2025年5月28日水曜日

4月27日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「すこやかな歩みを大切に」

「すこやかな歩みを大切に」

聖書箇所 マタイ28:11-15。333/323。

日時場所 2025年4月20日平安教会朝礼拝式・定期総会

  

社会から倫理というものが失われてくると、「まあ少々嘘をついてもまあええか」という人が出てくるようになります。一般的な人は「嘘をつく」ということに罪悪感を感じます。たとえば「6時に行くね」と約束をしたのに、6時にいけなくなってしまって、しかたなく7時に行った。すると約束した相手から「あなたは嘘をついたのか」と言われる。「いや嘘をついたわけではないけど、結果的には嘘になってしまった。ごめんなさい」と言うわけですが、「あなた嘘をついたのか」と言われると、とても傷つきます。「嘘をついてしまった」ということが、こころのなかでトゲとして残って、気になって気になってしょうがいないというようなことが起こったりします。

でも最近は積極的に嘘をついても、大丈夫な人たちも出てくるようになりました。アメリカのトランプ大統領は、日本の自動車の安全基準について「ボウリングの球を6メートルの高さから車のボンネットに落とし、少しでもへこんだら不合格になる。われわれはとんでもない扱いを受けている」というような嘘をつきます。2018年にそのようにトランプ大統領は言っていて、「それは間違いですよ」と指摘されています。嘘であることがわかっていて、嘘をつくわけです。現代は嘘活用社会です。嘘を活用して、うまくこの世を乗り切ろう。嘘を証明するのには、証明するのに時間がかかる。嘘をついて、その場をごまかし、ことを有利に運んでいけば、成功すること間違いなし。嘘かどうかというようなことは大したことではない。という「嘘活用社会」です。

日本でもやはり政治の世界で嘘が蔓延しています。最近は、偽名で不倫をしていた衆議院議員が謝罪をしていました。同志社大学出身の議員なので、なおのこと残念です。同志社大学の良心教育が足りなかったと思いました。わたしは政治家はやはり倫理を大切にしたほうが良いだろうと思っています。芸能人や一般人と政治家の不倫を、同じように考えるのは、やめたほうが良いだろうと思います。政治家は法律を作るという仕事があるわけですから、やはり道徳的でない法律を作られて、それを守らされるようになると困るわけです。もちろん政治家も人間ですから、ふさわしくないことをしてしまうこともあると思います。そういうときはやはり一度、辞職をしてけじめをつけて、時を経て、またやり直したら良いと思います。「不倫していても、政治家としての仕事をしてくれる政治家がいい」というように言って、倫理的なことをないがしろにしてくると、「偽名で不倫」というような感じの政治家が、やはり出てくるようになるわけです。そして嘘を言っても平気というような感じが蔓延し、嘘を活用してこの世を乗り切ろうというような感じの社会になってくると、もうそれは止めようがないのです。

今日の聖書の箇所は「嘘」が話題になっている聖書の箇所です。「番兵、報告する」という表題がついています。今日の聖書の箇所の一つ前は、マタイによる福音書28章1節以下で、「復活する」という表題のついた聖書の箇所です。マグダラのマリアともう一人のマリアが、イエスさまの遺体を納めたお墓にいきます。しかしお墓のなかには、イエスさまの遺体はありませんでした。そして主の天使から、イエスさまが復活されたことを聞きます。そして女性たちはそのことをお弟子さんたちに伝えにいきます。その途中で復活されたイエスさまに出会いました。そして今日の聖書の箇所となります。

「復活する」という聖書の箇所の前の聖書の箇所は「番兵、墓を見張る」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまの墓を番兵が見張っているのには理由があるわけです。その理由というのは、イエスさまの弟子たちがイエスさまの遺体を盗みだして、そして「イエスさまが復活した」と言って回るかもしれないから、そんなことにならないように、イエスさまのお墓には番兵がおかれていました。そうしたことを踏まえて、今日の聖書の箇所となります。

マタイによる福音書28章11節にはこうあります。【婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。】。番兵たちがイエスさまの墓を見張っていた時に、大きな地震にあいます。主の天使が天から降ってきて、イエスさまのお墓の石をわきに転がし、その上に座るのをみます。番兵たちは恐ろしくなります。そしてマグダラのマリアたちがやってきます。そして主の天使がマグダラのマリアたちに、イエスさまが復活されたことを話すのを、番兵たちは見ます。そしてそのことを、祭司長たちに報告しました。

マタイによる福音書28章12−14節にはこうあります。【そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」】。

祭司長たちはイエスさまが復活されたということについて、弟子たちがイエスさまの遺体を盗んでいったということにします。兵士たちが寝ているうちに、弟子たちが来て、イエスさまの遺体を盗んでいったということを、兵士たちに広めてもらおうとします。兵士たちが寝ているうちにということですから、「おまえたち、寝ていたのか」と叱られないために、総督ピラトには話をつけておくから安心しろというわけです。まあそういう面倒なことをしてもらうわけですから、兵士たちには大金が支払われるということです。

マタイによる福音書28章15節にはこうあります。【兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。】。兵士たちは自分たちにとって悪い話ではないので、祭司長たちの言うことを聞いて、そのような噂を広めます。そしてそのうわさは広がっていって、ユダヤの人々はそれを信じるようになるわけです。祭司長たちは嘘を作り出します。そして兵士たちはその嘘を容認し、そして嘘をつくる手助けをします。そしてユダヤの人々は嘘を信じるようになります。

気軽に嘘が広がっていく社会は、その社会に住んでいる人々にとって、あまり良い社会にはなりえません。嘘は簡単につくことができます。しかしその嘘が嘘であることを証明するためには、いろいろな労力が必要になります。どんどん嘘をついていけば、嘘を嘘であると証明する労力はもっともっと大変になってきます。そういう意味では嘘には勝てないのです。しかし嘘がなければ、その嘘を証明する必要はないわけですから、ほかのもっと良いことのためにその労力をつかうことができるので、社会にとっては良いことです。嘘は社会を疲弊させ、社会を貧しくさせていきます。

やはり私たちはすこやかに生きていかなければならないのです。みんながずるいことをする社会は、すみにくい社会です。賄賂が横行し、嘘が蔓延しするような社会はすみにくいのです。ずるいことをしている人がうまいことをやっていると思える社会は、やはりすみにくい社会です。だんだんとみんながまあ少々ずるいことをしても、まあうまいことやったほうが得だよね、みんなそうやっているんだから、ばれなければいいんじゃないというようになってしまうと、だんだんと良くない社会になってしまいます。やはりみんなが健やかな思いを大切にして生きていくような社会でありたいと思います。

エフェソの信徒への手紙には、「クリスチャンはこんな感じで生きたいよね」ということが書かれた聖書の箇所があります。エフェソの信徒への手紙4章25−32節には、「新しい生き方」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の357頁です。

【だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。】。

まあ倫理的な教えですから、あんまりいろいろ言われると、「ちょっとしんどいかなあ」という思いになるかも知れません。「悪い言葉を一切口にしてはなりません」などと言われると、「まあ、そりゃそうだと思うけど、ちょっとまあそういうわけにもいかないときもあるよね」というような思いも出てきます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言われると、「まあ、その方がよいと思うけど、やっぱり『すべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい』とか言われると、ちょっと自信がなくなっちゃうよね」という思いもでてくるかも知れません。

「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」ということもあります。まあですから、エフェソの信徒への手紙4章25節と4章32節くらいにして、「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。・・・互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」くらいにすれば、良いのではないかと思います。まあ、なるべく、嘘はつかず、互いに親切にして、憐れみの心を大切にして、互いに赦しあいながら生きていく。そうした健やかな歩みでありたいと思います。

私たちは一人一人、神さまから愛されている大切な人間です。私たちの罪のために、イエス・キリストは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。そして復活されて私たちの希望となってくださいました。神さまは私たちをとても大切な人として愛してくださっています。神さまに愛されていることを受けとめて、すこやかな歩みでありたいと思います。




(2025年4月27日平安教会朝礼拝式・定期総会)




4月20日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「やさしい声が聞える」

「やさしい声が聞える」

聖書箇所 ヨハネ20:1-18。326/328。

日時場所 2025年4月20日平安教会朝礼拝式・イースター

  

イースターおめでとうございます。

よみがえられたイエスさまと共に、こころ平安に歩んでいきたいと思います。

イエスさまがよみがえられた時の話は、マタイによる福音書にもルカによる福音書にもマルコによる福音書にも書かれてあります。それぞれに特徴がありますので、また読み比べてみられたら良いかと思います。

ヨハネによる福音書ではマグダラのマリアが、イエスさまの遺体が葬られている墓を訪ねます。イエスさまが十字架につけられて天に召されます。アリマタヤのヨセフが、イエスさまの遺体を預かり、そしてイエスさまを新しい墓に葬ります。そして安息日がおわった日曜日の朝に、マグダラのマリアがイエスさまのお墓にやってきます。墓の入口には大きなあったのですが、その石は取りのけられて、墓に入ることができました。しかし墓の中にはイエスさまの遺体がありませんでした。

それでマグダラのマリアはあわてて、イエスさまのお弟子さんのシモン・ペトロのところに行きます。そしてペトロとイエスさまが愛しておられたもう一人の弟子に、「イエスさまの遺体が墓から取り去られてしまいました。どこにあるのか、私たちにはわかりません」と報告します。

それを聞いたペトロともう一人の弟子が、イエスさまの墓に行ってみます。イエスさまの墓の中を、ペトロがのぞいてみるわけですが、しかしイエスさまの遺体はありません。イエスさまの遺体をくるんでいた亜麻布が残されていました。もう一人の弟子も入ってきて、そのことを確認します。しかしペトロももう一人の弟子も、イエスさまが復活をされたのだということがわかりませんでした。とまどいつつ、二人は家に帰ってきます。

そのあとマグダラのマリアが、よみがえられたイエスさまに出会います。こちらはすこし聖書を読みながら、みていきたいと思います。ヨハネによる福音書20章11ー14節にはこうあります。【マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。】。

マグダラのマリアは墓の外で泣いていました。墓の中に、二人の天使がいるのが見えました。天使は墓の中から、マグダラのマリアに、「どうして泣いているのか」と話しかけます。マグダラのマリアは、「この墓に納められていたイエスさまの遺体が無くなってしまい、どうしたらよいのか分からないからです」と答えます。そのとき、マグダラのマリアは人の気配を感じます。そして振り返ると、イエスさまが立っておられました。しかしマグダラのマリアにはその人がイエスさまであることがわかりません。

ヨハネによる福音書20章15−16節にはこうあります。【イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。】

イエスさまはマグダラのマリアに話しかけます。「どうして泣いているのか。だれを捜しているのか」。マグダラのマリアは墓の管理人に話しかけられていると思います。墓の管理人がイエスさまの遺体をどこかに移したのだと思い、「あなたがあの方を運んだのなら、どこに置いたのか教えてください」と言いました。

イエスさまは「マリア」と、マグダラのマリアの名前を呼ばれました。いつも呼ぶように、マグダラのマリアを呼んだのです。そのとき、マグダラのマリアは、その人がイエスさまであることに気がつきます。そして「先生」と、イエスさまに答えます。

ヨハネによる福音書20章17−18節にはこうあります。【イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。】

イエスさまは自分にすがりつこうとしているマグダラのマリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。そしてマグダラのマリアは、弟子たちのところに行って、よみがえられたイエスさまに出会ったことを伝えました。また「イエスさまは『わたしは神さまのところに、わたしはいく』」と言っておられたと、弟子たちに伝えました。

イエスさまが十字架につけられる受難の物語は、とても激しく、叫び声が聞えてくるような物語です。それに比べて、イエスさまがよみがえられる復活の物語は、とても静かな物語のような気がします。

受難の物語は、群衆が「十字架につけろ。十字架につけろ」と激しく叫びます。「十字架から降りて自分を救ってみろ」「他人を救ったのに、自分は救えない」。十字架の上で苦しむイエスさまに対して、人々やユダヤの指導者たちはののしりの言葉をかけていきます。

しかし復活の物語は、とても静かです。天使たちやイエスさまはマグダラのマリアに静かに呼びかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使は、マグダラのマリアに呼びかけます。イエスさまもまたマグダラのマリアに呼びかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」「マリア」「わたしにすがりつくのはよしなさい」。

人はどのようにして、困難な出来事の中から立ち上がっていくことができるのか。どのような支えがあることによって、人は立ち直っていくことができるのか。今福章二編『文化としての保護司制度 立ち直りに寄り添う「利他」のこころ』(ミネルヴァ書房)を読みました。保護司というのは、犯罪や非行をした人々の立ち直りを助け、その再犯を防ぎ、新たな被害者を産まない安全・安心な地域社会づくりに貢献をする民間のボランティアです。保護司は人が立ち直るのを助けるのが仕事です。この本の中で、東畑開人(とうはた かいと)という臨床心理学者が、「ケアとセラピー」ということを書いていました。(『こころのケアとは何かー寄り添いあいと世間知』)。

心の援助とか対人支援あるいは人間関係には、「ケア」という関わり方と「セラピー」という関わり方の二種類があると、東畑さんは言います。東畑さんは、「ケアとは傷つけないことである」と言います。雪だるまはとけてしまうので、どんどんと傷ついてしまう。雪だるまをケアするとき、雪だるまがとけないように、氷を運んできたり、冷風をかけてあげたりする。「セラピー」というのは、傷つきと向かい合うことです。どこまでもケアをするということはできないですから、雪だるまと話しあいます。「雪だるま君、ここにいると溶けてしまう、冷蔵庫のところに行ってみないか。冷蔵庫の中だったら、君は溶けないで済むはずだ」というように、現実に直面させるわけです。「ケア」が依存を引き受けることだとすると、「セラピー」は自立を促すということです。自立を促すけれども、寄り添っている人が周りにいるのです。寄り添っている人がいることによって、人は自立をしていくことができるのです。「ケア」と「セラピー」はどういう関係になっているのかと言いますと、「ケア」が先で、「セラピーが後になります。「ケア」のないところの「セラピー」は暴力になってしまいます。「ケア」が十分に足りていないのに、「セラピー」をすると失敗してしまう。失敗したので、また「ケア」に戻ってやり直す。「ケア」と「セラピー」はぐるぐる回るわけです。まあ人はそう簡単に立ち上がることができるようにはならないのです。

マグダラのマリアのところに現れるイエスさまは、マグダラのマリアに寄り添い、そして自立を促します。泣いているマグダラのマリアにやさしく語りかけ、そして「わたしにすがりつくのはやめなさい」と自立を促します。そしてマグダラのマリアは立ち上がるのです。復活の物語のなかに、「ケア」と「セラピー」が描かれていて、なかなか興味深い話だなあと思いました。

いつまでも依存をしていては、立ち直ることはできません。「わたしにすがりつくのはやめなさい」というイエスさまの言葉は、印象的な言葉です。立ち直るためには、自分で立ち上がるということが大切なのです。しかし立ち直るためには、やはりやさしい言葉が必要なのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」「マリア」というイエスさまの言葉は、マグダラのマリアにとってイエスさまのやさしい声だったのです。いつものやさしい声で「マリア」という名前を呼ばれたときに、マグダラのマリアはその声の主が、イエスさまであることに気がついたのでした。

私たちもまた、いろいろな悩みや迷いのなかにあるときがあります。「立ち直れそうにない」というような気持ちになるときもあります。しかしそんなときも、イエスさまは私たちにやさしい声で語りかけてくださいます。私たちの名前を呼び、私たちに生きていく力を与えてくださいます。

イースター。私たちの救い主である主イエス・キリストがよみがえってくださいました。私たちの希望をとってくださり、イエスさまは私たちに先立って歩んでくださいます。そして私たちをやさしい声で導いてくださいます。イエスさまのやさしい声に導かれながら、イエスさまにふさわしい歩みをしていきたいと思います。



  

(2025年4月27日平安教会朝礼拝式・イースター)



4月13日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまの御国で生きる」

「イエスさまの御国で生きる」

聖書箇所 ヨハネ18:28-40。307/305。

日時場所 2025年4月13日平安教会朝礼拝・棕櫚の主日礼拝


平安教会は新島襄ゆかりの教会です。新島襄は群馬県の安中藩士でしたが、蘭学を学び、洋船の航海術を身につけるうちに、先進西欧諸国の動向に興味をもちます。そして函館から国外に脱出し、アメリカに渡りました。1864年のことです。1867年に「大政奉還」が行われ、明治が始まります。新島襄は、アメリカで熱心な会衆派信徒であり、米国伝道会社(アメリカンボード)の有力者であったハーディの助力を得て、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学びました。

5月に京都教区の定期総会が平安教会で開かれます。京都伝道150年ということで、そのときに米国伝道会社(アメリカンボード)の関連の方が来てくださり、共に礼拝を守ることになっています。歴史を感じますね。

新島はうまく船にのり、日本からアメリカに亡命したわけですが、頼る人はありません。そして英語もうまく話すことができませんでした。船の上で、ひとりの水夫が新島に問いかけました。「おまえさんここで何をしているんだ。どうしてまたこんなところにやって来たのかね」「教育を受けたいと思って」と、新島は答えました。「だけど、この国で学校教育を受けるには、どえらい金がかかるが、おまえさんお金はどこから手に入れるつもりかねえ」。「わかりません」、新島は単純に答えました。そしてだれもいないところで、新島はひざまづき、単純な信仰でありましたが、神さまにむかって祈りをささげました。「どうかわたしの抱いている大きな願いが、空しいものになってしまうことがありませんように・・・」。

新島がのっていた船の船長であったテイラーは、新島の話を船主であったハーディーにしました。彼はとにかく本人にあってみようと、妻と共に波止場にやってきました。しかし新島の片言の英語は、船の中ではやくにたちましたが、彼らには通じませんでした。そこで、ハーディー夫妻は、新島に自分の経歴、日本密出国の動機、これから先どうしようとしているのかを文章にして提出させることにしました。そのために新島を船員会館に連れていって、そこに宿泊させ、執筆のための時間を与えました。そこで新島は必死になって長文の手記を書きました。

新島は、Why I escaped Japan ? (なぜわたしは日本を脱出したのか)という長い手記を書きました。たどたどしい英語を駆使して、一生懸命に書いたことだろうと思います。できあがったこの手記には、新島がどんなに神さまのことを勉強したいかということがせつせつと書かれてありました。この手記が、ハーディー夫妻のところに届けられます。ハーディー夫妻はこの手記を読んで心を動かされます。ハーディー夫妻は、新島がはるばる日本から誰も頼るものがないのに、神さまのことを学びにやってきたということに感動したのです。新島は真剣に「真理とは何であるのか」ということを考えて、そして一生懸命に生きていたのです。そのことにハーディー夫妻は胸をうたれたのでした。

ハーディー夫妻は、はじめテイラー船長から新島の話をきいていたとき、「まあ家において家の手伝いなどをさせよう」というようなくらいに考えていたのです。しかしその考えを改めて、アンドーバーのフィリップス・アカデミーという名門と言われる私立学校に入れました。新島襄は当時のいわゆる偉人と言われる人々などと比べてみて、とてもラッキーな人でありました。しかしその真理を一生懸命に求める姿勢が新島になければ、やはりみんな新島を相手にはしなかっただろうと思います。新島には人を動かすほどの真理に対する真剣さがあったのです。そしてその真理に対する真剣さに多くの人々がうたれ、彼を援助してくれたのでした。

今日の聖書の箇所は、「ピラトから尋問される」という表題のついている聖書の箇所です。イエスさまは総督ピラトのもとに連れてこられて、尋問を受けられました。今日の聖書の箇所は、イエス・キリストの真理に対する誠実さと、総督ピラトのいいかげんさが明らかになる箇所です。イエスさまはカイアファのところでの尋問のあと、総督ピラトの官邸に連れていかれます。

あまりにユダヤ人たちがうるさいので、ピラトはイエスさまを尋問することにします。ピラトはイエスさまに対して「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問します。ピラトはイエスさまが、ユダヤ人たちが言うように、ユダヤ人の王としてローマ帝国に反乱を起こそうとしているとは思っていません。ユダヤ人たちがうるさいから形式的に尋問を行っているにすぎないのです。この問題に関して、ピラトはどうでもいいのです。

イエスさまは、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。しかしこうしたイエスさまの言葉も、ピラトには青くさい説教にしか聞えません。ピラトはイエスさまに「真理とは何か」というふうにつぶやきます。

ピラトにとってイエスさまの裁判は、ふってわいた面倒な事件です。ユダヤ人の内輪のもめ事なのだから、ユダヤ人同志で解決してほしいというふうに、何度もピラトは言います。ピラトにとって大切なことは、自分の治めているユダヤが安定していることです。できるだけ不穏な動きがないほうがいい。なるべく事件などが起こらないように、うまく支配するというのが、ピラトに課せられた使命です。そしてそのように行うことによって、ローマ帝国の中央からのピラトに対する評価が、高くなるわけです。ですからピラトは群衆をなだめるような提案をしてみたり、それがだめであるなら群衆の意にそうようにしてやったりします。そこではイエスさまに罪があるかどうかなどということは、関係がないのです。無実であることがわかっていても、イエスを解放することで騒ぎが起きるのであれば、イエスを解放することはしないのです。ピラトにとってみれば、イエスなどは群衆やユダヤの指導者との取り引きのための道具でしかないのです。

政治の世界にまみれているピラトにとっては、本当に正しいことが何であるのかということなど、どうでもいいことでした。ピラトはイエスさまに対して「真理とは何か」というふうにつぶやきました。それはイエスさまに「真理とは何か」ということを尋ねているのではありません。ピラトは「真理などというものがあるのか」というふうにつぶやいているのです。ピラトにとって、本当に正しいことが何であるのかということは、どうでもいいことでした。そしてもう一歩進めて、ピラトは「真理などというものが、そもそもあるのか。そんなものはありはしない」というふうに言っているのです。そして真理がどうのこうの言っているイエスさまに対して、「おまえは本当にそんなことを信じているのか」というふうに言っているのです。

「真理などあるのか」というピラトのつぶやきは、ある意味で正当なものであると思います。ピラトのまわりを見回しても、たしかに真理などと呼べるものはないからです。あくどいことをしても、権力を握ってしまえばこっちのものという政治の世界において、真理などあるはずはありません。しかしピラトの周りだけでなく、イエスさまの周りにも、真理などないように見えます。勝手に律法を解釈して、人々を苦しめている律法学者たちやファリサイ派の人たち、権力者にすぐに扇動されてしまう群衆たち、イエスさまを信じるといいながら裏切っていくイエスさまの弟子たち。イエスさまの周りにも、やはり真理などないように思えます。だれも真理など求めていない。私たち自身のことを振り返ったときも、同じような気がします。私たちもやはりピラトのように「真理などあるのか」というふうにつぶやいてしまうことがあります。私たちはいくら正しいことを言っていても、だれからも認められなかったりします。そんなとき、真理などよりも武力や政治力のほうが結局頼りになるというふうに思ってします。そして「真理などあるのか」とつぶやいてしまいます。

しかしこの絶望の中にあっても、イエスさまは真理を求めることの力強さを示しておられます。いまどんなに絶望の中にあっても、必ず真理につく者が出てくる。そしてイエスさまの言葉にしっかりと耳を傾ける者が出てくることを、イエスさまは確信しておられます。イエスさまが希望を失うことがなかったのは、それはイエスさまが真理に依り頼んでいたからでした。イエスさまが武力や権力に頼っていたのであれば、捕えられたときに、イエスさまは失望するしかありませんでした。武力や権力はかならず崩れさって行くものです。しかし真理に依り頼んでいる限り、神さまはイエスさまを見捨てられることはなく、かならず守ってくださることを、イエスさまは知っておられたのです。イエスさまは自分がこの世に属するのではなく、ほかの国に属していると言っておられます。イエスさまは神さまの国に属しておられるのです。そこでは武力や権力によって支配されているのではありません。イエスさまの御国は真理が満ちている国なのです。

はじめにお話ししました新島襄を支えたのは、権力でも政治力でも武力でもありませんでした。英語も満足に話せない日本人を援助することなど、現実としてみれば、望みのないことです。しかし新島襄が真剣に真理を求め、神さまのことを学びたいという願いに感動して、援助してくれる人々がいたのです。新島襄はアメリカから帰国して、同志社大学をつくりました。そして私たちの教会である平安教会も建てられたのです。

私たちはこの世でなんとなくあきらめるのではなく、やはり「真理とは何か」「神さまのみ旨とは何なのか」と、真剣に問うていくことが大切なのです。そしてこの世ではなく、真理に満ちたイエスさまの御国で生きようと望むことが大切なのです。

今日は棕櫚の主日です。私たちの主イエス・キリストは、子ろばにのって、エルサレムにやってこられました。ヨハネによる福音書12章12-15節にはこうあります。【その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」】。イエスさまは軍馬にのって、エルサレムにやってこられたのではありませんでした。イエスさまは子ろばにのって、私たちのところにやってきてくださったのです。

棕櫚の主日から、受難週に入ります。子ろばにのって、私たちのところにやってきてくださったイエスさま。そして弟子たちから裏切られ、人々から蔑まれ、嘲られながら、私たちの罪のために、十字架についてくださったイエスさま。イエスさまの御苦しみを覚えながら、私たちも力ではなく信仰によって生きる神さまのみ国に生きる者でありたいと思います。



(2025年4月13日平安教会朝礼拝・棕櫚の主日礼拝)



4月6日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまの杯、苦い杯」

「イエスさまの杯、苦い杯」

聖書箇所 マタイ20:20ー28。313/301。

日時場所 2025年4月6日平安教会朝礼拝式


大山崎美術館に「松本竣介 街と人 ー冴えた視線で描くー 展覧会」を見にいきました。桜の季節だからでしょうか、この季節は大山崎美術館は月曜日も開いていたので、桜も見ることができるかと思い出かけました。松本竣介についてはほとんで知りませんでした。

松本竣介(まつもと・しゅんすけ)は明治から昭和にかけて活動した洋画家です。美術雑誌の『みづゑ』は、1940年に軍部による座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」を掲載します。それに対して、松本竣介は『みづゑ』の社長に、反論を書きたいとかけあいます。そして1941年に『みづゑ』の4月号に「生きてゐる画家」という文章を発表します。その後、陸軍省情報部の黒田千吉郎中尉からの再反論の「時局と美術人の覚悟」という文章が、『みづゑ』に掲載されます。この時代に軍部に対して、反論をするというのは、なかなか勇気のいることだっただろうと思います。松本竣介は戦争中に戦意高揚のポスターを描いたりしているので、抵抗の画家というような人でもなかったようです。松本竣介のおつれあいの松本禎子(まつもと・さだこ)さんは、松本竣介について、こう言っています。【「皆様がたいへんお褒めくださるものですから、なにも知らない京子などは、"いやだ、人間じゃないみたい、神様みたい"と申すんでございますが、竣介はいたって平凡な、平凡すぎる常識人でございました。わたくしは以前、芸術家といえば飲んだくれたり、暗い顔して悩んでいたり、女房を顧みなかったりといった人たちのことだと思っておりましたが、まるで逆で、この人ほんとに芸術家かなと思ったほどでございます。】。まじめな常識人であった松本竣介も、戦争中、言わずにはいられないと思えることがあったわけです。自分が画家としてしっかりと立ち、そして国家からの干渉を受けて、志が曲がってしまうようなことではだめだというような思いをもっていたのだろうと思います。

人は誘惑に陥りやすいですから、少々志に反したことをしても、立身出世であるとか、自分の生活が守られることのほうが大切だという気になることもあります。また人間、いつもいちうも強いわけではないですから、このときは立派に生きることができたということもあれば、あのときはなんかダメな人間だったなあと思えるときもあります。神さまの前に、いつもいつもすばらしい人間であることができるのであれば、それにこしたことはないわけですが、しかしまあそういうわけにもいかないという人間の弱さがあるわけです。今日の聖書の箇所にもそうした弱さを抱えて生きる人たちが出てきます。

今日の聖書の箇所は「ヤコブとヨハネの母の願い」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書20章20−21節にはこうあります。【そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」】。

この聖書の箇所は、同じような話が、マルコによる福音書にも書かれてあります。マルコによる福音書10章35−45節です。新約聖書の82頁にあります。ここの表題は「ヤコブとヨハネにの願い」となっています。今日の聖書の箇所は「ヤコブとヨハネの母の願い」です。ヤコブとヨハネのお母さんが、イエスさまにお願いをしたという話になっているわけです。

ゼベダイの息子たちというのは、ヤコブとヨハネです。ヤコブとヨハネのお母さんが、ヤコブとヨハネと一緒に、イエスさまのところにきて、ひれ伏します。そしてなんか願おうとしているわけです。すぐに願いを言ったというのではなく、言ってもいいかなあ、だめかなあと思いながら、イエスさまの前にひれ伏しているということです。まあそれで、イエスさまが「何が望みか」と、お母さんに声をかけます。そこで彼女はイエスさまに言うわけです。イエスさまが王座にお着きになられる時には、わたしの息子たちであるヤコブとヨハネを、一人は右に、一人は左に座れるようにしてほしいというのです。まあ「右大臣・左大臣にしてほしい」ということです。あからさまなお願いであるわけです。ほかの弟子たちを差し置いて、自分の息子たちをとりたててほしいというわけです。まあイエスさまがえらい王さまになるとしても、ほかにも弟子たちがいるわけですから、そう簡単にそんな話が通用するはずのない話であるわけです。

マタイによる福音書20章22−23節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」】。

まあお母さんに連れられて立身出世のお願いのために、イエスさまのところにやってくるヤコブとヨハネも、まあどうかしているわけです。よくもまあそんな恥ずかしいことをするなあと思うわけですが、しかしそうしてことだけでなく、ヤコブとヨハネは根本的なことがわかっていないのです。ヤコブとヨハネは、イエスさまが人々を支配する王さまになるに違いないと思っています。しかしイエスさまは十字架につけられる道を歩んでおられるのです。今日の聖書の箇所の前の聖書の箇所には「イエス、三度死と復活を予告する」という表題のついた聖書の箇所であるわけです。イエスさまはこの聖書の箇所ではっきりと言っておられます。【今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。】。そして今日の聖書の箇所になるのです。

イエスさまは「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」とヤコブとヨハネに訪ねます。この杯というのは、イエスさまが十字架につけられて殺されたように、あなたたちもまたわたしのように迫害を受け、殺されることになるかも知れないけれども、それでもわたしに付き従ってくるかということです。ヤコブとヨハネは元気よく「できます」と答えるわけですが、しかし彼らはわかってはいないのです。しかし彼らがわかっていようがわかっていまいが、彼らはイエスさまと同じ道を歩むようになると、イエスさまは二人に言われます。そしてわたしの右と左に座るのはだれかというのは、わたしが決めることではなく、神さまがお決めになることだと、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書20章24−28節にはこうあります。【ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」】。

登場人物はイエスさまとヤコブとヨハネとおかあさんの4人だったのに、どうしてその話が伝わっていくのかなあと思うわけですが、まあこういう話はだれかが見ていたりして、伝わっていくわけです。そしてみんな、ヤコブとヨハネのことで腹を立てるのです。イエスさまのお弟子さんたちはみんな、自分が出世したいと思っているのです。意外に向上心のある人たちであるわけです。

イエスさまは弟子たちを諭されます。あなたたちも知っているだろう。強い外国の国では支配者たちが民を支配して、偉い人たちが自分たちの思うがままに権力を振るい、人々を苦しめている。それをあなたたちはどう思う。ひどい話だと思うだろう。ろくでもない人たちだと思うだろう。だからあなたたちの間ではそうではなく、偉くなりたい者はみんなに仕える人になってほしい。外国の支配者たちのようにはなってほしくない。いちばん上になりたい者は、みんなの僕になってほしい。だからわたしは仕えられるためではなく仕えるために、この世に来たのだ。そしてわたしはなんども話しているように、十字架につけられる。わたしが世の人々の罪をあがなって、十字架につけられる。そのことによって、神さまは人間の罪を贖ってくださるのだ。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

イエス・キリストは私たちの罪のために十字架についてくださいます。私たちの身代わりとなって、御子イエス・キリストが罰を受けてくださいます。そのことによって、私たちは神さまの前に罪赦された者として、永遠の命に預かる者として生きていくことができるのです。イエスさまの弟子たちは、このとき何もわかっていませんでした。自分が出世するためにはどうしたら良いだろうかというようなことを考えていました。しかしイエスさまが十字架につけられ、そして三日目によみがえられたイエスさまに出会うことによって、弟子たちは自分がどんなに神さまから離れたところを生きているのかということに気づきます。そして弟子たちは、イエスさまに従って歩むことを望みます。

イエスさまな杯は苦い杯でした。イエスさまはヤコブとヨハネに「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われました。ヤコブとヨハネは「できます」と答えます。「イエスさまの言われる杯の意味もわからず、『できます』と答えるヤコブとヨハネはだめなやつらだ」というふうに思うわけですが、しかしそれでもヤコブとヨハネはのちに、イエスさまの苦い杯を飲む生き方をしたのでした。まあ人生とはわからないものであるわけです。あのときはイエスさまがから「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われたとき、まったく意味もわからず、「できます」と答えたけれど、でもそう答えて良かったような気がすると、ヤコブとヨハネはのちに思ったのではないかと、わたしは思います。「できます」とイエスさまの前で答えたのだから、わたしはやはりどんなことがあっても、イエスさまに付き従っていくという思いになったのではないかと思います。

神さまの導きは、どんな形でいつ行われるのかというのは、人間にはわからないところがあります。私たちは人間ですから、完璧に生きられるというわけでもありません。弱さを抱えていますから、ヤコブやヨハネのように恥ずかしいことをしてしまうかも知れません。やっぱりこの世のことも大切だよねと思うこともあるでしょう。曲がったことをしてしまうかも知れません。あるいは思い立って、自分が考えている以上に、正しい道を歩んでいくことになるというようなこともあります。あのときは正しい道を歩むことができたけれど、今回はどうもよくない道を歩んでいるような気がすると思えるときもあるかも知れません。

弱さや悩みを抱える私たちですが、しかしイエスさまの弟子たちがそうであったように、私たちには帰ってくる場所があるのです。私たちはイエスさまのところに帰ってきます。そしてイエスさまが私たちに教えてくださった道はどういう道であったのかと振り返ることができるのです。

イエスさまは私たちに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われました。あなたたちは迷ったなり、不安になったりするけれども、でも神さまはあなたたちのことを見ておられる。だからあなたたちは皆に仕える生き方をしてほしい。自分が高慢になり、人をつかおうとする生き方をするのではなく、皆に仕える生き方をしてほしい。わたしがそのように生きたのだから、あなたたちもまたそのように生きてほしい。あなたたちのなかにあるやさしい気持ちを大切にしてほしい。あなたたちのなかにある思いやりの気持ちを大切にしてほしい。

レント・受難節も第5週目を迎えました。来週は棕櫚の主日を迎えます。十字架への道を歩まれるイエスさまが、私たちを導いてくださっています。神さまの御心に適った歩みをしていくことができますように。やさしい気持ちになって、イエスさまに従って歩んでいきましょう。

  

(2025年4月6日平安教会朝礼拝式)


3月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「十字架のイエス・キリストに仕える」

「十字架のイエス・キリストに仕える」

聖書箇所 マタイ17:1-13。311/303。

日時場所 2025年3月30日平安教会朝礼拝・受難節第4週


『私にとって「復活」とは』という本の中に、科学史家の村上陽一郎さんが「永遠のいのち」という題で、エッセイを書いています。

村上陽一郎さんは、その本の中で、【「復活」という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる】と書いておられます。村上陽一郎さんは科学史家ですから、科学についてよく知っておられる方です。一般的に科学と宗教は対立するような印象を受けるわけです。しかし村上陽一郎さんは、【「復活」という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる】と、きっぱりと言いきっておられます。どうして村上さんがそう信じることができるようになったのかということですが、それは一つの詩に出会ったからです。【復活」という点に関しては、今私はほぼ確信を持っていると書くことができる。その確信に導いてくれたのは、神学者の高等な言説でもなければ、神父の感動的な説教でもなかった。それは一篇の、短い詩であった】(P16)。

その詩は、G・M・ポプキンズという19世紀のイギリスの詩人の詩です。ポプキンズは、カトリックの信仰を持つ司祭です。村上さんはポプキンズの『自然はヘラクレイトスの火、復活の慰めについて』という詩によって、復活についての確信を得ることができました。

村上陽一郎に復活についての確信を得させることができた、G・M・ポプキンズの『自然はヘラクレイトスの火、復活の慰めについて』という詩とは、いったいどんな詩なのか。


わたしも復活についての確信を得たいと思い、わたしはその詩を探す旅に出ました。3月3日(木)の午後から、関西国際空港からイギリス行きの飛行機にのって、飛び立とうと思いましたが、とりあえず高槻市の図書館に、ポプキンズの詩集があるのではないかと思って、天神山図書館に行きました。図書館で調べると、ピーター・ミルワード、緒方登摩編『ポプキンズの世界』(研究社出版)という本の中に、『自然はヘラクレイトスの火、復活の慰めについて』という詩を見つけることができました(P173)。


このポプキンズの詩は、ちょっと長いので、紹介するのは、また別の機会とさせていただきますが、村上さんはこの詩の最後のところに、こころ打たれたそうです。【この凡夫(ぼんぷ)、凡句、とるに足らぬ陶器のかけら、木屑、すべては不滅のダイアモンド、そう 消えることのないダイアモンドなのだ】。もう少し前から紹介いたしますと、【ひとたびラッパが鳴り響けば、私はたちまちキリストとなる、かつてキリストは今の私だったのだ。ならば】【この凡夫(ぼんぷ)、凡句、とるに足らぬ陶器のかけら、木屑、すべては不滅のダイアモンド、そう 消えることのないダイアモンドなのだ】。たとえ平凡な人生で、誰からも注目されることない人生であったとしても、その一人一人の人生は、キリストに祝福された人生だ。そしてその人生は神さまの中に記憶されている、かけがえのないダイヤモンドのようなものなのだと、ポプキンズはこの詩で歌ったのでした。

村上さんはほかの本のなかで、こんなふうに書いています。【存在したものは、有名であろうと無名であろうと、善であろうと悪であろうと、小さきものであろうと、大きな存在であろうと、美しい曲や絵画であろうと、平凡、凡庸な作品であろうと、名言であろうと、陳腐な言説であろうと、とにかく何であろうと、存在したものは、今も存在する。それは一種の「神秘体」(コルプス・ミスティクム)のなかに加えられて、朽ちることなく、その一員を構成する。ものやこと、そして人が、この世の表面から消えて、朽ち去ったとしても、その「記録」はその神秘体のなかに残る、残らざるをえない。それが「世界」である。その記録の神秘体のなかにわれわれも永遠に生き続けられる、というよりは生き続けなければならない宿命にある、そんな風に考えられるのではないか】(P237)(村上陽一郎『生と死への眼差し』、青土社)。

村上さんは、とにかく何であろうと、存在したものはすべて、神さまの中に存在しているのだと言っています。すべてのものは神さまのなかに生きていると言っています。私たちはそういうかけがえのない人生を送っています。そして私たちは永遠に神さまの中に生き続けるのです。

どんな平凡な人生であってもかけがえのない人生であり、神さまから祝福され、神さまによって覚えられている人生である。とても幸せなことだと思います。それだけで充分であると思えるわけですが、しかしそれでも私たちは、やっぱり有名になりたいとか、自分が特別に評価されたいというような思いをもったりします。自分だけがすばらしいものに出くわしたいとか、すばらしいものにあやかりたいとか思ったりします。

今日の聖書の箇所は「イエスの姿が変わる」という表題のついた聖書の箇所です。「山上の変貌」といわれる聖書の箇所です。マタイによる福音書17章1−3節にはこうあります。【六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた】。

イエスさまは弟子たちのうち、ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて、山に登られました。ペトロたちにしてみれば、「おお、おれたちだけが特別に選ばれている」というふうに思えたことだと思います。「やっぱりおれたちは特別だ。となると、イエスさまが王さまになられたときには、おれが右大臣か左大臣だなあ」というふうに思えたことでしょう。そして実際ペトロたちは、その山の上ですばらしいと思える出来事に出会うわけです。イエスさまの姿が光り輝き、そしてモーセとエリヤが現れ、イエスさまと語り合います。モーセは出エジプトという偉大な出来事を行った偉人です。そしてエリヤもまた偉大な預言者です。エリヤはは世の終わりのときに救い主が現れる前に現れると言われています。そんな偉人と一緒にイエスさまが三者会談を開いておられるわけです。ペトロは「さすが、イエスさまだ」と思えたことでしょう。

マタイによる福音書17章4節にはこうあります。【ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」】。

ペトロは自分も選ばれて、この三者会談の仲間に入れてもらっているような気になったのでしょう。それですかさず、「口をはさむ」わけです。ペトロは「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」といいます。「わたしたち」というふうに言うわけです。モーセとエリヤとイエスさまと、そしてヤコブやヨハネはともかく、わたしペトロを入れた、「わたしたち」ということです。仮小屋というのは、まあ記念碑のようなものでしょう。ペトロにしてはとても気の利いたことを言うなあと、わたしは思います。わたしなどはたぶんこんな出来事に居合わせても、ニコニコ、笑っているだけでしょう。

マタイによる福音書17章5ー8節にはこうあります。【ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった】。

ペトロは気の利いたことを言ったつもりになっていましたが、実際にここで起こっている出来事は、そういうことでもなったようです。光り輝く雲が彼らを多い、そして天からの声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。ペトロたちは恐ろしくなって、ひれ伏します。ペトロたちがふるえていると、イエスさまがペトロたちに近づき、声をかけました。「起きなさい。恐れることはない」。ペトロたちが顔を上げると、モーセもエリヤもいなくなっていて、イエスさまだけがおられました。

マタイによる福音書17章9−13節にはこうあります。【一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った】。

イエスさまはこの出来事を話してはならないと言われました。それはイエスさまが十字架につけられて殺され、復活されるまで隠されている出来事であると、イエスさまはペトロたちに言われました。それは、十字架と復活の出来事を通して見なければ、この出来事は理解できない出来事であるということです。十字架と復活の出来事を通して見なければ、誤解されてしまう出来事であるということです。たしかにイエスさまはモーセやエリヤと共にいてもおかしくはない人であるのだけれども、それは単にえらい人たちとイエスさまが一緒におられるということではない。それでは単なる英雄物語になってしまう。十字架と復活の出来事を通して見なければ、誤った英雄賛美に陥ってしまうということです。

弟子たちは救い主に先立ってやってくるエリヤの話をしたときに、イエスさまはエリヤはもう来たのだと言われました。そしてそのエリヤを人々は認めようとせず、彼を苦しめたのだと、イエスさまは言われました。それを聞いた弟子たちは、洗礼者ヨハネのことをイエスさまが言っておられるのだと、気がつきました。そして洗礼者ヨハネがヘロデによって殺されたように、イエスさまもまた人々から苦しめられることになるということを、弟子たちは感じ始めます。

イエスさまとモーセとエリヤは、いったい何を話していたのでしょうか。皆さんは、いったいイエスさまとモーセとエリヤは、どんな話をしておられたと思いますか。それは聖書には書いていないので、想像するしかないわけです。わたしはたぶんこんな話だろうと思います。

(モーセ)「イエスさま、あんたもこれからたいへんやなあ。十字架につけられるやなんて」。(イエス)「たいだいなんでいつも人間は、神さまが思っておられることを預言者が伝えると、なんでその預言者を殺しにかかるんやろ」。

(モーセ)「そやなあ、エリヤさんと時も、そうやったやないか」。

(エリヤ)「ああ、ほんと。わしも迫害されてたいへんやったわ」。

そこに何もわからないペトロが横から口をはさんで、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言う。

(モーセ)「なんやこいつ。イエスさん、あんたも大変な弟子をかかえとるなあ。こいつ、ぜんぜん、わかっとらんやないか」。

(エリヤ)「でもモーセさんがエジプトから導き出した民も、同じような感じやったでえ」。

たぶん、こんな話をしていたのだと思います。

モーセは律法を、エリヤは預言書を代表する人物です。イエスさまは旧約聖書の教えを引き継いで、神さまの救いの業を行われます。そしてモーセもひどいめにあったし、エリヤもひどいめにあった、そしてイエスさまもまたひどいめにあわれるのです。たぶんモーセとエリヤとイエスさまが集まって話をされるというのであれば、「神さまの御用をするのは大変だった」という話になるだろうと思います。

ペトロは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という天からの声を聞いたわけですが、それじゃあ、「これ」って、一体何なのでしょうか。それは十字架につけられるイエスさまということです。光り輝くイエスさまではなくて、十字架につけらえるイエスさまのことです。栄光の出来事に見えたモーセもエリヤも消え去り、結局、ペトロたちの前に立っていたのは、十字架につけられるイエスさまでありました。モーセやエリヤは消え去ってしまうのです。

ペトロにとってモーセとエリヤと一緒にいた光り輝くイエスさまは、とても魅力的な人に見えました。わたしも仲間に入れてもらいたいと思えるすばらしい人に見えたのです。わたしも仲間に入れてもらって、モーセさま、エリヤさま、イエスさま、ペトロさまと言われたい。「ペトロさま」なんて、すばらしい響きだろうと、ペトロはそのとき思ったのです。しかしペトロの人生にとって、この出来事が大切な出来事であったかと言うと、あんまり意味のある出来事ではありませんでした。ペトロが人生を振り返って、自分にとって大切な出来事とは何なのかと考えたとき、たぶんペトロは、光り輝くイエスさまの姿ではなく、十字架につけられてぼろぼろになっているイエスさまの姿こそが、わたしにとって意味のあることだったと答えるでしょう。ペトロを救ってくださったのは、光り輝くイエスさまではなく、十字架の上で苦しまれるイエスさまでした。そしてペトロは生涯、十字架につけられたイエスさまに付き従って歩んだのでした。

ペトロは「あなたの上に教会を建てる」と言われ、初代教会の頭とされた人です。聖ペトロであるわけですから、ペトロはカトリックの聖人で、カトリックの法王はずっとペトロから天国の鍵を譲り渡されているということになっています。ある意味で、ペトロは歴史に名を残すりっぱな人になったわけです。しかし聖書を読む限りにおいて、ペトロは自分が特別にりっぱな人間であると思っている様子はありません。ペトロは光り輝くイエスさまを追い求めたのではなく、十字架についてくださったイエスさまを証しして生きたのでした。聖書に書かれてあるペトロの姿は、まさに「凡夫」(ぼんぷ)です。いろいろな失敗をし、恥をさらしています。しかし不思議なことですが、聖書をよむときに、ペトロの大失敗さえも、「不滅のダイアモンド」に思えてきます。

私たちはなかなか欲張りですから、「あれもほしい」「これもほしい」「あいつがもっているのに、おれがもっていないのはおかしい」、地位も名誉も財産も、永遠の命も、みんなみんなほしいと思います。「このことだけで、充分だ」というふうには、なかなか思えません。使徒ペトロもそうだったと思います。「ペトロさま」と呼ばれたい、そう思っていました。しかしペトロは十字架のイエス・キリストに出会いました。そして十字架のイエス・キリストに出会ったことだけで充分だと思うようになりました。

いろいろなものは色あせていくけれども、イエスさまによって救われたということだけは、色あせてしまうことがない。光り輝くモーセやエリヤは消え去ってしまうけれども、十字架への道を歩まれるイエスさまだけは、いつも私たちと共にいてくださる。私たちは平凡な人間に過ぎないわけですが、神さまにとっては大切な一人です。神さまは私たちを救うために、独り子であるイエスさまを十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは取るに足らないものですが、しかし神さまにとってはひとりひとりがかけがえのないダイアモンドであるのです。そして私たちは、永遠なものである神さまにつながっているのです。

聖書は、「イエスのほかにはだれもいなかった」と記しています。私たちにとっては、この方だけで十分なのです。私たちはイエス・キリストによって、十分なものをいただいています。私たちは十字架のイエス・キリストに仕えて歩んでいきましょう。



(2025年3月30日平安教会朝礼拝・受難節第4週)


2025年3月27日木曜日

3月23日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「神さまの祝福を受けて生きる」

 「神さまの祝福を受けて生きる」

聖書箇所 マタイ16:13-28。298/306

日時場所 2025年3月23日平安教会朝礼拝・受難節第3主日


賀川豊彦は、大正・昭和期のキリスト教社会活動家です。世界的にも有名な日本のクリスチャンです。キリスト教と関係のないところでは、生活協同組合運動で重要な働きをされた方でした。日本生協連初代会長は、賀川豊彦です。

賀川豊彦はキリスト教社会運動家としてよき働きをされた方であるわけですが、賀川豊彦が若い時に書いた『貧民心理之研究』という本の内容がとても差別的であるということで非難されたりもしています。

工藤英一『明治期のキリスト教』(教文館)のなかに「賀川豊彦の学生時代」という文章があります。そのなかに賀川豊彦が『プラトン全集』を買うためにマヤス宣教師からもらったお金で自分の制服を買ったという話が出てきます。賀川豊彦の幼馴染みに二宮千鶴さんという方がおられて、その千鶴さんが東京の四谷荒木町の芸者屋にいることがわかります。賀川豊彦はいちど二宮千鶴さんを訪ねようと思います。賀川豊彦は昔、中学生だったときに学費をもらいに徳島の芸者のもとにいる兄のところを訪ねたことがありました。そしてそのとき賀川豊彦はとてもみすぼらしい服装で訪ね、とても恥ずかしい思いをしたことがありました。それで二宮千鶴さんを訪ねるときに、新しい制服で訪ねようと思いました。そして『プラトン全集』を買うといってマヤス宣教師からもらったお金で、新しい制服を注文してしまいます。注文した新しい制服を受け取ったとき、賀川豊彦はマヤス宣教師をだましたという良心の呵責(かしゃく)に苛まれることになります。悔やんだ賀川豊彦は出来たての制服を再びお金にかえて旅費にして、マヤス宣教師に赦しをこうためにマヤス宣教師のところに向かいます。そのとき賀川豊彦は死んでお詫びしなければならないというように思い詰めていたようです。賀川豊彦はしばらく放浪したあと、マヤス宣教師のもとを訪ね、マヤス宣教師はとても怒ったのですが、結局、賀川豊彦を赦します。

【この事件以後、賀川は極端なぐらい自分の服装についてかまわなくなります。あまりにひどい服装をしているので、高輪教会の婦人会のかたなどが、賀川に着物をおくっても、それを皆付近の乞食のおじさんや子供にやってしまう。新しい着物をあげても、いっこうに賀川がそれを着ないので、不審に思ってたずねてみても、賀川はそれは聞かないでくださいといってとりあわなかったということです】(P.164)(工藤英一『明治期のキリスト教』、教文館)。

賀川豊彦が学生のときの話であるわけですが、でも聖人と言われる賀川豊彦にも人間的な欲望があったんだなあと思います。でもその後、悔い改めて自分の服装にかまわなくなったというのは、ちょっと感心しました。もちろん賀川豊彦がその後、きれいな服を着ても別にいいわけです。そのことで賀川豊彦はだめな人だということにはならないと思いますが、やっぱりまじめな人だったんだろうなあと思います。人間ってだめなこともあるけれども、悔い改めて生き直そうという気持ちをもつことができるというのは、人間ってすてきだなあと思います。わたしは賀川豊彦のすばらしいと言われる数々の事業よりも、なんとなく賀川豊彦のだめなところとまじめなところが出ている、この賀川豊彦の服の話のほうに心ひかれます。

今日の聖書の箇所は「ペトロ、信仰を言い表す」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書16章13-14節にはこうあります。【イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」】。

イエスさまは弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられました。弟子たちは人々はイエスさまのことを「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」というふうに言っていると答えました。まあそれぞれに人間としてりっぱな人たちであるわけです。洗礼者ヨハネもエリヤもエレミヤもほかの預言者も、神さまから遣わされた人たちでした。

イエスさまは人々がどのように自分のことを言っているのかと問われたあと、今度は弟子たちに「あなたがたはどうなのか」と問われました。マタイによる福音書16章15-16節にはこうあります。【イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた】。

イエスさまは弟子たちに「あなたがたはどうなのか」と問われました。使徒ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。洗礼者ヨハネやエリヤやエレミヤやほかの預言者は神さまから遣わされた人ではあるわけですが、しかし彼らは人間です。りっぱな人であるわけですが人間であるわけです。使徒ペトロはイエスさまのことをそうしたいわゆるりっぱな人間ということではなく、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのでした。使徒ペトロは「イエスさまこそが私たちを救ってくださる救い主であり、生ける神の子です」と信仰告白をしました。

マタイによる福音書16章17-20節にはこうあります。【すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた】。

イエスさまは使徒ペトロの信仰告白を聞かれ、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われました。そして「あなたがこのようにわたしに対して信仰告白することができたのは、神さまのわざなのだ」と言われました。

この聖書の箇所はキリスト教において信仰告白ということを考えるときに、大切な聖書の箇所です。信仰告白というのは人間の業ではないのです。もちろん人間がすることなのですけれども、それは神さまの業であるということです。そういう意味で信仰というのは与えられるものなのです。神さまによって私たちは信仰告白をさせていただくということです。

私たちの信仰は神さまから与えられています。とても心強いことだと思います。ときに私たちは「こんな信仰で大丈夫なのだろうか」と思ったりすることがあります。でもやっぱり神さまから与えられた信仰を、「こんな信仰」と思わないほうがいいと思います。あるいは人から「あなたの信仰はなまぬるい」などと言われたりして、「わたしの信仰はなまぬるいかなあ」と心配になったりすることがあります。でも神さまから与えられている信仰を「なまぬるいかなあ」などと思わない方がいいと思います。私たちの信仰は神さまから与えられているのです。「わたしの信仰は神さまから与えられている」。とてもうれしいことです。私たちの信仰は神さまから与えられているのです。もしもわたしの信仰が「こんな信仰」であるのであれば、それは神さまが正してくださいます。本当に「なまぬるい信仰」なのであれば、それは神さまが正してくださるのです。

使徒ペトロは信仰告白をしたことによって、イエスさまからほめられます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われます。これはなかなか重大な使命です。重大な使命を受けて、使徒ペトロがしなければならないことはなんでしょうか。「わたしが天国の鍵を授かった」と言って、人々の上に立って裁き人となるということでしょうか。わたしにはそのようには思えません。重大な使命を受けた使徒ペトロがしなければならないこと、それは謙虚になるということでした。イエスさまから誉められた信仰告白も、それは使徒ペトロ自身の功績によるものではありません。使徒ペトロの信仰告白は、神さまから与えられたものだからです。

使徒ペトロが信仰を言い表すという話の直後に、マタイによる福音書には使徒ペトロがイエスさまから「サタン、引き下がれ」と言われたことが記されています。マタイによる福音書16章21-23節にはこうあります。【このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」】。

イエスさまが弟子たちに対してご自分の十字架と復活について話されたことを聞いて、使徒ペトロはイエスさまをいさめます。さすがに他の弟子たちのいる前ではなく、イエスさまをわきへお連れしたと聖書には記されています。使徒ペトロはイエスさまから「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われたわけですから、そのイエスさまは地上で立派な方として人々の上に君臨してくだされなければ困ります。せっかく信仰告白のことでイエスさまに誉めていただいたのですから、ペトロの出世はこれからです。それなのに、イエスさまが長老、祭司長、律法学者たちによって殺されてしまっては困ります。

そのような思いになってイエスさまをいさめる使徒ペトロに対して、イエスさまは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われました。いくら何でもサタン呼ばわりは使徒ペトロがかわいそうだろうと私たちは思います。しかしイエスさまは激しい調子で使徒ペトロを叱責なさいました。

使徒ペトロはイエスさまから誉められて、「ペトロ樣」になってしまい、謙虚さを忘れてしまったのでしょうか、イエスさまの言葉をしっかりと受けとめるということをしませんでした。もちろん使徒ペトロにはこれから起こるイエスさまの十字架と復活ということがわからなったもしれません。しかし普段のペトロであればわからないながらも、その言葉を心に留めるということはできたでしょう。しかし天国の鍵をもつ裁き人・ペトロ樣になってしまい、人間のことばかりを考えているペトロには、そのことができませんでした。

使徒ペトロは激しい調子でイエスさまから叱責されました。「サタン、引き下がれ」と言われました。使徒ペトロにとっては恥ずかしい出来事ですし、なさけない出来事であるわけですが、しかし自分を正してくださる方がおられるということはとても幸いなことです。イエスさまが使徒ペトロの信仰を正してくださったのです。私たちの信仰は、イエスさまが、神さまが正してくださるのです。

マタイによる福音書16章24-28節にはこうあります。【それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」】。

イエスさまは弟子たちにとてもきびしいことを言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。この世的なことを考えれば、イエスさまについていくということで、これから先、いいことがあるというわけではありません。まさに弟子たちは自分の十字架を背負うことになります。しかしイエスさまは「わたしに従うということは、この世的なことだけではないのだ」と言われます。イエスさまは世の終わりの時、終末のとき、あなたたちはわたしに従ったかどうかが問われることになると、イエスさまは言われます。

イエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。私たちは「自分を捨て」なければなりません。自分の正しさを捨てなければならないのです。使徒パウロは【知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです】(1コリント8章1−2節)(新約聖書の309頁)と言いました。私たちは「自分を捨て」なければなりません。

イエスさまは「自分の十字架を背負いなさい」と言われました。自分の十字架を背負うということは、イエスさまと同じ生き方をしなさいということではありません。私たちはそれぞれに追うべき、「自分の十字架」があるのです。自分の十字架があるわけですから、あまり人の十字架を気にしないことが大切です。「あの人の十字架は軽そうだ」。「あの人は一生懸命に自分の十字架を背負っていない」。そうしたことはわたしの十字架にはあまり関係のないことです。たしかなことはイエスさまについていくときに、私たちは自分の十字架を背負うということなのです。

信仰に生きるということは、どの方向に歩むのかということです。使徒パウロは自分は「目標をめざしてひたすら走っている」と言いました。フィリピの信徒への手紙3章12-16節の言葉です。新約聖書の365頁です。【わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです】。

使徒ペトロはりっぱな信仰告白を誉められ、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とイエスさまから言われました。しかしそのあとイエスさまが死と復活を予告されたとき、イエスさまをいさめ、そしてイエスさまから「サタン、引下がれ」と言われてしまいました。わたしは人間って、そんなものだと思います。

私たちは自分が使徒ペトロのようにだめな人間であることを知っています。イエスさまについていきたい。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまについていきたい。そのように思いながら、またいろいろな困難や誘惑の前に、どうしたらいいのかわからなくなります。しかしそんな私たちを神さまは捕えて導いてくださいます。

私たちは自分が使徒ペトロのようにだめな人間であることを知っています。そして使徒ペトロの生涯を通して働かれた神さまの祝福を、私たちは知っています。私たちはこのことに希望を置いているのです。使徒ペトロがだめな人間であったとしても、私たちがだめな人間であったとしても、神さまは私たちを豊かに祝福し、導いてくださるのです。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙3章12節で、【わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです】と言いました。キリスト教においては、「わたしが信じている」ということが大切なのではなく、【自分がキリスト・イエスに捕らえられている】ということが大切なのです。

私たちは神さまの祝福を受けて生きています。このことを喜びをもって受け入れ、キリスト者として神さまの祝福を一杯に感じて歩んでいきましょう。


(2025年3月23日平安教会朝礼拝・受難節第3主日)


2025年3月20日木曜日

3月16日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「悪魔はどんな顔でやってくる?」

「悪魔はどんな顔でやってくる?」 

聖書箇所 マタイ12:22-32。294/300。

日時場所 2024年3月16日平安教会朝礼拝式


2月に京都教区の教師一泊研修会がありました。講師は小西二巳夫牧師でした。新潟市にあります敬和学園高等学校で校長をされたあと、四国にあります清和女子中高で校長をされました。わたしより10歳くらい年上の方です。

小西二巳夫牧師は敬和学園に校長としてつとめるときに、周りの人からこのように言われるようになったら、敬和学園の校長をやめようと思っていたという言葉があったそうです。それは「先生の思いどおりにやってくださったらいいですよ」という言葉だそうです。校長になって自分の思いでやろうとするのですが、うまくいかないこともありました。「こうしよう」と思っても、周りの人たちから反対をされてできないこともありました。しかし粘り強くやっているうちに、成果が上がり、周りの人たちも、小西二巳夫校長の思いを汲んでくれるようになります。そして学校も良いように回っている。すると、周りの人たちが「先生の思いどおりにやってくださったらいいですよ」と言うようになります。まあまことに、小西二巳夫校長にとってはうれしいことではありますし、やりやすいことではあるわけです。しかし小西二巳夫校長は、そろそろ潮時だなと思い、敬和学園高校をやめることにしました。これ以上続けていると、自分の意見に賛成する人だけになり、自分が高慢になってしまう。小西二巳夫牧師は、そうそう高慢になるような方ではないと、わたしから見れば思うわけですが、しかし小西二巳夫牧師は高慢になる気配をおそれて、新しい歩みへと出発をされたということでした。赴任をされた清和女子中高は、キリスト教主義の中高ですが、経営的にもなかなか苦しい中高で、そこでいろいろと苦闘しながら歩んでいかれることになります。

マタイによる福音書の4章1節以下には「誘惑を受ける」という表題のついた聖書の個所があります。イエスさまが悪魔から誘惑を受けるというお話です。悪魔は人を誘惑するものであるわけです。近づいてくるものが悪魔であるということがはっきりしていたら、その誘惑にのることはないわけです。よく言われることに、「悪魔は黒い服をきて、角としっぽが生えている状態で現れるのではない」ということです。だれもが「ああ、悪魔だね」という姿で現れてくれるのであれば、「退け、悪魔」「退け、サタン」と言うことができるわけです。しかしそうではなく、とても親切な顔をして現れる悪魔もいるわけです。

怖い話ですが、ホスト倶楽部にだまされて、数千万という借金をつくってしまった女性の話などがニュースでながれたりします。「そんなホスト、悪魔だろう」というふうに、私たちは思うわけですけれども、まあだまされた本人にとっては、悪魔には見えなかったのだろうと思います。「いや、黒い服きて、角としっぽがはえている悪魔としか思えない」と、私たちは思うわけですが、「わたしは精神的に落ち込んでいた時に助けてくれた恩人なの」というような返事であったりするわけです。なかなか怖いなあと思います。微笑みながら近づいてくる悪魔もいるわけです。

今日の聖書の箇所は「ベルゼブル論争」という表題のついた聖書の箇所です。「ベルゼブル論争」などという表題がついていますと、「なんかむつかしすぎて、読む気がしない」というように思いますが、そんなに「論争」というような大したことが書かれてあるわけでもないのです。最後の、マタイによる福音書12章31−32節に書かれてあることは、「ちょっと、なんだかわからない」という気がするので、これがまたこの聖書の箇所をとっつきにくいものにしている原因のような気がします。

マタイによる福音書12章22ー24節にはこうあります。【そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った】。

イエスさまの時代は、病気にかかっている人は悪霊に取りつかれていると考えられていました。イエスさまは病気の人々をいやされます。それで人々は、イエスさまが神さまの力によって悪霊を追い出していると思いました。しかしファリサイ派の人々は、イエスは悪霊の頭だから、悪霊を追い出すことができるのだと言って、イエスさまのことを「悪霊の頭ベルゼブル」呼ばわりしたわけです。「ベルゼブル論争」と言うと、「ベルゼブル」って何だろうと思って、むつかしい気がしたわけですが、まあ答えがすぐに書いてあるわけです。「ベルゼブルは、悪霊の頭」であるわけです。まあ「サタン」ということです。「イエスさま、サタン呼ばわりされる」という表題でも良いような気がします。

マタイによる福音書12章25−30節にはこうあります。【イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。】。

ファリサイ派の人々から、「イエスは悪霊の頭ベルゼブルだから、悪霊を追い出すことができるんだ」と言われたので、イエスさまはファリサイ派の人々に、「そんなばかな話があるか」と答えるわけです。サタンがサタンを追い出すのであれば、内輪もめとなる。サタンは馬鹿じゃないから、そんなことをするはずがない。あなたたちの仲間も悪霊を追い出しているけれども、それじゃあ、あなたの仲間も悪霊なのか。そうじゃないだろう。わたしは神さまの霊で悪霊を追い出しているんだ。まず強い悪霊をやっつけて悪さをしないようにしたのちに、私たちの世の中を良いように整えて行こうとしているのだ。わたしに味方をしない、あなたたちは悪魔の仲間であり、わたしと一緒に神さまの国を作ろうとしないあなたたちは神さまのみ旨にかなったことをしようとしていないということだ。

マタイによる福音書12章31−32節にはこうあります。【だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」】。

この聖書の箇所はすこしわかりにくい聖書の箇所だと思います。なにがわかりにくいのかと言いますと、私たちはキリスト教の教えで、「三位一体」という教義を知っています。神さまとイエスさまと聖霊が一つであるという教義が、三位一体という教義です。それからすると、イエスさまに言い逆らう者は赦されるのに、どうして聖霊に言い逆らう者は赦されるのだろうという疑問がわいてくるからです。人の子というのは、イエスさまのことです。三位一体であるならば、聖霊に言い逆らうことがだめなら、イエスさまに言い逆らうこともだめなのではないかという疑問がわいてくるからです。しかしここでイエスさまが言われることは、人間はいろんなことで罪を犯してしまうし、神さまを冒涜するというようなことも、人間の弱さのゆえに行なってしまう。しかし神さまや聖霊の力が偉大であるということを信じないものは、それは赦されることのないことなのだ。というようなことでしょう。いくら自分に対して悪口をいったり、ばかにしたりしても良いけれども、しかし高慢になって神さまのことをないがしろにするような振る舞いは赦されないということだと思います。

イエスさまはファリサイ派の人々や律法学者たちと激しい論争をすることがありました。ファリサイ派の人々や律法学者たちの多くは、イエスさまのことを憎んでいます。この関係はなかなか修復し難いものでありました。お互いのことを、悪魔呼ばわりしているわけですから、なかなか大変です。そうした事情がありますから、イエスさまも「敵か味方か」というような話をしています。マタイによる福音書12章30節にはこうあります。【わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている】。あなたたちはわたしに味方するのか、敵対するのかというような感じであるわけです。

私たちはプロテスタントというだけあって、論争や対立することを好む傾向があります。プロテスタントというのは、「抗議する者」という意味です。抗議の声をあげているうちは良いですが、いつのまにか二つに一つというような構造ができあがり、敵か味方かというような雰囲気になり、ちょっと困ったなあというようなことになることがあります。いまのアメリカの政治情勢は、まったく二つに分かれてしまっている状態で、「敵か味方か」というような感じになってしまっていると言われたりします。しかしまあ、世の中、ふつうに考えると、「敵か味方か」というふうに二つに分類できるわけがないので、落ち着いて考えてみるということが大切であるわけです。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というイエスさまの御言葉を聞くと、私たちは「あいつがイエスさまに敵対し、あいつが散らしている者だ」というふうに思えます。「あいつがいなければ、うまくいくのに」というような気持ちになります。「もうわたしの周りにはファリサイ派の人々や律法学者たちが多過ぎて困るわ」という気持ちになります。しかしまあ、多くの場合はそれは気のせいです。私たちの横でサタンが耳打ちしているので、そんな気持ちになるのです。サタンはにこにこと微笑みながら、私たちの横で「そうだよね。そうだよね」と相づちをうってくれています。高慢のなせるわざというのは、こうしたところが怖いところで、いつも自分はイエスさまの側、神さまの側にいるかのような気になるわけです。「怖いなあ」と思います。

イエスさまは「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」とも言っておられます。いたずらに争うことなく、落ち着いて、神さまの御心とは何であるのか。自分は高慢になっていないのかと、振り返ってみる歩みでありたいと思います。

レント・受難節のときを過ごしています。私たちの罪のために、イエスさまが十字架についてくださったことを覚えて過ごしたいと思います。私たちのこころのなかにある邪な思いを、イエスさまに取り除いていただきたいという思いをもって、謙虚に歩んでいきましょう。



(2024年3月16日平安教会朝礼拝式)



8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...