2025年10月25日土曜日

10月19日平安教会礼拝説教要旨(野本千春牧師)「神の負ける場所」

「神の負ける場所」    野本千春牧師

創世記22,1~13節 


今から35年前、平安教会には何人かの精神に障害を持った人たちが土日に立ち寄ったり、教会員となって礼拝に出ていた。その中の30代の男性、Tさんはまだ若いときに統合失調症を発症したひとだった。高校卒業の前後よりずっと左京区内の精神科病院に入院し、週末に外泊と言って右京区の実家に帰っていた。Tさんは土曜日、外泊のときに教会に立ち寄って、日曜日の礼拝の準備をしている神学生であった私と会話をした。Tさんがあるときから「閉鎖病棟は神の負け」と何回も繰り返すようになった。Tさんは病院で「暮らして」20年近くがたっていた。その後、私は仕事でその病院の閉鎖病棟の中をのぞく機会を得たが、その病棟は落ち着いたクリーンな印象で、「神が負ける」地獄のような場所とは決して思えなかった。ではTさんが語った、「神の負け」とはどういう意味であったのか、そのことを彼のイエス・キリストへの信仰の証言として理解するまで私は長い年月を必要とした。Tさんは人生の半分を閉鎖病棟で送っていた。当時は統合失調症と言う名ではなく、精神分裂病と呼ばれていた時代。精神科の治療も現在以上に手探りの療法しかなく、現在の様に副作用の比較的軽い薬が開発されてはおらず、飲めば大きな負担が心身にかかった。病気が少し良くなってくると、今度は自分の置かれた状況を認識せざるを得ず、人生に絶望し自ら命を絶つ若者が多かった。病気になってしまえば神も仏もなかった。そのような状況で閉鎖病棟で人生を送っていたTさんにとって、そこが当時としてはいかに近代的な医療環境を維持できていたとしても、「神はそこでなになさっておられるのか」と心から嘆かざるを得ない場所であったと思う。しかしそのような場にもかかわらず、いやそのような場であるからこそ、イエス・キリストは彼と共に十字架につき、共に居られたのではないか。その体験をTさんは「閉鎖病棟は神の負け」という重い言葉で身をもって信仰告白をされたのではないか。イエス・キリストという私たちの神は、「閉鎖病棟は神が負ける場所」と言い切り、絶望を口にするTさんと共に十字架を担って居られた神なのではないのか。イエス・キリストは十字架の苦しみを苦しむものと共に苦しみ切り、復活の望みを望むものと共に望み切る神である。Tさんの言った「閉鎖病棟は神の負け」、すなわち「神の負ける場所」に在って、実にイエス・キリストは「インマヌエル」なる神、すなわち、「ともに居ます」神、であったのだ。今朝の聖書の箇所は、信仰の祖、と言われるようになったアブラハム、徹底して神とともに歩んだ人と、待ち望んで授かった最愛の息子イサクの物語である。アブラハムは神が命じるままに、最も大切なひとりご、イサクをほふり、神にささげようとした。その時のアブラハムの胸の内は描かれていないが、これ以上の苦しみはないというほどの苦しみを味わい、これ以上の痛みはないという痛みを味わったのではないか。新約聖書の、ヨハネによる福音書3、16は「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」、すなわち、神が最愛の独り子を人間の赦しと救い為にこの世にささげた、と証しするのである。そこに神御自身の痛切な苦しみと痛切な痛みがある。そして十字架の神、イエス・キリストは十字架というもっとも痛みと苦しみの、もっとも弱い姿を取られて、私たちに神の愛を顕してくださった。神は私たちの罪の赦しと和解と救いのために十字架の上で敗北してくださったのである。であるから、たとえ私たちが死の影の谷を歩んでいても、そこにはかならず私たちの神、イエス・キリストが共に歩んでくださっているのである。



10月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「あなたはわたしの友だちだ」

「あなたはわたしの友だちだ」

日時場所 2025年10月12日平安教会朝礼拝・きてみて合同礼拝

聖書箇所 ヨハネ15:14-17。544/419。


今日の礼拝は神学校日の礼拝です。週報にも書かれてあります。「神学校日礼拝 ・10月の第二週は、神学校日礼拝です。神学校・神学部の働きを覚えてお祈りいたします。神学校・神学部で学ぶ神学生、事務職の方々、教師の方々の上に、神さまの恵みが豊かにありますように。・私たちの教会には、村上みか牧師(同志社大学神学部教授)が教会員として奏楽のご奉仕をしてくださっています。韮塚俊太兄が派遣神学生としてお働きくださっています」。韮塚俊太さんは同志社大学院神学研究科の試験にも合格されて、2026年の4月からは大学院生として学びのときを過されます。おめでとうございます。礼拝後に、赤松信哉さんが同信伝道会からのお願いとして、神学校日を覚えての献金のお願いをしてくださいます。

また今日は「きてみてれいはい」です。きてみてれいはいを、9月から子どもの教会との合同礼拝としてもつことにいたしました。ですので式次第もすこしひらがなを多くしたり、子どもの教会の式次第に近い形でもっています。少しでもこどもと一緒にご家族で礼拝をまもりやすいようにしようと思いながら行なっています。きてみれれいはいは、なるべるわかりやすい言葉や内容で説教をしようというふうに、こころがけています。きてみてれいはいのとき以外の礼拝も、なるべくわかりやすい話をしようと思って説教をしています。

わたしは同志社女子中高や同志社女子大学、同志社チャペルアワーなどで説教をすることがあります。同志社女子中高は、年間をとおしてお話にいったりしましたので、よく通いました。今週は同志社女子大学の田辺校地で説教をいたします。学校の朝の礼拝ということが多いので、わたしが話すことができる時間は、7分か8分くらいです。10分くらいになると長いですし、あんまり気を使い過ぎて5分くらいになると、ちょっと短過ぎるので、調整がむつかしいです。なるべくわかりやすい話で、「ああ、聞いてよかったなあ」と思えるような話をしてこようと思っています。

「はじめまして。日本基督教団平安教会の牧師をしています、小笠原純と言います。一学期、同志社女子中学校、高等学校の礼拝でお話をすることになっています。わたしが牧師をしています、平安教会は京都市の北の方の、岩倉という地域にあります。地下鉄烏丸線のの国際会館という駅の近くです。みなさんの関連校であります同志社小学校、中学校、高等学校があるところです。平安教会は新島襄の関連の教会です。京都に初めに教会が三つ出来ました。二番目の教会がいまの同志社教会になり、一番目と二番目の教会がが一つになって平安教会になったと言われています。平安教会にも同志社女子中高を卒業されたという方々がたくさんおられます。そしてときどき同志社女子中高で過ごした楽しかった中学校、高校生活について話してくださいます」。「同志社女子中学校にこの春に入学した方は、ちょっと大変な思いをしておられるだろうと思います。でも若いみなさんにはすてきな出会いが備えられていると信じています。良い友だちが備えられて、とてもすてきな学校生活が送られますようにとお祈りしています」。というような感じです。

今日の聖書の箇所は「イエスはまことのぶどうの木」という表題のついた聖書の箇所の一部です。イエスさまは弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われました。そしてイエスさまにつながって歩むことの幸いを、弟子たちに話されました。

そして今日の聖書の箇所となります。ヨハネによる福音書15章11ー17節にはこうあります。【これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」】。

今日の礼拝で読みました聖書の箇所は、イエスさまが自分の弟子たちのことを、「友と呼ぶ」と言われたという話です。イエスさまのお弟子さんはイエスさまのことを、「先生」というような感じで考えていました。イエスさまはいろいろなことを知っておられて、お弟子さんたちはイエスさまから神さまのこととかを教えてもらっていたからです。でもイエスさまは自分のお弟子さんたちのことを、「あなたたちはわたしの大切な友だちだ」と言われました。そしてみんなわたしの友だちなんだから、喧嘩したりするのではなく、「互いに愛し合いなさい」と言われました。

わたしの好きな絵本に「くまのコールテンくん」というのがあります。読まれたことがあるでしょうか。くまのコールテンくんは、デパートのおもちゃ売り場で売られていたくまのぬいぐるみでした。でも来ていたオーバーオールのズボンのぼたんがひとつとれていて、新品でないように見えるので、なかなか買ってもらえませんでした。ある日、リサという名前の女の子がくまのコールテンくんのことが気に入って買おうとするのですが、おかあさんから「ボタンの取れかかっているような人形やめなさい」と言われて、買うことができませんでした。くまのコールテンくんは、ボタンが取れていることに気づいて、夜中、デパート中、ボタンを探しに行きます。デパートのエスカレーターに乗って、「これ、やまかなあ」と思ってみたり、家具売り場にいって、「これ、王様の御殿だ」と思ってみたり。ベッドのマットレスについているボタンを、「ぼくのボタン、こんなところにあった!」と取ろうとしたり。そうやってしばらくおバカなことをしているのですが、結局、ガードマンさんに連れられて、またもとの売り場に帰ってきます。そしてあくる日に、リサが自分の貯金箱に入っていたお金をもって、くまのコールテンくんを買って、家に連れて帰ります。

【コールテンくんは めを パチクリしました。そこには、いすと、たんすと、おんなのこようのベッドが、ひとつ ありました。そして、その ベッドの わきに コールテンくんに ぴったりの おおきさの、もうひとつのベッドがありました。へやは ちいさくて、デパートに あった あの ひろい ごてんとは おおちがいです。「これが きっと うちって いうもんだなあ。」と、コールテンくんは おもいました。「ぼく、ずっとまえから うちで、くらしたいなあって、おもってたんだ」。

リサは、いすに すわって、こーるてんくんを ひざにのせると、とれた ボタンを つけてくれました。「あたし、あなたのこと このままでも すきだけど、でも、ひもが ずりおちてくるのは、きもちわるいでしょ」と、リサは いいました。「ともだちって、きっと きみのような ひとのことだね」と、コールテンくんは いいました。「ぼく、ずっとまえから、ともだちが ほしいなあって、おもってたんだ。」

「あたしもよ!」リサは そういって、コールテンくんを ぎゅっと だきしめました」。】

とってもいい話ですよね。くまコールテンくんには、リサという友だちができました。くまのコールテンくんはちょっとおバカなところがあるけれども、でもリサはコールテンくんのことをそのままで大好きと言ってくれます。ちょっと汚れていても、ズボンのぼたんが取れていても、でもくまのコールテンくんの大好き。

イエスさまはこんな感じで、お弟子さんたちのことを、「あなたたちはわたしの友だちだ」と言われたんだろうなあと思います。イエスさまのお弟子さんたちはいろいろな失敗もしますし、まただめなところもありますが、でもイエスさまはお弟子さんたちのことが大好きでした。お弟子さんたちは何かできるから、イエスさまに愛されたのではありませんでした。そのままのお弟子さんをイエスさまは愛されました。そして、お弟子さんのことを愛されたように、イエスさまは私たちのことも愛してくださっています。

暑かった夏も去り、だんだんと秋らしくなってきました。良い季節になります。私たちの教会では、教会の建物改修が始まりました。とても楽しみですね。この秋、そしてクリスマスへ、いろいろな行事や礼拝が守られます。良き出会いがあり、みなさんにもコールテンくんとリサのようないい友だちができたらいいですね。神さまはみなさんに、良きものを備えてくださいます。神さまの平安のうちを歩んでいきましょう。



(2025年10月12日平安教会朝礼拝・きてみて合同礼拝)

2025年10月3日金曜日

10月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「天国に入りたい人、手をあげて」

「天国に入りたい人、手をあげて」

聖書箇所 マタイ19:13-30。197/509。

日時場所 2025年10月5日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日礼拝

 

今日は世界聖餐日礼拝です。世界のクリスチャンと共に、聖餐に預かる日です。私たちの世界は神さまの前に、いろいろな問題を抱えています。戦争がありますし、テロ事件もあります。内戦が行われていたり、人権侵害が行われていたりします。私たちは共に聖餐に預かりながら、神さまの義と平和がきますようにと祈ります。

京都教区京都南部地区は、京都の在日大韓基督教会との合同礼拝を、この日に行なっています。週報にも書かれてあります。〈京都韓日教会合同礼拝。10月5日(日)15:00-16:00。京都復興教会。京都南部地区と在日大韓基督教会関西地方会京都教区との合同礼拝〉。ことしわたしは京都南部地区の地区長をしていますので、この礼拝の準備のために、在日大韓基督教会の方々と打ち合わせをしたり、プログラムの準備をしたりしていました。合同礼拝のなかで合同聖歌隊の合唱が行われ、平安教会の聖歌隊の方々も参加をしてくださいます。とてもうれしく思っています。

今日の聖書の箇所は「子供を祝福する」「金持ちの青年」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書19章13−15節にはこうあります。【そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。】。

小さな子どもは大人の思うとおりに動いてくれるとは限りません。突然、大きな声で話し出したりすることもあります。また走り回ったりすることもあります。お利口に座っていてくれるとは限らないですから、大人の側からすれば、困ったことが起きているというようなことが起こることがあります。ですからイエスさまのお弟子さんたちも、イエスさまがお話をしているときなど、なるべくイエスさまから子どもたちを遠ざけておくということにしていたわけです。しかしイエスさまは人気がありましたから、イエスさまに祝福していただこうと、子どもたちを連れてくるお母さんやお父さんがいました。それで弟子たちはそうした人々を叱りました。しかしイエスさまは弟子たちの考えに反して、「子供たちを来させなさい。妨げてはならない」と言われました。そして「天の国は子供たちにふさわしいものなのだ」と言われました。そして子供たちを招いて、子供たちに手を置いて祝福されました。

マタイによる福音書19章16−22節にはこうあります。【さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。】。

お金持ちの青年がイエスさまのところにやってきて、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねます。イエスさまは「「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」とすこしつれない返事をしています。あんまり大歓迎という感じでもないようです。イエスさまは「永遠の命を得たいのであれば、掟を守りなさい」と言われます。青年が「どの掟のことですか」と問うと、イエスさまは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われました。まあいわゆるモーセの十戒のことを言っているわけです。「まあモーセの十戒を守ったらいいよ」と、イエスさまは言われました。するとこの青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言います。とてもまじめな青年であるわけです。モーセの十戒を守り、そしてその上でどうしたら永遠の命を得ることができるでしょうかと真剣に考えているわけです。青年が真剣に永遠の命を求めて、イエスさまに質問をしているので、イエスさまも真剣に答えられます。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。イエスさまは青年に「わたしに従いなさい」と言われました。しかし青年はこの言葉を聞いて、悲しみながら去っていきました。青年はたくさんの財産をもっていたので、それを売り払って、イエスさまに従っていくということは、青年にとってとてもむつかしいことだったからでした。

マタイによる福音書19章23ー26節にはこうあります。【イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。】。

お金持ちの青年が去っていったことを見て、イエスさまは弟子たちに、「お金持ちが天の国に入るのは難しい」と言われました。「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われます。らくだが針の穴を通ることはないですから、ほとんど無理なことだと言われたということです。これを聞いて、弟子たちはとても驚きます。どうして驚いているのかと言いますと、当時はお金持ちのほうが天の国に入りやすいというふうにみんなが思っていたからです。お金持ちの人たちは律法を守って生活することもできやすいですし、いろいろな人に施しをすることもできました。しかし貧乏な人たちはそういうわけにもいきません。ですから律法を守ることができやすいお金持ちのほうが、天の国に入りやすいと思われていたのです。

それで弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。それに対して、イエスさまは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました。イエスさまはそもそも天の国に入るとか、永遠の命を得るというようなことは、それは人間の側がどうにかしてかなうというようなことではないのだと言われるのです。お金持ちが天の国に入るのも難しいですし、また貧しい人が天の国に入るのもむつかしい。人間が人間の力でもって天の国に入るのは難しいのです。それは人間がどうにかするのではなく、神さまから恵みとして与えられるものであるのです。ですから「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」ということであるのです。

マタイによる福音書19章27−30節にはこうあります。【すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」】。

使徒ペトロはイエスさまがお金持ちの青年に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われたので、「では私たちは永遠の命を得ることができますよね」と確認をしたわけです。【このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」】。ペトロはなかなかあざといのです。ここぞとばかりに、イエスさまにアピールをしているわけです。

ペトロのあざといアピールに対して、イエスさまは「そうだ。あなたが言うとおり、あなたたちはわたしに従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と答えます。「どうだすごいだろう。もうあなたたちの思うままだ。そして弟子であるあなたたちだけでなく、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。

そして最後にペトロに言われます。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。あなたたちは自分がわたしに付き従っているから永遠の命を、いの一番に得ることができると思っているだろう。しかし先のことはわからないし、あなたはわたしを裏切って、わたしのことを三度知らないというかも知れないよ。「イエスさまから永遠の命の確証を得た」とあざといことを考えているかも知れないけれども、それはこの先、どうなるかはわからない。人間は弱さを抱えているし、先のことなどわからないのだ。あなたは自分が一番だと思っているけれども、あとから来た人たちがあなたを追い抜いてしまうかも知れない。祝福は神さまから与えられるもので、人間が自分の力だ獲得するものではないのだから。そのように、イエスさまはペトロを諭しました。でも自分のことを過信していたペトロには、イエスさまの言葉がこのとき理解できなかっただろうと思います。

今日の聖書の箇所では、3人の人がイエスさまのところにやってきます。はじめにこどもたち。そして二番目にお金持ちの青年。そして三番目にペトロです。こどもたちは自分たちがどうこうすることなく、イエスさまから祝福を受けます。そしてお金持ちの青年は、自分の力によって律法を守り、永遠の命を受けるべく努力をします。しかしお金持ちの青年は永遠の命の約束を得ることはできません。祝福は人間の努力によって得られるものではないからです。そしてペトロですが、すべてを捨ててイエスさまに従うということで、祝福を受けようとします。しかしこれもまた人間の力によるものですから、イエスさまから「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われてしまいます。

「それでは、だれが救われるのだろうか」という問いかけに対して、イエスさまは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と答えられます。救いは人間によって得られることではなく、神さまからの賜物として与えられるのです。

「わたしはこれこれをしたから、神さま、祝福してくださいますよね。そうですよね。こんなに善いことをたくさんしたんだから、神さま、わたしを祝福してくださいますよね」。もちろん、善いことをたくさんするということはりっぱなことだと思いますし、善いことをあまりできないわたしからすれば、そのようにアピールできるというのは、人間的にみれば、なかなか立派なことだと思えます。

しかし祝福をうけるとか、救われるというのは、そういうことではないのです。それは人間がどうしたからということではなく、ただ恵みとして備えられるものであるわけです。神さまが祝福してくださり、そして私たちはその祝福をただ受けるのです。「人間にできることではないが、神は何でもできる」ということですので、私たちは神さまにお委ねして生きていくのです。

とはいうものの、「天の国に入りたい」という素朴な願いをもつことは、とても大切なことだと思います。イエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたというようなことは、聖書には書かれてはいません。でもたぶんイエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたとしたら、こどもたちは「はい、はい、はーい」と素直に答えるだろうと思います。

私たちもまた「天の国に入りたい」とこころから望むものでありたいと思います。自分が天の国に入るにふさわしいとか、天の国に入るのにふさわしくないということではないのです。ただ「天の国に入りたい」。ただ神さまの祝福を受けて生きていきたいと、こころから願う者でありたいと思います。

神さまは私たちを祝福し、神さまの愛を私たちに注いでくださっています。すなおに神さまを求めつつ、歩んでいきましょう。


 

(2025年10月5日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日礼拝) 

9月28日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「おまゆう。そういうとこやぞ」

「おまゆう。そういうとこやぞ」

聖書箇所 マタイ18:21-35。120/445。

日時場所 2025年9月28日平安教会朝礼拝式

 

「おまゆう。そういうとこやぞ」というのは、ネットの世界でときどき見る言葉です。日常生活で使っているというのは、わたしも聞いたことがありません。ですから「どこの言葉だ」というふうに思われるのは、そうだろうと思います。「おまゆう」というのは、「お前が言うか」という言葉です。ですから「おまえが言うな」という意味です。自分もいいかげんなことをしているのに、人を批判したりする人に対して、「おまえが言うな」「おまゆう」というふうに使われます。「そういうとこやぞ」というのは、「おまえのそういうところがだめなんだ」というような意味で使われます。

以前に不倫をしていたことが明らかになった政治家がいて、まあ役職をやめる出もなく、自分の処遇についていいかげんな対応をしていたりします。そしてほとぼりが冷めると、またおもてに出てきます。しばらくすると他の党の人が不倫をして、いい加減な対応をします。すると前にいい加減な対応をしていた政治家が、その対応を批判したりするわけです。そうした政治家に対して、「おまゆう。そういうとこやぞ」というように使われるわけです。「お前が言うな。そういういい加減なところが政治家として支持されない理由なんだ」というわけです。

まあ自分のことは棚にあげてというようなことを、政治家の人たちだけでなく、私たちもしてしまいます。政治家の人たちにとって気の毒なのは、昔はその人が言ったことを探してくるのは、なかなかむつかしいわけです。新聞で調べたり、本に出ているのを探したりするのはなかなか手間がかかります。でもいまはすこしネットで検索をすると、以前の発言などが簡単に出てきたりするので、「不倫をする人は信用できない」という以前していた発言が見つかったりします。いい加減な人間性が明らかになり、「おまゆう。そういうとこやぞ」というような感じになります。

細かいことを見つけ出して、なにからなにまで批判するというのも、まあどうかとも思いますが、あんまりいい加減なことをしていても、それもまた困るわけです。やっぱり良識をもって生きていくということを心がけたいと思います。

今日の聖書の箇所は「仲間を赦さない家来のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書18章21−22節にはこうあります。【そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい】。

イエスさまのところにペトロがやってきて、「わたしに対して悪いことをした人を何回赦すべきでしょうか」と尋ねます。マタイによる福音書では「兄弟」というのは、同じ信仰をもっている人たちということです。まったくの他人ということではありません。でもたぶんイエスさまはそうしたことにあまりこだわることなく、「だれでも赦してあげなさい」というふうに言われるだろうと思います。ペトロは「何回赦すべきでしょうか」と言っていますから、まあ「あいつのことは赦せない」というような思いがあったのだと思います。ユダヤ教では一般的に、「3度までなら赦してあげなさい」というような感じであったと言われています。私たちの世界は世知辛い世の中になっていますから、「二度目はないぞ」などと脅されることがありますが、まあ昔の人はできが良いので、「3度までなら赦してあげなさい」ということです。でもペトロはそれを「七回まで赦したらいいですか」というわけですから、まあずいぶん赦しているわけです。まあ7という数はユダヤ教では特別な数ですから、「7回赦す」というのは、「わたしができるぎりぎりまで赦します」というような勢いでペトロは言っているわけです。「これ以上赦しようがない」というような思いです。しかしそれに対して、イエスさまは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。「七の七十倍は、490回ですね」というようなことではなくて、「回数を数えたりするのではなく、とことん赦してあげなさい」というようなことです。「477回赦してやったから、あと13回だな」というようなことではなく、「数など数えるのではなく、赦して赦して赦してあげるのだ」ということです。

マタイによる福音書18章23ー27節にはこうあります。【そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。】。

イエスさまはペトロにたとえを話されます。天の国のたとえです。ある王さまが家来に貸したお金の決済をし始めます。1万タラントンを借金している家来が王さまの前に連れてこられます。聖書の後ろのところに、「度量衡および通貨」というところがあります。そこで調べると1タラントンというは、6000ドラクメに相当ということです。1ドラクメというのは1デナリオンということのようです。1デナリオンというのは1日の賃金ということです。1デナリオンを1万円とすると、1タラントンというのは6000万円です。1万タラントンというは6000,0000,0000円(6千億円)です。イエスさまの当時、ヘロデ大王の年収が、900タラントンであったということですから、1万タラントンというのはヘロデ大王の年収の11年分ということです。ですからまあ国家規模の借金という感じです。まあ個人ではどうしようもないような借金です。

王は家来に「自分も妻も子どもも奴隷となって、持ち物を全部売って、借金を返せ」というわけですが、まあ返しようがないわけです。まあ返しようがない借金であるわけですが、家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言います。まあいいかげんなことを言っているわけですが、でもいいかげんなことを言うほかないのです。家来が何度も何度も、「きっと全額お返しします」という様子をみて、王はかわいそうに思って、家来を赦し、その借金を帳消しにします。まあとてもやさしい王さまであるわけです。

マタイによる福音書18章28−35節にはこうあります。【ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」】。

王さまから1万タラントンという国家規模の借金を帳消しにしてもらった家来が、自分に100デナリオン借金をしている仲間に出会います。100デナリオンというのは、1デナリオンを1万円としますと、100万円です。まあ私たちにとっては大金と言えば大金ですが、国家規模の借金を帳消しにしてもらった家来からすると、まあ大した金額ではないわけです。しかし彼は仲間を捕まえて首を絞めて、「借金を返せ」と言います。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」と一生懸命に頼みます。しかし彼はその仲間を引っ張っていき、牢屋にいれてしまいます。それをみて、その仲間たちはこころを痛めます。そして王さまに話しに行きます。

王さまはその話を聞いて怒ります。わたしがおまえの借金をどれだけ帳消しにしてやったと思っているんだ。それに比べて、お前の仲間の借金は、とるにたらないものだろう。どうしてわたしがお前を憐れんでやったように、お前の仲間を憐れんでやらなかったのだ。憐れんでやるべきだろう。王さまはそのように怒って、そして家来を借金を返すまで、牢屋に入れることにしました。

イエスさまがペトロに対して語られた天の国のたとえですから、【あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」】と、最後に記されてあるわけです。天の国のたとえですから、この王さまは神さまです。そして神さまから大いなる赦しを得ているのに、人を赦そうとしないのは、どうしたことかと、私たちに対して問われている話であるわけです。神さまは御子イエス・キリストを私たちのところに送り、そして私たちの罪を赦してくださいました。私たちは神さまの前に罪赦された者として生きているわけです。それはとても幸いなことであるわけですが、そのわりにはそのことを忘れてしまって、人を赦そうとしない私たちがいるわけです。小さなことにも腹を立てて、人を裁いたり、人に対して仕返しをしたりします。神さまによって赦されて生かされているのだから、互いに赦しあい、助け合って生きていくことを忘れないようにしなさいと、イエスさまは言われます。

わたしは王から借金を帳消しにしてもらった家来が、外に出て、自分に借金をしている人と出会うところが、とても人間らしいなあと思います。【ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。】。「首を絞めたらだめだろう」と思うわけですが、でも人間はそういう愚かなところがあって、好き勝手なことをするわけです。わたしはこの聖書の箇所を読みながら、思わず笑ってしまいます。「ああ、なんて私たちは愚かなんだろう」と思います。神さまのことを忘れてしまって、自分勝手な人間の姿をさらしてしまうのです。「ああ、この人、わたしだ」と思えます。

しかしイエスさまが言われるように、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」ということを、私たちは忘れてはならないのだと思います。

私たちクリスチャンは、神さまが見ておられるという視野をもって生きています。それは「神さまが見ておられるから、悪いことをしてはいけないぞ」というようなことだけではありません。マタイによる福音書では「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と何度も記しています。マタイによる福音書6章4節です。あるいはマタイによる福音書6章18節です。神さまが私たちを見つめてくださり、私たちを守ってくださっている。人に知られることのない私たちの小さな良き行ないも、神さまは知っていてくださり、私たちを祝福してくださいます。

赦しあい、支え合い、神さまの愛のうちを歩んでいく。人間ですから、「赦せない」という思いにかられたり、捕まえて首を絞め「借金返せ」というようなふさわしくないことをしてしまうこともあるかも知れません。それでも、神さまの愛のうちに自分が生きていることを思い起こして、悔い改めつつ歩んでいきたいと思います。



  

(2025年9月28日平安教会朝礼拝式) 

2025年9月20日土曜日

9月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「小さな者と共なる神さま」

「小さな者と共なる神さま」

聖書箇所 マタイ18:10-20。57/474。

日時場所 2025年9月21日平安教会朝礼拝


新潟県の三条市にあります三条教会で牧師をしていたとき、住まいであった三条教会の近くに、三之町病院という病院がありました。わたしもよくその病院に行っていたのですが、病院の近くだったので、救急車のサイレンの音が毎日よくなっていました。ピーポー、ピーポー、ピーポー。ピーポー、ピーポー、ピーポー。教会の前の道を通って、三之町病院に救急車がやってくるわけです。初めはちょっと気になりました。救急車が通るごとにはっとするわけですが、しかし日に何度も救急車が通るわけですから、そのうちに慣れてしまいました。「あ、またピーポー、ピーポー、ピーポーいってる」というような感じです。

ある朝、教会員の方から「夫が交通事故で救急車で三之町病院に運ばれたので、すぐ来てください」と電話がありました。びっくりして飛んで行ったのですが、そのとき容体は必ずしもいいというわけでもありませんでした。まあ、その後、回復されて、ほぼ何の心配もないようになられました。でもそのときは「ああ、救急車が走っているわ」と当たり前のような気持ちになっている、その救急車の中に教会員のおつれあいが乗っていたわけですから、なんとも自分は薄情な人間なんだなあと思わされました。その後、救急車を見ると、だれがどんな状態で乗っているかはわからないわけですが、わたしは「がんばれよ。がんばれよ」と思うようにしています。

人間は絶えず緊張しているわけにもいきませんから、救急車が走っていても、「あ、また救急車か」くらいに思えます。でもその救急車のなかに、生死の境をさまよっている人がのっているかも知れません。救急車は走っているのを見るもので、自分が乗ることを私たちはふつう考えているわけではありません。しかし私たちが救急車に乗らないという保証があるわけではありません。それでもやはり私たちは、「あ、また救急車か」くらいに思えます。イエスさまはそんな私たちに、「大変な目にあっている人のことに思いをはせるということは大切なことだよ、小さな者たちのことを忘れてはいけないよ」と言っておられます。

今日の聖書の箇所は「『迷い出た羊』のたとえ」「兄弟の忠告」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書18章10-14節にはこうあります。【「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」】。

イエスさまはこの世にあって小さな者が大切にされるということが、神さまの御心だと言われました。【「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである】というように、ほとんど脅しともとれるような言葉で、小さな者を大切にすることが、神さまの御心だと言われています。

「迷い出た羊のたとえ」はとても有名なたとえです。ある人というのは、神さまのことです。神さまはこういう方だというたとえです。どういうたとえなのかといいますと、羊を百匹もっている人がいた。その百匹の羊のうちの一匹が迷い出てしまった。するとその人は九十九匹を山に残して、迷い出た羊を探しに行った。そしてその一匹を見つけたら、迷わずにいた九九匹よりも、その一匹のことを喜ぶだろう。神さまはそのように、小さな者が一人でも滅びることは望んでおられないというのです。神さまはそれほど小さな者一人にかかわってくださる方だということです。

ちょっといじわるなのは、イエスさまが「あなたがたはどう思うか」と弟子たちに問われているということです。神さまはそういう方だけど、あなたたちはどう思うと、イエスさまは弟子たちに問われたわけです。

「九九匹か一匹か」というふうに言われると、まあ状況によって変わってくるでしょう。自分たちが九九匹の中にいて、安全であるのであれば、ぜひ一匹を探しにいってほしいとふつうに思います。でも安全でないのであれば、ちょっと考えちゃうよねと思います。もちろん自分が迷い出た羊であれば、どんなことをしてでも助けに来てほしいと思います。

私たちの世の中はどうでしょうか。迷い出た一匹の羊よりも九九匹の羊を守ることを優先するような社会であるような気もします。一時期、日本では「自己責任」というようなことがよく言われました。しかしそういうことだけでも、私たちの社会はないわけです。

緊急車両のシステムなどもそうです。私たちは車を運転していて、救急車が後ろから走って来たら、やはり車を留めて救急車に先に行ってもらいます。緊急車両は優先されるわけです。もちろんいつか自分がお世話になるかも知れないということがあります。やっぱり自分が道で倒れて救急車が必要な場合は、救急車が早く来てほしいわけです。消防車も早くきてほしいし、警察も早くきてほしいわけです。しかしそれだけではなく、やっぱり非常に困ったことや命に関わるようなことについては、自分たちのことはさておいて、優先してあげなくてはならないという、人としてのやさしさということがあるわけです。そうした社会システムというのが、まあ温かく生きやすい社会システムということでしょう。

イエスさまは弟子たちに、「世の中っていうのはなかなかむつかしいところだけれど、でも神さまのまなざしは小さな一人に向いているよ」と言われました。「だから私たちのまなざしもどこに向けるのかを考えなくちゃいけないよ」と言われました。

マタイによる福音書18章15-17節にはこうあります。【「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。】。

この「兄弟の忠告」という聖書の箇所は、たぶんイエスさまが言われたことだけではない聖書の箇所でしょう。イエスさまが活動しておられたときに、「教会」はないわけですから、「教会に申し出なさい」ということを、イエスさまが言ったとはあまり考えられません。マタイによる福音書18章15節は、イエスさまの言葉だろうと言われています。【「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる】。まあ、あんまりことが大きくなるようなことにしないで、自分に対して何か不快なことがあったとしても、相手にそのことを忠告して、赦してあげなさいということです。

この「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」というのはいいなあと思います。「自分に何かされた」と言って相手を一方的に非難をしたり、相手に仕返しをしたりすると、「敵を作る」ことになるわけです。そんな敵を作って回るような生き方をするよりも、「兄弟を得たことにある」というような生き方をしたいものだと思います。なんかそのほうがとても楽しそうです。

マタイによる福音書の著者は、教会の運営ということを考え、教会の権威ということを強調しています。忠告してもなかなか聞いてもらえないときがあるから、そんなときは次はだれかと一緒に行きなさい。それでもだめなら教会に申し出なさいというわけです。しかし権威というのは、大きな責任も自覚しなければなりません。マタイによる福音書18章18節にはこうあります。【はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる】。裁くということは、これくらい重いことなのだということです。

マタイによる福音書18章19-20節にはこうあります。【また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」】。

ユダヤ教では集まって共同の祈りを献げるときに、成人男子10人が必要とされたそうです。大人の男の人が10人いないと、共同の祈りを献げることができないわけです。しかしキリスト教はそうした制限を取ってしまいました。二人で心を一つにして願うなら、神さまはあなたたちの願い事をかなえてくださる。二人または三人、イエスさまの名によって集まるなら、そこにイエスさまも共にいてくださる。そのように言われています。

この「『迷い出た羊』のたとえ」「兄弟の忠告」という表題のついた聖書の箇所は、全体として、「一人とか、二人、三人」というのは、神さまの前に大切にされているんだよ。ということが言われているわけです。「一人とか、二人、三人」というのは、小さな数だからそんなのどうでもいいんだということではなく、神さまの前では一人ひとりが大切な人として愛されているんだということです。

私たちは「一匹か九九匹か」というような場合、自分がいつのまにか九九匹の側にいるように思ってしまい、「一匹は身勝手なのではないか」というような思いを持つことがあります。あるいは自分がいつも裁く側の人間になってしまい、「教会に申し出なさい」と自分が神さまの代わりに裁いているというふうに勘違いしてしまうようなときがあります。

初期のクリスチャンは小さな集まりでした。祈りを献げるときも、成人男子10人集まらないということもあったのでしょう。ユダヤ教の枠内であれば、それは共同の祈りとならず、正式な集まりとならないわけです。それでは一人、二人の神さまに向かう思いというのは無駄なのか。初期のクリスチャンたちはそのようには思いませんでした。初期のクリスチャンは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という思いを持っていたのです。

「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて生きるというのがクリスチャンの歩みであったのです。教会の頭と言われ、【わたしはあなたに天の国の鍵を授ける】(マタイによる福音書16章19節)と言われた使徒ペトロも、イエスさまを裏切った人でした。使徒ペトロだけでなく、ほかの弟子たちもイエスさまを裏切り、イエスさまが十字架につけられるときに、イエスさまを捨てて逃げていった人たちでした。しかし神さまのまなざしはイエスさまを裏切った弱いペトロや、イエスさまを捨てて逃げ去った弟子たちに向けられていたのです。「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて、イエスさまの弟子たちは歩み始めたのです。

私たちもまた「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」との思いを、こころのなかにしっかりと持ちたいと思います。神さまのまなざしは、この小さなわたしに向いているのです。私たちはおそれることはありません。

イエスさまは小さな私たちを招いておられます。イエスさまはこう言われました。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう】(マタイによる福音書11章28節)。私たちは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」との思いをもって、イエスさまの招きに応えて歩みましょう。


(2025年9月21日平安教会朝礼拝)

2025年9月13日土曜日

9月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「いいものみーつけた!」

「いいものみーつけた!」

聖書箇所 マタイ13:44-52。509/470。(列王上3章4-15節)

日時場所 2025年9月14日(日)平安教会朝礼拝


今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。

今日は第二週の礼拝ですので、「きてみてれいはい」です。今月から「きてみてれいはい」は、子どもの教会と合同礼拝として行なうことにいたしました。そのため子どもの教会でよく使う讃美歌を用いたり、式次第を少し代えてみました。なるべくひらがなで書いてみることにいたしました。全体として礼拝時間が短くなっています。ぜひお子さまと一緒に礼拝にきていただけたらと思っています。子どものための席もつくりましたので、よかったらご利用下さい。来てくださった子どもさんにできれば、何かしてもらうことができればと思って、「かねをならす」ということを式次第にいれてみました。今日は司会者の方にならしていただきました。「1955年1月平安教会教会学校」と記されています。恵老祝福のしおりは、この鐘の写真を用いてつくっています。

みなさんは最近、いいものを見つけられたでしょうか。お気に入りのものがあるでしょうか。わたしは3年ほど前に、銀座の伊東屋で買った伊東屋特製のボールペンが、お気に入りです。このボールペンのどこが良いのかと言いますと、胸のポケットにいれいても、インクがもれるということがありません。ふたがついているので、安心です。銀座に来ることもそんなにないだろうと思って、替えのシンも買いました。なんと言っても銀座の伊東屋特製のボールペンだと思い、長い間大切に使おうと思いました。その後、大阪のグランフロントのなかに、伊東屋があるをみつけて、「ああ、ここにもあるじゃないか」とびっくりしました。替え芯が切れかけていたので、替え芯をまた買いました。「いいものみーつけた!」と思えると、とてもうれしい気持ちになります。そして人に自慢したくなります。

わたしは平安教会に赴任して、この9月で6年と二ヶ月になります。6年と言うと、まあそんなに年月がたったということでもないような気もしますが、でもいろいろなことがあったなあと思います。この6年間でいろいろな人に出会ったなあと思います。とても幸せなことだと思います。わたしがいま親しくしている人たちは、6年前にはほとんど知らない人であったわけですから、そうした人たちと親しく楽しく過ごしているというのは、とても幸せなことだと思います。良き友、良き教会、良き仕事との出会いであったと思います。たぶん「いいものみーつけた!」というのは、伊東屋特製のボールペンではなく、平安教会での交わりということなのでしょう。

今日の聖書の箇所は「『天の国』のたとえ」「天の国のことを学んだ学者」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書13章44-46節にはこうあります。【「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う】。

今日の聖書の箇所は「天の国のたとえ」として語られています。イエスさまの時代、宝物を壺にいれて土の中に隠すということが行なわれていました。持ち主が生きていて、そのことを知っているうちはいいわけですが、突然、死んだりして、だれも土の中の隠し場所を知らないというようなことが起こってくる場合があります。あるいは他国による侵略などで、持ち主が他国へ奴隷となって売られてしまうような場合があります。そうなると畑に宝が隠された状態になります。それをたまたま畑を耕している人が見つけます。そしてその宝物を隠しておいて、持ち物をすっかり売り払って、宝物が埋まっている畑を買うというわけです。

真珠の場合も、良い、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をすっかり売り払い、その良い、高価な真珠を買います。畑の場合も、真珠の場合も、「持ち物をすっかり売り払って」、「それを買う」わけです。このたとえでは「持ち物をすっかり売り払って」「それを買う」というところが、みそであるわけです。天の国はかけがえのないものであるということです。単なる持っていたらちょっと良い物ということではなくて、それは「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」というものであるということです。それに人生をかけるというか、信じるというのは、そういうものだということです。あれも、これも、もって、その上で、信じるということではなくて、信仰のみということです。信仰とはそういうきびしさを持っているということです。

マタイによる福音書13章47-50節にはこうあります。【また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。】。

マタイによる福音書の著者は、(マタイによる福音書13章36節以下の「毒麦のたとえの説明」などからも分かりますが)、「良い」「悪い」の二つに分けるということが好きです。「良い」「悪い」の二つに分けるということは、なかなかむつかしいことです。まあ物なら、そうかなあとも思えますが、人の場合、「良い人」「悪い人」、「正しい人々」「悪いものども」などと分けられますと、「そんなに簡単に正しい人々、悪いものどもなんてわけてしまっていいのだろうか」との思いももちます。

しかしここで全体的に語られることは、「悪い人たちは燃え盛る炉に投げ込まれて、ざまあみろ!」というようなことではありません。そうではなくて、まさにイエス・キリストに出会った私たちの生き方が問われているということとです。マタイによる福音書13章51-52節にはこうあります。【「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」】。

まさに弟子たちはイエスさまから問われたのです。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」。そして弟子たちは「分かりました」と答えました。イエスさまに出会った弟子たちは、イエスさまの教えに導かれて、自分の倉から新しいものと古いものを取り出して、そして古いものを捨てなければならないということです。それは畑や真珠を、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」ように、とてもきびしい選択であるわけです。

昔、ロフトに買い物に行くと、「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」と「ロフトでゲット」という曲が流れていました。(「お金がないときは、彼に甘えておねだりしちゃおう」、正確ではないけどこんな内容)。まあ確かに梅田などのロフトにいって、「あれもこれも、それもどれも」と自分の気に入ったものを買って行くと、とてもうれしいような気がします。わたしはまあしないですけど、でもまあティファニーで買い物とかそういうわけでもないですから、ロフトで買い物している分には、そんなにびっくりすることもないでしょう。ただ私たちは「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」というように、「なんでもかんでも」というわけにはいかないということがあります。やはり慎重に選ばなければならないということがあります。

昔、昔のイスラエルの王様にソロモンという人がいました。ソロモンは神さまから「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。旧約聖書の列王上3章に書かれてある話です。旧約聖書の531頁です。皆さんは神さまから「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた何を望みますか。慎重に考えてくださいよ。何がいいですか?。ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えたのでした。そしてそれに対して神さまは、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われました。

「長寿も富も敵の命も」というように、ほしいものはいろいろあるわけです。しかし「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」というわけにはいきません。ソロモンは「自分のために」ではなく「あなたの民を正しく裁き」とあるように、「神さまのために」ということを謙虚に望みました。ソロモンは「わたしのために」「わたしがわたしが」ということを望まず、「神さまのために」「神さまのみ栄えを現すために」ということを望みました。そしてそれゆえに、ソロモンは神さまから大いなる祝福を受けたのでした。

私たちはときに、「あなたの大切なものは何ですか?」という問いの前に立たされます。「あなたが心から望んでいるものは何ですか?」という問いの前に立たされます。元気に飛び回っているときは、そうしたことを考えることがあまりないかも知れません。「あれもこれも、それもどれも」と思いながら、多くのことを手に入れることができるかも知れません。しかし思わぬつまずきに出会ったり、あるいは年を感じ以前と同じように動き回ることができなくなってきたりするときに、私たちは心静かにして、「あなたの大切なものは何ですか?」「あなたが心から望んでいるものは何ですか?」という問いに答えなければならないときがあります。

そんなとき、私たちには「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」という大切なものがあるということを思い起こしたいと思います。神さまは弱い私たちをしっかりと守り導いてくださる方である。神さまは私たちをいつも愛してくださっている。神さまは私たちと共にいてくださり、私たちに良き道を備えてくださる。私たちはそうした神さまに出会い、信仰生活を送っています。それは私たちにとってかけがえのないものです。

わたしはわたしが銀座の伊東屋でみつけたボールペンを皆さんにお勧めすることありません。しかしキリスト教信仰については、自信をもってお勧めします。キリスト教の神さまを信じて生きることを、わたしは自信をもってお勧めします。神さまに導かれて歩む人生は、本当に大きな安らぎです。

本当に大切なものは、「あれもこれも、それもどれも」ではないのです。本当に大切なものは、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」に値するものです。心の底から「これに出会うことによって、わたしは救われた」と思うことのできるものです。それは「あれもこれも、それもどれも」ではないのです。「あれもこれも、それもどれも」は、消え去ってゆきます。それは確かなものではありません。私たちの魂にかかわるもの、永遠なるものが、わたしたちにとっては確かなものであり、私たちにとって本当に必要なものなのです。

神さまは私たちと共にいてくださり、私たちを守り導いてくださっています。確かな方により頼んで歩みましょう。


(2025年9月14日、平安教会朝礼拝、きてみてれいはい、子どもの教会との合同礼拝、恵老祝福礼拝)



2025年9月6日土曜日

9月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「大切なのは愛だよ」

「大切なのは愛だよ」

聖書箇所 マタイ13:24-43。412/482。

日時場所 2025年9月7日平安教会朝礼拝


みなさんは「あなたは生涯でもっとも感動したことはなんですか」と問われたら、なんと答えるでしょうか。クリスチャンである私たちの模範解答としては、「洗礼を受けたこと」というようなものかも知れません。でもまあ模範解答は少し横に置いておいて、「あなたは生涯でもっとも感動したことはなんですか」と問われたら、なんと答えるでしょうか。まあひとそれぞれ、いろいろなことがあると思います。思い出にふけってくださって結構です。良い思い出があるのはとても良いことです。

小説家の高橋源一郎は、生涯でもっとも感動したこととして、こんなふうに答えています。【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】(P.187)(高橋源一郎『ラジオの、光と闇ー高橋源一郎の飛ぶ教室2』、岩波新書)。【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】。

高橋源一郎の『ラジオの、光と闇』という本の中に、ちょこっと書かれてあった一節なのですが、こころに留まりました。宝ヶ池や修学院駅などがロケ地として撮られた、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(2016年12月17日劇場公開日)という映画を、先週、わたしは見ていました。その映画のなかでも、恋人同士が初めて手をつなぐというシーンが出てきます。そういう意味では、【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】というのは、わりあいあることなのかなあとも思います。

しかし誰かと手をつなぐということで、生涯その人のこころのなか、一番感動したこととして残るというのであれば、それは特別な人にだけできることではなく、だれでもできることであるのだと思いました。相手が手を握ってきたら、こちらも握り返すということですから、なにか特別な費用がかかるということでもありません。食事をしてもお金がかかりますし、プレゼントをしてもお金がかかるわけですが、でも手を握るということはお金がかかるわけではありません。だれにでもできることでありながら、それがその人の生涯にとってかけがえのない意味のあることとして残るというのは、とてもすてきなことだと思います。

そしてそれは、私たちは知らず知らずのうちに、相手の人生にとってとてもかけがえのない思い出をつくっているのかも知れないということです。手を握りあうという愛に満ちた小さな出来事が、私たちの世の中を愛に満ちたものへと導いていくのです。大げさなことではなく、わたしにできることがあると思えて、とても励まされる思いがしました。

今日の聖書の箇所は、「毒麦のたとえ」「からし種とパン種のたとえ」「たとえを用いて語る」「毒麦のたとえの説明」という表題のついた聖書の箇所です。

「毒麦のたとえ」というのは、イエスさまがされた「天の国」についてのたとえ話です。ある人が畑に良い種をまきます。すると人々が眠っている間に、敵がやってきて、畑に毒麦を蒔いていきます。だんだんと麦が実ってくると、蒔いていないはずの毒麦が現れます。僕立ちは主人のところに行って、畑に良い麦に交ざって、毒麦が生えてきていることを報告します。僕たちは「毒麦を抜いてしまいましょうか」というのですが、主人は「毒麦を抜いてしまうときに、根が絡まっていて良い麦も抜いてしまうかも知れないから、いまはそのままにして、刈り入れのときに毒麦をはじめに集めて燃やしてしまいなさい。良い麦を集めて倉に入れてしまうことにしよう」と言いました。

私たちはすぐに浮き足立って、悪い人を探して、それを取り除いてしまったらいいというふうに考える。でも何が良いのか悪いのかということは、そう簡単にわかることではないので、人を裁くのは遅くしたほうが良いというようなたとえ話です。世の終わり・終末のときに、神さまが裁いてくださるから、あなたたちが裁く必要はないのだ。天の国は裁きあいの世界ではなく、神さまの愛によるゆるしあいの世界なのだと、イエスさまは言われるのです。

「からし種とパン種のたとえ」もまた、「天の国」についてのたとえ話です。からし種はちいさいけれど、畑に蒔くと、そこそこ成長する。からし種は0.5ミリメートルほどの大きさです。とても小さいものですが、大きなやさいくらいには成長します。大木になるわけではないですが、鳥がとまることができるくらいの大きさにはなります。パン種というのは、いわゆるパンを膨らませるイーストのことです。イーストを入れることによって、パンはふっくらと焼き上がります。天の国は私たちがどうこうすることによってできあがるということではなく、神さまの御手によってうまい具合に大きくなっていくのだ。あなたたちは心配性だから、「これはどうなるのだろう」「あれはどうなるのだろう」「大丈夫かなあ。大丈夫かなあ」となにかにつけて心配するけれども、「まあ、あんまり心配するな」と、イエスさまは言われたということです。

「たとえを用いて語る」ということでは、イエスさまが話をされるときに、たとえ話をよくされたということが書かれてあります。たとえ話で話すというのは、みんなにわかりやすく話すために、まあたとえ話で話すわけです。しかし時代によって変化することもありますし、地域によっていない動物というのもあります。その時代のその場所ではよくわかるたとえ話であっても、時代が変わったり、場所が変わったりすると、たとえ話はその意味するところがよくわからなくなるということがあります。イエスさまの地域、イエスさまの時代であれば、「わたしは良い羊飼いである」と言うと、よくわかったわけです。でも私たちの時代では生活の場所で羊がいるというようなことはあまりないですから、説明が必要になってくるわけです。

「毒麦のたとえの説明」というようなことが起こります。イエスさまは「毒麦のたとえ」をはなされたわけですが、そのたとえの説明を弟子たちが求めます。この聖書の箇所は、イエスさまがたとえの説明をされたということではなく、イエスさまのあとの初代教会の人たちがあとから説明を考えたということだと思います。はじめの「毒麦のたとえ」と、「毒麦のたとえの説明」では、話が違い過ぎるからです。

イエスさまが話された「毒麦のたとえ」では、早急に人を裁くというようなことはやめて、神さまにお任せしなさいというような感じでした。しかし「毒麦のたとえの説明」では、やたら人を裁くようになっています。毒麦は悪い者の子らであり、そうした人々はみんな集められて、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまう。そこで泣きわめいて歯切りしする。悪いやつらは徹底して、世の終わりの時に裁かれるのだというような感じです。もともと「毒麦のたとえ」は天の国のたとえ話であったはずなのに、なんか地獄の話になっているような感じがするわけです。

わたしはこの「毒麦のたとえの説明」という聖書の箇所を読みながら、「イエスさまのたとえ話をどうして曲解するのだろうか」と思いました。やはり人は、人を裁くというのが好きなのだろうなあと思います。人はやたらと人を裁きたがるわけです。「もともと人を裁くのには慎重にしたほうがいいよね」という内容のたとえ話の説明が、「悪い人たちは裁かれるぞ」という話になっていくわけです。そして自分たちは正しく裁くことができるので、自分たちの言うことを聞きなさいというような感じになって、組織化されていくというのは、なかなか人のすることというのは、恐ろしいものだなあと思えます。

現代の社会を表わす言葉として、「アメリカはロシアに勝った。だがロシアになった」と言っている人がいました。アメリカは個人を大切にする国でありました。ロシアは個人よりも国家を大切にする国です。でもだんだんとアメリカもまた個人よりも国家を大切にする国になってきています。人は敵をつくり、その敵をやっつけようとすると、その敵に似てくるのです。ですからイエスさまはやたらと人を裁くのではなく、裁くのは遅くしたほうが良いと言いました。そして裁くのではなく、神さまの愛を伝えていくことが大切なのだと言われました。

「大切なのは愛なのです」。人を裁いたり、自分を裁いたりすることではなく、神さまの愛を知ることなのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(1)の13章13節でこう言いました。新約聖書の317頁です。【それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である】。愛は神さまから出たものなので、それがもっとも大切なのだと、使徒パウロは言いました。いろいろなものは消え去っていくけれども、信仰と希望と愛はいつまでも残る。そして一番大切なのは愛なのだと、使徒パウロは言いました。

人を裁いたり、人を支配しようとしたりする弱さが、私たちにはあります。世の中には悪いやつらがいて、そういう人たちがいなくなれば、世の中がうまく回っていくのではないかというような気持ちになります。わたしなどはニュース番組を見てると、すぐそういう気持ちになります。ウクライナとロシアの戦争が終わらないのは、「・・・のせいだ」。パレスチナのハマスとイスラエルのとの戦争が終わらないのは、「・・・のせいだ」。独裁国家が続いているのは、「・・・のせいだ」。アメリカで対立が深まっているのは、「・・・のせいだ」。批判をすることも大切なことですが、しかしそれだけではだめなのだと思います。やはり愛が大切なのです。神さまの愛を大切にすることが、この社会を神さまの御心にかなった世界へと変えていくのです。

小説家の高橋源一郎の【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】と言う話はとても良い話です。私たちの世界に小さな愛の出来事を作り出していくことが、私たちにできる良きわざであるのです。私たちがおこなった小さなわざが、もしかしたらその人にとって生涯忘れることのできない出来事になるかも知れないのです。

讃美歌21−482番は「わが主イエスいとうるわし」という讃美歌です。イエスさまは病の人々をいやされ、神さまの愛を宣べ伝えました。そんなイエスさまをほめたたえずにはいられないという、とても愛に満ちた讃美歌です。澁谷昭彦さんの愛唱讃美歌です。この世にあっては、いろいろと悲しい出来事も起こりますし、怒り心頭に達するような出来事も起こります。それでも私たちはイエスさまの愛に満ちた世界に生きています。イエスさまの愛をしっかりと受けとめて、そしてイエスさまをほめたたえつつ、小さな良き業に励む歩みでありたいと思います。



  

(2025年9月7日平安教会朝礼拝式) 

8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...