2024年10月16日水曜日

10月13日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「すてきなわたしにもどる」

「すてきなわたしにもどる」

聖書箇所 マタイによる福音書7章1−5節

日時場所 2024年10月13日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい、神学校日礼拝


平安教会では毎月第二日曜日を「きてみて・れいはい」として、はじめて教会にきてくださった人にもわかりやすい話をすることを、心がけるということにしています。毎月第二日曜日ということなのですが、教会にもいろいろな行事がありますので、若干、日が別の日になることがあります。11月は第三週の11月17日、12月は第三週の12月15日を予定しています。

イエスさまが私たちに教えてくださったことの中で、わたしがとても大切だと思っていることに、「人を裁くな」ということがあります。いまはそうでもないですが、わかいのとき、自分が正しいという思いがとても強かったので、人を裁くことが多かったような気がします。

昔、何かの打ち上げの親睦会があり、宴会芸で、わたしの友人がわたしのまねをしました。それでは小笠原くんのまねをしますと、友人は言って、「そうじゃあ、ないんよ」と言いました。みんな大笑いをしていました。どうやらわたしの口癖は「そうじゃあ、ないんよ」だったようです。「そうじゃない」ということですから、わたしはたぶん多くのことに反対をしていたのだと思います。そして「わたしが正しく、あなたはまちがっている」と主張して、「そうじゃあ、ないんよ」と言っていたのだと思います。わたし自身はそんなことに気がついていませんでしたが、「そうだったんだなあ」と思います。まあ若い頃というのは、何かにつけて腹が立つというようなこともあるわけです。知らず知らずのうちに、人を裁いているというようなこともあります。

わたしは同志社大学の神学部で学ぶ前に、四国の高松市にある大学で学生生活を送っていました。高松市、なかなか良い街で、いまでもとてもなつかしい街なので、ときどき訪れたりします。さぬきうどんで有名ですが、香川の人はほんとによくうどんを食べます。わたしも学生時代、朝、起きて、ほとんど毎日、うどんを食べるというような生活をしていました。朝昼兼用でうどんを食べます。そして夜には、食堂に行って、夕食を食べるというようなことをしていました。

いくつか行きつけの食堂があったわけですが、その一つの食堂に夫婦で切り盛りをしておられる食堂がありました。その食堂のおばちゃんというのが、ちょっと太った威圧感のある、なかなか豪傑な人でした。まあ、なんとも言えない迫力のある人でした。

よく語り草になっていたことに、こんな話がありました。ある学生がラーメンを注文しました。するとしばらくしておばちゃんが、カウンタに座っている学生に、「ハイヨ」とラーメンの鉢を渡そうとしました。見ると、おばちゃんの指がラーメンの中に入っていました。それを見た、学生が言いました。「おお、おばちゃん、おばちゃんの親指がラーメンの中に入ってる」。すると、おばちゃんは「ああ、だいじょうぶ、あつくないよ。慣れてるから」と言ったそうです。

みなさんはこの話、どう思われますか?。まあよくある学生食堂の民話のような話です。学生は「おばちゃんの指がラーメンの中に入って汚い」と思って、そのことを指摘したわけです。「わたしのラーメンにおばちゃんの指が入って、きたないじゃないか」と、学生はいったわけです。でもおばちゃんは学生が自分の指があつくないかと心配してくれたと思ったわけです。学生は「おばちゃん、汚い」とおばちゃんを裁いたわけです。しかし逆におばちゃんの言葉によって、学生は自分が、おばちゃんのことを心配することのできない、思いやりのない人間であることに気づかされるのです。おばちゃんの指がやけどするかもしれないと気づくことのできない、やさしさのない、自分勝手な人間であることに学生は気づかされるのです。

イエスさまは「人を裁くな」と言われました。【「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる】。

イエスさまは人を裁くと自分も裁かれることになると言われました。あなたが人を裁いたように、あなたもまた人から裁かれることになる。そして互いに裁きあう世界に生きることになる。人を傷つけ、自分も傷つけられる世界に生きることになると、イエスさまは言われました。

イエスさまは「あなたの目の中に丸太がある」と言われました。【あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか】。

あなたは人の目の中にあるおが屑が見えるのに、どうして自分の目の中にある丸太は見えないのか。人が良くないことをしていることは、どんなにちいさなことでも気がつくのに、どうして自分がしている大きな良くないことに気がつかないのか。あなたはいつも自分勝手なことをしているのに、どうして人が自分勝手なことをしていると、人のことを裁いているのか。そのように、イエスさまは言われました。

自分のことを棚に上げて、人を裁くということを、私たちはよくしてしまいます。でも同じようなことを、自分もよくしていることがあったりします。でもたしかに意外に、自分がしていることは気がつかなかったりするのです「あいつ、どうして人の悪口ばっかり言っているのかなあ。ねえ、大澤くん。そう思わない」と小笠原くんが大澤くんに尋ねると、大澤くんが小笠原くんに応えます。「小笠原くんも、そうやって、よく人の悪口言ってるよ」。まあそういうことがあるわけです。人はなかなか自分のしていることに気がつかないものです。

イエスさまは「まず自分の目から丸太を取り除け」と言われました。【偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる】。

あなたの目の中には丸太がある。あなたは自分がしていることに気がつかずに、人のことばかりを裁いている。まず自分がどんなことをしているのかを顧みて、その上で、人を裁くということをしたほうが良いと、イエスさまは言われました。

「人を裁くな」というイエスさまの戒めは、よくわかる戒めです。「そうだねよ」というふうに思えます。しかし、「じゃあやめるね」と言って、やめることができるかと言えば、なかなかそういうわけにもいきません。わたしは先日もやはり、「人を裁いて、嫌みなことをいってしまったのかなあ」と反省することがありました。まあ人間のすることですから、どんなに気をつけていても、メッキがはがれると言いますか、なんか腹立たしい思いにかられて、人を裁いてしまうというようなことがあるわけです。そんなときいろいろと考えて自分の気持ちを整理してみます。そして思うことは、わたし自身がほんとうの意味で、癒やされていないのだなあと思いました。いろいろな出来事の中で自分自身が傷ついていて、その傷が癒えていなくて、ふとした拍子に、人を裁くという形で出てくるのです。あるいは人を傷つけるという形で出てくるわけです。

ですから、自分の口から悪口とか、人を裁く言葉が出てくるとき、私たちは気をつけなければなりません。たぶんそのとき、私たちはこころの調子や体の調子が悪いのです。人のことが悪く思える時、そのときはまずみなさんは自分のことを心配してあげてほしいと、わたしは思います。そして本来のやさしい自分に戻ってほしいと思います。やさしく、人のことを思いやることができる、すてきなあなたに戻って、そして人を裁くのではなく、人にやさしい言葉をかけてあげていただきたいと思います。

日常生活のなかで、いやな自分に出会うということがあります。人を裁いたり、いじわるな気持ちをもつ自分に出会い、「なんかいやなやつだなあ」と思うことがあります。でもそれだけでなく、自分のいいところも見付けてあげてほしいと、わたしは思います。「あっ、いがいに心のやさしいところが自分にはあるんだな」ということにも気がついてほしいと思います。

私たちはみな、ひとりひとり、神さまに愛されている尊い人間です。神さまが「あなたはわたしにとってもとても大切な人だよ」と、わたしのことを愛してくださっていることに気がつきたいと思います。「わたしがあなたのことを愛しているから、あなたは大丈夫だよ」と、神さまは私たちに語りかけてくださっています。

神さまの愛に気づいて、本来の「すてきなあなたに戻って」、人にやさしい言葉をかける、人を励ますことのできる、私たちの歩みでありたいと思います。


(2024年10月13日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい、神学校日礼拝)


2024年10月10日木曜日

10月6日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「私たちに寄り添うイエスさま」

「私たちに寄り添うイエスさま」

 

聖書箇所 ヨハネ11:28-44。437/487。

日時場所 2024年10月4日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日

今日は世界聖餐日です。世界中の教会の人たちと、共に聖餐に預かる日は、私たちにとってとても大きな喜びの日です。世界中のクリスチャンと共に、聖餐にあずかり、私たちが神さまの民として歩んでいることを、こころにとめたいと思います。同じ神さまを信じる人たちが、日本の中だけでなく、世界にいて、そして共に祈りあいつつ歩んでいます。とても幸いなことだと思います。私たちと姉妹教会であるアメリカのサンディエゴのPOV教会の通信にも、世界聖餐日の喜びについて書かれてありました。

世界聖餐日・世界宣教の日に、在日大韓基督教会関西地方会京都地区と、日本基督教団京都教区京都南部地区は、合同礼拝をもちます。今年は京都教会でもたれます。午後3時からもたれます。    

日常生活をしていると、いろいろなことで後悔したり、落ち込んだりすることがあります。最近、わたしもあることで、気落ちすることがありました。「あんなこと言わなければ良かった」と思ったり、「そういうつもりではないのだけれど、なんかうまく説明することができず、なんかだめなことになったなあ」と思ったり、「自分の悪いところが出てしまったのだろうなあ」と反省したり。いろいろと自己分析をしながら、なんとなく悶々と過ごしていました。あまり良い人間ではないので、メッキがはがれるということがあるので、それはまあ仕方がないかなあとも思いました。みなさんにもあることと思いますが、やっぱり日常生活の中で、私たちはいろいろなことで悩み、落ち込んだりします。

そうしたときふと父や母のことを思い出すことがあります。わたしの母はもう24年前に天に召されています。父は3年前に召されています。思い出すというのは、「ああもう父も母もいないんだ」ということを思い出すのです。父が生きているとき、わたしは「元気にしているか」と思って、ときどき父に電話をしていました。そんなとき父は決まって「ああ、じゅんくんか、なんか用か」と言いました。別に用事があって電話をしているのではなく、わたしは「元気かなあ」と父のことを気づかってあげているのにと思っていました。しかしいま父が天に召され、ときどき「ああもう父はいないんだ」と思うとき、わたしは父のことを思って電話をしていたわけですが、しかしわたし自身が父の声を聞くことによって安心していたのだなあということに気づきました。自分のことを気づかってくれるだろう人がいるということは、その存在だけで、とてもありがたいことなのだなあと思いました。「いてくれたらなあ」と思える人がいるということは、とても幸いなことなのだと思いました。

今日の聖書の箇所にも「主よ、もしここにいてくださいましら」という印象的な言葉が出てきます。今日の聖書の箇所は、「イエス、涙を流す」「イエス、ラザロを生き返らせる」という表題のついた聖書の箇所です。先週の聖書の箇所の続きの箇所です。イエスさまの友人のラザロが死に、ラザロのところにイエスさまがかけつけているという流れになります。ラザロは墓に葬られて四日たっています。ラザロの兄弟姉妹であるマルタとマリアのところには、多くのユダヤ人たちが慰めにやってきていました。マルタはイエスさまが来られたと聞いて、イエスさまを迎えにいき、そしてイエスさまに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。

そして今日の聖書の箇所では、マルタの姉妹、マリアがイエスさまに会うことになります。ヨハネによる福音書11章28ー32節にはこうあります。【マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った】。

マルタはマリアに、イエスさまがマリアを呼んでいることを伝えます。マリアはイエスさまのところに行くために、立ち上がりました。マルタやマリアを慰めに来ていた人たちは、マリアが悲しくて悲しくてたまらなくなったから、ラザロのお墓に泣きに行こうとしているのだろうと思います。マリアはイエスさまのところに来て、そしてイエスさまの足もとにひれ伏しました。そしてマリアはイエスさまに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。

マルタもマリアも同じように、「イエスさまがここにいてくださった」「イエスさまがここにいてくださったら、ラザロは死ぬことはなかったでしょうに」と言います。マルタもマリアも、そして私たちも、「イエスさまがここにいてくださった、こんなことになるはずがないのに」と思うのです。どうしようもない悲しみやつらい出来事に出会うとき、「イエスさまさえここにいてくださった」と思うのです。

ヨハネによる福音書11章33ー37節にはこうあります。【イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた】。

みんなラザロの死を悼んで、悲しみ、泣いています。マリアも、また一緒にいたユダヤ人たちも泣いています。イエスさまもそれを見て、感情をあらわにされます。イエスさまは人々に「ラザロをどこに葬ったのか」と言われ、人々に案内をしてもらいます。イエスさまもまた涙を流されます。その様子をみて、人々は「この人も、ラザロのことをどんなに愛しておられただろう」と嘆きます。しかし「この人もラザロを死なないようにはできなかった」と、人々は言いました。

ヨハネによる福音書11章38−40節にはこうあります。【イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。】。

このラザロの死に関しては、イエスさまはいつもの落ち着いたイエスさまではありません。「心に憤りを覚え、興奮したり」「泣いたり」「再び心に憤りを覚えたり」されます。愛するラザロに死に際して、イエスさまもまたいつものように振る舞うことはできないのです。

イエスさまはラザロの墓に来て、墓の中にいるラザロに会いに行こうとします。しかしラザロの姉妹のマルタは、「イエスさま、もう四日もたっているので、だめなのです」と言います。しかしイエスさまは「わたしを信じることができるのなら、神さまの栄光を見ることができる」と、あなたに言っておいたではないかと、マルタに言いました。

ヨハネによる福音書11章41−44節にはこうあります。【人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。】。

イエスさまは、神さまに祈り、そしてラザロに命を与えられます。神さまはイエスさまの願いを聞いてくださり、そしてラザロに命を与えてくださいました。イエスさまは「ラザロ、出て来なさい」と言われ、ラザロは手足を布でまかれ、顔を覆いで包まれたまま、人々の前に現れます。

イエスさまは神さまの御子だから、何でもできるんだという思いが、私たちにはあります。ですからラザロの復活の出来事のなかで、「まあ、そうなんだろうなあ」というふうに思います。

ラザロの復活の物語を読むと、イエスさまがどんなにラザロ、そしてマルタやマリアを愛しておられたのかということが、よくわかります。イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされます。いつもと違う雰囲気で、ラザロの復活の出来事に立ち向かいます。「父よ、わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」と言われますから、合理的に考えると、イエスさまはラザロの死に際して、何も心配はしておられないということなのでしょう。神さまがラザロを必ず復活させてくださるということを、イエスさまは信じています。しかしイエスさまはラザロの死に際して、私たちと同じように、心に憤りを覚えたり、私たちと同じように、泣いたりされるのです。

わたしはすこし人間があっさりとしているので、イエスさまが心に憤りを覚えたり、私たちと同じように泣いたりされるのを読むと、不思議な気もいたします。「イエスさまはそんなに興奮されなくても、イエスさまは神さまの御子だから、ラザロも大丈夫だよ」という気持ちをもったりします。しかしそれは聖書を読んでいるということのなかであって、実際の生活の中では、このラザロの復活の物語のなかで、イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされることが、やはりわたしにとっては大きな救いです。

日常生活のなかで、わたしはいろいろと気落ちしたり、悩んだりします。なんか失敗したなあと思えたり、人を傷つけてしまって申し訳ないなあと思ったりします。怒りに取りつかれ、あとで考えると、なんかとっても嫌な自分だったと反省したりします。

ラザロのために泣いてくださったイエスさまは、なさけないわたしのためにも泣いてくださると思えるからです。取るにたらないわたしを愛し、そしてわたしを慰めてくださるイエスさまがおられると思えるのです。

ラザロの兄弟姉妹であるマルタやマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら」と言いました。「こんなとき、イエスさまがいてくださったらなあ」と、私たちも思います。そして、その願いのとおり、イエスさまは私たちと共にいてくださるのです。

どんなときも、イエスさまは私たちと共にいてくださる。私たちはそのことを信じて生きています。つらいとき、かなしいとき、また自分のなさけなさやいやになり、こんなわたしのことはだれも気にかけてくれることはないのではないかと思える時も、イエス・キリストは私たちと共にいてくださいます。

イエスさまの愛に感謝して、安心して歩んでいきましょう。



 

(2024年10月4日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日)


2024年10月3日木曜日

9月29日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「神の栄光のために」

「神の栄光のために」

  

日時場所 2024年9月29日平安教会朝礼拝

聖書箇所 ヨハネ11:1-16。434/532。

ご家族を天に送ったり、ご友人を天に送ったりすることが、私たちにはあります。悲しみと嘆きの中、大切な人を天に送ります。

「人の死をどのように考えたらいいのか」。「肉親をなくされた方に、なんと声をかければいいのか」。私たちは死にまつわることについて、「これが正解です」という答えをもっていません。その人との今までの人間関係がどうであったかということでも違います。またその人の現在の精神状態によっても違います。正解があるわけではありません。

私たちは大きな悲しみの出来事に出会うとき、「神さまはどうしてわたしの願いを聞いてくださらないのだろう」「神さまはどうしてこんなことをなさったのだろう」と思います。わたし自身もそうした思いにかられるときがあります。わたしはわたしの母がアルツハイマーになったとき、長い間、「神さまはどうして?」という思いをぬぐい去ることができませんでした。

昔、教会員の方の御家族が天に召されて、仏式の葬儀に参列したことがあります。そのときの葬儀でくりかえし語られ、印象に残っていることは、「人間のむなしさ、はかなさ」ということでした。「昨日生きていても今日は死んでいるかもしれない人間のはかなさを思い、私たちも心して過さなければならない」ということが語られていました。わたしもたしかに人間ははかないと思います。聖書でも人間のはかなさということが語られます。人間は土の器であり、結局は死んでしまうむなしいものであるということが語られます。しかしわたしは人間のはかなさということを思いながらも、はたして人間の生と死とは、そのようにはかないということだけなのかということがそのとき、妙にひっかかりました。

御家族を天に送られたその教会員の方は御家族の死に際して、「【神さまはどうして!】ということより、【神さまはなんのために】ということを考えている」というふうに言っておられました。今日の聖書の箇所は、「ラザロの死」という表題のついた聖書の箇所です。【神さまはなんのために】という訴えに対して、聖書はヨハネによる福音書11章4節で、【神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである】と語っています。この聖書の箇所を心にとめながら、すこし聖書を読んでいきたいと思います。

ヨハネによる福音書11章1ー2節にはこうあります。【ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった】。マリアがイエスさまに香油をぬった話は、ヨハネによる福音書12章に出てきます。新約聖書の191頁です。ラザロの家族はイエスさまにとって特別な家族であったようです。そのラザロの病状はどうもよくありません。

ヨハネによる福音書11章3−4節にはこうあります。【姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」】。マリアとマルタは、イエスさまのもとに使いの者を走らせ、イエスさまに来てもらおうとします。使いの者に、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。マルタとマリアは自分の兄弟のラザロが、イエスさまによっていやされなければ死んでしまうと思い、あせります。しかしそれに対して、イエスさまは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

ヨハネによる福音書11章5−10節にはこうあります。【イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう」。弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。イエスはお答になった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」】。

イエスさまはマルタとマリアとラザロを愛しておられました。そして彼らのところにいかなければというふうに思っておられました。しかしイエスさまはラザロが病気だと聞いてからも、どういう事情か、なお二日間同じ所に滞在を余儀なくされます。そしてそれから弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言われました。弟子たちは乗り気ではありません。弟子たちはイエスさまに「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と言いました。それに対して、イエスさまは「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われ、まだ神さまが定めたわたしがつかまり十字架にかけられるときは来ていないから、大丈夫だと言われました。そしていまのうちにすべきことを一生懸命にしなければならないと弟子たちを戒めました。

ヨハネによる福音書11章11-16節にはこうあります。【こうお話になり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」。すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った】。

イエスさまは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われました。それに対して弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言いました。しかしこのときすでにラザロは死んでいました。イエスさまははっきりと弟子たちに「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と言われました。それに対して、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言い、イエスさまに付き従っていこうとみんなに呼びかけました。

イエスさまが弟子たちと一緒にラザロのところにいくと、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていました。もう完全に死んでしまっていたのです。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人たちが、兄弟ラザロのことで慰めに来ていました。マルタは、イエスさまが来られたと聞いて、迎えに行きました。マルタはいつも気丈なしっかりした女でした。マルタはイエスさまを迎えにいきましたが、マリアは家の中で座っていました。マルタはイエスさまに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言いました。そして「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」とも言いました。それに対してイエスさまは「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。イエスさsまは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とマルタに問いかけました。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と言いました。

イエスさまは危険を犯してラザロのところに来られました。弟子たちが「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」というふうに言っているように、イエスさまは危険を承知で、ラザロのところに行かれたのでした。ヨハネによる福音書11章16節に、【すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った】とありますように、イエスさまの周りの状況はかなり悪く、イエスさまをつかまえようとしている人々がおり、そして捕まってしまうともう殺されてしまうだろうというような状況になっていたのでした。しかしそうしたことを承知の上で、イエスさまは危険を顧みず、ラザロのところに来られたのでした。

イエスさまは私たちが嘆き悲しんでいるところに、かならず来てくださいます。そこに来ることがイエスさまにとってどんなに困難であったとしても、またイエスさまご自身にどんなことが降かかってくるかもわからなくても、イエスさまは私たちのところに来てくださいます。それだけ私たちひとりひとりは、神さまの前に、大切なかけがえのないものであるということです。私たちはだれひとりとして、いなくてもいいということはないということです。

そしてイエスさまは「死が終わりではない」と言っておられます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。私たちはふつう死んでしまったら、終わりであるというふうに考えます。私たちは天に召された人たちに、いま会うことはできません。この世での生活は天に召されることによって、否応なく終わりとなります。そういう意味では死は終わりです。しかしだからと言って、天に召されたことがすべてむなしい、はかないことであるのではないのです。人の死は、むなしさ・はかなさを感じさせるのと同時に、また私たちに力を与えるものであると、聖書は私たちに語っています。

ラザロの死と復活というのは、ヨハネによる福音書の中で特別な位置をしめていると言われます。イエス・キリストの死と復活との関連で、ラザロの死と復活があるのだというふうに言われます。ラザロの死と復活という出来事は、特別な意味があるのです。そして同時にラザロの復活の物語は、ラザロだけのものではありません。イエス・キリストがラザロに対してかけられた愛は、ラザロに対してだけ特別にかけられた愛というのではないのです。

イエス・キリストは苦しんでいる人々や悲しんでいる人々に対して、愛をそそがれます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」という言葉を聞くとき、キリスト者として私たちがイエスさまから愛され、またきびしく問われているということです。イエスさまは悲しんでおられる人々、悩みを担っておられる人々、苦しんでおられる人々と共に歩まれた方でした。そしてその苦しみや悲しみという重荷を共に担って歩いてくださる方でありました。人の死によって、その人のこの世での人生は終わります。しかしその人が苦しいとき、悲しいとき、あるいは喜びのときも、イエス・キリストが共にいてくださり、そして慰めを与え、重荷を担い、そして喜びをわかちあってくださったということは、残された私たちにとって大きな励ましであり、慰めとなります。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。この言葉はとても印象的な言葉です。これとよく似た言葉が、ヨハネによる福音書9章3節にあります。新約聖書の184頁です。ヨハネによる福音書9章1節以下に「生れつきの盲人をいやす」という表題のついた聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書9章1−3節にはこうあります。【さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」】。生まれつき目の見えない人に対して、イエスは「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。ヨハネによる福音書11章37節に「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」という言葉がありますように、ラザロの話と盲人の話は、関連のある話として語られています。

人々は盲人が目が見えないことについて、「神さまはどうして!」という質問をします。そして自分たちのうちで答えをだします。「ばちがあたったからだ」「両親が悪いことをしたからだ」。それに対してイエスさまは「神さまは何のために」という答えを出しました。「神の業がこの人に現れるためにである」。またラザロの死についても、人々はたぶん「神さまはどうして!」という質問をしただろうと思います。それに対してイエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

人から見れば、「ばちがあたった」「両親の罪のせいだ」という「不幸」について、イエスさまはそうではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。また人から見れば、絶望であり、むなしさやはかなさという出来事でしかない死ということについても、イエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。イエスさまは悲しみ苦しみ悩みの中にある出来事、人から見ると不幸という言葉で括られてしまう出来事を経験している人々に、それは不幸ではなく、神さまの出来事なんだ。「神の栄光のための出来事なんだ」というふうに言われたのでした。

人の死という悲しみの出来事、絶望に思える出来事を、イエスさまは「それは神さまの出来事である」と言われました。それは私たちが経験するすべてのことにおいて、私たちは神さまの祝福の中にあるということです。死という、人間から見れば、むなしさやはかなさ、あるいは絶望ということ以外思いつかない出来事も、神さまは栄光の出来事へと導いてくださるのです。

「私たちの経験するどんなことも、神さまの栄光のために用いられる」とイエスさまは言われます。神さまは私たちを愛してくださっているのだから、私たちに豊かな祝福を備えてくださる。イエスさまはそのように言われました。イエスさまは空言(そらごと)としてそのように言われたのではありませんでした。それはイエスさまご自身の十字架での死によって明らかになります。イエスさまは十字架につけられて殺されました。しかし神さまはイエスさまの十字架での死によって、私たち人間の罪をあがなってくださいました。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。私たちはさまざまな悲しみや苦しみ、悩みや寂しさを経験します。そうした歩みをイエス・キリストは共に歩んでくださり、そしてその出来事を神さまの出来事として祝してくださいます。私たちが傷つき、疲れ果て、沈み込んでしまうとき、イエス・キリストは私たちを抱きかかえて歩んでくださる方なのです。私たちは共に歩んでくださるイエス・キリストに頼り、慰め主であるイエス・キリストと共に、神さまが備えてくださる道を祈りながら歩んで行きましょう。


(2024年9月29日平安教会朝礼拝)

2024年9月25日水曜日

9月22日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暴力の世界から離れて」

「暴力の世界から離れて」

 

聖書箇所 ヨハネ10:31-42。404/486。

日時場所 2024年9月22日平安教会朝礼拝式

アンナ・ラッセル著、カミラ・ピニェイロ絵、堀越英美訳『だから私はここにいる 世界を変えた女性たちのスピーチ』(フィルムアート社)という本は、とても勇気を与えてくれる本です。いろいろな女性たちのスピーチを集めた本です。有名なスピーチというのはいろいろあるわけですが、そのスピーチは男性であることが多いわけです。しかしこの本は女性のスピーチを集めた本です。

この本の中に、マリア・スチュワートという女性のスピーチが出てきます。「別れの挨拶」というスピーチで、1833年のスピーチです。1833年は日本は江戸時代の後期になります。天保の大飢饉があり、1837年には大塩平八郎の乱が起こっています。マリア・スチュワートはアフリカ系アメリカ人の奴隷解放運動家です。イギリスでは1833年に奴隷制度は廃止されました。しかしアメリカではまだ続いていて、1861年ー1865年に南北戦争が起こり、1863年1月にリンカーン大統領が奴隷解放宣言を行います。

マリア・スチュワートは幼い頃に孤児になり、5歳から年季奉公の奴隷となります。正規の教育を受けることはありませんでした。しかし彼女は公民権運動や社会改良運動に熱心に取り組んでいきます。マリア・スチュワートはだんだんと頭角を現し、ボストンで4度に渡って奴隷制廃止の講演を行います。しかし強い非難を受ける中、1833年以降は人前で話すことを辞め、教育者としての生涯を送ります。

「別れの挨拶」というスピーチの最初の部分を紹介いたします。【私が女性だとして、何か問題があるのでしょうか。古代の神は現代の神ではないのでしょうか。神はデボラ〔旧約聖書のなかの人物〕をイスラエルの母として、人々を裁くようお育てになったのではないでしょうか。王妃エステル〔旧約聖書の歴史物語『エステル記』の主人公であるユダヤ人女性〕はユダヤ人の命を救ったのではないですか?。それにキリストの復活を最初に宣言したのはマグダラのマリアですよね?。〔・・・・・〕使徒パウロは、女性が公の場で話すことは恥であると宣言されました。ですが、私たちの偉大な大祭司であり仲裁者であられますお方は、これよりも悪名高い罪を犯した女性をとがめませんでした。それなら、私のような虫けらをとがめることもないでしょう。神は公義を勝利に導くまでは、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消すこともありません。もし使徒パウロが、不当な扱いを受け、権利を奪われている私たちの窮状をご存じだったなら、私たちが公の場で権利を求めることに反対なさったりしないと思います】(P.22)。

わたしはマリア・スチュワートのスピーチを読みながら、もう1833年にこうしたことが公の場で、女性によって発言されているということに、とても励まされる思いがいたしました。1970年代にフェミニズム神学というように言われたことの内容が、もうすでに1833年にふつうに発言をされていて、それも正規の教育を受けることがなかった女性のスピーチとして残っているわけです。とても凛としたスピーチであるわけです。

マリア・スチュワートはこう言っています。【人間を形成するのは肌の色ではなく、その人の魂で育まれた行動規範なのですから。どこで生まれた人であっても、すばらしい知性はきらめき、天分の才能の輝きは隠しきれるものではありません】。

肌の色や、性別などで、人はいろいろなことを決めつけます。あるいは生まれた場所とかもそうでしょう。イエスさまはガリラヤのナザレで育たれました。人々は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。ヨハネによる福音書1層46節に書かれてある言葉です。ユダヤのエルサレムにいたユダヤ人たちは、ガリラヤのナザレから何か良いものがでるわけがないと思っていました。イエスさまはガリラヤのナザレで育たれましたが、すばらしい知性はきらめき、天分の才能の輝きは隠しきれるものではありませんでした。神さまの御心を行ない、神さまに従い歩まれました。しかしユダヤ人たちはイエスさまを受け入れることはできませんでした。

今日の聖書の箇所は「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という表題のついた聖書の箇所の一部です。先週の聖書の箇所の続きです。

ヨハネによる福音書10章31−33節にはこうあります。【ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」】。

ユダヤ人たちはイエスさまを石で殺そうとします。ユダヤ人たちは本気であるわけです。イエスさまはユダヤ人たちに、「わたしは神さまがわたしに託された善い業をたくさん行っているのに、どうしてわたしを石で打ち殺そうとするのか。わたしがしたどの善い業のために、わたしを撃ち殺そうとするのか」と言われます。。ユダ人たちは「あなたがした善い業のためにあなたを石で撃ち殺そうとしているのではない。あなたが神さまを冒涜しているからだ。あなたは人間なのに、自分のことを神としているからだ」と言いました。

ヨハネによる福音書は、イエス・キリストが神さまの御子であると記しています。ヨハネによる福音書1章1節以下に「言は肉となった」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の163頁です。ヨハネによる福音書1章1−5節にはこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】。ここで言われている「言」というのは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは神さまと共にあり、そしてイエス・キリストは神であるということが言われています。そういう意味ではユダヤ人たちが言っている、「あなたは人間なのに、自分のことを神としている」というのは、おかしなことを言っているというわけではありません。しかしイエスさまが神さまを冒涜しているというのは、それはやはり間違ったことであるわけです。イエスさまは神さまの御心を行なっておられます。だからイエスさまは神さまを冒涜しているわけではないわけです。ですからイエスさまはつぎの箇所で、ユダヤ人たちに【どうして『神を冒涜している』と言うのか】と言われるわけです。

ヨハネによる福音書10章34−39節にはこうあります。【そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。】。

イエスさまが言われる「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」というのは、詩編82編6節に書かれてあることです。詩編82編6節にはこうあります。旧約聖書の920頁です。【わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。】。この聖書の箇所では、人間のことが神々と言われています。イエスさまは聖書で、神さまの言葉を受け入れた人が、神々と言われているのだから、わたしが「わたしは神の子である」と言っても、そんなに非難されることではないだろうと言われます。

一般的に人であっても、神さまの御心に従って歩んでいる人のことを、「神の子」というような感じで語ることというのはあるわけです。厳密に言えば、イエスさまのことを「神さまの御子」と言うのと、一般的に言われている「神の子」というのと違いがあるわけです。しかし自分のことを「神の子」と言ったということで、「神さまを冒涜している」と非難して、その人に石を投げて殺すというのは、それはやはりおかしなことだと、イエスさまは言われます。大切なのは、その人が神さまに従って歩んでいるかどうかだ。神さまの業を行なっているのであれば、それで良いだろうと、イエスさまは言われます。

そしてユダヤ人たちに対して、わたしのことが信じられないというのであれば、それはそれでよいから、わたしが行っている業をみてほしい。わたしは神さまの御心に従って歩んでいる。そして神さまがわたしに望んでいる善き業を行なって歩んでいる。わたしが行っている善き業をみてほしい。あなたたちが本当にそのことを理解するなら、神さまがわたしの内におられ、わたしが神さまの御心を行なっているということが、あなたたちにもわかるだろう。そのように、イエスさまは言われました。とは言うものの、ユダヤ人たちはイエスさまのことを信じることはできません。イエスさまを捕らえて、イエスさまを殺そうとします。

ヨハネによる福音書10章40−42節にはこうあります。【イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。】。

イエスさまは洗礼者ヨハネが活動をしていたヨルダン川に行きました。そこに行くと、多くの人々がイエスさまのところにやってきて、イエスさまのことを信じました。ヨハネによる福音書1章19節以下には「洗礼者ヨハネの証し」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の163頁です。洗礼者ヨハネはイエスさまのことを、自分のあとからすばらしい人がやってくる。わたしはその人の履物のひもを解く資格もないと言いました。またヨハネによる福音書1章29節以下に「神の小羊」という表題のついた聖書の箇所があります。この箇所で洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。そして「この方こそ、神の子である」と証ししました。ユダヤ人たちはイエスさまのことを信じませんでした。しかし世の人々はイエスさまのことを「この方こそ、神の子である」と信じたのでした。

イエスさまのことを信じることができないユダヤ人たちは、はじめからイエスさまのことを拒否しています。イエスさまが神さまの御心を行なっているということについては関心がないのです。イエスさまは神さまの御心を行なっておられるので、神さまの御心にかなわない社会になっていることで、ユダヤの指導者たちを非難します。ユダヤの指導者たちはイエスさまが自分たちの意に添わないことをするので、イエスさまのことを敵とみなします。自分の意に添わない人はみな敵なのです。そして敵はやっつけるのです。ユダヤの指導者たちは敵を作り出すことに一生懸命になっていました。

レッテルをはって敵を作り出すということによって、世の中を治めていく方法は、とても簡単です。ですから世の支配者たちは、敵を作るという方法を取りがちです。敵をやっつけるためには何をしてもよいからです。残虐なことをしてもかまわないですし、嘘をついてもかまいません。倫理的な形式をとることもなく、何をしてもよいのです。自分たちに文句を言ってくる者たちには、「敵」というレッテルを貼って、やっつければいいのです。宗教が違うから敵だ。肌の色が違うから敵だ。生まれた国が違うから敵だ。敵をやっつければ良いのだ。しかしそうした世界に生きていると、どんどんと暴力的な人間になってしまいます。

そんなユダヤ人たちに対して、イエスさまは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われました。わたしが神さまから託された善き業を行なっているということに目を向けなさい。イエスさまは病の人々をいやされ、神さまの御言葉を伝えて、困難な人々を励ましておられました。神さまの御心にかなった善き業を行なっておられました。ユダヤ人たちに落ち着いて、そうしたことに目を向け、冷静になりなさいと、イエスさまは言われました。

「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と、ヨハネによる福音書10章31節にあります。「また石を取り上げた」ということですから、以前にもイエスさまに石を投げようとしたのでしょう。ヨハネによる福音書8章59節に、【すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた】とあります。

暴力的なことを繰り返していると、どんどんと暴力的なことをするようになってしまいます。ユダヤ人たちはどんどんと暴力的になり、イエスさまを捕らえて、イエスさまを十字架につけていくことになります。イエスさまの時代のユダヤ人たちが特別に暴力的であったということではなく、だれしも暴力的な方法を取っていくと、どんどんどんどんと暴力的になっていくのです。ですから暴力的な世界から離れて生きていくことを、心がけていかなければなりません。落ち着いて、話を聞くということが大切です。落ち着いて、相手のしている良いことを見るということが大切だということです。

石を投げようとしてくる人たちに、イエスさまは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われ、共に良い社会を作っていこうと呼びかけられました。お互いに良いところを見つけ出し、共に神さまのために働こうと、イエスさまは言われました。

日常生活の中で、私たちもいろいろなことに腹を立てたり、いじわるな気持ちになったりします。「あの人のことは大嫌い」という思いに囚われてしまうこともあります。しかし落ち着いて、考えてみなさいと、イエスさまは言われます。心を落ち着けて、意地悪な気持ちから離れて、やさしい気持ちになりなさい。そうするとまた新しい道が開かれてくる。共に神さまのために働こうという気持ちが与えられると、イエスさまは言われます。

イエスさまと共に、落ち着いて、やさしい気持ちを取戻して歩んでいきたいと思います。


  

(2024年9月22日平安教会朝礼拝式)


2024年9月19日木曜日

9月15日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまに守られている」

「イエスさまに守られている」

聖書箇所 ヨハネ10:22-30。289/460。

日時場所 2024年9月15日平安教会朝礼拝式・恵老祝福礼拝


今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。

年を取りますと、やはり体が痛いというようなことも多くなってきます。また病院にかかることも多くなってきます。わたしは61歳になりました。教会の中ではまだまだ若者という雰囲気がありますが、それでもいろいろなことで病院に通うことが急に多くなりました。わたし自身が「ああ大変だ」というように思うわけですから、わたし以上に年をとっておられる方は、もっと大変なのだろうと思います。若い時のように思うように体が動かないというようなこともありつつ、それでも神さまから命を与えられ、そして「生きよ」と言われていることに感謝をして、神さまが指し示す道を歩んでおられるみなさんはとてもえらいなあと思います。神さまに感謝していきおられる皆さんをみるときに、私たちはとても励まされる思いがいたします。そしてこうして共に神さまを讃美する礼拝を守ることができますことが、こころからの喜びであると感じることができます。

9月6日の金曜日の朝、わたしは左側のお腹と左側の背中が痛くなりました。その日は朝、病院にいくことになっていましたので、すこしはやい時間でしたが、起きて我慢をしていました。食欲がなかったので、牛乳だけを飲んだのですが、いよいよ我慢することができなくなり、「いまから見ていただくことはできますか」ということで病院に電話をかけました。するとだんだと吐き気がして、電話をするのも大変というような感じなりました。「保険証と5千円をもってきてください」ということでしたので、妻に病院まで送ってもらいました。「大丈夫ですか。それではこれに記入してください」と言われたのですが、もう自分で記入できず、お医者さんに書いてもらいました。検尿をして、CT検査をしているうちに、だんだんと落ち着いてきて、結局は尿管結石ということでした。「尿管結石は40代、50代の大の大人が痛くて、痛くて苦しんでいる病気の1つです。『痛みの王様』と呼ばれる病気です!!」ということでした。「死ぬかと思った」というのは大げさですが、ひさしぶりに「病院駆け込まなければ、もうどうしようもない」という感じでした。「結石は大きくないので、自然に出てくるでしょう」ということでしたが、「こんな小さなものに苦しめられるとは、人間とはなんと無力なものなのでしょう」と思いました。

わたしはいまから23年ほど前の2001年に同じように、尿管結石になっています。そのときは妻に、「なんで、身体の中に、石があったりするんやろ。どうせなら、昔話に出てくるダチョウの金(きん)の卵みたいに、石やなくて、金(きん)が身体の中で、できたらいいのになあ」というようなことを言っていました。しかし今回は、そんな冗談を言うことができないほど、苦しかったです。

それでもその後、こうして普通に生活をしているので、「ああ、やっぱり神さまから守られているんだなあ」と思えます。日常生活の中で、大変なことに出会うことが、私たちにはあるわけですが、それでも神さまが御手をもって導いてくださることを信じて、私たちは歩んでいきます。

今日の聖書の箇所は「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書10章22−24節にはこうあります。【そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」】。

今年度はヨハネによる福音書で話をすることが多いですので、なんとなくユダヤ人の指導者たちがイエスさまのことを信じることができなかったということが書いてある聖書の箇所を読んでいます。今日の聖書の箇所もそんな感じの聖書の箇所です。

神殿奉献記念祭というのはユダヤの「ハヌカ」というお祭りのことです。紀元前2世紀にイスラエルはギリシャ人の支配下にありました。ユダヤ教のおきてを守ることが禁じられていました。ユダヤ人たちはそうした圧政に対してたちあがり、紀元前165年にエルサレム神殿を取戻します。そのことをお祝いするお祭りであるわけです。

イエスさまは神殿の境内のソロモンの回廊を歩いておられました。するとユダヤ人たちがイエスさまのところにやってきて、イエスさまを取り囲みました。そしてユダヤ人たちはイエスさまに「もし自分のことがメシアであるというのであれば、はっきりとそう言ったらよいではないか」と言いました。でもはっきりとそう言うと、ユダヤ人たちは「イエスは神さまを冒涜した」と言って、イエスさまを捕らえるわけです。ですからイエスさまはなかなかはっきりと宣言をされるというのではなく、なんとなくわかるというような発言をされていたということだと思います。

ヨハネによる福音書10章25ー27節にはこうあります。【イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。】。

ユダヤ人たちは「はっきり言え」というわけですが、イエスさまは「わたしははっきり言った」というわけです。はっきり言ったけれども、あなたたちは信じないと言うわけです。でもまあ、ユダヤ人たちはイエスさまを捕らえるために、「はっきり言え」と言っているわけです。イエスさまのことを信じたいというようなことを思っているわけではありません。イエスさまが神さまから託されたわざを行なっているけれども、ユダヤ人たちは信じない。まあそうしたことが重なってくるので、イエスさまも「あなたたちはわたしの羊ではないから信じないのだ」と言うわけです。そして神さまを求めている人たちは、わたしの声を聞き分けて、わたしのことを信じる。わたしは彼らのことを知っている。そして彼らはわたしに従うのだ。と、イエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書10章28−30節にはこうあります。【わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」】。

イエスさまはイエスさまを信じる人たちに、「永遠の命を与える」と言われます。イエスさまを信じる人たちは、イエスさまの手から奪うことはできない。父である神さまが、イエスさまに力を与えてくださっている。神さまが与えてくださったものであるので、それらは偉大なものであり、そしてだれもそれを奪うことはできない。そのようにイエスさまは言われました。

私たちはイエスさまの羊です。イエスさまの言葉を信じ、イエスさまが神さまの御子であることを知っています。神さまがイエスさまに力を与えてくださり、イエスさまは神さまの御子として、神さまの御心を行ないます。そして私たちに永遠の命を与えてくださいます。私たちはそうした力強いイエスさまに守られて生かされています。

イエスさまは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言っておられます。思えば、私たちはとても大きな安らぎのうちを歩んでいるのです。「わたしは永遠の命を約束されている」「わたしは決して滅びることはない」「わたしはいつもイエスさまの御手のうちに生きている」。イエスさまの御言葉を聞くときに、わたしはとても安心いたします。尿管結石で不安になっていたのが、うそのような気がします。

私たちはだれからも奪われることのない幸いを手にしています。この世の多くのものは私たちの手から失われていきます。もっと若いときは元気だったのに。もっと若いときは転んでもケガをするというようなことはなかったのに。年をとってくると、体の衰えを感じるということが確かにあります。

しかしどんなに年をとったとしても、私たちはイエスさまのお守りのうちに生きています。イエスさまは「だれもわたしからあなたを奪うことはできない」と、私たちに言ってくださっています。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。イエスさまの御声を聞きつつ、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。イエスさまは私たちをしっかりと受けとめてくださり、私たちに安らぎを与えてくださいます。




  

(2024年9月15日平安教会朝礼拝式・恵老祝福礼拝)





2024年9月13日金曜日

9月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「ただ、神さまの愛がある」

「ただ、神さまの愛がある」

聖書箇所 マタイによる福音書5章43ー48節

日時場所 2024年9月8日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい


童話作家の新美南吉の「ごんぎつね」は、よく国語の教科書でとりあげられる作品です。道徳の教材などにも使われたりするので、何となくうまく使われてしまっているような気がするわけですが、しかし新美南吉自身は、愛国主義的な教育が嫌いでした。

こんなことを書いています。(P235.236)(堀越英美『不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』、河出書房新社)

【昨日午後われわれの講堂で講演会が行はれた。この頃はやりのなんでもかんでも日本は有難いくに、よい国、なんでもかんでも西洋は個人主義の嫌らしい国といふ千ぺん一律の話をするのはくそ面白くない会の一つだ】(昭和一五年二月一五日の日記)

【教育界。こんな嘘だらけの世界はもういやだ。沢山だ。げろ。子供は美しい、純真です。ハアさうですか】(友人・河合弘に宛てた手紙、昭和一五年九月二二日)

「ごんぎつね」とか「てぶくろをかいに」といった、児童文学を書いている新美南吉からは想像できないような言葉遣いです。「くそ面白くない」とか「教育界。こんな嘘だらけの世界はもういやだ。沢山だ。げろ。子供は美しい、純真です。ハアさうですか」。

新美南吉は四歳で母と死に別れます。あまりに深い孤独を感じたため、安易に感動をもとめるような世の中のあり方には、新美南吉はなじむことができなかったのだと思います。

わたしの好きな新美南吉の詩に、「天国」という詩があります。

【天国 

おかあさんたちは

みんな一つの、天国をもっています。

どのおかあさんも

どのおかあさんももっています。

それはやさしい背中です。

どのおかあさんの背中でも

赤ちゃんが眠ったことがありました。

背中はあっちこっちにゆれました。

子どもたちは

おかあさんの背中を

ほんとの天国だとおもっていました。

おかあさんたちは

みんな一つの、天国をもっています。】(新美南吉『新美南吉詩集』、ハルキ文庫)。

新美南吉が小さな頃、お母さんは天に召されました。新美南吉が4才のときです。ですから新美南吉のお母さんに対する思い入れは、とても大きいものだったと思います。

【おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています。どのおかあさんも どのおかあさんももっています】。そのように言われると、「おかあさんはうれしい」という面と、「どうしてお母さんだけに子育てを押し付けるのか」という批判も出るのではないかと思います。「最近はこどもを背負っているお母さんをあまり見たことがない」ということもあるかと思います。しかしそれでも【子どもたちは おかあさんの背中を ほんとの天国だとおもっていました。おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています。】と言われると、なんとなく体験的にそんな感じがします。

「おとうさんの背中は天国ではないのか」という疑問もないわけではないです。もちろんお父さんの背中が天国である場合もあると思います。わたしはそうしたことよりも、だれしも天国を持っているということが大切なのだと思います。お母さんであろうとお父さんであろうとおじいさんであろうとおばあさんであろうと、なんらかの天国をもっている。ただそのことに気づかないということが人間にはあります。【子どもたちは おかあさんの背中を ほんとの天国だとおもっていました。おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています】。

人は自分のもっているものに気がつかないということがあります。大切なものを神さまから与えられているにも関わらず、そのことに気がつかないということがあります。それはおかあさんの背中ばかりではなく、お父さんの肩であるかもしれません。いろいろな賜物を与えられているにもかかわらず、そのことに気がつかないということがあります。また人は自分がだれかからとても愛されているということに気がつかないということがあります。たとえば父親や母親からどんなに愛されていたのかわからないということがあります。自分が母親や父親になって、「ああ、母は、自分のことをこんなふうに愛してくれていたのだろう」と気がつくというようなことがあります。だけれども中学生・高校生の時は親はとてもうっとうしく感じるということがあったりします。なかなか人は愛を理解することができなかったりします。

父や母、あるいは家族や友人だけでなく、私たちは神さまからどんなに愛されていても、気がつかないということがあります。神さまのことなど忘れて、勝手に遊びに行ってしまうこともありますし、まあちょっと仕事をしなければと思ったりもします。私たちは神さまからどんなに愛されているのか知らずに、自分勝手なことをします。そして時に神さまに反抗したり、神さまに不平を言ったりします。しかしそれでも神さまは辛抱強く私たちを導き、私たちを愛して下さっています。

今日の聖書の箇所は「敵を愛しなさい」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまは神さまの愛ということについては、極端なことも言われます。マタイによる福音書5章44節には【敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい】とあります。【敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい】といわれると、「いや、そんなできないだろう」というふうに思えます。自分にいじわるをする人を愛することはできないし、わたしに暴力を振るうような人を愛することはできないと思えます。

しかし愛するということの前に、何か理由があるというのも、さみしいわけです。イエスさまは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあるだろうか」と言っておられます。自分に何かいいことをしてくれるから、この人のことを愛してあげるというのも、ちょっと違うだろうと、イエスさまは言われます。何かいいものをくれるとか、この人はできがいいから愛してあげるというのは、それはちょっと違うだろうと、イエスさまは言われます。

マタイによる福音書5章45節にはこうあります。【あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである】。神さまの愛は悪人にも善人にも、正しい者にも正しくない者にも注がれる。それは神さまが愛について資格を問うておられるわけではないからです。ふさわしいとか、ふさわしくないとかということが、神さまの愛が注がれることの前提ではないからです。

私たちは愛ということの前に、権利とか資格ということを問題にしがちですが、しかしイエスさまは言われるのです。私たちに権利があるとか資格があるということが大切なのではない。神さまの愛があるということが大切なのだ。神さまの愛があり、神さまの愛が私たちに注がれている。それは私たちにそれを受ける権利があるとか、私たちにそれを受ける資格があるとか、そういうことではない。ただ神さまの愛があり、神さまの愛が私たちに注がれている。そのことが大切なのだ。

愛ということを考える時に、イエスさまはまず「あなたが神さまからただ愛されている」ことが大切なのだと言われました。あなたが優秀だから、神さまはあなたを愛しておられるのではない。あなたが良いことをするから、神さまはあなたを愛しておられるのではない。神さまは、ただ、あなたを愛しておられる。神さまは、ただ、あなたのことが大好きなのだ。

神さまの愛に私たちがふさわしいのかと言えば、そういうわけでもありません。私たちの心の中には、良くない思いもあります。また人を傷つけてしまいようなことを行ってしまったり、じっさいに行ってしまったりすることもあります。神さまの愛にふさわしいとは思えない私たちがいます。

でも神さまはただ、私たちを愛してくださっています。私たちはそうした慈しみ深い神さまの愛の中に生かされています。どんなときも、神さまは私たちを愛してくださり、私たちを見守ってくださっています。

神さまがわたしを愛してくださっているということを、こころにしっかりと受けとめて、安心して歩んでいきましょう。


(2024年9月8日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい)

2024年9月5日木曜日

9月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「良き志をもって歩め」

「良き志をもって歩め」

聖書箇所 ヨハネ8:37-47。495/520。

日時場所 2024年9月1日平安教会朝礼拝式・振起日礼拝

     

9月に入りました。暑い夏が終わり、暑い秋になりました。

日本に住んでいる私たちは、8月15日が敗戦記念日・終戦記念日というふうに思います。わたし自身もそうした感じがします。しかし国際法上で正式に戦争が終わったのは、9月2日と考えられています。1945年9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ号の上で、日本が連合国側に無条件降伏文書に調印をするということが行われました。

社会学者の佐藤卓己は、終戦の日を二つに分けて、8月15日を『戦没者を追悼する日』、9月2日を『平和を祈念する日』にすべきだと訴えています。8月15日はこれまで通り死者に祈りを捧げ、9月2日は戦争責任や加害の事実に冷静に目を向け、諸外国と歴史的対話をする日にしてはどうだろうという提案です。(佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』、ちくま学芸文庫)

戦没者のことを追悼している時に、戦争責任のことなどを話していると、なかなか冷静に話し合うことができないということがあります。戦後79年を経て、直接、兵隊として戦争に駆り出されていった人々も、だんだんといなくなり、生々しい加害者の体験を聞くこともできなくなりました。そうしたこともあり、メディアでは、平和についての番組は作られても、加害者としての戦争責任についての番組は作られなくなってきているような気がします。8月15日を『戦没者を追悼する日』、9月2日を『平和を祈念する日』にわけて、冷静な議論をしていくというのも、よいアイデアなのかも知れません。日本の中だけで「従軍慰安婦はなかった」とか「南京大虐殺はなかった」とか言っていても、世界では通用しないですから、諸外国も交えて対話をしていくのは、よいことなのかなあと思います。

今日の聖書の箇所は、「反対者たちの父」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書8章37−41節にはこうあります。【あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」】。

ユダヤ人たちは自分たちは神さまから選ばれた特別の民族であると考えていました。神さまが自分たちの先祖であるアブラハムを特別に愛してくださって、そして自分たちの民族を特別な民族としてくださったと考えていました。ですから彼らは「わたしたちの父はアブラハムです」というわけです。そうしたユダヤ人たちに対して、イエスさまはあなたたちはアブラハムの子孫であり、自分たちが神さまに選ばれた特別な民族であるというのであれば、その神さまにふさわしいことをすべきだろうと言われます。神さまは困っている人やつらい思いをしている人々に心を向けておられるのに、どうしてあなたたちはそうした人たちに救いの手を差し伸べるというようなことをしないのかと言うのです。あなたたちはわたしたちの父はアブラハムだというけれども、アブラハムは弱い立場の人を苦しめたりするようなことはしなかった。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書8章41−50節にはこうあります。【そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。】。

イエスさまが「あなたたちはアブラハムの子ではない」と言われるので、ユダヤ人たちは「わたしたちは姦淫によって生まれたのではない」と言います。自分たちは由緒正しい者なのだと言うのです。そして「わたしたちにはただひとりの父がいる。私たちの父は神さまなのだ」と言うのです。「イエス、お前は自分のことを、神の御子だと言うけれども、お前がそういうのであれば、私たちだって神さまの御子だ」と、ユダヤ人たちは言うわけです。

イエスさまはユダヤ人たちに、あなたたちは神さまの御子だというのであれば、わたしのことも愛するだろう。わたしは神さまの御心を行っているだけなのだから。わたしはずっとそのように言っているけれども、あなたたちはいっこうに悔い改めることはしない。だから言わしてもらう。あなたたちの父は悪魔だ。アブラハムでも、神さまでもない。悪魔は人殺しであり、真理をよりどころにしていない。ウソをついても平気だ。あなたたちの父は悪魔であり、あなたたちもまた悪魔に属しているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書8章45−47節にはこうあります。【しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」】。

イエスさまはユダヤ人たちに、「わたしが真理を語るから、あなたたちは信じない」と言われました。イエスさまは神さまが示しておられる真理を語っておられます。。しかしユダヤ人たちはイエスさまのことを信じようとはしませんでした。ユダヤ人たちにとってイエスさまは、自分たちに対してものを言ってくるやっかいな人間であるわけです。ユダヤ人たちは神さまの御心から離れてしまい、自分たちの名誉やメンツといったものを大切にするようになっていました。イエスさまは神さまの真理を語るわけですが、ユダヤ人たちは神さまに属するのではなく、自分自身のために生きているので、イエスさまが語る神さまの御言葉を聞くことはありませんでした。

ユダヤ人たちは自分たちは特別な民族であると思っていました。ユダヤの指導者たちは自分たちは特別な人間であると思っていました。自分たちは特別であると思うようになると、往々にして、人の意見に耳を傾けることがなくなってきます。自分たちに都合の悪いことを、認めるのがいやになってきます。

9月1日は関東大震災が起こった日です。今年で101年を迎えます。関東大震災のときに、自警団による朝鮮人に対する虐殺が起こりました。歴史的な文書や証言として残っているわけですが、一方で「そうしたことはなかった」と言い張る人たちも出てくるようになりました。政治家の中でもそうしたことを言い出す人たちがいて、とても困ったことだと思います。

小説家の芥川龍之介は、「大正十二年九月一日の大震に際して」という文章のなかで、こんなことを書いています。芥川龍之介と菊池寛の会話です。芥川龍之介は自警団に参加しています。【僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草(まきたばこ)を咥(くわ)えたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤(もっと)も雑談とは云うものの、地震以外の話の出た訳ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○(不逞鮮人の放火だ)さうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論(もちろん)さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云う。しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○○(不逞鮮人)はボルリエヴィッキの手先ださうだと云った。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽(たちま)ち自説(?)を撤回した。○○○は伏字。】(P.157)(加藤直樹『九月、東京の路上で』、ころから)。

芥川龍之介はデマを信じて、「関東大震災の大火事は朝鮮人のしわざだそうだ」と、菊池寛に言うのです。しかし菊池寛は「嘘だよ、君」と芥川龍之介を諭します。芥川龍之介は自分の愚かさと、菊池寛のすばらしさを、この文章で記しています。人はデマを信じやすいものだと思わされます。芥川龍之介がデマを簡単に信じるのであれば、わたしもデマを信じてしまうだろうなあと思わされ、とてもおそろしい気がいたします。

イエスさまはユダヤ人たちに対して、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」と言われました。「いくらなんでも、イエスさま、それは言いすぎではありませんか」と思いますが、しかし芥川龍之介が簡単にデマを信じてしまったことなどを思うとき、悪魔から出てきたとしか思えないような人間のそら恐ろしさを、自分のなかにも感じます。

だからこそ、イエスさまから離れずに歩みたいと思います。イエスさまにつながって歩みたいと思います。イエスさまにつながっていなければ、自分がどこかにいってしまいそうな思いがするからです。イエスさまは「神に属する者は神の言葉を聞く」と言われました。イエスさまにつながって、神さまの言葉を聞く者でありたいと思います。「イエスさまにしっかりとつながって生きていく」という、よき志をもって歩みたいと思います。





  

(2024年9月1日平安教会朝礼拝式・振起日礼拝)


8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...