2026年5月8日金曜日

5月10日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまにつながって生きる」

「生まれてきてよかった」

聖書箇所 ヨハネ16:12-24。470/493。

日時場所 2026年5月10日平安教会朝礼拝式・きてみて、母の日、

  

先週、新聞を読んでいますと、「あのイルカ20年ぶり復活」という記事があり、笑いました。あのイルカというのは、マイクロソフトの業務用ソフト「オフィス」を使っていると現れる、アシスタントキャラクターのイルカの「カイル君」です。作業を助けるキャラクターとして、1997年に登場ということでした。ワードを使っていると、勝手に出てくるイルカで、多くの人から、「ウザイ」「このイルカ、消したい」とよく言われたイルカです。わたしもよく腹を立てていました。いつのまにかなくなったのですが、またほかのアプリで復活ということのようです。いろいろと言われて、カイル君も、意気消沈していたと思いますが、また復活して多くの人たちの役に立てるようです。イルカのカイル君、大変な時もあったわけですが、「生まれてきてよかった」と思っていることと思います。

今日は5月第二週の日曜日で、母の日です。人は人から生まれますから、生まれるとその人には母がいます。その人にとって母がどのような存在であるのかということは、まあいろいろなのだと思います。また時期によって、関係が良い時もありますし、まああまり良くない時もあるかも知れません。親子の関係というのは、むつかしいですから、「こうした良いよ」というふうに、わたしも簡単に言えるような気もしません。イエスさまとマリアさんとの親子関係も、まあいつもいつも良かったのかと言うと、そうでもないと思えるような聖書の箇所もあります。

ヨハネによる福音書2章1節以下に、「カナでの婚礼」という聖書の箇所があります。イエスさまが初めて奇跡を行なわれたという話です。婚礼でイエスさまが水をぶどう酒に変えたという話です。ヨハネによる福音書2章3ー5節にはこうあります。新約聖書の165頁です。【ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。】。イエスさまはお母さんであるマリアさんのことを、「婦人よ」と言いますし、マリアさんはマリアさんで、イエスさまのことを「この人」というふうに言います。「ああ、なんか、お二人の親子関係、あんまりよくないのかなあ」と思わされる聖書の箇所です。

まあそんな感じのときもあるわけですが、マリアさんはイエスさまのことをいつも心配していただろうと思います。そしていろいろあるにしても、イエスさまが「生まれてきたよかった」と思えるような人生であってほしいと思っていたと思います。人生、うまくいかないこともありますし、悲しかったり、つらかったりする出来事にも出会います。そうしたなかで、「死んだほうがましか」と思うようなときもあるかも知れません。でもやっぱりマリアさんがそうであったように、母は我が子に「生まれてきてよかった」と思える人生を歩んでほしいと思うのです。

良い季節ですから、散歩に出かけます。わたしは宝ヶ池に散歩に出かけます。宝ヶ池はとても良いところで、いつ行っても気持ちがよいところです。教会の前のつばきの径をとおって、プリンスホテルに出て、国際会館の通りを歩き、そして宝ヶ池に下っていきます。

宝ヶ池では幸せそうな人たちがいます。池を背景にして、スマホで自撮りをしているカップル。かわいい犬を散歩している女性。ジョギングをしている男性。池の近くにシートを敷いて、お弁当を食べている若者二人。お孫さんのご家族と散歩をしているおじいさん・おばあさん。林の風景をカメラでとっている男性。ゆっくりと話ながら歩いている人たち。幸せそうにしている笑顔にふれると、なんとなく幸せな気持ちになってきます。小さな幸せを楽しんでいる人たちを見ながら、「よかったね」と思えるのは、とても幸せなことだなあと思います。

人の幸せをみても、「よかったね」と思えないときというのもあるわけです。自分がつらい思いをしているときは、なかなか「よかったね」と思えません。自分だけがどうしてこんな目にあわなければならないのだろうか。みんな幸せそうにしているのに、どうして自分だけが不幸なのだろうか。とても人の幸せをみて、「よかったね」と思えない。そんなときも、私たちはあるわけです。

今日の聖書の箇所は「聖霊の働き」という表題のついた聖書の箇所の一部と、「悲しみは喜びに変わる」という表題のついた聖書の箇所です。5月24日がことしのペンテコステ、聖霊降臨日です。だんだんとペンテコステが近づいているということで、今日の聖書の箇所が選ばれています。

ヨハネによる福音書16章12−15節にはこうあります。【言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」】。

ここで話されていることは、イエスさまが十字架につけられて殺されてしまうということです。ヨハネによる福音書16章5節には【今わたしはわたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている】とあります。ですからイエスさまは天に召されるということです。弟子たちはイエスさまが自分たちの前から消えてしまうということの意味がよくわかりません。大切な大切なイエスさまがいなくなるなんて考えられないわけです。しかしイエスさまは私たちの罪のために十字架についてくださるために、この世に来られました。弟子たちがそうしたことを理解するようになるのは、のちのことであるわけです。聖霊によって導かれることによって、真理の霊に導かれることによって、弟子たちはイエスさまの十字架について理解することができました。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と書いてあるのはそのことです。弟子たちもそうですけれども、私たちもどうもよくわからない。どうしてこんな目にわたしがあわなければならないのかと思えるときがあるわけです。意味不明・理解不能。そうしたことが人生の中に起こってきて、戸惑い、気が滅入り、立ち上がることができない。そんかときを過すことがあります。しかしイエスさまはそうしたことがあっても、聖霊の導きによって、あなたは立ち上がり、また歩み始めることができるのだと言われます。

ヨハネによる福音書16章16−19節にはこうあります。【「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。】

イエスさまは【しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。】と言われます。そして弟子たちは【何のことだろう。何を話しておられるのか分からない】と言います。弟子たちにとって、イエスさまがいなくなるということは考えられないことです。イエスさまに付き従って、そして自分たちもまたイエスさまの弟子として、人間的な意味で豊かな歩みをすることができると、弟子たちは思っていました。イエスさまについていくと、立身出世がかなうのだと思っていたわけです。ですからイエスさまが「父のもとに行く」と、弟子たちは困るのです。弟子たちは動揺して、このことについて弟子たち同士で、いろいろと話すのです。

ヨハネによる福音書16章20−24節にはこうあります。【はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」】。

イエスさまは弟子たちに、わたしが天に召されると、あなたたちは泣いて悲しみに打ちひしがれるだろう。しかしあなたがたのかなしみは喜びに変わると言われます。【女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない】と、イエスさまは言われます。イエスさまは子どもを産んだことがないので、この聖書の箇所を読みながら、目をぱちくりさせる女性の方もおられると思います。ただ、一人の子どもがこの世に生まれてくるということは、とても大きな喜びですし、「生れて、すみません」という社会にはなってほしくないと思います。

イエスさまは弟子たちに、わたしがいなくなり、あなたたちは大きな悲しみを経験する。しかしわたしはよみがえり、あなたたちと再び出会うことになる。そしてあなたたちは、こころから喜ぶことになるのだと言われます。そしてその喜びは神さまがあなたたちに対して与えてくださる喜びであるので、けっしてそれが消えてしまうことはない。わたしがよみがえるそのときに、はじめてすべてのことが、あなたたちのうちで理解されるようになり、大きな喜び、大きな安心にあなたたちは満たされる。どんな不安ななかにあっても、神さまはあなたと共にいてくださる。だからわたしの名によって神さまに願いなさい。神さまがすべてのことを導いてくださるから大丈夫だ。神さまにお委ねして歩みなさい。そうすればあなたたちは喜びで満たされることになる。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

先月、以前にいた教会の方が電話をしてくださり、教会員の方の訃報をお知らせくださいました。わたしと同じくらいの年齢の方で、教会のなかでよく働いておられる方でした。ときどき、私たちの平安教会に献金をしてくださったりする方でした。病気で突然、天の召されたということで、さびしい気持ちで一杯になりました。また先日は病気で仕事をやめて静養していた友だちが、回復をして復帰することができたということを聞いたので、お家をお訪ねしました。するとおつれあいが出てこられて、またちょっと調子を崩して入院をしているのだと伝えてくれました。このことも、なんともショックなことでした。なんか悲しいなあと思いました。つらいこと、悲しいことは起こります。そして「どうして。神さま。どうして」という思いになります。

それでも私たちは、イエスさまの御言葉を信じています。【あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる】。イエスさまが十字架につけられ、世は喜び、弟子たちは悲しみました。弟子たちはどうしたら良いのかわからなくなりました。しかし弟子たちは復活されたイエスさまに出会い、その悲しみは喜びに変わりました。弟子たちの悲しみを喜びに変えてくださった神さまは、私たちの悲しみも喜びに変えてくださると、私たちは信じています。

「生まれてきてよかった」。イエスさまは私たち一人一人がそのように思える人生であってほしいと願っています。そして私たちが悲しいとき、さみしいとき、いつも私たちの傍らにいてくださり、私たちを守ってくださっています。「その悲しみは喜びに変わる」、大丈夫、わたしがいるから。安心して歩んでいきなさい。イエスさまの慰めの言葉に励まされ、また新しい歩みを始めたいと思います。





(2026年5月10日平安教会朝礼拝式・きてみて、母の日) 


5月3日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまにつながって生きる」

 「イエスさまにつながって生きる」 

日時場所 2026年5月2日平安教会朝礼拝

聖書箇所 ヨハネ15:1-11。57/549


わたしが大学生で高松の大学に行っていたときは、まだ瀬戸大橋はできていませんでした。高松から岡山に行くのにも、宇高連絡船という船に乗って、宇野から宇野線に乗り換えて、岡山に行っていました。宇高連絡船1時間、電車1時間、合計2時間くらい高松から岡山に行くのにかかりました。わたしは京都で大学生活を送るために高松を後にするときに、高松の大学の後輩たちが見送ってくれました。紙テープを投げてくれて、「さようなら」となかなか感動的なお見送りでした。だいたい宇高連絡船にのると、かならずうどんを食べるのです。関西から帰ってきて、宇高連絡船のうどんを食べると、「あー、帰ってきたなあ」と思えるのです。いまでは高松から岡山は50分くらいでいきます。岡山で新幹線に乗り換えて、だいたい高松から京都まで2時間15分くらいです。便利になったなあと思います。四国に住んでいた者としては、やはりつながるということは、なかなか安心なものだと感じます。

つながるということは微妙なことで、なんにでもつながっていれば、なんにでも乗っかっていればいいということではないです。瀬戸大橋や明石海峡大橋で四国は本州とつながりました。そうすることによって経済的な発展を遂げるというはずだったのですが、しかし現実には本州から四国に来るというよりも、四国から本州に人が行くということが多く、あまり四国にはいいことがなかったのではないかというふうに言われたりします。四国の電車も本数がどんどんとなくなりました。安易につながるのではなく、やはり自分がどういうものを基盤として生きていくのか、何につながっていきていくのかということをしっかりと考えるということも大切なのだと思います。

ヨハネによる福音書15章5節の【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である】という聖書の言葉は、とても有名な聖書の箇所です。この聖書の言葉が好きだというかたもおられるのではないかと思います。ぶどうの木というのは、聖書の世界だけでなく、古代の世界では良きものとして扱われることが多いようです。古代オリエントでは、ぶどうの木は「健康と富」の象徴でした。また古代メソポタミアではぶどうの木は「生命の草」というふうに考えられていました。聖書では、ぶどう畑とぶどうの木は、選ばれた民の象徴として用いられています。

イザヤ書5章1ー7節には「ぶどう畑の歌」という箇所があります。旧約聖書の1067頁です。イザヤ書5章1ー2節にはこうあります。【わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねをほり、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ってのは酸っぱいぶどうであった】。

ぶどう畑やぶどうの木は、イスラエルにおいては、選ばれた民の象徴として用いられています。しかしイスラエルは神から選ばれた民であったのに、神から離れていくことがしばしばありました。そうしたことがこのイザヤ書5章1節以下には書かれてあるのです。

今日の聖書の箇所は「イエスはまことのぶどうの木」という表題がついています。昔のイスラエルではぶどうの木自体が、「選ばれたもの、選ばれた民」でありました。それに対して、イエスさまは「ぶどうの木はわたしだ」と言っておられます。そして「わたしは『まことの』ぶどうの木」と言われます。「まことのぶどうの木は、わたしである」ということです。いろいろなニセモノのぶどうの木があるわけです。イスラエルの民もそうでした。神さまから選ばれた者とされていながら、しかし結局は、彼らはニセモノのぶどうの木であったわけです。イエスさまの時代には、ファリサイ派の人々や律法学者という、ニセモノのぶどうの木がありました。彼らは律法を守りながらも、しかし虐げられている人々を蔑み、彼らを罪人であるとしていました。自分たちだけが神さまから選ばれた民であり、よいぶどうの木であるというふうに思っていました。しかし彼らはニセモノのぶどうの木でした。

ヨハネによる福音書15章1ー3節にはこうあります。【「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】。

ぶどうの木が良い実りを結ぶためには、手入れが必要です。【実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる】というと、何かとてもおそろしい脅しのような印象を受けるかもしれません。そうしたこともあるわけですが、しかし大切なことは、神さまがちゃんと豊かに実を結ぶように手入れをしてくださるということです。わたしがなにか「いい子にしていないといけない」というようなことではないのです。【わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】というように、わたしたちはすでにイエスさまによって祝福を受けているということです。私たちが何かするということではなく、私たちに大切なことはイエスさまにしっかりとつながっているということなのです。

ヨハネによる福音書15章4−6節にはこうあります。【わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう】。

イエスさまは【わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている】と言われます。私たちが一方的にイエスさまにしがみついているということではありません。イエスさまも私たちにつながっていてくださるのです。こちらのほうが大切なのです。もちろん私たちがイエスさまに救っていただこうと、イエスさまにしがみつき、イエスさまにつながっているという思いは、切実な大切な思いです。しかしそれは人間の思いです。人間の思いはうつろいやすいものです。使徒ペトロは【「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」】(マルコ14章29節)と、イエスさまに言いました。しかし使徒ペトロはイエスさまに従うことができず、イエスさまのことを三度知らないと言ったのです。

そういう意味では今日の御言葉の中で大切なのは、【わたしにつながっていなさい】ということよりも、【わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである】ということなのかも知れません。「わたしはイエスさまに付き従い、私たちはイエスさまにつながっていくことのできるりっぱな人なのだ」ということよりも、「わたしはイエスさまを離れては、何もできない愚かな者なのだ」という思いが大切なのです。

ヨハネによる福音書15章7−11節にはこうあります。【あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである】。

私たちがイエスさまにつながって生きるということは、私たちとイエスさまとの関係ということだけではないと言われます。私たちがイエスさまにつながり、私たちがイエスさまの弟子になることが、神さまの栄光をあらわすことになると、イエスさまは言われます。私たちがイエスさまにつながって生きるということが、神さまが喜ばれることなのです。私たちはしょうもないことをしますし、ろくでもないこともします。私たちは自分がだめな人間であることを知っています。そんな私たちですから、神さまが喜ばれることをして生きることなどできないと思います。しかしイエスさまはそんな私たちにも、神さまを喜ばせることができると言われます。それはただイエスさまにつながって生きるということなのです。イエスさまは私たちを、【わたしの愛にとどまりなさい】と招いておられます。

イエスさまは【わたしはまことのぶどうの木】「まことのぶどうの木は、わたしである」と言っておられます。そして【わたしにつながっていなさい】と言われます。これほどイエスさまにつながっていることが強調されるのは、とくにヨハネによる福音書の書かれた時代に、その理由があります。ヨハネによる福音書の書かれた時代は、ユダヤ教の一派であるとされていたキリスト教が、ユダヤ教から異端であるとされた時代です。「イエスを主と告白する者」は会堂から追放されるというになっていった時代です。ヨハネによる福音書9章22節には【ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである】とあります。またヨハネによる福音書16章2節で、イエスさまは【人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る】と言っておられます。ヨハネによる福音書が書かれた時代は、イエスさまを主と告白する人たちにとっては、大変な時代でした。そのためいったんキリスト者になっていながら、またユダヤ教のほうに帰っていった人々が出てきています。

ですからヨハネによる福音書が書かれて時代の人々は、「イエス・キリストにつながっている」ということが大切になってきました。そしてそうした時代の中で、「まことのぶどうの木とは誰であるのか」ということが、真剣に問われたのです。【あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる】というような言葉も、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々のことを考えると、ある種のきびしさを帯びた言葉であるということがわかります。

私たちは多くの場合、この「イエスはまことのぶどうの木」という箇所を、ある種のやすらぎをもって聖書を読みます。しかしやすらぎだけで、この聖書の箇所を読もうとするとき、いくつかの聖句にひっかかってしまします。ヨハネによる福音書15章2節の【わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる】や、ヨハネによる福音書15章6節の【わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられ焼かれてしまう】などの言葉に、どうもひっかかりを覚えてしまいます。この二つの箇所は、私たちが気分よくこの聖書の箇所を読もうとするときに、どうも不愉快な感じを与える箇所です。しかしイスラエルの民が選民と言われながら神さまから離れていったことや、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々がキリスト教からユダヤ教の離れていったことなどを思い起すとき、私たちはやはりこのひっかかる聖書の箇所の御言葉をも、しっかりとこころに留めておかなければならないのです。

しかしやはりこの聖書の箇所は、私たちにやすらぎを与えてくださる箇所です。イエス・キリストに依り頼むことの確かさを豊かに表わしてくれています。【実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる】【わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ】。私たち自身は自分の力で、とくにすばらしいことができるわけではありません。まさに、【わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである】というとおりです。しかしイエス・キリストにつながっていることによって、私たちは希望をもって生きていくことができます。私たちは自分の中には自慢できるものがないとしても、しかし「わたしはイエス・キリストにつながっている」ということだけは自慢することができるのです。

イエス・キリストにつながっているということは、私たちの気持ちをやすらかにしてくれます。人間的な目で見るところの、えらい人になる必要もないですし、力ある者になる必要もありません。私たちはただ神さまから愛されている一人の人として生きていくのです。

イエス・キリストにつながって生きるということは、生き生きと自分らしく生きるということです。「キリスト者としてこうしなければならない」という思いに縛られて、自分では何もできない奴隷のようなつながりということでもありません。イエス・キリストは私たちを自分らしく生き生きといかしてくださいます。私たちはイエス・キリストにつながって生きていると、私たちは自分が神さまに愛されているかけがえのない一人であることを知ることできます。そして自分らしく生きていくことができるのです。

イエスさまは【これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである】と言っておられます。私たちはしかめっ面をして生きていくのではなく、喜びに満たされて生きていきます。イエスさまの喜びが私たちの喜びとなり、私たちは喜びに満たされて生きていきます。

イエス・キリストにつながって、神さまの愛のうちに、やすらかに、そして自分らしく、生き生きと歩んでいきましょう。


(2026年5月2日平安教会朝礼拝)

2026年4月25日土曜日

4月26日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「なんかとってもほっとするよね」

 「なんかとってもほっとするよね」 

聖書箇所 ヨハネ13:31-35。18/482。

日時場所 2026年4月26日平安教会朝礼拝式・教会総会

     

旅行にいくときに、旅行先について書かれてある観光本を読んだりします。海外旅行にいくときなど、「地球の歩き方」という観光本を買って、その国や街についていろいろと調べたりするということをしたりしていました。

わたしの旅行というのは、名所・旧跡をひたすら訪ねるというような一人旅というのが定番でした。ひたすら名所・旧跡を訪ねるのです。暑い中、次々に名所・旧跡を訪ねて、気がつくともう2時になっていて、昼ご飯を慌ててとり、また次の名所・旧跡を訪ねていくという感じです。わたしはそうした旅行というのはふつうだと思っていましたが、どうやらそうでもないということに、数年前に気づきました。娘が旅行に出かけた時の話などを聞いていると、街をゆっくりぼんやりと歩いて、カフェに寄ってまったりと過ごし、すこし名所・旧跡を訪ね、ランチをゆっくりと食べて、まったりと過ごしというような感じで、旅行をしています。たぶんそうした感じがいまふうの旅行の仕方なのだと思います。そういう感じで、観光本をみてみると、「ことりっぷ」「ココミル」というような旅行本には、「いちおしのおしゃれなカフェ」などが、雰囲気の良い写真と共に紹介をされています。「なんかとってもほっとするよね」というような感じが、大切なのだと思いました。たぶん教会という場も、そうした雰囲気が大切なのだと思います。教会建物改修もあと1ヶ月くらいで完成ということになります。きれいになった礼拝堂で、「なんかとってもほっとするよね」という感じで過ごしたいと思いました。

今日の聖書の箇所は「新しい掟」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書13章1節以下は「弟子の足を洗う」という表題のついた聖書の箇所です。そして13章21節以下は「裏切りの予告」という表題のついた聖書の箇所です。そして今日の聖書の箇所であります、「新しい掟」となります。そのあとが「ペトロの離反を予告する」という表題のついた聖書の箇所となります。ですから今日の「新しい掟」という聖書の箇所は、イエスさまが十字架につけられる受難週という設定の聖書の箇所だということです。イエスさまが十字架につけられる前に、弟子たちに遺言のように語られたということです。

ヨハネによる福音書13章31−32節にはこうあります。【さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。】。

最後の晩餐とあと、イスカリオテのユダはユダヤの指導者たちにイエスさまを売渡しにいくために、部屋を出ていきます。イエスさまは「今や、人の子は栄光を受けた」と言われ、これから行なわれるイエスさまに対する十字架への出来事は、神さまの栄光を表す出来事であると言われます。神さまが人の罪を許すための、神さまの御子であるイエスさまが人の代わりに十字架につき、人の罪を贖う。人から見ればイエスさまが十字架につけられるという敗北の出来事に見えるけれども、それは神さまのご計画である栄光の出来事であると言われます。

ヨハネによる福音書13章33−35節にはこうあります。【子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」】。

イエスさまは弟子たちに、もうしばらくはあなたたちと一緒にいるけれども、しかしそれはもうしばらくの間だけだと言われます。もうイエスさまが捕らえられるときが近づいています。イエスさまの弟子たちは必ずあなたについていきますと言っていたわけですが、みんなイエスさまが捕らえられる時に逃げ出してしまいます。イエスさまはそのこともご存知であるわけです。みんな自分をおいて逃げ出してしまう。しかしそんな弟子たちに対して、イエスさまは弟子たちが歩んでいくべき掟を伝えます。

イエスさまは弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。弟子たちにとって「互いに愛し合う」ということは、「互いに赦し合う」ということでもあります。このあと、弟子たちはイエスさまを裏切ります。そしてみんな自分たちのことが信じられなくなります。イスカリオテのユダが、イエスさまを裏切ったように、あいつもわたしを裏切って、自分だけ助かろうとするかも知れないという思いに引きずり込まれます。そして逆に自分が裏切れば、ひとりだけ助かることができるのではないかという思いも出てきます。そしてそんな恥ずかしい思いをもつ人間であることに気づかされ、自分のことが嫌いになります。弟子たちはそうしたなかにあって、復活のイエスさまに出会い、イエスさまの新しい掟、「互いに愛し合う」ことを大切に歩んでいきます。「互いに愛し合い」「互いに赦し合う」。そしてそうした暖かい交わりを見て、人々がイエスさまの弟子である幸いを感じるようになります。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」のです。

ヨハネによる福音書が書かれた時代、ヨハネの教会の人たちも大きな課題を抱えていました。ヨハネによる福音書が書かれた時代は、ユダヤ教からキリスト教が切り離されていく時代です。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教であったわけですが、キリスト教はそうではありませんでした。キリスト教はユダヤ教の一派であったわけです。ヨハネによる福音書9章22節には、【ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである】という記述があります。新約聖書の185頁です。ヨハネによる福音書9章22節。会堂から追放されるということは、ユダヤ教の一派であったキリスト教が会堂から追放されるということです。するとキリスト教は公認の宗教ではなくなり、迫害を受けることになります。そうなってくると、イエスさまを信じていた人たちのなかにも、ユダヤ教に戻っていく人たちが出てきます。イエスさまの従うのか、それともユダヤ教に戻っていくのかということが、激しく問われた時代であるということです。

ヨハネの教会の人たちは、ユダヤ教に戻っていくことなく、イエスさまに従うべく、教会に残った人たちでした。そういう意味では信仰的にりっぱな人たちだったわけです。しかしこの出来事のために、去っていった人たちも残った人たちも、とても傷ついたことだと思います。たぶん教会の中や、親類や家族のなかで、怒鳴りあいやたくさんの非難がなされたことだと思います。「おまえは、イエスさまを捨てて、ユダヤ教に戻るのか」「そんな簡単なことじゃないんだ、あんたは実際に迫害を受けたことがないから、そんなのんきなことを言うんだ」「志を失ったら、人間は終わりだ」「あんたはいつもそんな感じでえらそうなことを言っているだけじゃないか。そんなことえらそうなことを言うより、その暴力的な態度を改めるほうが先だろう」「大きな声で、どなりあうのはやめて。ちいさなマリアが怖がってるじゃない」「あなた、鏡を見てらっしゃいよ。悪魔の顔をしているわよ」。怒鳴り声や非難の応酬、暴力や蔑みの言葉。そうしたなかにあって、人々はとても傷ついたと思います。

そんなヨハネにの教会の人たちは、イエスさまの新しい掟として、「互いに愛し合う」ということを大切にしようと思います。「互いに愛し合う」という掟は、掟としてはそんなに新しい掟であるわけではないわけです。「互いに愛し合いなさい」ということは、たぶん日常的に言われていた掟です。しかしその掟を、イエスさまが自分たちに語ってくださった「新しい掟」として受けとめ直したのです。それは自分たちの交わりに、愛がなくなっていたからです。愛を無くして、怒鳴り合い、非難をし合い、暴力を使い、蔑みの言葉をかけあっていたからです。そんな人たちがやはり、イエスさまの教えに従って、「互いに愛し合う」歩みをしていきたいと思います。そして「互いに愛し合う」ということを、イエスさまからの新しい掟として受けとめたということです。

私たちはキリスト教を伝えていくにはどうすれば良いのだろう。私たちの教会に新しい人が来てくださるにはどうしたら良いのだろうと思います。聖書はその方法について語っています。ヨハネによる福音書13章35節の言葉です。【互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」】。

【互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」】ということですから、私たちが互いに愛し合っているということが大切であるということです。「ああ、やっぱりいいよね。この教会。みんな互いに愛し合い、敬っている感じがする」。そのように思われることによって、多くの人々が教会に集うようになったということです。怒鳴り合い、非難し合っていたヨハネの教会が、そうではなく互いに愛し合い、そこに集う人々が安らぎを感じる場にしていったように、私たちの教会もまた安らぎを感じることができる教会でありたいと思います。

「なんかとってもほっとするよね」。みんながそんなふうに感じることのできる教会の歩みをこれからも続けていきたいと思います。

   

(2026年4月26日平安教会朝礼拝式・教会総会) 


2026年4月18日土曜日

4月19日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「良い羊飼いに導かれ」

 「良い羊飼いに導かれ」

聖書箇所 ヨハネ10:7-18。323/509。

日時場所 2026年4月19日平安教会朝礼拝式

 

人生のなかには良き出会いというものがあり、この人に出会うことによって自分の人生が変わったと思えるような人に出会うということがあります。

世光教会で担任教師をしておられる後宮嗣牧師は、会社で働いた後、同志社大学神学部に入学をして牧師になりました。そのきっかけになったのは、おじいさんとおばさんの葬儀だったそうです。後宮嗣牧師のおじいさんは後宮俊夫牧師です。世光教会の牧師をしておられた方で、日本基督教団の総会議長を務められた方でした。おばさんは榎本てる子牧師です。榎本てる子牧師も関西学院大学の神学部で働かれたり、エイズカウンセラーをされたり、また同志社の近くにありますバザール・カフェを作られたり、社会福祉の実践的な仕事をしておられました。後宮俊夫牧師、榎本てる子牧師の葬儀に、後宮嗣牧師が出られたときに、ほかの人の葬儀に出るのとは違った印象を強く受けられたそうです。それまで企業で働いておられたので、いろいろな人の葬儀に出席をされました。しかし後宮俊夫牧師や榎本てる子牧師の葬儀は、ほかの人たちの葬儀とは違って、多くの人々からとても慕われているということが感じられる葬儀であったそうです。そのことを強く感じて、自分もまたそのような生き方がしたいということで、仕事を辞められ、牧師としての歩みをされることになったそうです。よき導き手があるということは、とても良いことだと思わされます。

わたし自身はそうしたこの人のようになりたいという思いで牧師になるというような出会いはありませんでした。それはわたしの性格によるのだと思います。わたしはどちらかというと、熱い思いということよりも、フラットな感じのほうが好きなのだろうと思います。ですからいまはやりの「推し」というものにも、あまり興味がわきません。そんなわたしですから、熱い思いをもっている人を見ると、うらやましくなります。

人を動物で分類するというのは、まあそんなにふさわしいことでもない気がするわけですが、よくあるものに、イヌ型かネコ型かというものがあります。イヌ型の人は誰かについていくということが得意です。後宮嗣牧師のように「この方のような牧師になりたい」という強い思いをもって力強く歩んでいきます。わたしはネコ型なので誰かについていくということが苦手です。「それでは小笠原さんはどう感じで牧師になっているのか」と問われると、「わたしはネコ型なので、人についているのではなく、家についているのだ」と答えます。ネコはよく家につくと言われます。わたしは人についているのではなく、たぶん教会という家についているのだと思います。なんとなく教会という共同体が醸し出す自由で安心できる豊かな雰囲気というところが好きなのだと思います。

そんなネコ型であるわたしですけれども、イエスさまに対してだけは「この人についていく」という思いをもっています。それはイエスさまがわたしの罪のために十字架についてくださった方だからです。

今日の聖書の個所は「イエスは良い羊飼い」という表題のついた聖書の個所の一部です。イエスさまはヨハネによる福音書において、「わたしは・・・である」と言われます。「わたしはぶどうの木」とか、「わたしは世の光である」とか、「わたしは命のパンである」。そのように言われます。そして今日の聖書の箇所では「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」と言っておられます。

ヨハネによる福音書10章7-10節にはこうあります。【イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。】

イエスさまは「わたしは羊の門である」と言われます。イエスさまは門で、イエスさまを通って入る者は救われるということです。どこの国でもいつの時代でも、自分のために政治を行っている国の指導者たちがいるわけです。おかしなことをしていても、自分勝手に法律を判断して、「問題はない」と言い、自分たちのやっていることを正当化します。盗人のような指導者です。イエスさまの時代にもそういう人たちがいました。そういう人たちのところに行くのではなく、わたしのところに来なさいと、イエスさまは人々を招かれました。「わたしは羊の門である」。わたしのところに来なさい。そのように言われました。

旧約聖書のエゼキエル書34章1節以下に「イスラエルの牧者」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の1352頁です。預言者エゼキエルは当時のユダヤの指導者たちが人々のことを大切にしないで、私欲のために政治を行っていることを非難しています。エゼキエル書34章1−5節にはこうあります。【主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。】。

イスラエルの指導者たちが民のために政治を行おうとしないので、人々は疲弊し、苦しんでいます。エゼキエルは「牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」(エゼキエル書34章8節)と、イスラエルの指導者たちを非難します。イエスさまの時代のユダヤの指導者たちも、そうでした。民のために政治を行おうとせず、自分たちのための政治を行っていました。良い羊飼いがほしいのだと、人々は思っていました。それで、イエスさまは「わたしは良い羊飼いである」と言われるのです。

ヨハネによる福音書10章11ー15節にはこうあります。【わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。——狼は羊を奪い、また追い散らす。——彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。】

わたしは良い羊飼いなので、人々のために命を捨てる。良い羊飼いは羊を必死で守ろうとする。しかし羊飼いではなくただの雇い人は、危険なことが起こると、羊を守ろうとせずに逃げ出してします。いろいろな危険が襲ってくる。狼がきたり、外国の軍隊が来たり、天変地異が行なったりします。雇い人は逃げていきますが、良い羊飼いは逃げたりはしません。良い羊飼いであるイエスさまは、羊である私たちのことを良く知っていてくださいます。神さまが私たちを養ってくださるのと同じように、イエスさまは私たちのことを気にかけてくださり、私たちを守ってくださいます。

ヨハネによる福音書10章16-18節にはこうあります。【わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」】。

イエスさまは自分が属しているユダヤ民族のためだけでなく、その囲いに入っていない異邦人たちに対しても、自分は良き羊飼いとして働くと言われます。囲いのなかの人たちのことばかりを考えていると、囲いの外の人たちと囲いの中の人たちの間に大きな溝ができてしまう。そうした溝を大きな壁を作っていくということではなく、すべての人々が等しく、神さまに愛されている人間としてふさわしく生きることのできる社会を作っていくことが大切だと、イエスさまは言われます。

イエスさまはすべての人々のために、すべての人々が神さまの民として歩むことができるように、命をかけて歩まれます。【わたしは命を、再び受けるために、捨てる】というのは、いったい何のことを言っているのだろうと思うかも知れません。すこしわかりにくいことであるわけですが、これはイエスさまは十字架につけられて、三日目によみがえられるということを言っておられます。イエスさまはすべての人の罪をあながうために、十字架につけられます。人は心の中に邪な思いをもち、神さまの前に正しくない、罪を抱えた者であるわけです。しかしイエスさまが身代わりとなって、その罪をあがなってくださり、十字架についてくださいました。それは神さまのご計画であり、イエスさまがご自身の決断でもありました。ですからイエスさまは「わたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」と言われます。自分から命を捨て、そしてそれを再び受け、復活されます。「これは、わたしが父から受けた掟である」とあるように、神さまのご計画であるということです。

私たちにとって、イエスさまは単なる指導者や導き手と違うのは、イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださったからです。「この人についていきたい」「この人の生き方を見習いたい」「この人にあこがれる」ということとは別なこととして、イエスさまには「わたしは羊の門である」ということがあります。羊の門であるイエスさまを通して、私たちは神さまの前に赦され、神さまの民として歩むことができるのです。たんに、「わたしは良き羊飼いである」というように、イエスさまが私たちを守ってくださり、私たちを愛してくださっているということがあるわけです。しかしそのことだけでなく、イエスさまは私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖い、私たちを神さまのところに連れて帰ってくださるのです。

イエスさまに委ねてあゆむとき、私たちは幸いな人生を歩むことができます。イエスさまは私たちのことをよく知っていてくださいます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。私たちは弱いところもありますし、またいいかげんなところもあります。熱しやすく冷めやすく、安物の器のようなところもあります。それでも私たちはイエスさまが私たちのことを愛してくださっていることを知っています。イエスさまが私たちにとっての慰め主であることを知っています。悲しい時、さみしい時、私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださる方であることを知っています。主イエス・キリストの導かれ、良き人生を歩みたいと思います。



(2026年4月19日平安教会朝礼拝式) 


2026年4月10日金曜日

4月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「疑いは幸いに変わり」

 「疑いは幸いに変わり」

聖書箇所 ヨハネ20:19-31。325/507

日時場所 2026年4月12日平安教会朝礼拝


わたしはとても気になる性分で、ガスの栓をしめただろうかとか、ストーブをちゃんと消しただろうかとか、戸締りはちゃんとできているだろうかというようなことが、たいへん気になる性分です。寝る前などは、いろいろとチェックしないと気になってしょうがないのです。それもしっかりと見て確認しないと、気がすまないのです。台所のガスを点検したあと、ホットカーペットを消したがを点検し、ストーブを点検し、二階のトイレの電気が消えているかを点検すると、台所の換気扇がまわっていなかったかとか、台所の水道がちゃんと絞ってあったかということが、気になります。そこでまた台所にいき、確かめたあと、もう一度台所のガスは大丈夫かと、点検するような感じです。点検をしてふとんに入ったあと、まだどうしても気になってしょうがないので、寒さに震えながら、また確かめにいくというようなことさえあります。このようにあまりに気になるので、そういうことが気にならない人をみると、まさに「見ないで信じるものは幸いである」という気がします。しかしテレビの電源が気になって、下まで降りていって、点検して安心して眠ると、朝起きてみると、点検に行った時に消し忘れた階段の電気がついていたというようなこともあるわけで、いったい何のための点検なのかというようなこともあるわけです。

デカルトという16世紀のフランスの哲学者は、「われ思うゆえに、われあり」という有名な言葉を残しています。デカルトがすごいのは、自分の思想を、この「われ思うゆえに、われあり」という短い文で、わかりやすくあらわすことができたからだ、というふうに言われたりします。デカルトは確実な知識を得るためには、疑うということが大切であるというふうに考えました。そしてすべてのものを疑っていくと、どうしても疑うことのできないものがある。それは「わたしが疑う」ということと「疑っているわたしがある」ということです。こう考えて、デカルトは「われ思うゆえに、われあり」という哲学を確立したのです。

知識というのは、疑うということによって得られます。「これは、おかしいのではないか」ということがなければ、すべての学問は発達しませんでしたし、すべての技術も発展しませんでした。私たちの時代はそうした厳密な知識や技術によって、多くのものを手に入れました。しかしそのことによって、ほんとうにこれでいいのだろうかというようなことも出てきます。核兵器の問題であるとか、子供の産みわけとか臓器移植などの生命に対する倫理の問題とか、あるいはAiの技術などもそうですが、技術ではつくることができるけれども、はたしてそのことが、本当にいいことであるのかどうかということが、問われたりします。

私たちは多くの場合、そうした厳密な知識ということだけで、この世に生きているわけではありません。たとえば春になると、私たちの関心は、桜がいつ咲くかというようなことに関心を寄せます。春になると、いつ桜が咲くか気になるところですが、しかしそれは、何月何日になったら、桜が咲くとか、何月何日になったら春になるとか、気温が何度になったから春になるということではないのです。なんなく温かい日があったり、桜が咲いたりすることによって、私たちは春になるということを感じます。春になるということは、何月何日に春になったとかということではないのです。そして私たちはそんなことを必要としているのではないのです。

私たちは日々、宇宙へロケットを飛ばすような正確な知識を必要しているのではありません。私たちには、そうした厳密な知識よりもはるかに大切なものがあるわけです。桜を見てきれいであると思ったり、好きな人と一緒に桜を見たいというような、知識を越えたところで、私たちは生活しています。もちろん美意識ということについても、ある一定の価値観によって左右されているということがあるでしょうけれども、しかし人を愛するというときなど、そうした自分のもっていた価値観や美意識を越えた出会いというものがあるのです。

私たちは現実の生活において、疑いや知識ということを、それほど大切なこととして考えていないにもかかわらず、ことイエス・キリストの復活ということになると、疑いの気持ちが大きくなってくるという奇妙な気持ちを持っています。それは悪いことであると同時に、いいことであるような気がします。私たちにとって、イエス・キリストの復活は、重要なことであるからこそ、私たちは関心をもち、そして疑ってみたりするからです。自分と関係のないことや、どうでもいいことを疑ってみるということはしないでしょうし、関心を払うということがないからです。

案の定といいますか、聖書にはイエスさまの復活の出来事を疑ったということが出てきます。わたしはこの話を読みながら、ほっとします。そういう意味で、今日の聖書の箇所に出てきますトマスという人は、のちのキリスト者にとって、ほんとうに良き働きをした人だというふうに思えます。トマスは長い間、疑り深い者の代名詞として、表向きは非難され続けてきました。その疑いの姿勢を、とがめられ続けてこられたわけです。しかしそのことで非難されるとすれば、トマスはとても運の悪い人であると思います。もしトマスが、イエスさまがはじめ尋ねてこられたときに、弟子たちと同じところにいれば、彼は疑う必要はなかったからです。

今日の聖書の箇所は、「イエス、弟子たちに現れる」「イエスとトマス」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書20章19-20節にはこうあります。【その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。】。

イエスさまはマグダラのマリアに対して、墓でその姿をみせられたあと、今度は弟子たちのところにやってこられました。弟子たちは自分たちがイエスさまの仲間として、ユダヤ人たちによって捕えられることをおそれて、自分たちのいるところの戸をしめてひっそりとしていました。そこにイエスさまは現われます。【戸に鍵をかけていた】というのは、弟子たちの心がかたくなになってしまっているということを意味しています。心を閉ざしてしまって、もう何もしようとしないでひっそりとしているのです。イエスさまが生きておられたとき、イエスさまが歩まれたように、人々に仕えるものとして歩むことが教えられていました。にもかかわらず、弟子たちがしていたことは、ひっそりとして心を閉ざしているということでした。そこにイエスさまがいらしてくださり、弟子たちのかたくなな心を開いてくださるのです。

ヨハネによる福音書20賞21-23節にはこうあります。【イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」】

イエスさまは弟子たちのところへ入ってこられ、【あなたがたに平和があるように】と言われました。「あなたがたに平和があるように」というのは日常のあいさつです。しかしそれはあいさつということ以上に、イエスさまが不安なときを過している弟子たちに対して、「もうわたしが共にいるのだから、安心なんだ」ということを示されたのでした。イエスさまは自分が十字架につけられたイエスであることを示すために、十字架のつけられたときの手のきずと、死んだあと兵卒にさされたわきを、弟子たちに見せられました。弟子たちはその手とわきのきずを見て、イエスさまであることがわかり、喜びます。そしてイエスさまは彼らに聖霊を与えられます。弟子たちがイエスさまから聖霊を受けるというのは、イエスさまの死んだあと、力をなくしていた弟子たちに対して、イエスさまが再び生ける力を与えられ、そしてイエスさまが彼らに託した歩みを再びはじめられるようにとの願いを込めて行われたのでした。

ヨハネによる福音書20章24-25節にはこうあります。【十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」】。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまご自身と出会い、生ける力を与えられたのですが、しかしそのとき、たまたまいなかった弟子がいました。それがトマスでした。ほかの弟子たちはトマスに【わたしたちは主を見た】と言います。それに対してトマスは「よかった、イエスさまがよみがえられたのか」と言うのではなく、【あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない】と言ってしまいます。まるっきりイエスさまのよみがえりを信じていないわけです。

トマスのほかの弟子たちは、イエスさまから、手とわきのきずを見せられて、イエスさまがよみがえられたことを信じたのでした。しかしトマスはもう一歩進めて、「その手の釘あとを見たくらいじゃ信じられない。じっさいに自分の指をさしいれてみないと信じられない。そのわきのきずを見たくらいじゃ信じられない。じっさいに自分の手をわきにさしいれてみないと信じない」というふうに言ったのです。なかなか感心するくらいに、徹底して疑っているのです。

ヨハネによる福音書20章26-27節にはこうあります。【さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」】。

しかしそうした疑り深いトマスのところに、イエスさまはやってこられました。今度はイエスさまの弟子たちもトマスも、みんな家にいました。まえと同じように戸はみな閉ざされていたのですが、イエスさまがはいってこられ、真ん中に立たれ、【あなたがたに平和があるように】と言われました。そしてそれからイエスさまはトマスに言われました。【あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい】。イ

エスさまはトマスの疑いに対して、それを責めるのではなく、「あなたがわたしの手のきずに指を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい。あなたがわたしのわきのきずに手を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい」というふうに言われたのです。イエスさまは、疑り深いトマスのところに降りてきてくださいました。疑り深いトマスを見捨てられるのではなく、トマスが信じることができるようになるためであれば、どんなことでもいとわないというふうに言われたのです。

ヨハネによる福音書20章28-29節にはこうあります。【トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】。

イエスさまの限りないやさしさに対して、トマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」と、イエスさまに対する信仰を告白します。それに対してイエスさまは、【わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである】と言われました。【見ないのに信じる人は、幸いである】という言葉は、トマスにだけ語られている言葉ではありません。「トマスは疑い深く、見ないと信じない悪いやつだ」というふうに、よく思われています。しかしヨハネによる福音書において、復活の出来事に接した人々の多くは、みんな見て信じているのです。マグダラのマリアは、イエスさまを見ても、イエスさまであることがわかりませんでした。イエスさまから声をかけられて、イエスさまであることに、はじめて気がついたのです。トマス以外のイエスさまの弟子たちも、イエスさまが手とわきとを彼らに見せられたことによって、彼らはイエスさまを見て喜んだのです。マグダラのマリアも、そしてトマス以外のイエスさまの弟子たちも、みんな見て信じたのであって、見ないで信じたのではないのです。そしてトマスもまた、イエスさまを見て信じたのでした。

イエスさまの復活が信じられないという人々はたくさんいました。そうした人々のために、ヨハネによる福音書20章30-31節は【このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである】と言っています。「わたしがこの福音書を書いたのは、あなたたちがイエスさまを神の子キリストであると信じるためである。信じることができれば、必ずイエスさまの名によって、あなたは生き生きとした命を得ることができるのだから」と言っています。

私たちはイエスさまの弟子たちと違って、復活してまもないイエスさまを見ることはできません。私たちは「復活のイエスさまを見れば信じられるのに」と思いますが、しかしそれは不可能なことです。私たちは聖書をとおして、イエス・キリストに出会い、信じることができるのです。それは、見ないで信じることであります。イエスさまの弟子たち以後の人々は、みな、見ないで信じたのです。ペトロの手紙(一)1章8節にはこうあります。新約聖書の428頁です。【あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています】とあります。

「見ないで信じる者は幸いである」と言われると、「見ないで信じることなどできない」というふうに、私たちは思ってしまうことがあります。しかし見たものがすべて正しいということではないのです。テレビ番組は、見て信じるということのあやうさを教えてくれます。基本的にテレビの映像というのは、こころから信じてはいけないと思ったほうがいいいと思います。テレビでいつも出てくる問題は、ドキュメンタリー番組のやらせということが問題です。私たちはテレビで見る映像がすべて正しいような気がしますが、しかし多くの映像は再現であるわけです。私たちはやらせの番組をみて信じるわけですが、しかしそれは真実ではなかったりするのです。逆に、テレビの映像をみても、本当に見たことにはならない。現実にそのところにいって見なければ見たことにはならないというのであれば、ほとんどのものを私たちは見ないで信じていることになります。

見て信じることの危うさを知っているのと同時に、見ないで信じることの確かさをよく知っています。私たちが本当の意味でより頼んでいる、愛とか信頼とかいうものは、それを見て信じるのではなくて、見ないで信じているのです。「わたしの愛する人は、わたしを裏切るはずはない」とか、「あの人は信頼することができる」というのは、見ないで信じているのです。そして多くの場合は、そうしたことは自分が見て確かめることよりも、見ないで信じていることのほうが確かであるのです。

私たちは、見て信じることの危うさや、見ないで信じることの確かさということは、いろいろな形で知ることができます。しかしそうした事例をいくつもあげたとしても、こと信仰についてはなかなか疑いの気持ちなくなることはありません。なかなか信じられないものであります。わたしはそれはそれで仕方のないことだと思います。信仰とはどうでもいいことではなく、その人にとってもっとも大切な事柄です。それだけ真剣な事柄であればこそ、疑いの気持ちが出てくるのです。そして「そうした私たちの心に中にうかんでくる疑うの気持ちがだめだ」と、聖書は私たちを裁いているわけではないのです。「見ないで信じる者は、幸いである」という言葉は、裁きの言葉ではないのです。

聖書が語ることは、「疑ってはいけない」ということではありません。「疑うものは神さまから裁きを受ける、神さまは信じられない者を裁かれる」ということではないのです。疑ってはいけないということではなく、疑っている私たちを許してくださっているということが大切なのです。イエスさまは疑っているトマスのところに、わざわざ現われてくださるのです。そしてイエスさまがきてくださったことによって、トマスは信じることができたのです。私たちは疑い深い者であるかも知れないけれども、神さまはそういう私たちの疑いを幸いに変えてくださるかたなのです。私たちの疑いを疑いのままで終わらせることなく、幸いに変えてくださる神さまによって、私たちは生かされているのです。私たちをとらえて離さない神さまの愛によって、私たちは見ないで信じる者へと導かれていくのです。

疑いは幸いに変わるのです。自分たちのちっぽけな信仰などをあてにするのではなく、疑っても疑っても、私たちを愛してくださる、神さまの愛を信頼して歩んでいきましょう。


(2026年4月12日平安教会朝礼拝)


2026年4月4日土曜日

4月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「不安が取り除かれる朝」

「不安が取り除かれる朝」

聖書箇所 マルコ16:1-8。327/326。

日時場所 2026年4月5日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝


イースターおめでとうございます。よみがえられたイエスさまと共に、こころ平安に歩んでいきたいと思います。去年の10月から教会建物改修を行なっていますので、イースターの礼拝は集会室で行なうことになりました。5月の中旬に改修が完成いたします。5月31日(日)教会建物改修完成感謝礼拝を、礼拝堂にもちます。ぜひいらしてください。

SNS(X.旧twitter)をみていると、こんな文章が次のような文章がでていました。【さっきNHK AMでラジオ体操を聞いていたら突然休止し、「誤って火曜日の音源を流してしまいましたので改めて水曜日の音源を流します」と言って、改めて最初の音楽から流れました。火曜日と水曜日の違いがわかりませんでしたが、どこか違っているのでしょうか?】。それに対して、【ラジオ体操は、実は毎日内容が違います。「皆さん、お早うございます。〇曜日、朝の体操の時間です。」というセリフの曜日が違うほかに、アナウンサーさんは2人いて、毎日交代して放送しています。それから、あまり知られていないことですが、ピアノの伴奏者さんも3人いて、毎日違うのです。】。みなさん知っておられましたか。わたしは知りませんでした。そのほかには、【おはようございます。始めまして。ラジオ体操は同じ人、同じパートでもセリフが異なります。鈴木大輔さんの場合、私はラジオ体操第二の「前後に曲げる運動」でバージョンの違いを聞き分けています1. (普通に)後ろ反り 2. 後ろ反りぃ〜 3. 笑顔で後ろ反り♥ 4. その他 などがあります。良い一日を!】というようなことを言っておられる方もおられました。

ラジオ体操など、毎日同じことをしていると思って、なかなか気がつかないわけですが、でもそこにはしっかりと一生懸命に働いておられる方がいて、そのようにして、世の中は回っているんだなあと思いました。あまり気づかれないようなことを、丁寧に行なってくださっている方が、私たちの世の中を支えてくださっているのだと思います。日常生活が何事もなく回っているというのは、とても尊いことで、そのことのためにいろいろな人たちが丁寧に働いてくださっています。

今日の聖書の箇所は、「復活する」という表題のついた聖書の箇所です。マルコ16章1−2節にはこうあります。【安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。】。

マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメは、イエスさまの葬りの備えをするために、イエスさまが納められた墓に向かいます。イエスさまが十字架につけられて殺されたわけですから、イエスさまの遺体を葬らなければならないわけです。どんなに悲しくても、どんなにつらくても、葬りの用意をしなければならないですし、そのことを淡々と行なおうとする女性たちがいたわけです。葬りの備えをするということ自体は、特別な出来事であるわけですが、だれから天に召されたら必ずだれかが行わなければならないことです。イエスさまが天に召されたのだから、丁寧に葬りの備えをしなければならない。その役割を担ったのは、女性たちでありました。

イエスさまの弟子たちは、いろいろと大きなことを言っていたわけですが、イエスさまが捕まった時に、逃げ出し、そして隠れています。イエスさまのお弟子さんのペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言っていたわけですが、イエスさまを裏切ってしまいます。「たとえ、御一緒に死ななければらなくてなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言っていたわけですが、イエスさまのことを三度知らないと言ってしまいます。

大きなことを言っていた人はいなくなり、いつも小さなことに丁寧に向き合っていた女性たちが、イエスさまの葬りの備えをしようとするのです。聖書を読んでいますと、生きていく上での知恵が身に付きます。「大きなことを言っている人は、途中で逃げ出してしまうというようなことは、たしかにあるよなあ」と思えます。「そういう人たちにだまされがちだけど、気をつけないといけないなあ」と思えます。「地味に見えても、誠実に物事に向き合う人は、やっぱりいい人だよなあ」と、聖書を読みながら思えます。

マルコによる福音書16章3−5節にはこうあります。【彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。】

女性たちには心配事がありました。それはイエスさまのお墓の入り口にある大きな石をどうしたら良いだろうということでした。自分たちだけでは重過ぎて、その石を転がすことができないのです。かといって、自分たち以外に人はいないわけです。大きな石が墓の入り口にあるのに、それを取り除く手当てを考えないで、墓の前に行ってどうするのだ。そんな行き当たりばったりで良いのかということであるわけですが、まあでも仕方がないのです。それ以外、方法がないのです。困ったことがあるけれども、でもとにかく行かなければならないということが、人生には起こってくるのです。そしてその場で、どのようにしようか考えるしかないというようなことがあります。

しかし女性たちが心配していたことは解決していました。大きな石はすでにわきへ転がしてあって、墓の中に入ることができました。女性たちが墓の中に入ってみると、白く長い衣を来た若者がいました。イエスさまのご遺体があると思ったのに、イエスさまのご遺体はなくなり、天使のような若者がいたので、女性たちはびっくりします。

マルコによる福音書16章6−8節にはこうあります。【若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。】

若者はイエスさまが墓の中にはおられないことを、女性たちに告げました。そして以前からイエスさまが行っておられたように、イエスさまはよみがえられてガリラヤに行かれる。そのことをイエスさまのお弟子さんたちとペトロに告げなさいと、若者は女性たちに言いました。若者は女性たちに大切なことを伝えたのですが、女性たちは怖くなって、墓から逃げ出してしまいます。とてもとても怖くて、震えてしまい、正気を失ってしまいます。「弟子たちに伝えてください」と若者から言われたのですが、でも女性たちはだれにも話すことをしませんでした。怖くて、怖くて、たまらないかったのです。

マルコによる福音書が記しているイエスさまの復活の物語は、とても奇妙な物語です。【婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである】。イエスさまのご復活という喜ばしい出来事を伝えるにはほどとおい、とても不思議な語りになっています。不思議というよりは、怖いという語りになっています。

せっかくイエスさまのお墓にきて、心配事であった、墓の入り口の大きな石も取り除かれていたわけですから、「ああ、不安は取り除かれ、良いイースターの朝ですね」「こころ晴れ晴れです。イエスさまのご復活おめでとうございます」というふうに言いたいところであるのに、聖書は【婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである】というような恐ろしいことを語ります。正気とは思えないというような気がします。

マルコによる福音書のイエスさまの復活物語は、「信仰というのはこういうものなのだ」ということを、私たちに教えてくれます。人が信じるというのは、「はい、そうですか。わかりました」というようなものではないということです。「信じますか」「はい、信じます」というようなことではないということです。「いま、決めてください。信じますか、信じませんか」というようなものでもないのです。ただ真剣に求めていく時に、いろいろなことがありつつも、神さまに導かれて、神さまを信頼し、神さまにお委ねして歩んでいくということになるということです。

『信仰』(2022年、文藝春秋)という小説を書いている小説家の村田沙耶香は、「速度の速い正しさは怖い」と言っています。「速度の速い正しさは怖い」。現代はいろいろなことが早いスピードで広まっていきます。誤った情報であっても、どんどんどんどんと広がっていきます。とくに人を刺激的なものはそうです。地震が起こったあと、ライオンが逃げ出しているような映像や、東日本大震災の津波の映像などが流れたりします。またうそか本当かよくわからない情報であっても、義憤にかられて、人を強く非難するようなことが、インターネットの世界やテレビの世界で行なわれたりします。自分は正しいことを言っている、正しいことをしているという思いに駆られて、あまり考えることもなく、発言し続けるというようなことがなされたりします。「速度の速い正しさ」を語る人は、それがどのような影響を及ぼすのかというようなことを顧みることなく、ただただ強い主張をまき散らします。そしてぎすぎすとした怖い社会になっていきます。

キリスト教の信仰はそうした早さのある信仰ではありません。「信じますか」「はい、信じます」「はい、そうですか。わかりました」というようなものではありません。イエスさまの復活に出会った女性たちは、驚いたり、震え上がったり、正気を失ったり、怖がったりしながらも、でも神さまに導かれて、信じる者へと招かれていきます。そしてイエスさまに従っていきます。

【婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである】。聖書はそのように語るわけですが、でもイエスさまの復活の出来事は、人々の間でどんどんと広がっていきます。【だれにも何も言わなかった】にも関わらず、広がっていくのです。それは人の出来事ではなく、神さまの出来事であるからです。

私たちは人間ですから、いろいろなことにつまずきます。自分の力を越えた出来事を前にして、「どうしよう」「ちっぽけなわたしに何ができるだろう。なんにもできないのではないか」。そんな思いになります。でも小さな小さなわたしに神さまが働いてくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。

マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イースターの朝、不安を抱えて、イエスさまのお墓にやってきました。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。しかし墓の入り口の大きな石は、神さまが取り除いてくださっていました。不安の中にある私たちを励まし、導いてくださる神さまがおられます。力強い御手でもって、私たちを守り導いてくださる神さまがおられます。小さなわたしを励まし、用いてくださる神さまがおられます。神さまの招きに応えて、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。



  

(2026年4月5日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝) 


3月29日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「神に委ねたいのち」

「神に委ねたいのち」

聖書箇所 マルコ15章33-41節。307・311。

日時場所 2026年3月29日平安教会朝礼拝・棕櫚の主日礼拝


わたしは昔、新潟県の三条市で牧師をしていまいました。三条市の近くには新潟県三島郡出雲崎町というところがありました。出雲崎は良寛という僧侶が生まれた町です。良寛は、1831年1月6日(陽暦2月18日)に天に召されました。葬儀は1月8日に行われ、その日はかなりの雪が降ったそうです。伝承では、寒い雪の中約千人の人が葬儀に参列したと言われています。

良寛の辞世の歌は、【形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉】であったと言われます。「形見とて何か残さん」と言ったとき、このままの自然は、わたしが天に召されたあとも、悠然と過ぎていく。わたしも自然に帰るだけだ」というような歌でしょうか。

年老いた良寛の世話をしていた貞心尼(ていしんに)は、良寛との日々を書いた「はちすの露(つゆ)」という著書の中で、良寛の辞世の句について書いています。【ても遠からず、かくれさせ給ふらめと思ふにいと哀しくて 貞 「いきしにの さかひはなれて すむみにも さらぬわかれの あるぞかなしき」(生き死にのさかい離れて住む身にも、さらぬ別れのあるぞ悲しき) 御かえし 「うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ」(裏を見せ 表を見せて散る もみぢ) 師】。貞心尼が良寛が天に召されようとしているのを悲しく思い、「生死の境を離れれば仏となる。仏となって身にも別れは悲しいのでしょうか」という歌を良寛に対して読みます。それに対して良寛は「貞心、おら、おめさんにおらのうらもおもてもみせた。もうもみぢのように散っていくさ」と答えたのでした。「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」、これが良寛の辞世の句だと言われたりします。

しかし別の話もあります。良寛に辞世の句について人が尋ねたら、「散る桜 残る桜も 散る桜」と答えたと言われます。「いまわたしは桜のように散り、天に召されようとしているけれども、いまわたしを天に送ろうとしているみんなも、わたしと同じようにいつかは天に召されるんだよ」というような句でしょうか。「散る桜 残る桜も 散る桜」、これが良寛の辞世の句だと言われたりもします。

また、別の話もあります。【「良寛の辞世を何と人問はば死にたくないといふたとしてくれ」であったという】という話もあります。(「良寛禅師重病の際、何の御心残りはこれなきかなと人問いしに、死にとうなしと答う。また辞世はと人問いしに、散る桜残る桜も散る桜」、地蔵堂町の小川家に残された文書)。良寛くらいえらい人になると、辞世の歌や句というものが、どんなものであったのかということが問われます。「やっぱり良寛様はりっぱなことを言って死んで行かれた」。みんなそのように思いたいわけです。しかし良寛は人間はそんなにきれいに死んで行かなくていいんだと言うのです。そんなりっぱに死ぬ必要なんかない。説教をたれながらりっぱに死んで行かなくても、「死にとうない」と言って死んでいけばいいんだと、良寛は言ったということです。

良寛の死に際しての話はこのようにいろいろあるわけです。しかしもっとも確証のある話は、つぎのようなものです。良寛をよく知っていた證聴(しょうちょう)は「師即開口阿一声耳。端然座化」(師即ち口を開きて阿一声するのみ。端然として座化す)と記しています。良寛は師に際して「あっ」と一言いっただけであった。そして座ったまま成仏したということです。良寛の死に際というのは、たぶんこういう感じだったのだと思います。しかし後の人はいろいろと正に死に際というようなときでないような話ももってきて、良寛の辞世の歌や句にしたり、死に際の話にしたりしています。わたしは個人的には「良寛の辞世を何と人問はば死にたくないといふたとしてくれ」という話がとても好きです。そしてほんとうに良寛らしい話だと思います。良寛の世の中に対するひねかたとか、その生き方というものをよくあらわしたような話だと思います。

この良寛の死に際しての話は、イエスさまの死についての話を思い起こさせます。イエスさまの死についても、それぞれの福音書がそれぞれに、イエスさまの死について書いています。今日の聖書の個所は「イエスの死」という表題のついた聖書の個所です。マルコによる福音書15章33ー34節にはこうあります。【昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時になるとイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である】。

マルコによる福音書では、イエスさまが十字架につけられたのは午前九時でした。それから6時間後の3時に、イエスさまは天に召されます。その間、イエスさまは十字架につけられていたということです。十字架刑というのは苦しみが一瞬で終わるという刑罰ではありません。首を切るというのであれば、短い時間で終わるわけです。しかし十字架刑というのは、手だけで体を支えていることによって呼吸困難になり、長い間かかって死ぬことになります。2日くらい生きている人もいるようです。イエスさまは最後のときを意識したのでしょうか、イエスさまは大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「神さま、どうしてわたしを見捨ててしまわれたのですか」。イエスさまはお声でそう叫ばれました。

マルコによる福音書15章35−36節にはこうあります。【そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした】。

酸いぶどう酒というのは気付け薬です。イエスさまが苦しみのため意識がもうろうとしているのを、酸いぶどう酒を与えて意識をはっきりさせようとしています。そしてイエスさまが「エロイ、エロイ」「神さま、神さま」と呼んだのを聞いたので、「神の子イエスを神さまが助けに来るかどうかみよう」と言ったのでした。

マルコによる福音書15章37−39節にはこうあります。【しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った】。

イエスさまは大声を出して叫び、天に召されます。そのとき神殿の垂れ幕が真っ二つにさけます。神殿の垂れ幕が裂けるというのは、神さまに頼るのではなく、人が作り出した神殿に頼る人間に対する神さまの怒りを表しています。神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことをみて、異邦人である百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と信仰の告白をします。

マルコによる福音書15章40−41節にはこうあります。【また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちも大勢いた】。

イエスさまの死を遠くから見守っていたのは、女の人たちでした。イエスさまの弟子たちはこのときみんな逃げ出していたのです。イエスさまに一番近かったはずの弟子たちは逃げだしています。ペトロはイエスさまを知らないと言ったのに、イエスさまの死に際して、異邦人である百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言いました。また12弟子に入れられることのない女の人たちが、イエスさまの死を見守っていたのです。

イエスさまの十字架のうえでの死について、四つの福音書が記しています。その描き方は同じではありません。マルコによる福音書のイエスさまは、いまみてきたように、大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。マルコによる福音書のイエスさまは、十字架のうえで泣き言をいう、あまり格好のよくないイエスさまです。マタイによる福音書(2745-2756)もマルコによる福音書によく似ています。ルカによる福音書(2344-2349)のイエスさまは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫びます。また十字架につけられたときは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言います。ルカによる福音書のイエスさまは、格好のいいイエスさまです。ヨハネによる福音書(1928-30)は「渇く」「成し遂げられた」というふうに言います。とても淡々としています。それぞれの福音書が、イエスさまの死に際を、自分の思うように描きます。それはそれぞれがイエス・キリストに対する信仰の告白であるのです。いろいろに描かれるイエスさまの死に際ですが、共通していることは、イエスさまが神さまによって祝福されているということです。イエスさまは神さまの御旨として、十字架につけられ、天に召されたということです。

マルコによる福音書のイエスさまは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と嘆きます。マルコによる福音書のイエスさまは、格好よくありません。もっと格好よく、天に召されてもいいのではないかとも思います。じっさいもっと格好よく天に召されるえらい人はたくさんいます。しかしイエスは泣き言を言いながら、天に召されていきます。格好悪い。しかしわたしはこの格好悪さが、私たちにとって大きな救いなのです。

イエスさまは自分の十字架を背負うこともできないで、十字架につけられ、ぼろぼろになり、叫び声をあげて、天に召されていきます。十字架から降りてくることもなく、なさけないなりで天に召されていきます。この格好の悪さが、私たちにとって大きな救いなのです。苦しみを苦しみとして、叫び声をあげる。格好よく死んでいこうなどと思わない。「イエスはなさけないやつだった」と人々はうわさをするかも知れない。しかしそれでもかまわない。

イエスさまは十字架のうえで「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と嘆くのは、イエスさまが私たちと同じように、苦しみの極限を経験されたということです。私たちと同じように、神さまに対して嘆きの声をあげて、天に召されていった。そのことによって、私たちは同じように神さまに対して嘆きながら生きている私たちをも、神さまは受け入れてくださり、愛してくださっていることを知ることができるのです。十字架のうえで嘆くイエスさまは、すべてを神さまにゆだねているしるしです。神さまの前では、格好のよさなど必要ない。神さまの前では、自らのすべてをさらけ出し、どろどろとした心のなかをすべて神さまにお見せしてもかまわないということです。どろどろとした罪のなかにあっても、神さまは私たちを愛し、祝福してくださっている。イエスさまはすべてを神さまにゆだねられたのでした。

私たちの神さまは、苦しみのなか叫び、泣き言をいう弱さをも受け入れてくださる神さまです。私たちひとりひとりをそのままで愛してくださり、私たちを憐れんでくださるかたなのです。詩編31編23節は、つぎのように神さまを讃美しています。旧約聖書の862頁です。詩編31編23節、【恐怖に襲われて、わたしは言いました「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声をあなたは聞いてくださいました】【恐怖に襲われて、わたしは言いました「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声をあなたは聞いてくださいました】。

私たちは強い者ではありません。いろいろなことに恐ろしくなって、おびえてしまいます。普段は「神さまがいちばん」などと言っていても、いざとなるとこの世のおきてに身をゆだねてしまいます。苦しいことや悲しいことがあれば、「御目の前から断たれた」、「神さまはわたしを見放してしまわれた」と言ってしまいます。そんな弱さをもっている私たちです。嘆き、悲しみ、絶望して、叫び声をあげる。「神さま、どうして、わたしを見捨ててしまわれたのですか」。イエスが十字架のうえで叫んだ叫びは、弱い私たちの叫びです。しかしその叫びは、神さまに向かっています。神さまが聞いてくださっているのです。嘆き祈る私たちの声を、神さまは聞いていてくださるのです。私たちは神さまの前で、格好をつける必要はないのです。

イエス・キリストは十字架への苦難の道を歩まれました。絶望にみえるその道こそが、私たちにとって希望であります。弱々しいイエス・キリストの姿こそ、私たちにとって救いです。私たちの主イエス・キリストは、すべてを神さまにゆだねて歩まれました。なにもかも神さまにゆだね、神さまから与えられたいのちを、神さまに返されました。私たちも主イエス・キリストと共に、すべてを神さまにゆだねて歩んでいきましょう。私たちの弱さを受け入れ、私たちの罪をイエス・キリストの十字架によって赦してくださる神さま。私たちを赦し、祝してくださる神さまに感謝して、すべてを神さまにゆだねていきましょう。



(2026年3月29日平安教会朝礼拝・棕櫚の主日礼拝)


8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...