと言われると、「まあ、そりゃそうだと思うけど、ちょっとまあそういうわけにもいかないときもあるよね」というような思いも出てきます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言われると、「まあ、その方がよいと思うけど、やっぱり『すべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい』とか言われると、ちょっと自信がなくなっちゃうよね」という思いもでてくるかも知れません。

「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」ということもあります。まあですから、エフェソの信徒への手紙4章25節と4章32節くらいにして、「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。・・・互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」くらいにすれば、良いのではないかと思います。まあ、なるべく、嘘はつかず、互いに親切にして、憐れみの心を大切にして、互いに赦しあいながら生きていく。そうした健やかな歩みでありたいと思います。

私たちは一人一人、神さまから愛されている大切な人間です。私たちの罪のために、イエス・キリストは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。そして復活されて私たちの希望となってくださいました。神さまは私たちをとても大切な人として愛してくださっています。神さまに愛されていることを受けとめて、すこやかな歩みでありたいと思います。




(2025年4月27日平安教会朝礼拝式・定期総会)




4月20日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「やさしい声が聞える」

「やさしい声が聞える」

聖書箇所 ヨハネ20:1-18。326/328。

日時場所 2025年4月20日平安教会朝礼拝式・イースター

  

イースターおめでとうございます。

よみがえられたイエスさまと共に、こころ平安に歩んでいきたいと思います。

イエスさまがよみがえられた時の話は、マタイによる福音書にもルカによる福音書にもマルコによる福音書にも書かれてあります。それぞれに特徴がありますので、また読み比べてみられたら良いかと思います。

ヨハネによる福音書ではマグダラのマリアが、イエスさまの遺体が葬られている墓を訪ねます。イエスさまが十字架につけられて天に召されます。アリマタヤのヨセフが、イエスさまの遺体を預かり、そしてイエスさまを新しい墓に葬ります。そして安息日がおわった日曜日の朝に、マグダラのマリアがイエスさまのお墓にやってきます。墓の入口には大きなあったのですが、その石は取りのけられて、墓に入ることができました。しかし墓の中にはイエスさまの遺体がありませんでした。

それでマグダラのマリアはあわてて、イエスさまのお弟子さんのシモン・ペトロのところに行きます。そしてペトロとイエスさまが愛しておられたもう一人の弟子に、「イエスさまの遺体が墓から取り去られてしまいました。どこにあるのか、私たちにはわかりません」と報告します。

それを聞いたペトロともう一人の弟子が、イエスさまの墓に行ってみます。イエスさまの墓の中を、ペトロがのぞいてみるわけですが、しかしイエスさまの遺体はありません。イエスさまの遺体をくるんでいた亜麻布が残されていました。もう一人の弟子も入ってきて、そのことを確認します。しかしペトロももう一人の弟子も、イエスさまが復活をされたのだということがわかりませんでした。とまどいつつ、二人は家に帰ってきます。

そのあとマグダラのマリアが、よみがえられたイエスさまに出会います。こちらはすこし聖書を読みながら、みていきたいと思います。ヨハネによる福音書20章11ー14節にはこうあります。【マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。】。

マグダラのマリアは墓の外で泣いていました。墓の中に、二人の天使がいるのが見えました。天使は墓の中から、マグダラのマリアに、「どうして泣いているのか」と話しかけます。マグダラのマリアは、「この墓に納められていたイエスさまの遺体が無くなってしまい、どうしたらよいのか分からないからです」と答えます。そのとき、マグダラのマリアは人の気配を感じます。そして振り返ると、イエスさまが立っておられました。しかしマグダラのマリアにはその人がイエスさまであることがわかりません。

ヨハネによる福音書20章15−16節にはこうあります。【イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。】

イエスさまはマグダラのマリアに話しかけます。「どうして泣いているのか。だれを捜しているのか」。マグダラのマリアは墓の管理人に話しかけられていると思います。墓の管理人がイエスさまの遺体をどこかに移したのだと思い、「あなたがあの方を運んだのなら、どこに置いたのか教えてください」と言いました。

イエスさまは「マリア」と、マグダラのマリアの名前を呼ばれました。いつも呼ぶように、マグダラのマリアを呼んだのです。そのとき、マグダラのマリアは、その人がイエスさまであることに気がつきます。そして「先生」と、イエスさまに答えます。

ヨハネによる福音書20章17−18節にはこうあります。【イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。】

イエスさまは自分にすがりつこうとしているマグダラのマリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。そしてマグダラのマリアは、弟子たちのところに行って、よみがえられたイエスさまに出会ったことを伝えました。また「イエスさまは『わたしは神さまのところに、わたしはいく』」と言っておられたと、弟子たちに伝えました。

イエスさまが十字架につけられる受難の物語は、とても激しく、叫び声が聞えてくるような物語です。それに比べて、イエスさまがよみがえられる復活の物語は、とても静かな物語のような気がします。

受難の物語は、群衆が「十字架につけろ。十字架につけろ」と激しく叫びます。「十字架から降りて自分を救ってみろ」「他人を救ったのに、自分は救えない」。十字架の上で苦しむイエスさまに対して、人々やユダヤの指導者たちはののしりの言葉をかけていきます。

しかし復活の物語は、とても静かです。天使たちやイエスさまはマグダラのマリアに静かに呼びかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使は、マグダラのマリアに呼びかけます。イエスさまもまたマグダラのマリアに呼びかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」「マリア」「わたしにすがりつくのはよしなさい」。

人はどのようにして、困難な出来事の中から立ち上がっていくことができるのか。どのような支えがあることによって、人は立ち直っていくことができるのか。今福章二編『文化としての保護司制度 立ち直りに寄り添う「利他」のこころ』(ミネルヴァ書房)を読みました。保護司というのは、犯罪や非行をした人々の立ち直りを助け、その再犯を防ぎ、新たな被害者を産まない安全・安心な地域社会づくりに貢献をする民間のボランティアです。保護司は人が立ち直るのを助けるのが仕事です。この本の中で、東畑開人(とうはた かいと)という臨床心理学者が、「ケアとセラピー」ということを書いていました。(『こころのケアとは何かー寄り添いあいと世間知』)。

心の援助とか対人支援あるいは人間関係には、「ケア」という関わり方と「セラピー」という関わり方の二種類があると、東畑さんは言います。東畑さんは、「ケアとは傷つけないことである」と言います。雪だるまはとけてしまうので、どんどんと傷ついてしまう。雪だるまをケアするとき、雪だるまがとけないように、氷を運んできたり、冷風をかけてあげたりする。「セラピー」というのは、傷つきと向かい合うことです。どこまでもケアをするということはできないですから、雪だるまと話しあいます。「雪だるま君、ここにいると溶けてしまう、冷蔵庫のところに行ってみないか。冷蔵庫の中だったら、君は溶けないで済むはずだ」というように、現実に直面させるわけです。「ケア」が依存を引き受けることだとすると、「セラピー」は自立を促すということです。自立を促すけれども、寄り添っている人が周りにいるのです。寄り添っている人がいることによって、人は自立をしていくことができるのです。「ケア」と「セラピー」はどういう関係になっているのかと言いますと、「ケア」が先で、「セラピーが後になります。「ケア」のないところの「セラピー」は暴力になってしまいます。「ケア」が十分に足りていないのに、「セラピー」をすると失敗してしまう。失敗したので、また「ケア」に戻ってやり直す。「ケア」と「セラピー」はぐるぐる回るわけです。まあ人はそう簡単に立ち上がることができるようにはならないのです。

マグダラのマリアのところに現れるイエスさまは、マグダラのマリアに寄り添い、そして自立を促します。泣いているマグダラのマリアにやさしく語りかけ、そして「わたしにすがりつくのはやめなさい」と自立を促します。そしてマグダラのマリアは立ち上がるのです。復活の物語のなかに、「ケア」と「セラピー」が描かれていて、なかなか興味深い話だなあと思いました。

いつまでも依存をしていては、立ち直ることはできません。「わたしにすがりつくのはやめなさい」というイエスさまの言葉は、印象的な言葉です。立ち直るためには、自分で立ち上がるということが大切なのです。しかし立ち直るためには、やはりやさしい言葉が必要なのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」「マリア」というイエスさまの言葉は、マグダラのマリアにとってイエスさまのやさしい声だったのです。いつものやさしい声で「マリア」という名前を呼ばれたときに、マグダラのマリアはその声の主が、イエスさまであることに気がついたのでした。

私たちもまた、いろいろな悩みや迷いのなかにあるときがあります。「立ち直れそうにない」というような気持ちになるときもあります。しかしそんなときも、イエスさまは私たちにやさしい声で語りかけてくださいます。私たちの名前を呼び、私たちに生きていく力を与えてくださいます。

イースター。私たちの救い主である主イエス・キリストがよみがえってくださいました。私たちの希望をとってくださり、イエスさまは私たちに先立って歩んでくださいます。そして私たちをやさしい声で導いてくださいます。イエスさまのやさしい声に導かれながら、イエスさまにふさわしい歩みをしていきたいと思います。



  

(2025年4月27日平安教会朝礼拝式・イースター)



4月13日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまの御国で生きる」

「イエスさまの御国で生きる」

聖書箇所 ヨハネ18:28-40。307/305。

日時場所 2025年4月13日平安教会朝礼拝・棕櫚の主日礼拝


平安教会は新島襄ゆかりの教会です。新島襄は群馬県の安中藩士でしたが、蘭学を学び、洋船の航海術を身につけるうちに、先進西欧諸国の動向に興味をもちます。そして函館から国外に脱出し、アメリカに渡りました。1864年のことです。1867年に「大政奉還」が行われ、明治が始まります。新島襄は、アメリカで熱心な会衆派信徒であり、米国伝道会社(アメリカンボード)の有力者であったハーディの助力を得て、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学びました。

5月に京都教区の定期総会が平安教会で開かれます。京都伝道150年ということで、そのときに米国伝道会社(アメリカンボード)の関連の方が来てくださり、共に礼拝を守ることになっています。歴史を感じますね。

新島はうまく船にのり、日本からアメリカに亡命したわけですが、頼る人はありません。そして英語もうまく話すことができませんでした。船の上で、ひとりの水夫が新島に問いかけました。「おまえさんここで何をしているんだ。どうしてまたこんなところにやって来たのかね」「教育を受けたいと思って」と、新島は答えました。「だけど、この国で学校教育を受けるには、どえらい金がかかるが、おまえさんお金はどこから手に入れるつもりかねえ」。「わかりません」、新島は単純に答えました。そしてだれもいないところで、新島はひざまづき、単純な信仰でありましたが、神さまにむかって祈りをささげました。「どうかわたしの抱いている大きな願いが、空しいものになってしまうことがありませんように・・・」。

新島がのっていた船の船長であったテイラーは、新島の話を船主であったハーディーにしました。彼はとにかく本人にあってみようと、妻と共に波止場にやってきました。しかし新島の片言の英語は、船の中ではやくにたちましたが、彼らには通じませんでした。そこで、ハーディー夫妻は、新島に自分の経歴、日本密出国の動機、これから先どうしようとしているのかを文章にして提出させることにしました。そのために新島を船員会館に連れていって、そこに宿泊させ、執筆のための時間を与えました。そこで新島は必死になって長文の手記を書きました。

新島は、Why I escaped Japan ? (なぜわたしは日本を脱出したのか)という長い手記を書きました。たどたどしい英語を駆使して、一生懸命に書いたことだろうと思います。できあがったこの手記には、新島がどんなに神さまのことを勉強したいかということがせつせつと書かれてありました。この手記が、ハーディー夫妻のところに届けられます。ハーディー夫妻はこの手記を読んで心を動かされます。ハーディー夫妻は、新島がはるばる日本から誰も頼るものがないのに、神さまのことを学びにやってきたということに感動したのです。新島は真剣に「真理とは何であるのか」ということを考えて、そして一生懸命に生きていたのです。そのことにハーディー夫妻は胸をうたれたのでした。

ハーディー夫妻は、はじめテイラー船長から新島の話をきいていたとき、「まあ家において家の手伝いなどをさせよう」というようなくらいに考えていたのです。しかしその考えを改めて、アンドーバーのフィリップス・アカデミーという名門と言われる私立学校に入れました。新島襄は当時のいわゆる偉人と言われる人々などと比べてみて、とてもラッキーな人でありました。しかしその真理を一生懸命に求める姿勢が新島になければ、やはりみんな新島を相手にはしなかっただろうと思います。新島には人を動かすほどの真理に対する真剣さがあったのです。そしてその真理に対する真剣さに多くの人々がうたれ、彼を援助してくれたのでした。

今日の聖書の箇所は、「ピラトから尋問される」という表題のついている聖書の箇所です。イエスさまは総督ピラトのもとに連れてこられて、尋問を受けられました。今日の聖書の箇所は、イエス・キリストの真理に対する誠実さと、総督ピラトのいいかげんさが明らかになる箇所です。イエスさまはカイアファのところでの尋問のあと、総督ピラトの官邸に連れていかれます。

あまりにユダヤ人たちがうるさいので、ピラトはイエスさまを尋問することにします。ピラトはイエスさまに対して「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問します。ピラトはイエスさまが、ユダヤ人たちが言うように、ユダヤ人の王としてローマ帝国に反乱を起こそうとしているとは思っていません。ユダヤ人たちがうるさいから形式的に尋問を行っているにすぎないのです。この問題に関して、ピラトはどうでもいいのです。

イエスさまは、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。しかしこうしたイエスさまの言葉も、ピラトには青くさい説教にしか聞えません。ピラトはイエスさまに「真理とは何か」というふうにつぶやきます。

ピラトにとってイエスさまの裁判は、ふってわいた面倒な事件です。ユダヤ人の内輪のもめ事なのだから、ユダヤ人同志で解決してほしいというふうに、何度もピラトは言います。ピラトにとって大切なことは、自分の治めているユダヤが安定していることです。できるだけ不穏な動きがないほうがいい。なるべく事件などが起こらないように、うまく支配するというのが、ピラトに課せられた使命です。そしてそのように行うことによって、ローマ帝国の中央からのピラトに対する評価が、高くなるわけです。ですからピラトは群衆をなだめるような提案をしてみたり、それがだめであるなら群衆の意にそうようにしてやったりします。そこではイエスさまに罪があるかどうかなどということは、関係がないのです。無実であることがわかっていても、イエスを解放することで騒ぎが起きるのであれば、イエスを解放することはしないのです。ピラトにとってみれば、イエスなどは群衆やユダヤの指導者との取り引きのための道具でしかないのです。

政治の世界にまみれているピラトにとっては、本当に正しいことが何であるのかということなど、どうでもいいことでした。ピラトはイエスさまに対して「真理とは何か」というふうにつぶやきました。それはイエスさまに「真理とは何か」ということを尋ねているのではありません。ピラトは「真理などというものがあるのか」というふうにつぶやいているのです。ピラトにとって、本当に正しいことが何であるのかということは、どうでもいいことでした。そしてもう一歩進めて、ピラトは「真理などというものが、そもそもあるのか。そんなものはありはしない」というふうに言っているのです。そして真理がどうのこうの言っているイエスさまに対して、「おまえは本当にそんなことを信じているのか」というふうに言っているのです。

「真理などあるのか」というピラトのつぶやきは、ある意味で正当なものであると思います。ピラトのまわりを見回しても、たしかに真理などと呼べるものはないからです。あくどいことをしても、権力を握ってしまえばこっちのものという政治の世界において、真理などあるはずはありません。しかしピラトの周りだけでなく、イエスさまの周りにも、真理などないように見えます。勝手に律法を解釈して、人々を苦しめている律法学者たちやファリサイ派の人たち、権力者にすぐに扇動されてしまう群衆たち、イエスさまを信じるといいながら裏切っていくイエスさまの弟子たち。イエスさまの周りにも、やはり真理などないように思えます。だれも真理など求めていない。私たち自身のことを振り返ったときも、同じような気がします。私たちもやはりピラトのように「真理などあるのか」というふうにつぶやいてしまうことがあります。私たちはいくら正しいことを言っていても、だれからも認められなかったりします。そんなとき、真理などよりも武力や政治力のほうが結局頼りになるというふうに思ってします。そして「真理などあるのか」とつぶやいてしまいます。

しかしこの絶望の中にあっても、イエスさまは真理を求めることの力強さを示しておられます。いまどんなに絶望の中にあっても、必ず真理につく者が出てくる。そしてイエスさまの言葉にしっかりと耳を傾ける者が出てくることを、イエスさまは確信しておられます。イエスさまが希望を失うことがなかったのは、それはイエスさまが真理に依り頼んでいたからでした。イエスさまが武力や権力に頼っていたのであれば、捕えられたときに、イエスさまは失望するしかありませんでした。武力や権力はかならず崩れさって行くものです。しかし真理に依り頼んでいる限り、神さまはイエスさまを見捨てられることはなく、かならず守ってくださることを、イエスさまは知っておられたのです。イエスさまは自分がこの世に属するのではなく、ほかの国に属していると言っておられます。イエスさまは神さまの国に属しておられるのです。そこでは武力や権力によって支配されているのではありません。イエスさまの御国は真理が満ちている国なのです。

はじめにお話ししました新島襄を支えたのは、権力でも政治力でも武力でもありませんでした。英語も満足に話せない日本人を援助することなど、現実としてみれば、望みのないことです。しかし新島襄が真剣に真理を求め、神さまのことを学びたいという願いに感動して、援助してくれる人々がいたのです。新島襄はアメリカから帰国して、同志社大学をつくりました。そして私たちの教会である平安教会も建てられたのです。

私たちはこの世でなんとなくあきらめるのではなく、やはり「真理とは何か」「神さまのみ旨とは何なのか」と、真剣に問うていくことが大切なのです。そしてこの世ではなく、真理に満ちたイエスさまの御国で生きようと望むことが大切なのです。

今日は棕櫚の主日です。私たちの主イエス・キリストは、子ろばにのって、エルサレムにやってこられました。ヨハネによる福音書12章12-15節にはこうあります。【その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」】。イエスさまは軍馬にのって、エルサレムにやってこられたのではありませんでした。イエスさまは子ろばにのって、私たちのところにやってきてくださったのです。

棕櫚の主日から、受難週に入ります。子ろばにのって、私たちのところにやってきてくださったイエスさま。そして弟子たちから裏切られ、人々から蔑まれ、嘲られながら、私たちの罪のために、十字架についてくださったイエスさま。イエスさまの御苦しみを覚えながら、私たちも力ではなく信仰によって生きる神さまのみ国に生きる者でありたいと思います。



(2025年4月13日平安教会朝礼拝・棕櫚の主日礼拝)



4月6日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまの杯、苦い杯」

「イエスさまの杯、苦い杯」

聖書箇所 マタイ20:20ー28。313/301。

日時場所 2025年4月6日平安教会朝礼拝式


大山崎美術館に「松本竣介 街と人 ー冴えた視線で描くー 展覧会」を見にいきました。桜の季節だからでしょうか、この季節は大山崎美術館は月曜日も開いていたので、桜も見ることができるかと思い出かけました。松本竣介についてはほとんで知りませんでした。

松本竣介(まつもと・しゅんすけ)は明治から昭和にかけて活動した洋画家です。美術雑誌の『みづゑ』は、1940年に軍部による座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」を掲載します。それに対して、松本竣介は『みづゑ』の社長に、反論を書きたいとかけあいます。そして1941年に『みづゑ』の4月号に「生きてゐる画家」という文章を発表します。その後、陸軍省情報部の黒田千吉郎中尉からの再反論の「時局と美術人の覚悟」という文章が、『みづゑ』に掲載されます。この時代に軍部に対して、反論をするというのは、なかなか勇気のいることだっただろうと思います。松本竣介は戦争中に戦意高揚のポスターを描いたりしているので、抵抗の画家というような人でもなかったようです。松本竣介のおつれあいの松本禎子(まつもと・さだこ)さんは、松本竣介について、こう言っています。【「皆様がたいへんお褒めくださるものですから、なにも知らない京子などは、"いやだ、人間じゃないみたい、神様みたい"と申すんでございますが、竣介はいたって平凡な、平凡すぎる常識人でございました。わたくしは以前、芸術家といえば飲んだくれたり、暗い顔して悩んでいたり、女房を顧みなかったりといった人たちのことだと思っておりましたが、まるで逆で、この人ほんとに芸術家かなと思ったほどでございます。】。まじめな常識人であった松本竣介も、戦争中、言わずにはいられないと思えることがあったわけです。自分が画家としてしっかりと立ち、そして国家からの干渉を受けて、志が曲がってしまうようなことではだめだというような思いをもっていたのだろうと思います。

人は誘惑に陥りやすいですから、少々志に反したことをしても、立身出世であるとか、自分の生活が守られることのほうが大切だという気になることもあります。また人間、いつもいちうも強いわけではないですから、このときは立派に生きることができたということもあれば、あのときはなんかダメな人間だったなあと思えるときもあります。神さまの前に、いつもいつもすばらしい人間であることができるのであれば、それにこしたことはないわけですが、しかしまあそういうわけにもいかないという人間の弱さがあるわけです。今日の聖書の箇所にもそうした弱さを抱えて生きる人たちが出てきます。

今日の聖書の箇所は「ヤコブとヨハネの母の願い」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書20章20−21節にはこうあります。【そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」】。

この聖書の箇所は、同じような話が、マルコによる福音書にも書かれてあります。マルコによる福音書10章35−45節です。新約聖書の82頁にあります。ここの表題は「ヤコブとヨハネにの願い」となっています。今日の聖書の箇所は「ヤコブとヨハネの母の願い」です。ヤコブとヨハネのお母さんが、イエスさまにお願いをしたという話になっているわけです。

ゼベダイの息子たちというのは、ヤコブとヨハネです。ヤコブとヨハネのお母さんが、ヤコブとヨハネと一緒に、イエスさまのところにきて、ひれ伏します。そしてなんか願おうとしているわけです。すぐに願いを言ったというのではなく、言ってもいいかなあ、だめかなあと思いながら、イエスさまの前にひれ伏しているということです。まあそれで、イエスさまが「何が望みか」と、お母さんに声をかけます。そこで彼女はイエスさまに言うわけです。イエスさまが王座にお着きになられる時には、わたしの息子たちであるヤコブとヨハネを、一人は右に、一人は左に座れるようにしてほしいというのです。まあ「右大臣・左大臣にしてほしい」ということです。あからさまなお願いであるわけです。ほかの弟子たちを差し置いて、自分の息子たちをとりたててほしいというわけです。まあイエスさまがえらい王さまになるとしても、ほかにも弟子たちがいるわけですから、そう簡単にそんな話が通用するはずのない話であるわけです。

マタイによる福音書20章22−23節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」】。

まあお母さんに連れられて立身出世のお願いのために、イエスさまのところにやってくるヤコブとヨハネも、まあどうかしているわけです。よくもまあそんな恥ずかしいことをするなあと思うわけですが、しかしそうしてことだけでなく、ヤコブとヨハネは根本的なことがわかっていないのです。ヤコブとヨハネは、イエスさまが人々を支配する王さまになるに違いないと思っています。しかしイエスさまは十字架につけられる道を歩んでおられるのです。今日の聖書の箇所の前の聖書の箇所には「イエス、三度死と復活を予告する」という表題のついた聖書の箇所であるわけです。イエスさまはこの聖書の箇所ではっきりと言っておられます。【今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。】。そして今日の聖書の箇所になるのです。

イエスさまは「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」とヤコブとヨハネに訪ねます。この杯というのは、イエスさまが十字架につけられて殺されたように、あなたたちもまたわたしのように迫害を受け、殺されることになるかも知れないけれども、それでもわたしに付き従ってくるかということです。ヤコブとヨハネは元気よく「できます」と答えるわけですが、しかし彼らはわかってはいないのです。しかし彼らがわかっていようがわかっていまいが、彼らはイエスさまと同じ道を歩むようになると、イエスさまは二人に言われます。そしてわたしの右と左に座るのはだれかというのは、わたしが決めることではなく、神さまがお決めになることだと、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書20章24−28節にはこうあります。【ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」】。

登場人物はイエスさまとヤコブとヨハネとおかあさんの4人だったのに、どうしてその話が伝わっていくのかなあと思うわけですが、まあこういう話はだれかが見ていたりして、伝わっていくわけです。そしてみんな、ヤコブとヨハネのことで腹を立てるのです。イエスさまのお弟子さんたちはみんな、自分が出世したいと思っているのです。意外に向上心のある人たちであるわけです。

イエスさまは弟子たちを諭されます。あなたたちも知っているだろう。強い外国の国では支配者たちが民を支配して、偉い人たちが自分たちの思うがままに権力を振るい、人々を苦しめている。それをあなたたちはどう思う。ひどい話だと思うだろう。ろくでもない人たちだと思うだろう。だからあなたたちの間ではそうではなく、偉くなりたい者はみんなに仕える人になってほしい。外国の支配者たちのようにはなってほしくない。いちばん上になりたい者は、みんなの僕になってほしい。だからわたしは仕えられるためではなく仕えるために、この世に来たのだ。そしてわたしはなんども話しているように、十字架につけられる。わたしが世の人々の罪をあがなって、十字架につけられる。そのことによって、神さまは人間の罪を贖ってくださるのだ。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

イエス・キリストは私たちの罪のために十字架についてくださいます。私たちの身代わりとなって、御子イエス・キリストが罰を受けてくださいます。そのことによって、私たちは神さまの前に罪赦された者として、永遠の命に預かる者として生きていくことができるのです。イエスさまの弟子たちは、このとき何もわかっていませんでした。自分が出世するためにはどうしたら良いだろうかというようなことを考えていました。しかしイエスさまが十字架につけられ、そして三日目によみがえられたイエスさまに出会うことによって、弟子たちは自分がどんなに神さまから離れたところを生きているのかということに気づきます。そして弟子たちは、イエスさまに従って歩むことを望みます。

イエスさまな杯は苦い杯でした。イエスさまはヤコブとヨハネに「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われました。ヤコブとヨハネは「できます」と答えます。「イエスさまの言われる杯の意味もわからず、『できます』と答えるヤコブとヨハネはだめなやつらだ」というふうに思うわけですが、しかしそれでもヤコブとヨハネはのちに、イエスさまの苦い杯を飲む生き方をしたのでした。まあ人生とはわからないものであるわけです。あのときはイエスさまがから「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われたとき、まったく意味もわからず、「できます」と答えたけれど、でもそう答えて良かったような気がすると、ヤコブとヨハネはのちに思ったのではないかと、わたしは思います。「できます」とイエスさまの前で答えたのだから、わたしはやはりどんなことがあっても、イエスさまに付き従っていくという思いになったのではないかと思います。

神さまの導きは、どんな形でいつ行われるのかというのは、人間にはわからないところがあります。私たちは人間ですから、完璧に生きられるというわけでもありません。弱さを抱えていますから、ヤコブやヨハネのように恥ずかしいことをしてしまうかも知れません。やっぱりこの世のことも大切だよねと思うこともあるでしょう。曲がったことをしてしまうかも知れません。あるいは思い立って、自分が考えている以上に、正しい道を歩んでいくことになるというようなこともあります。あのときは正しい道を歩むことができたけれど、今回はどうもよくない道を歩んでいるような気がすると思えるときもあるかも知れません。

弱さや悩みを抱える私たちですが、しかしイエスさまの弟子たちがそうであったように、私たちには帰ってくる場所があるのです。私たちはイエスさまのところに帰ってきます。そしてイエスさまが私たちに教えてくださった道はどういう道であったのかと振り返ることができるのです。

イエスさまは私たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われました。あなたたちは迷ったなり、不安になったりするけれども、でも神さまはあなたたちのことを見ておられる。だからあなたたちは皆に仕える生き方をしてほしい。自分が高慢になり、人をつかおうとする生き方をするのではなく、皆に仕える生き方をしてほしい。わたしがそのように生きたのだから、あなたたちもまたそのように生きてほしい。あなたたちのなかにあるやさしい気持ちを大切にしてほしい。あなたたちのなかにある思いやりの気持ちを大切にしてほしい。

レント・受難節も第5週目を迎えました。来週は棕櫚の主日を迎えます。十字架への道を歩まれるイエスさまが、私たちを導いてくださっています。神さまの御心に適った歩みをしていくことができますように。やさしい気持ちになって、イエスさまに従って歩んでいきましょう。

  

(2025年4月6日平安教会朝礼拝式)


3月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「十字架のイエス・キリストに仕える」

「十字架のイエス・キリストに仕える」

聖書箇所 マタイ17:1-13。311/303。

日時場所 2025年3月30日平安教会朝礼拝・受難節第4週


『私にとって「復活」とは』という本の中に、科学史家の村上陽一郎さんが「永遠のいのち」という題で、エッセイを書いています。

村上陽一郎さんは、その本の中で、【「復活」という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる】と書いておられます。村上陽一郎さんは科学史家ですから、科学についてよく知っておられる方です。一般的に科学と宗教は対立するような印象を受けるわけです。しかし村上陽一郎さんは、【「復活」という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる】と、きっぱりと言いきっておられます。どうして村上さんがそう信じることができるようになったのかということですが、それは一つの詩に出会ったからです。【復活」という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる。その確信に導いてくれたのは、神学者の高等な言説でもなければ、神父の感動的な説教でもなかった。それは一篇の、短い詩であった】(P16)。

その詩は、G・M・ポプキンズという19世紀のイギリスの詩人の詩です。ポプキンズは、カトリックの信仰を持つ司祭です。村上さんはポプキンズの『自然はヘラクレイトスの火、復活の慰めについて』という詩によって、復活についての確信を得ることができました。

村上陽一郎に復活についての確信を得させることができた、G・M・ポプキンズの『自然はヘラクレイトスの火、復活の慰めについて』という詩とは、いったいどんな詩なのか。


わたしも復活についての確信を得たいと思い、わたしはその詩を探す旅に出ました。3月3日(木)の午後から、関西国際空港からイギリス行きの飛行機にのって、飛び立とうと思いましたが、とりあえず高槻市の図書館に、ポプキンズの詩集があるのではないかと思って、天神山図書館に行きました。図書館で調べると、ピーター・ミルワード、緒方登摩編『ポプキンズの世界』(研究社出版)という本の中に、『自然はヘラクレイトスの火、復活の慰めについて』という詩を見つけることができました(P173)。


このポプキンズの詩は、ちょっと長いので、紹介するのは、また別の機会とさせていただきますが、村上さんはこの詩の最後のところに、こころ打たれたそうです。【この凡夫(ぼんぷ)、凡句、とるに足らぬ陶器のかけら、木屑、すべては不滅のダイアモンド、そう 消えることのないダイアモンドなのだ】。もう少し前から紹介いたしますと、【ひとたびラッパが鳴り響けば、私はたちまちキリストとなる、かつてキリストは今の私だったのだ。ならば】【この凡夫(ぼんぷ)、凡句、とるに足らぬ陶器のかけら、木屑、すべては不滅のダイアモンド、そう 消えることのないダイアモンドなのだ】。たとえ平凡な人生で、誰からも注目されることない人生であったとしても、その一人一人の人生は、キリストに祝福された人生だ。そしてその人生は神さまの中に記憶されている、かけがえのないダイヤモンドのようなものなのだと、ポプキンズはこの詩で歌ったのでした。

村上さんはほかの本のなかで、こんなふうに書いています。【存在したものは、有名であろうと無名であろうと、善であろうと悪であろうと、小さきものであろうと、大きな存在であろうと、美しい曲や絵画であろうと、平凡、凡庸な作品であろうと、名言であろうと、陳腐な言説であろうと、とにかく何であろうと、存在したものは、今も存在する。それは一種の「神秘体」(コルプス・ミスティクム)のなかに加えられて、朽ちることなく、その一員を構成する。ものやこと、そして人が、この世の表面から消えて、朽ち去ったとしても、その「記録」はその神秘体のなかに残る、残らざるをえない。それが「世界」である。その記録の神秘体のなかにわれわれも永遠に生き続けられる、というよりは生き続けなければならない宿命にある、そんな風に考えられるのではないか】(P237)(村上陽一郎『生と死への眼差し』、青土社)。

村上さんは、とにかく何であろうと、存在したものはすべて、神さまの中に存在しているのだと言っています。すべてのものは神さまのなかに生きていると言っています。私たちはそういうかけがえのない人生を送っています。そして私たちは永遠に神さまの中に生き続けるのです。

どんな平凡な人生であってもかけがえのない人生であり、神さまから祝福され、神さまによって覚えられている人生である。とても幸せなことだと思います。それだけで充分であると思えるわけですが、しかしそれでも私たちは、やっぱり有名になりたいとか、自分が特別に評価されたいというような思いをもったりします。自分だけがすばらしいものに出くわしたいとか、すばらしいものにあやかりたいとか思ったりします。

今日の聖書の箇所は「イエスの姿が変わる」という表題のついた聖書の箇所です。「山上の変貌」といわれる聖書の箇所です。マタイによる福音書17章1−3節にはこうあります。【六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた】。

イエスさまは弟子たちのうち、ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて、山に登られました。ペトロたちにしてみれば、「おお、おれたちだけが特別に選ばれている」というふうに思えたことだと思います。「やっぱりおれたちは特別だ。となると、イエスさまが王さまになられたときには、おれが右大臣か左大臣だなあ」というふうに思えたことでしょう。そして実際ペトロたちは、その山の上ですばらしいと思える出来事に出会うわけです。イエスさまの姿が光り輝き、そしてモーセとエリヤが現れ、イエスさまと語り合います。モーセは出エジプトという偉大な出来事を行った偉人です。そしてエリヤもまた偉大な預言者です。エリヤはは世の終わりのときに救い主が現れる前に現れると言われています。そんな偉人と一緒にイエスさまが三者会談を開いておられるわけです。ペトロは「さすが、イエスさまだ」と思えたことでしょう。

マタイによる福音書17章4節にはこうあります。【ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」】。

ペトロは自分も選ばれて、この三者会談の仲間に入れてもらっているような気になったのでしょう。それですかさず、「口をはさむ」わけです。ペトロは「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」といいます。「わたしたち」というふうに言うわけです。モーセとエリヤとイエスさまと、そしてヤコブやヨハネはともかく、わたしペトロを入れた、「わたしたち」ということです。仮小屋というのは、まあ記念碑のようなものでしょう。ペトロにしてはとても気の利いたことを言うなあと、わたしは思います。わたしなどはたぶんこんな出来事に居合わせても、ニコニコ、笑っているだけでしょう。

マタイによる福音書17章5ー8節にはこうあります。【ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった】。

ペトロは気の利いたことを言ったつもりになっていましたが、実際にここで起こっている出来事は、そういうことでもなったようです。光り輝く雲が彼らを多い、そして天からの声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。ペトロたちは恐ろしくなって、ひれ伏します。ペトロたちがふるえていると、イエスさまがペトロたちに近づき、声をかけました。「起きなさい。恐れることはない」。ペトロたちが顔を上げると、モーセもエリヤもいなくなっていて、イエスさまだけがおられました。

マタイによる福音書17章9−13節にはこうあります。【一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った】。

イエスさまはこの出来事を話してはならないと言われました。それはイエスさまが十字架につけられて殺され、復活されるまで隠されている出来事であると、イエスさまはペトロたちに言われました。それは、十字架と復活の出来事を通して見なければ、この出来事は理解できない出来事であるということです。十字架と復活の出来事を通して見なければ、誤解されてしまう出来事であるということです。たしかにイエスさまはモーセやエリヤと共にいてもおかしくはない人であるのだけれども、それは単にえらい人たちとイエスさまが一緒におられるということではない。それでは単なる英雄物語になってしまう。十字架と復活の出来事を通して見なければ、誤った英雄賛美に陥ってしまうということです。

弟子たちは救い主に先立ってやってくるエリヤの話をしたときに、イエスさまはエリヤはもう来たのだと言われました。そしてそのエリヤを人々は認めようとせず、彼を苦しめたのだと、イエスさまは言われました。それを聞いた弟子たちは、洗礼者ヨハネのことをイエスさまが言っておられるのだと、気がつきました。そして洗礼者ヨハネがヘロデによって殺されたように、イエスさまもまた人々から苦しめられることになるということを、弟子たちは感じ始めます。

イエスさまとモーセとエリヤは、いったい何を話していたのでしょうか。皆さんは、いったいイエスさまとモーセとエリヤは、どんな話をしておられたと思いますか。それは聖書には書いていないので、想像するしかないわけです。わたしはたぶんこんな話だろうと思います。

(モーセ)「イエスさま、あんたもこれからたいへんやなあ。十字架につけられるやなんて」。(イエス)「たいだいなんでいつも人間は、神さまが思っておられることを預言者が伝えると、なんでその預言者を殺しにかかるんやろ」。

(モーセ)「そやなあ、エリヤさんと時も、そうやったやないか」。

(エリヤ)「ああ、ほんと。わしも迫害されてたいへんやったわ」。

そこに何もわからないペトロが横から口をはさんで、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言う。

(モーセ)「なんやこいつ。イエスさん、あんたも大変な弟子をかかえとるなあ。こいつ、ぜんぜん、わかっとらんやないか」。

(エリヤ)「でもモーセさんがエジプトから導き出した民も、同じような感じやったでえ」。

たぶん、こんな話をしていたのだと思います。

モーセは律法を、エリヤは預言書を代表する人物です。イエスさまは旧約聖書の教えを引き継いで、神さまの救いの業を行われます。そしてモーセもひどいめにあったし、エリヤもひどいめにあった、そしてイエスさまもまたひどいめにあわれるのです。たぶんモーセとエリヤとイエスさまが集まって話をされるというのであれば、「神さまの御用をするのは大変だった」という話になるだろうと思います。

ペトロは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という天からの声を聞いたわけですが、それじゃあ、「これ」って、一体何なのでしょうか。それは十字架につけられるイエスさまということです。光り輝くイエスさまではなくて、十字架につけらえるイエスさまのことです。栄光の出来事に見えたモーセもエリヤも消え去り、結局、ペトロたちの前に立っていたのは、十字架につけられるイエスさまでありました。モーセやエリヤは消え去ってしまうのです。

ペトロにとってモーセとエリヤと一緒にいた光り輝くイエスさまは、とても魅力的な人に見えました。わたしも仲間に入れてもらいたいと思えるすばらしい人に見えたのです。わたしも仲間に入れてもらって、モーセさま、エリヤさま、イエスさま、ペトロさまと言われたい。「ペトロさま」なんて、すばらしい響きだろうと、ペトロはそのとき思ったのです。しかしペトロの人生にとって、この出来事が大切な出来事であったかと言うと、あんまり意味のある出来事ではありませんでした。ペトロが人生を振り返って、自分にとって大切な出来事とは何なのかと考えたとき、たぶんペトロは、光り輝くイエスさまの姿ではなく、十字架につけられてぼろぼろになっているイエスさまの姿こそが、わたしにとって意味のあることだったと答えるでしょう。ペトロを救ってくださったのは、光り輝くイエスさまではなく、十字架の上で苦しまれるイエスさまでした。そしてペトロは生涯、十字架につけられたイエスさまに付き従って歩んだのでした。

ペトロは「あなたの上に教会を建てる」と言われ、初代教会の頭とされた人です。聖ペトロであるわけですから、ペトロはカトリックの聖人で、カトリックの法王はずっとペトロから天国の鍵を譲り渡されているということになっています。ある意味で、ペトロは歴史に名を残すりっぱな人になったわけです。しかし聖書を読む限りにおいて、ペトロは自分が特別にりっぱな人間であると思っている様子はありません。ペトロは光り輝くイエスさまを追い求めたのではなく、十字架についてくださったイエスさまを証しして生きたのでした。聖書に書かれてあるペトロの姿は、まさに「凡夫」(ぼんぷ)です。いろいろな失敗をし、恥をさらしています。しかし不思議なことですが、聖書をよむときに、ペトロの大失敗さえも、「不滅のダイアモンド」に思えてきます。

私たちはなかなか欲張りですから、「あれもほしい」「これもほしい」「あいつがもっているのに、おれがもっていないのはおかしい」、地位も名誉も財産も、永遠の命も、みんなみんなほしいと思います。「このことだけで、充分だ」というふうには、なかなか思えません。使徒ペトロもそうだったと思います。「ペトロさま」と呼ばれたい、そう思っていました。しかしペトロは十字架のイエス・キリストに出会いました。そして十字架のイエス・キリストに出会ったことだけで充分だと思うようになりました。

いろいろなものは色あせていくけれども、イエスさまによって救われたということだけは、色あせてしまうことがない。光り輝くモーセやエリヤは消え去ってしまうけれども、十字架への道を歩まれるイエスさまだけは、いつも私たちと共にいてくださる。私たちは平凡な人間に過ぎないわけですが、神さまにとっては大切な一人です。神さまは私たちを救うために、独り子であるイエスさまを十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは取るに足らないものですが、しかし神さまにとってはひとりひとりがかけがえのないダイアモンドであるのです。そして私たちは、永遠なものである神さまにつながっているのです。

聖書は、「イエスのほかにはだれもいなかった」と記しています。私たちにとっては、この方だけで十分なのです。私たちはイエス・キリストによって、十分なものをいただいています。私たちは十字架のイエス・キリストに仕えて歩んでいきましょう。



(2025年3月30日平安教会朝礼拝・受難節第4週)


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》