2026年3月21日土曜日

3月22日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「あなたのほしいものは何ですか」

 「あなたのほしいものは何ですか」

聖書箇所  マルコ10:32-45。306/305。

日時場所 2026年3月22日平安教会朝礼拝式・受難節第5週

      

年をとってくると、若い時のように、「これがほしい。あれがほしい」というような気持ちがちょっと落ち着いてくるような気がします。もちろんもうすでにもっているということもあると思います。冷蔵庫もあるし、テレビもあるし、スマホもあります。自動車などは、「これがほしい」ということよりも、「いつ手放すのか」ということのほうが、年をとってからの話題であるわけです。わたしはこの3月17日で、63歳になりました。サザエさんのお父さんの磯野波平さんは54歳ということですから、わたしのほうがほぼ10歳年上です。わたしも63歳ですから、その年齢でできることを考えます。「またスキーをやってみたいなあ」とか「オートバイに乗ってみたい」とか、もうあと10年経ったらぜったいできないことについて、いまならできるのではないかと考えてみたりします。そういう意味では、逆算して、いろいろなことを考えたりすることがあるわけです。若い時というのは、そういう考え方をすることは、あまりありません。ただやってみたいとか、ただほしいというようなことを考えます。ほしいものなども、若い時は「これ、ほしい」と思ったけれども、もう年をとったのでいまさらほしいとは思わないというような気持ちにもなります。わたしも10年前は、いろいろなものをインターネットで検索して、「ああ、これいいなあ」「これほしい」というようなことをしていましたが、いまは「まあ、そんなに必要ないやろ」と思い直すことが昔に比べて多くなりました。

「マダム・イン・ニューヨーク」というインド映画を先週見ていました。シャシという主人公がいう言葉に「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」のがあります。シャシは二人の子供と夫のために尽くすけれども、英語がはなせないということで、ときどき家族からも失礼な振る舞いをされたりします。シャシは「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」と言います。人によって、また年齢によって、状況によって、ほしいものはさまざまでしょう。イエスさまは今日の聖書の箇所で、「あなたのほしいものは何ですか」と問われます。

今日の聖書の箇所は「イエス、三度目の死と復活を予告する」「ヤコブとヨハネの願い」という表題のついた聖書の箇所です。「ヤコブとヨハネの願い」という聖書の箇所は、ヤコブとヨハネが出世したいと、イエスさまに願い出たという話です。地位や名誉を願い出たという話ですから、若い時はとても気になる聖書の箇所ですけれども、年をとったいま読んでみると、若干、自分のこととして考えにくい聖書の箇所になっているなあというような気もいたします。願い出た内容は置いておいて、ヤコブやヨハネやイエスさまの弟子たちの前に進んでいく勢いみたいなものは、それはそれでうらやましいような気もします。しかし、勢いだけで生きていくのは、ちょっと違いますと思いますから、すこし落ち着いて自分の歩む姿勢を整えていくということもまた大切なことだと思います。

イエスさまは自分の死と復活について、弟子たちに話されました。イエスさまが自分の死と復活について話されるのは、これで三度目です。今日は受難週第5週の始まりです。来週の日曜日は棕櫚の主日です。イエスさまが子ロバにのって、エルサレムに入城され、そして受難週の歩みをされることになります。

イエスさまはエルサレムに行かれます。そして祭司長たちや律法学者たちによって捕まえられ、裁判にかけられます。イエスさま裁判で死刑の宣告をうけられます。そして十字架を背負ってゴルゴタの丘へと歩み、人々から蔑まれ、侮辱され、唾をかけられ、兵士によってむち打たれ、そして十字架にかけられ、天に召されます。そして三日ののちに、イエスさまはよみがえられます。

神さまはイエスさまによって私たち人間の罪をあがなってくださり、そして私たちは神さまの前に救いを得ることができました。イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。イエスさまは神さまの御子であったのですが、ほめたたえられることを望まず、人々に仕えて、そしてすべての人のしもべとなる生き方をされました。その生き方について、イエスさまは「死と復活を予告する」ということを話すことによって、弟子たちに伝えようとされたのですが、しかし弟子たちはそのことを理解することはありませんでした。

そして今日の聖書の箇所の「ヤコブとヨハネの願い」という話になるわけです。マルコによる福音書10章35−40節にはこうあります。【ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」】。

ヤコブとヨハネは、イエスさまの弟子のなかで、とてもよく用いられた弟子でした。ヤコブとヨハネは、イエスさまに「イエスさまがえらくなったときは、私たちを特別に用いてください」とお願いをします。しかしイエスさまはヤコブとヨハネに対して、「あなたがたはよくわかっていない」と言われました。イエスさまが十字架への道を歩まれると話しておられたのに、ヤコブとヨハネは自分たちの出世の話をするからです。イエスさまは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と、ヤコブとヨハネに問いました。「わたしが飲む杯」というのは、イエスさまの十字架ということであり、ヤコブとヨハネもイエスさまと同じように、迫害を受け、そして辱めを受けて、殺されるかも知れないということです。ヤコブとヨハネは、イエスさまが言っておられることの意味もよくわからず、「できます」と答えます。イエスさまは「あなたたちはわたしと同じ苦しみを受けることになるだろう。しかしわたしの右や左に誰が座るかということは、神さまが決められることであり、わたしが決めることではない」と答えられました。

マルコによる福音書10章41−45節にはこうあります。【ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。】。

ヤコブやヨハネがイエスさまに自分たちの出世を願い出たことについて、他の弟子たちは腹を立てます。みんなヤコブやヨハネと同じように、自分たちも出世したいという思いをもっていたからです。まあみんな若者であるわけですから、仕方がないのです。弟子たちはみんな若いですから、勢いで生きています。逆に、勢いがなければ、イエスさまについて行くというようなことはできないのです。

しかしイエスさまは弟子たちを諭されます。みんな知っていると思うが、世の中では支配者と見なされている人々が民を支配し好き勝手なことをしている。偉い人たちが権力をもって、人々を虐げている。そんな世の中、あなたたちはどうもうのか。そんな世の中でいいのか。世の中は力やお金で動いているけれども、あなたたちのなかはそうであってはだめだ。偉くなりたい人はみんなに仕える人になってほしい。いちばん上に立つ者は、みんなの僕になってほしい。そうした生き方をしてほしい。そうした生き方を神さまは喜ばれる。わたしもまたそのように生きている。わたしは人々の罪のために十字架につくために、わたしはこの世に来たのだ。そのようにイエスさまは言われました。

私たちは昔に比べて、宗教性を失った社会に生きています。自分のことばかりを考えて、自己中心的な考え方に陥ってしまい、周りの人のことも考えるというような道徳的なことは後回しにされるような社会です。宗教性を失った社会は、さみしい社会になっていきます。島田裕巳(しまだ・ひろみ)という宗教学者は、「宗教で読み解く現代世界-ニヒリズムの時代に対抗する宗教」というカルチャーセンターでの講義のなかで、エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』(文藝春秋)(P.170)を紹介しています。

エマニュエル・トッドは宗教の衰退の段階を三つに分類しました。活動期、ゾンビ段階、宗教ゼロ段階。活動期というのは、宗教が世の中で活発に行なわれている状態です。そしてゾンビ段階というのは、信仰心は失われているけれども、洗礼・結婚式・葬儀などの儀礼習慣は残っているという状態です。そして宗教ゼロ段階というのは、宗教的な習慣も消えてしまい、宗教が支えていた道徳観や価値観が失われてしまっている状態です。いまの西洋社会の状態はそのような状態だということです。宗教はみんなを柔らかく一つにまとめる働きをしていたわけですが、それさえもなくなり、社会はニヒリズム(虚無主義)に陥っているということです。エマニュエル・トッド自身は、「わたしは神を信じていない」と言うわけですが、それでもこの宗教ゼロ社会という世界の状況は、とても危機的な状況だと言うわけです。宗教ゼロのエマニュエル・トッドであるわけですが、宗教ゼロの社会はとても危険な社会だというわけです。

日本でもそうですけれでも、「お天道(てんとう)さまが見ているよ」というようなことが、社会のなかにはあったわけです。自分以外の誰かが見ているという視点をもって、多くの人々は生きてきたわけです。しかし現代ではそうした感覚は失われ、「いまだけ」「かねだけ」「じぶんだけ」というような感覚が、この世をうまく生きる上での指針であるかのような主張が得意げにされるようになってきます。他者の視点というのが失われてしまっているわけです。

実際の世の中は、多くの人々が助け合うことによって動いています。また自分の代以前の人の良き働きによって、いまの社会が成り立っています。私たちは言葉を自分でつくったわけではないですし、また私たちは先人たちが獲得した法律の恩恵によって生きています。

わたしはエマニュエル・トッドと違って、神さまを信じていますから、世界がこのような状態になっていることに対して、わたしが神さまのことをもっともっと一生懸命に伝えたらよかったとの思いがあります。もっともっと人々が神さまを信じるようになり、まっとうな世界に戻ってほしいという思いがあります。

イエス・キリストは神さまの御子であったわけですが、私たちの世にきてくださり、私たちのために十字架についてくださいました。そして弟子たちに、自分のことだけを考えて生きるのではなく、隣人のことを考えて、みんなで一緒に助け合って生きていくことを進めました。そしてなかなかできることではないかも知れないけれども、自分が偉くなりたいというような志の高い人々は、人に仕える生き方を心がけてほしいと言いました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

イエスさまはヤコブとヨハネに「何をしてほしいのか」「あなたのほしいものは何ですか」と問いかけられました。ヤコブとヨハネは「出世したい」「えらくなりたい」と答えたわけです。でもイエスさまは「あなたのほしいものと、あなたが本当に必要としているものは、おなじものではない」と言われます。あなたのほしいものは、出世することやえらくなることかも知れない。でもあなたが本当に必要としていることは、そうしたことではない。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。あなたが必要としていることは、謙虚な思いになって、隣人と共に歩んでいくことだ。わたしがそのようにしたように、あなたもまたそのようにしてほしいと、イエスさまはヤコブとヨハネ、そして弟子たちに言われました。

レント・受難節も第五週を迎えました。私たちはイエス・キリストの歩みを、こころに深く受けとめたいと思います。イエスさまは仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られました。そのイエスさまの愛の姿を、こころに受けとめて、私たちもイエスさまの愛にふさわしい歩みでありたいと思います。


  

(2026年3月22日平安教会朝礼拝式・受難節第5週) 


     

3月15日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまは十字架へと歩まれた」

 「イエスさまは十字架へと歩まれた」

聖書箇所 マルコ9:2-10。301/300

日時場所 2026年3月15日平安教会朝礼拝・受難節4


十字架というものは不思議なもので、刑罰の道具であったものが、いまではジュエリー・アクセサリの形として使われています。京セラジュエリーの「ダイヤモンド プラチナネックレス」(計0.3カラット/クロスモチーフ/4月誕生石)《BPDD3185W》、131,000円。高いんだか安いんだかさっぱりわかりませんが、十字架にダイヤモンドがついていて、なかなかりっぱです。いまなら「金の十字架がいいですか、ダイヤモンドの十字架がいいですか、木の十字架がいいですか」と、いろいろ選べるわけですが、イエスさまの時代はそういうわけにもいきませんでした。イエスさまは木の十字架につけられました。ゴルゴタの丘に十字架の縦の部分が埋まってあって、そしてそこに十字架刑を受ける人が十字架の横の部分を、自分で運んでくるわけです。

それはそれで道理にかなったことです。十字架は刑罰の道具であったわけですが、しかしイエスさまが十字架につけられたことによって、栄光のしるしとなったからです。教会の屋根の上に十字架があるということは、まあふつうのことであるわけですが、イエスさまの時代に建物の上に十字架をつけていたりすると、それはちょっと不吉な建物と見られたことでしょう。十字架は恥さらしで不吉なものであったわけですが、しかしいまは十字架は聖なるものとされています。

今日の聖書の箇所は「イエスの姿が変わる」という表題のついた聖書の箇所の一部です。この聖書の箇所は、「山上の変容」と言われる聖書の箇所です。マルコによる福音書9章2ー4節にはこうあります。【六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた】。

マルコによる福音書において、今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書8章31節以下で、イエスさまが死と復活を予告されたあとの話として出てきます。イエスさまはご自分の死と復活を予告され、そして群衆と弟子たちに【わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい】と言われました。

その六日あとに、イエスさまはペトロとヤコブとヨハネをつれて高い山に登られます。そしてペトロたちは山上の変容と言われる神々しい出来事に出会います。今日の旧約聖書の箇所では預言者モーセが十戒を神さまからいただくことになるシナイの山に登るという話が出てきます。山というのは神聖な場所であるわけです。

ペトロたちは山の上で、イエスさまの姿が神々しく変わるという出来事に出会いました。イエスさまの服は真っ白に輝いています。そしてイエスさまのほかに、エリヤとモーセが出てきて、そしてイエスさまと話をされます。エリヤは偉大な預言者で、世の終わりの時に再び現れると言われていた預言者でした。そしてモーセはエジプトで苦しんでいたイスラエルの民を導き出した偉大な預言者です。モーセは神さまから律法のもととなる十戒をいただきました。その偉大なエリヤと偉大なモーセが、イエスさまと語り合っているのです。もうペトロたちは神々しいやら、うれしいやらで大変だったことでしょう。

マルコによる福音書9章5−6節にはこうあります。【ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである】。

あまりにすばらしい出来事だと思えたので、ペトロはそれを記念するために、イエスさまとモーセとエリヤのために仮小屋を三つ建てましょうと提案します。仮小屋というのは、まあ記念碑ということでしょう。【ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった】とありますが、ペトロとしては「おれ、なかなかいいこと言っている」と思えたでしょう。わたしであれば「それではイエスさまとエリヤさまとモーセさまで、わたしのスマホでお写真をとりましょう」とか言ってしまいそうですが、それよりはペトロのほうが気が利いていると思います。

しかしこのペトロの提案はあとで考えるとあまりふさわしい提案ではありませんでした。「ペトロは何もわかっていなかったのです」と、後の人々は言うわけですが、それでもわたしもイエスさまが神々しい姿をして、エリヤとモーセと一緒に話をしておられるというところを見てみたいと思います。ペトロが有頂天になる気持ちもわかります。

マルコによる福音書9章7−8節にはこうあります。【すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。】

ペトロがイエスさまに記念の仮小屋について提案をしたあと、雲が現れ、イエスさまとエリヤとモーセは雲に覆われて見えなくなってしまいます。雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と聞こえました。ペトロたちはエリヤやモーセを捜すのですが、しかしもうエリヤとモーセはいなくなり、イエスさまだけがペトロたちと一緒におられました。現実であったのか、幻であったのか。ペトロたちには「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声だけが、こころに響いていました。

マルコによる福音書9章9−10節にはこうあります。【一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った】。

ペトロたちは山の上での神々しく不思議な出来事を経験して、頭がぽわーんとなっていました。夢なのか幻なのか、いまも耳に響いている「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という言葉は、どういうことなのか。そのうえイエスさまは山から下りる途中に、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と言われます。ペトロたちはわからないことだらけでした。

「イエスさまの姿が変わる」という山上の変容の出来事は、神の御子であることを表す出来事です。イエスさまが神々しい姿で、エリヤとモーセと一緒に語り合っているというのは、いわば天上でのイエスさまの姿です。それは栄光に満ちています。ペトロたちがうれしがるのも無理はないことです。ただ地上でのイエスさまが神さまから託されていることは、ぼろぼろになって十字家につけられるということです。それは不吉な出来事であり、ペトロたちにとってはそれはあってはならないことです。ですからイエスさまが十字架と死を予告したときに、ペトロはイエスさまをわきへお連れしていさめ始めたのでした。マルコによる福音書8章31節以下の「イエス、死と復活を予告する」という出来事です。

ペトロたちにしてみれば、神々しい姿のイエスさまがずっと続いてほしいのです。神々しい姿で、エリヤとモーセを従えて、悪い律法学者たちやファリサイ派の人々をやっつけてほしいのです。そして自分たちも神々しいイエスさまの一番弟子として、できればすこし格好のいい姿をして、人々から「ペトロさま、ペトロさま」と言われたい。

しかし神々しいイエスさまの姿は天上の姿であって、それは地上での姿ではないのです。結局、エリヤやモーセはいなくなり、イエスさまだけがペトロたちと一緒におられます。そして天の声は「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と響きます。神さまは十字架への道を歩まれるイエスさまこそが、わたしの愛する子だと言われます。ペトロたちは十字架への道を歩まれるイエスさまに従っていくのです。エリヤやモーセではなく、十字架への道を歩まれるイエスさまに聞くのです。

フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という聖書の箇所があります。フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが書いた手紙です。フィリピの信徒への手紙2章6−9節にはこうあります。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました】。

この箇所は使徒パウロが独自に考えたことではなくて、使徒パウロ以前からあった信仰告白のようなものだと言われています。初期のクリスチャンたちは「イエス・キリストってどういう方ですか」という問いに対して、私たちの信じているイエス・キリストはこういう方ですと告白していたのです。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました】。

私たちは輝かしいものやりっぱに見えるものに目が向きがちです。とくに若いときや元気のいいときはそうです。そのことがすべてが悪いということもないと思います。やっぱり人間、りっぱになりたいと思いますし、また輝かしい栄光を求めて一生懸命になるということも大切なことだと思います。ただそのことがすべてのことについての価値基準になるとき、やはりすこしおかしなことが起こってきます。何でも手に入れることにだけ心が向いてしまい、自分が自分がという気持ちが大きくなってきます。何でも自分が中心となり、高慢な思いに取りつかれてしまいます。

使徒パウロは、イエス・キリストはそうした生き方とは正反対の生き方をされたと言っています。イエスさまは神の身分であったけれども、自分を無にして僕の身分となられた。神さまと等しい者であることに固執することなく、私たちのためにこの世にきてくださった。イエスさまは死に至るまでへりくだり、私たちのために十字架についてくださった。イエス・キリストは、支配するためではなく、仕えるために、私たちのところにきてくださった。

受難節、イエスさまの御苦しみを覚えて、私たちは歩んでいます。私たちは、イエスさまが十字架へと歩まれたということを、私たちの心の指針としてしっかりと持っていたいと思います。世は移り変わり、いろいろなものが起こっては消えていきます。一時的に私たちの目を奪うものがあるかも知れません。しかし消え去るものではなく、永遠なるものに、私たちは心の中心を向けたいと思います。こころはしっかりと、イエスさまに向けたいと思います。

【雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」】。いろいろなものは消え去っていくわけですが、イエスさまは私たちと共にいてくださいます。イエス・キリストは私たちを愛してくださり、そして私たちを導き、祝福してくださいます。


(2026年3月15日平安教会朝礼拝・受難節4)


2026年3月6日金曜日

3月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまがいつも一緒に」

「イエスさまがいつも一緒に」

聖書箇所 マルコ8:27-30。298/484。

日時場所 2026年3月8日平安教会朝礼拝・受難節3


周りの人が、何をしているのかということは、とても気になることです。こどもだって、周りのことが気になります。こどもが小さなときに、「○○の映画に連れて行って」とか「○○の遊園地に連れて行って」というようなことがあります。娘は言います。「みんないっとんよ」。「そんなはずないやろ。ひろむ君、ほんとにいった?」。「女の子はみんないっとんよ」。「え、そんなはずないって」。「みさきちゃんはいったんよ」。「やっぱりみさきちゃんだけやないか」。「いや、みんないっとんよ」。だいたいちいさなこどもの「みんな」っていうのは、自分と仲良しの子の数人のことです。でもこれはうそをついているというのではなくて、小さい子の世界観というのは、私たちの世界観とちがっているということだけのことです。ですから、「『みんな』ゆうてうそついて、3人だけじゃないの」と怒るのは、これは間違いです。それでもまあ、小さい子どもたちだって、周りのことが気になるわけです。

こうした子どもの要求に対しては、私たち、まあ案外冷静ですけれど、しかしことがこどもの成長のことになると、私たちは浮き足立ちます。「ひろむは、もう字がかける」とか、「みさきちゃんはおりこうそう」とか、そうしたことはなんかとても気にあるわけです。どうしても比べてしまったりします。「なんでうちの子は、いつまでたっても、こんなに食べるのが遅いんだろう」とか、わたしの家でもよく思っていました。

しかしまあ、やはり人の子と比べるということよりも、私たちは「自分の子をしっかりと見る」ということが大切であるわけです。周りの子と比べていると、自分の子をしっかりと見ることができなくなります。不安ばかりが募ります。しかし「わが子をしっかりと見る」とき、「わが子もまた、私たちをしっかりと見てくれるのです」。かわいいわが子と、すてきな私たちが、しっかりと見つめ合う。このことが大切であるわけです。

そして私たちが、何を大切に生きているのかを、はっきりともっていることが大切です。みなさんは「何が一番大切ですか」。わたしにとって大切なことは、「イエスさまがわたしを救ってくださり、イエスさまがいつも一緒に歩んでくださっている」ということです。ほかのことは、自信をもっていうことができませんが、「イエスさまがわたしを救ってくださり、イエスさまがいつも一緒に歩んでくださっている」ということだけは、わたしは自信をもっていうことができます。

今日の聖書の聖書の箇所は「ペトロ、信仰を言い表す」という表題のついている聖書の箇所と「イエス、死と復活を予告する」という表題のついている箇所の一部です。マルコによる福音書8章27節には【イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた】とあります。イエスさまについては、みんながいろいろなことを言っていました。そこでイエスさまは弟子たちに、自分のことをどのように思っているのかを聞いてみられました。

マルコによる福音書8章28節には【弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」】とあります。洗礼者ヨハネは、マルコによる福音書1章に出てくる預言者です。ちょっとこわい感じの人です。ヨハネは荒れ野で人々に「悔い改めよ」と叫んでいました。そして多くの人々が、その呼びかけに応えて、自分たちの罪を悔い改めていました。バプテスマのヨハネのことを快く思っていないユダヤの指導者たちは、ヨハネを捕らえて、牢獄に入れていました。しかし人々からは神さまの使いとして、絶大な人気のある人でした。エリヤも旧約聖書に出てくる重要な預言者です。世の終わりの時に、預言者エリヤが現れるというふうに言われていました。イエスさまは洗礼者ヨハネだという人もいたり、預言者エリヤだと言われたりするわけです。みんなイエスさまがすごい人であるというふうに考えていたようです。

しかしイエスさまはまた弟子たちに問われました。マルコによる福音書8章29ー30節には【そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたは、メシアです」。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた】とあります。「メシア」というのは、ギリシャ語では(クリストス)、救い主ということです。イエス・キリストというのは、「イエスさまは救い主」ということを表している名前です。

イエスさまは「わたしのことを人は、いろいろと言っているけれども、あなたはどう思うのか」と、弟子たちに問われました。「人はいろいろと言っているだろう。でも、あなたはどう思うのか」。そんなふうにイエスさまは問われました。そして使徒ペトロは、「あなたは、メシアです」。「あなたはわたしにとっての救い主です」と、使徒ペトロは答えました。

イエスさまは言われます。「周りを見回すだけでは、大切なことは得られないんだ」。「どうだペトロ、おまえはどう思うんだ」「ペトロ、おまえはどう生きるんだ」。そんなふうにイエスさまは、使徒ペトロに問われたのでした。なかなか立派な答えができたわけです。

しかしそのあと聖書はペトロがイエスさまのことをあまりわかっていなかったということを記しています。「イエス・死と復活を予告する」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所の続きとなります。

イエスさまはご自分が歩まれる十字架への道について、弟子たちに話されました。いままでイエスさまは病の人々をいやされたり、また神さまのことをお話しされたりしていました。またいろいろな奇跡を行われ、人々からたよりにされ、尊敬されていました。だからこそ、ペトロもイエスさまを救い主としてついていこうと思ったわけです。イエスさまがゆくゆくはえらい人になってくださると、ペトロは思っていました。しかしイエスさまはご自分が十字架につけられて殺されると言い始められるのです。

イエスさまにそんな不吉なことを言われると困りますということで、ペトロはイエスさまをいさめたのでした。しかしペトロは逆に、イエスさまから叱られます。「サタン、引き下がれ」という厳しい調子で、ペトロはイエスさまから叱責されたのでした。ペトロはショックだったと思います。しかしペトロはイエスさまのことがわかっていなかったのです。イエスさまは私たちの罪のために十字架につけられるために、この世に来られたのでした。ペトロはこのとき、イエスさまの十字架について理解することはできませんでした。ペトロはイエスさまのことを理解できていなかったわけですが、しかしペトロがイエスさまに言った、「あなたは、メシアです」、「あなたは救い主です」という言葉は真実でありました。のちにペトロはそのことを知ることになるわけです。

よくミュージシャンがいうせりふに「わたしは、best oneではなく、only oneでありたい」というセリフがあります。いつもヒットチャートの一番にあがるというのではなくて、「わたしはだれがなんていったってこの人」と思われるようなミュージシャンになりたいということです。「まあちょっとかっこ良すぎるかなあ」とか、「やっぱりミュージシャンは売れてなんぼやろう」という気もするわけですが、「best oneではなく、only one」というのは、人生を歩む上で、大切なことだと思います。私たちの世の中は、いろんなことで、周りを見回したり、比べたり、比べられたりしながら、しのぎを削らされるというような世の中です。また周りを見回していると、不安も募ります。「わたしはこんなことしていて、だいじょうぶなんだろうか」「この子は、こんなことしていて、だいじょうぶだろうか」。そんなふうにも思えてきます。

しかしイエスさまは使徒ペトロに問われました。「みんなわたしについて、いろいろなことを言っているけれども、ペトロ、おまえはどう思うんだ」。そして使徒ペトロは答えました。「あなたはわたしにとっての救い主です」。すばらしい答えですね。しかし、まあこう言いながらも、結局、使徒ペトロはイエスさまを裏切って、イエスさまが十字架につけられるのを、見殺しにしてしまったわけです。人間はそうした弱さをもっています。しかしそのあと、ペトロは十字架につけられ、よみがえられたイエスさまと出会い、やっぱりイエスさまに付き従う歩みをしました。苦しいとき、悲しいとき、もうだめだと思えるとき、使徒ペトロを支えたのは、救い主イエス・キリストだったのです。ペトロは裏切ったけれども、イエスさまはペトロを裏切りませんでした。いつもペトロを支え、励まし、導き、その生涯を守り、弱いペトロを神さまへと導かれたのでした。

わたしもまたやっぱりイエスさまが一番だと思います。この世の中に頼るものは、いろいろとあります。お金の力に頼る人もいます。やっぱり腕力だという人もいます。地位や名誉がなくてはと思う人もいます。学力が大切だ。そう考える人もいるでしょう。結局、頼れるのは、自分の力だと思う人もいるかも知れません。でもわたしはこの世のいろいろなものは、頼りにしていると、裏切られるような気がします。やっぱりわたしはイエスさまが一番だと思うのです。

「主、われを愛す」という賛美歌があります。讃美歌21の484番の讃美歌です。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」「わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われをあいす」。「アイス」「アイス」と出てくるので、こどもたちにとってもなじみのある讃美歌です。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」。「わたしなんか大したことないけど、イエスさまはたいした方なんだ。だからイエスさまにおかませ。で、だいじょうぶ」。なんとも安心できる讃美歌です。

こどもさんびかというふうに、この讃美歌は言われますが、キリスト教の本質を表している讃美歌です。この讃美歌は、英語ではこう歌われています。Jesus loves me ! this I know,  For the Bibel tells me so.(イエスさまがわたしを愛してくださっている。そのことをわたしは知っている。聖書がわたしにそのことを告げているから)。「イエスさまが私たちを愛してくださっている。そのことをわたしは知っている。聖書がわたしにそのことを告げているから」。

よくできた讃美歌だなあと思います。これはひとつの信仰告白であるわけです。「イエスさまがわたしを愛してくださっている」「そのことをわたしは知っている」。「そのことをわたしは知っている」。イエスさまがペトロに、「おまえはわたしのことをどう思うんだ。ひとじゃなくて、おまえは」と問われ、ペトロが「あなたは、メシアです」と答えました。それと同じように、この讃美歌は、「イエスさまがわたしを愛してくださっている」「そのことをわたしは知っている」と、「わたしは知っている」と歌っているわけです。ほかのだれが知っているわけではない。人が言っているということでもない。「わたしは知っている」と言うのです。

いつもイエスさまが一緒にいてくださっている。不安なときも、悲しいときも、つらいときも、「自分のことを愛してくれている方がおられる」。このことは、人生を歩む上で、大きなやすらぎを与えてくれます。悲しみは喜びに、不安は希望に変えられます。私たちはひとりで人生を歩んでいるのではなくて、いつもイエスさまが一緒に歩んでくださっています。そしてわたしはそのことを知っているのです。イエスさまと共に歩みましょう。イエスさまは私たちが崩れ折れそうなときも、私たちをしっかりと抱きしめ、私たちと共に歩んでくださいます。




(2026年3月8日平安教会朝礼拝・受難節3)






2026年2月28日土曜日

3月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「凛としてあきらめない」

「凛としてあきらめない」

聖書箇所 マルコ3:20-27。294/516。

日時場所 2026年3月1日平安教会朝礼拝式・受難節2


ロシアがウクライナを攻撃を始めて、4年の月日がたっています。イスラエルがパレスチナのハマスと戦争を始めたり、最近ではパキスタンとアフガニスタンの戦争がニュースで流れていました。いろいろなところで、いままでとは違った世界になってしまったなあと思わされます。

2026年1月3日にアメリカがベネズエラに対して軍事行動を起こして、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領を拘束し、アメリカへ連行するということが起こりました。ベネズエラの政権はアメリカにとって好ましい政権ではないですし、マドゥロ大統領も独裁的な国家運営をしていました。しかしこんなに突然、アメリカが他国に軍事行動をしかけて、その国の大統領を拘束・連行するということに、わたしはとても驚きました。アメリカが自分にとって好ましくない政権について、いろいろな手段を使って政府の転覆工作を行ったりするというようなことは、いままでもありました。ですからベネズエラに対して転覆工作を行なうということは、アメリカはそういうことする国だなあと思っていましたので、その点はあまり驚くことはないのです。でも他国の大統領を拘束し、連行するという手法には、戸惑いを覚えました。

そして戸惑いと同時に、とてもいやな気持ちになりました。それはアメリカが悪いとか、トランプ大統領が悪いというようなことではなく、自分自身のこころのなかの問題として、とてもいやな気持ちになったのです。わたしのこころの中の罪の問題というようなことです。

人は「この人がいなくなれば、世界が良くなるのではないか」「この人がいなくなれば、この戦争は終わるのではないか」というようなことを考えたりするようなときがあります。A大統領がいなくなれば、B戦争は終わるのではないかとか、C大統領がいなくなれば、D戦争が終わるのではないかと考えるわけです。世界でいろいろな戦争が行なわれているとき、「○○大統領がいなくなれば」というような思いに、わたし自身もなるときがあります。第二次世界大戦のときに、「アドルフ・ヒトラーがいなくなれば、戦争が終わるのではないか」と思い、ヒトラーの暗殺計画に加わったドイツの牧師がいました。ディートリヒ・ボンヘッファー牧師です。

「○○大統領がいなくなれば」。わたしは頭のなかでそのようなことを考えていたのですが、しかしアメリカのトランプ大統領は実際にそのことを行いました。「○○大統領がいなくなれば」ということで、ベネズエラのマドゥロ大統領を武力で持って取り除いたわけです。わたしが頭のなかで考えていた手法が、実際に行なわれたのをみたときに、なんともいやな気持ちがしました。「ああ、やっぱりこれはだめなことなのだ」と思いました。

不法な手段によって物事を解決するというのは、やはりよくないことです。そうしたことを許せば、世界中でそうしたことが行なわれるようになり、どんどんと世界は混乱していきます。「この人がいなくなれば」というのは、やはり倫理的に問題がある考え方なのだと思いました。ですから「○○大統領が心から悔い改めて、良き人となりますように」ということを願いたいと思います。

今日の聖書の箇所は、「ベルゼブル論争」という表題のついた聖書の箇所です。ベルゼブルというのは「悪霊の頭」であり、まあサタンということです。マルコによる福音書3章20−21節にはこうあります。【イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。】。

イエスさまは人々に神さまの愛を伝えておられました。そして病の人々をいやしておられました。イエスさまの話を聞きたいということで、多くの人々がイエスさまのところにやってきていました。「食事をする暇もない」というくらいに、イエスさまは人気があったわけです。しかしイエスさまの家族や親戚の人々にとっては、イエスさまはちょっとやっかいな人に見えました。ユダヤの指導者を批判したり、律法学者たちやファリサイ派の人々と論争をしたりしているからです。「なんかイエスが面倒をおこしそう」ということで、身内の人たちはイエスさまを取り押さえにやってきます。ユダヤの指導者に逆らうなんて、「あの男は気が変になっている」というふうに、イエスさまは見られていました。

マルコによる福音書3章22節にはこうあります。【エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。】。

エルサレムはユダヤの中心の町ですので、エルサレムから下って来た律法学者たちというのは、特別に偉いと言われている人たちということです。律法学者たちはイエスさまのことを「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言いました。「イエスはいやしのわざを行なっているけれども、それは悪霊の頭であるサタンの力で行なっているのだ。あいつは悪霊に取りつかれている」。そのようにイエスさまのことを言っていました。

マルコによる福音書3章23−27節にはこうあります。【そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。】。

イエスさまは律法学者たちにたとえをもちいて反論をされました。国が内輪で争えば、その国は成り立たないし、家が内輪で争えば、その家は成り立たない。悪魔たちも内輪で争えば、悪魔たちも成り立たない。だからサタンがサタンを追い出すというようなことは成り立たない。強盗が家に押し入るときも、その家の強い人を縛り上げることができなければ、強盗の仕事をすることができない。悪霊をやっつけるのであれば、やはりサタンに打ち勝つ力がある人でなければ、悪霊をやっつけることはできないのだ。「だからわたしはサタン、悪霊の頭ベルゼブルではない」と、イエスさまは言われました。

でもまあ国が内輪で争うことはよくありますし、家が内輪で争うこともよくあります。内戦で国が成り立っていない国はいくつもありますし、家族仲の悪い家族もあります。世界はケンカだらけですし、悪霊が満ちあふれているように思える世界です。そして世界は不安で立ち行かなくなっています。私たちの世界の状態の悪さは、イエスさまの想像を超えていると言えるかも知れません。

それはまあ残念なことではあるわけですが、それでもイエスさまは「悪魔が支配するような社会であったとしても、一定の秩序というようなものがあるのだ」と言われるのです。「サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。立ち行くためにはサタンであっても、「内輪もめして争うのはよくない」という、ある一定の秩序というのが必要であるわけです。

私たちクリスチャンは神さまの前に良き生き方を求めて歩んでいきたいと思います。律法学者たちは、自分にとって都合の悪い人は、「悪い奴」と決めつけます。そして「あの男は悪霊に取りつかれている」「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言います。イエスさまは律法学者たちからそのように言われました。またイエスさまは「あの男は気が変になっている」というようなことも言われました。

私たちもまた自分とって都合の悪い人を、あしざまに言ってみたり、また話すことさえできないというような思いになったりします。しかしだれしも、神さまにとって大切な一人であることを思い出したいと思います。落ち着いて、人を信じるという気持ちをもちたいと思います。

悪霊は人を誘惑し、そして人が自分勝手に生きることを望みます。そして悪霊は暴力で持って人を支配させ、人が互いに傷つきあって、悲しみの中に生きることへと導いていきます。うそ、いつわりが広がっていき、正しさや優しさをもつことが愚か者の行ないのようになってしまいます。

悪霊の力はなかなか強いですし、人は誘惑に陥りやすいです。しかしそうした世の中にあっても、私たちは聖霊の力を信じて、神さまの愛に立ち返る生き方をしたいと思います。だれもが神さまからの愛を受けて生きているかけがえのない一人です。互いに尊敬しあい、互いに助けあい、互いに祈りあう。聖霊は私たちを導いてくださり、私たちを良き人へと立ち返らせてくださいます。

「凛としてあきらめない」、そうした私たちの歩みでありたいと思います。神さまの義と平和にみちた世界が来ることを信じて歩んでいきたいと思います。

レント・受難節も第2週を迎えました。自らの歩みを顧みつつ、十字架につけられ、よみがえられたイエス・キリストが私たちの希望となって、私たちを導いてくださることに感謝をして歩んでいきましょう。



(2026年3月1日平安教会朝礼拝式・受難節2) 


 


2026年2月21日土曜日

2月22日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「道を外れることなく栄える」

「道を外れることなく栄える」

聖書箇所 マルコ1:12-15 。512/59。

日時場所 2026年2月25日平安教会朝礼拝式

 

石田梅岩は江戸時代中期の日本の思想家です。京都府亀岡市の生まれです。亀岡市には石田梅岩の記念館があります。去年の9月1日にオープンしました。石田梅岩は京都の商家に奉公に出ます。そして仕事をしながら、儒教や仏教、神道などの学問を独学で勉強をします。「人間の本質とは何だろう」ということについて、石田梅岩は生涯考え続けました。石田梅岩の教えの根幹は、「正直」「勤勉」「倹約」という三つの徳の実践であったと言われています。「人の本当の価値は、生まれや財産、学歴ではなく、その心根の誠実さにある」と説く彼の言葉は、多くの庶民の心をとらえました。彼の教えはとくに商人のなかで受け入れられていきます。

石田梅岩は「道徳と経済の両立」を説いたと言われます。石田梅岩はその著書、『都鄙問答(とひもんどう)』のなかでこう言っています。【商人で道を知らない者は、ただ貪ることだけをして家を滅ぼす。商人の道を知れば、欲心から離れ、仁心で努力するので、道にかなって栄えることができるだろう。これが学問の徳というものである】。

石田梅岩は「正直」「勤勉」「倹約」が大切だと言ったと言われますが、中国の孔子の言葉を引用して、「正直」についてこう言っています。【人は正直だから生きていられるのであって、正直を曲げて生きている者は、幸運に災いを免れた者にすぎない。「不正直に生きている者は、生きてはいても死人と同じなのだ」】(『斉家論』)。

【人は正直だから生きていられるのであって、正直を曲げて生きている者は、幸運に災いを免れた者にすぎない。「不正直に生きている者は、生きてはいても死人と同じなのだ」】。「正直」「勤勉」「倹約」。「正直」「勤勉」「倹約」と言われると、なんかちょっとしんどいなあという思いもいたします。でも江戸時代の商人は、石田梅岩の言葉に耳を傾けて、正直に商売をすることの大切さを、こころに刻みました。

石田梅岩は「道徳と経済は両立するものであり、道徳がなければ経済は発展することはないのだ」と言いました。現代の私たちの世の中は、そうした道徳的なあり方が失われ、「法律に書かれていないのであれば、何をしてもかまわないのだ」「それが頭の良い賢い人のすることなのだ」というようなあり方が広がっています。とても残念な気がいたします。石田梅岩はひとのこころの中にあるあさましい思いが、社会を経済的に豊かにするのを妨げていると考えています。道に外れたことをしているから貧しくなっていく。「道を外れることなく栄える」という道筋を整えることが大切だと言うのです。

森田健司『石田梅岩 俊厳なる町人道徳家の孤影』(かもがわ出版)の「序」には、石田梅岩の幼い日の思い出について書かれてあります。石田梅岩が10歳のときの思いです。石田梅岩は山で栗の実を5つ拾ってきて、それを昼食の時に、両親の前に披露します。家族のために石田梅岩が拾ってきたおいしそうな栗です。するとお父さんは石田梅岩に「この栗は、どこで拾ってきた」と尋ねます。梅岩は「お父さんの山と、お隣の山の境界のような場所、だったように思います」と答えます。するとお父さんは「我が家の山に生えている栗の樹で、他山との境に枝が伸びている物は、一つもない。だが、他山に生えている樹の枝で、境界に掛かっている物は、幾つかある。ところで、おまえは我が家の山と他山との境に落ちている栗を拾ったと言ったな」「おまえの拾った栗は、他人の栗だ。我が家の栗では、決してない。断りもなく、他者の物を取ること、それを盗むというのだ」「飯は終わりだ、今すぐ、栗を元あった場所に返してこい」。石田梅岩は生涯この栗の話を忘れず、この話をことあるごとに人々に語ったそうです。そして話した後に、「親の愛とは、かくあるべし」と言ったそうです。

私たちの世の中は誘惑の多い世の中です。サタンの誘惑にさらされています。ですから聖書の中で、イエスさまがサタンの誘惑にあわれた話が出てきます。今日の聖書の個所は「誘惑を受ける」「ガリラヤで伝道を始める」という表題のついた聖書の個所です。

イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、そのとき天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との祝福を受けました。そしてそのあと、荒野での誘惑を経験されます。

マルコによる福音書では荒れ野でイエスさまがどのような誘惑をサタンから受けられたのかということは書かれてありません。マタイによる福音書4章(4頁)やルカによる福音書4章(107頁)に書かれてありますので、そちらを参考にされたらよいかと思います。

マタイによる福音書4章では、サタンはお腹を空かせているイエスさまに、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。またサタンは「神の子なら神殿の屋根から飛び降りてみたらどうだ。神さまが助けてくださるだろう」と、イエスさまに神さまを試みてはどうだと誘惑します。そして最後に、「わたしを拝むなら、この世界をくれてやる。どうだ」と、イエスさまを試みます。しかしいえすさまはきっぱりと、「退け、サタン」と言われます。

マルコによる福音書1章12-13節にはこうあります。【それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた】。【野獣と一緒におられた】ということですから、まあ緊張するような状態がずっと続いていたということでしょう。いつ野獣から襲いかかられるかわからないわけです。そのような緊張した状態であったわけですが、【天使たちが仕えていた】とありますように、イエスさまを守ってくれる天使がいたわけです。野獣が襲いかかってくるというときには、天使がイエスさまを守ってくれるのです。

マルコによる福音書1章14-15節にはこうあります。【ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。】。イエスさまに洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、ユダヤの指導者たちを批判していたために捕らえられ、牢獄に入れられてしまいます。そして洗礼者ヨハネのあと、イエスさまがガリラヤで神の福音を宣べ伝えられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

格差社会になってきますと、自分がこんなにひどい状態にあるのは、悪いやつがいるからだというふうに思えます。「共産主義者が悪い」「おんなが悪い」「若者が勝手なことをしているからだ」「老人が優遇されているからだ」。いろいろな人たちが悪者になります。いまは「外国人が悪い」というようなことが言われたりします。アメリカなどではまあ「移民が悪い」と言われて、壁を作ったりしていました。自分たちがひどい状態にあることを、移民のせいにしたりして、なんかひどいことをしているなあと思っていたわけです。しかし日本でも「外国人が悪い」というようなことが言われだし、なんともいやな気がします。人々が「悪い奴がいるに違いない」と思い始める社会は、それは良い社会の状態ではありません。良い社会の状態に変えていかなければならないわけです。できるだけ格差をなくして、みんなが穏やかに過ごすことができる社会を作り出していくことが大切であるわけです。

私たちは人間ですから、野獣の世界に生きていくことはできません。「食うか食われるか。力づくで支配するのが正しいのだ。暴力を使うことなく世の中を収めることができるはずないではないか」。そんなふうに言われると、「ああ、ちょっとわたしの住む世界ではないなあ」と思います。そうした社会は野獣の世界です。人間の世界ではありません。

聖書は、イエスさまはサタンから誘惑を受けられ、そして「その間、野獣と一緒におられた」と記されています。誘惑の多い世界は、野獣が一緒にいる世界です。わたしはよくギャング映画など見ますけれど、ギャングの世界は欲望が多いです。そして野獣がいっぱいいます。ギャングの頭であっても、いつとって変わられるかわかりません。野獣がいっぱいですから、ちょっと油断をすると寝首をかかれます。ですから部下も信用できませんし、親族も信用できませんし、また子どもも信用できません。自分を殺して、ギャングの頭にとって変わるかも知れないからです。イエスさまの時代のヘロデ王は、そんな感じでした。皇帝アウグストゥスは「ヘロデの息子に生まれるよりも、豚に生まれたほうがましだ」と言ったと言われています。ヘロデ王によって保身のために、ヘロデ王の息子は殺されますが、豚は宗教上の理由から殺して食べるということがなかったからです。

誘惑の多い、何をしてもかまわないという世界は、野獣の世界です。イエスさまはサタンの誘惑にあわれたとき、野獣と一緒におられました。しかし聖書はそのあと、「天使が仕えていた」と記しています。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。

聖書は野獣の世界に思える世界にあっても、イエスさまがおられる世界は天使が仕えているのだと記しています。イエスさまの時代の人々は自信を失い、不安になりました。どのように生きていけばよいのか、そのことに自信をもてなくなりました。自分勝手に生きたらよいのではないか。みんなそんな感じで生きている。野獣のように生きたらよいのではないのか。そんなとき、イエスさまは人々に神さまの愛のうちに生きていくことの幸いを伝えました。神さまの愛に根ざして生き方をして、愛に満ちた世界のなかで生きていく。神さまに対して恥ずかしくない生き方を求めていく。こそこそと生きていくのではなく、神さまの祝福のもと、胸をはって生きていく。神さまに依り頼んで生きていく。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。こそこそと良心がとがめるようなことをしているあさましい人たちの世界は終わり、神さまの愛と義と平和に満ちた世界がやってくる。私たちにはそうした世界に生きていく幸いがそなえられている。悔い改めて、神さまを信じて歩んでいきなさい。イエスさまはそのように呼びかけられ、私たちを招いておられます。

2月18日(水)に灰の水曜日を迎え、レント・受難節に入りました。イエスさまは私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。私たちのこころのなかの邪な思いを、イエスさまは打ち砕いてくださり、私たちを神さまの愛のうちに導いてくださいました。

イエスさまの御苦しみを覚えて、レント・受難節のときを過ごしたいと思います。私たちのこころのなかにある罪に、しっかりと向き合いつつ、神さまの祝福のなかに生かされていますことを、こころから感謝したいと思います。




(2026年2月25日平安教会朝礼拝式) 



2026年2月12日木曜日

2月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「命の種は広がっていく」

「よき仲間に囲まれて」 

聖書箇所 マルコ2:1-12。484/486。

日時場所 2026年2月8日平安教会朝礼拝


ことし京都南部地区の地区長をしていて、京都南部地区の印刷物を印刷したり、郵送したりする作業を行なうことが、何度かありました。韓日合同賛美礼拝のプログラム、新年合同礼拝のプログラム、京都南部地区定期総会の資料など、なかなかたいへんです。以前は多くの人の手を借りてやっておられたようですが、いまは4人くらいの常任委員の方々がそうした作業をしておられます。コロナのときにあまり集まることができなかったので、そうした感じで、いま京都南部地区運営がなされていて、ちょっとどうにかしたほうが良いと思いました。それでも常任委員という仲間がいるので、とても心強いと思えます。

私たちは一緒にいてくれる仲間がいるから、どうにか生きていくことができます。自分ひとりでは、たとえ簡単なことであったとしても、なかなかできなかったりします。たとえば単純な作業などひとりでしていると嫌になります。しかしこれを二人、三人、四人ですると、たいして苦にならないということがあります。教会総会の資料などを作っているときも、やっぱりひとりでやるより、みんなでやるほうがうれしいわけです。掃除などもひとりでするとなると、なにかとてもたいへんなことのような気がします。しかしみんなでするとそんなに、たいへんに感じないということがあります。ひとりで1キロも歩くということはなかなかおっくうですが、二人で話をしながら歩くと、1キロなどあっという間です。

このようなことでさえひとりでするとなると、私たちはとてもたいへんな気がするのですから、病気というような深刻なことになると、ひとりではどうしたらいいのかわからなるような気がします。重い病気を患うということは、だれにとってもたいへんなことです。それ自体ものすごく苦しいことです。ましてだれも支えてくれる人が回りにいないで、ひとりで病気に向き合うということになると、本当に苦しいことだと思います。あきらめてしまって、自暴自棄になってしまうということもあると思います。しかし、だれかが一緒にいて共に歩んでくれるなら、どうにか病気に向き合うことができるのではないかと思います。わたしは35年くらい前に、岡山で伝道師をしているときに、甲状腺機能亢進症という病気で入院しました。病院には多くの人が入院していました。しかし病気で入院している人々は、ひとりで病気に向き合うというのではなく、夫婦や家族で病気に向き合うという感じでした。

今日の聖書の箇所は「中風の人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所は「よき仲間に囲まれる」ことが、どんなに幸せなことかを感じさせる聖書の箇所です。マルコによる福音書2章1ー2節にはこうあります。【数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると】。

イエスさまは病の人々をいやしてまわっておられました。そしてイエスさまはカファルナウムに帰ってこられました。カファルナウムは、イエスさまがガリラヤ伝道の拠点としておられたところです。当時、人口が5万人ほどあり、ガリラヤ湖畔の中心的な町でした。イエスさまが帰っておられるといううわさを聞きつけて、多くの人々が集まりました。いつものように、イエスさまの回りには、たくさんのイエスさまを慕う人々がいます。しかしあまりに人が多すぎて、イエスさまのところに、近寄ることのできない人が出てきます。

マルコによる福音書2章3ー4節にはこうあります。【四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした】。

大勢の人々が集まり、戸口の辺りまですきまもないほどいっぱいでした。四人の男たちは、中風の友だちを、どうしてもイエスさまのところに連れていきたかったのです。しかし足の踏み場もないほど、人がいて、イエスさまのところにいけそうもない。そこで考えた四人の男たちは、家の屋根に登って、屋根をはがして穴をあけて、イエスさまのところに、友だちをおろしました。

いろいろな注解書には、当時のパレスティナの家について書かれてあり、屋根をはがすことができるような家であることを説明しています。【パレスティナの屋根はテラスのように平らであり、屋根は木の枝などの上に粘土を約30センチの厚さに置いて、固めたものであった。したがって屋根に穴をあけるのは容易であった】とあります。しかし容易であっても、そのようにするのは、やはり普通のことではないのです。まして自分の家の屋根をはぐのではなく、人の家の屋根をはぐのです。それは、どう考えても普通のことではありません。いくら屋根に穴をあけるのは容易であったとしても、床に病人をのせたまま屋根の上から吊り下げるということは、たいへんなことです。それはもう大騒ぎであると思います。人の迷惑顧みずということだと思います。もうなにがなんだかわからないというような状況に、この家はなっていただろうと思います。

しかし、イエスさまはこの状況にどうじることなく、彼らの行動を評価します。マルコによる福音書2章5節には【イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた】とあります。ユダヤ人は、病気やさまざまな不幸はすべて、罪の結果であると思っていました。そしてこのような災いから救われるためには、罪のゆるしを受けることが必要であると信じられていました。この中風の人もそのような信仰をもっていたのだと思います。ですからイエスさまは「あなたの罪はゆるされた」と言われ、中風の人を安心させたのでした。

しかし【子よ、あなたの罪は赦される】というイエスさまの言葉を、快く思わない人々がいました。マルコによる福音書2章6ー7節には【ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」】とあります。

律法学者たちは、中風の人がいやされたことを喜ぶのではなく、イエスさまに罪をゆるす権威があるのかどうかというようなことを気にしています。律法学者がここで語っている、「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」という言葉は、確かに正しいことです。イエスさまが好んで引用されるイザヤ書には、【わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする】(イザヤ43:25)とあります。神さまこそ、私たちの罪を許してくださる方なのです。

しかし病を担って今まで生きていた人が、いままさにいやされようとしているのです。まさにそのときに、そうした律法や聖書に書かれてあることが気になるというところに、律法学者たちのおかしさがあります。彼らは人々と共に生きていないのです。彼らは生活と掛け離れた議論だけをしているのです。彼らはいやされた人々と共に喜びを分かち合うということがないのです。

マルコによる福音書2章8ー11節にはこうあります。【イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」】。

「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが簡単であるのかと言われると、どちらであるかわからないような気もします。人の罪をゆるすことなどできないから、「起きて、床を担いで歩け」と言うほうが簡単であるような気もします。

しかしここではやはり「あなたの罪は赦される」と言うほうが、簡単であるということです。それは「あなたの罪は赦される」というのは、別に結果が現れる必要がないからです。罪がゆるされたかどうかなどは、見えるものではありません。ですからなんとでも言えるということです。しかし「起きて、床を担いで歩け」というと、実際にその人が床を取りあげて、歩かなければ、そのように言った人に力がないということが証明されてしまいます。そういう意味で「起きて、床を担いで歩け」と言うほうが、むつかしいわけです。でもそうした議論も、聖書学的には大切なような気もしますが、たぶん当時の民衆にとってはどうでもよい議論だろうと思います。

ですからイエスさまは「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われます。そしてイエスさまの力が人々の前に示されることになります。【その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った】。【人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した】となります。ほんとによかったなあと思います。

今日の箇所の中風の人の回りには、彼を助ける人々がいました。イエスさまは「その人たちの信仰を見て」、中風の人に対して「子よ、あなたの罪は赦される」と、罪のゆるしを宣言しています。みんなで力を合わせて、中風の人を運んできた、彼らのしたことを評価しているのです。そのイエスさまを求めて、みんなで力を合わせて中風の人を連れてきたことが、信仰であると言われています。ここにキリスト教の信仰のあり方のひとつの形が現れています。病を担って苦しんでいる人を中心にして力を合わせるということが、信仰の模範的なこととして描かれているのです。

イエスさまに出会う人々には、痛みや苦しみの中で苦闘している人々がたくさんいます。ベトザタの池でイエスさまによっていやされた人など、病を患い、そしてそのうえ病のために人々から疎外され、孤独な生活を強いられている人々がいます。またそのほか、だれからも相手にされず、お金だけをたよりに生きている人であったり、罪の女として人々から蔑まれていた人であったりと、どうしようもない孤独の中で、ひとりさびしく生きていくことを強いられている人々がいます。その人々がイエスさまとの出会いによって救われるのですから、すばらしいことなのです。しかしイエスさまに出会うまでは、本当にさびしい生活を強いられています。今日の聖書の箇所の中風の人は、たしかに病を担ってたいへんな生活であったのですが、孤独ではなかったのです。彼の回りには彼と共に歩んでくれる人々かいました。彼を中心にして助け合い支え合う集まりがあったのです。

今日の聖書の箇所では、イエスさまが中風の人ではなくて、四人の男の人の信仰をほめているので、なんか中風の人がただ連れてこられているような感じがしていやだということが言われたりもします。たしかにマルコによる福音書2章5節には、【イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた】とあります。しかしたぶん四人の男の人たちと、中風の人との関係は、一方的に助けているというような関係ではなかったでしょう。そうでなければ、なにも屋根に穴をあけてまで、イエスさまのところに連れてくるようなことにはならなかっただろうと思います。戸口の辺りがいっぱいで、イエスさまのところに近づくことができないのであれば、もうそこで帰ってしまうでしょう。しかし四人の男たちと中風の人の関係は、そんなに希薄なものではありませんでした。「こいつをイエスさまのところに、絶対に連れていってやる」と思わせるほどの関係が、四人の男たちと中風の人の間にはあったわけです。一方的に助けているのではなくて、共に担いあっているという関係があったのです。

共にいるということは、かけがえのないことです。病の人を看病してきた人は、病の人が天に召されたとき、とてもさみしい思いをします。病気の人が何も話さなくても、やっぱり共にいて、そばにいて世話をすることができるということは、看病している人にとって、大きなこころの支えです。天に召されてしまうと、ぽっかりと穴があいたようになります。それは一方的に看病しているということを越えて、こころの絆があるのです。共にいる・支え合うということには、大きないやしが、お互いにあるのです。四人の男たちにとって、中風の人は、多くのものをあたえてくれるかけがえのない友だったのです。

【イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた】。イエスさまは中風の人を中心にした温かい交わりを、祝福されました。助け合い、支え合う友がいることを、イエスさまは喜ばれました。

ヤコブの手紙5章13-16節には、共に支え合うこと、共に祈りあうことを勧めている聖書の箇所があります。新約聖書の426頁です。【あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします】。

私たちは教会に集い、神さまを礼拝しています。そして私たちには信仰の友がたくさん与えられています。同じ神さまによりたのみ、助け合っていきていく、たくさんの友がいます。私たちはひとりぼっちではありません。助け合い支え合い、いたわりあう友がたくさんいます。このことは大きな喜びです。そうした出会いを与えてくださる神さまに感謝したいと思います。そしてともに支え合い、ますますお互いにおぎないあいながら、信仰を深めていきたいと思います。「良き仲間に囲まれて」、神さまの祝福をいっぱい受けて歩みましょう。


(2026年2月8日平安教会朝礼拝)


2026年1月30日金曜日

2月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「命の種は広がっていく」




「命の種は広がっていく」

聖書箇所 マルコ4:1-9。6/494

日時場所 2026年2月1日平安教会朝礼拝


京都教区と韓国基督教長老教会大田老會との交流の実務者会議で、先週、韓国に行ってきました。会議が終わったあと、ソウルにある京東教会(キョンドンきょうかい)を見にいきました。京東教会は韓国で有名な金寿根(キム・スグン)という建築家によって設計された教会です。紹介がないと入れないというふうに、インターネットで調べると書いてありましたので、大田老會のチェヒョンモク牧師にお願いをして、教会に連絡をとっていただきました。京東教会をお訪ねすると、午後7時半から夕礼拝があるということでした。ホテルに戻って、町で食事をしたあと、夕礼拝に出席をいたしました。

礼拝は韓国語で行なわれていましたので、話されている内容はわかりませんでしたが、パイプオルガンの奏楽や独唱もあり、とても豊かなときを過ごすことができました。わたしは日曜日に旅行をするということがあまりありませんが、私たちクリスチャンは旅行中でも、出張中でも、日曜日であれば礼拝に出席をします。クリスチャンがほかの人と大きく違うのは、毎週、日曜日に教会に帰ってきて、神さまに礼拝をお献げしているということです。礼拝で神さまの御言葉をいただいて、そして私たちは世に遣わされていきます。礼拝は私たちの力の源です。

みなさんは礼拝の中で行われていることで一番大切なことは何だと思われますか。わたしは奏楽を聞くのを楽しみにしているとか、聖歌隊の奉唱が大好きだとか、わたしは讃美歌を歌うのが好きで礼拝に集っているという人もおられるかと思います。それぞれが大切なことですから、そのお気持ちもわかります。しかしそれぞれの好みを超えて、本当に大切なことは何であるのかということです。

たとえば礼拝に遅刻をしたときに、みんなで使徒信条を告白しています。静かに席につかれて、「ああ、説教に間に合ってよかった」と思われるときがあるかも知れません。説教者であるわたしとしては、そう思っていただけると、とてもうれしいわけです。しかし礼拝学者である今橋朗牧師は、礼拝の中で行われていることで一番大切なのは、聖書朗読だと言っておられます。【私たちは日曜日キリスト教講話を聞くために教会に行くのではなくて、聖書が語られるのを聞くために集うのです。(P74)。万一、礼拝に遅刻するようなことがあっても、「説教に間に合ってよかった」と考えるべきではありません。礼拝の中心は、説教より前の聖書朗読ですから、これに間に合わなければ駄目なのです】(P75)(今橋朗『礼拝を豊かに 対話と参与』、日本基督教団出版局)。

今橋牧師はこんな提案もしておられます。【礼拝においては、朗読されるその日のみ言に耳を傾ける姿勢がたいせつです。そのために、司会者や聖書朗読者によって聖書が朗読されるときには、自分の聖書を開かないで、静かに聞くようにして、牧師による解き明かし(説教)のときに自分も聖書を開くようにしてはどうでしょうか】(P77)。

礼拝の中で聖書朗読が一番大切なことであるということは、よく考えてみれば当たり前のことです。しかしそれでは私たちが本当にそういう気持ちで、聖書朗読のときを過ごしているかというと、すこし反省させられるような気がいたします。

朗読家の松丸春生(まつまる・はるお)さんは、朗読は朗読する人と朗読の聞き手との合作であると言っておられます。どんなにうまい朗読者であっても、聞き手がだめであれば、いい朗読にはなりえないということです。そして逆にいくらいい聞き手であったとしても、朗読する人がいいかげんであれば、それは朗読になり得ないということです。そして朗読が最良のものになる条件を三つあげておられます。

【朗読する人と、それを受けて心という無限の舞台に想像力で創造していく聞き手との、いわば合作としての「朗読」が最良のものとなる条件は、三つ、です。声にのせて届けたいとっておきの作品があり、それを贈りたいと願う大切な相手がいて、その相手の方でも自分の朗読を聞くのを心待ちにしている、という三つの条件】(松丸春生『朗読 声の贈りもの 日本語をもっと楽しむために』、平凡社新書)。第一に「声にのせて届けたいとっておきの作品があること」、そして第二に「それを贈りたいと願う大切な相手がいること」。そして第三に「その相手の方でも自分の朗読を聞くのを心待ちにしている」。

これは朗読全般について言われていることですが、礼拝式の中の聖書朗読は、この三つの条件にもっとも当てはまるような気がします。「声にのせて届けたいとっておきの作品があること」。私たちは聖書というすばらしい作品をもっています。そして「それを贈りたいと願う大切な相手がいること」。聖書朗読者は礼拝に出席している人々を大切な兄弟姉妹と思っています。そして「その相手の方でも自分の朗読を聞くのを心待ちにしている」。私たちは聖書朗読を心待ちにしています。まさに三つの条件がそろっているわけです。礼拝の中で聖書朗読がしっかりと位置づけられるとき、私たちはもっともっと豊かな礼拝を守ることができるような気がします。

聖書の御言葉には力があって、私たちがその御言葉をしっかりと聞くときに、その御言葉は豊かな実を結びます。それは礼拝式という場にとどまらず、私たちの生き方を変え、私たちの世界を変える力になるのです。

今日の聖書の箇所で、イエスさまは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言っておられます。今日の聖書の箇所は、「『種を蒔く人』のたとえ」という表題のついている聖書の箇所です。マルコによる福音書4章13節以下には「『種を蒔く人』のたとえの説明」という表題のついた聖書の箇所があります。ですからわたしがまた説明をする必要もないような気もします。しかし「それではお祈りします」というわけにもいかないのですが、ちょっと困ってしまいます。

マルコによる福音書4章1-2節にはこうあります。【イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた】。イエスさまはガリラヤ湖畔で、大勢の群衆に、神さまのことをお話しされました。そしてよく伝わるようにと、たとえを用いて話されました。今日の聖書の箇所もたとえを用いて話されています。

マルコによる福音書4章3−8節にはこうあります。【「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」】。

畑に種蒔きをする場合、まあなるべく良い土地に蒔こうとするのは、当たり前です。しかしずっと蒔いていると、「ありゃ、あんなところにとんでいってしまった」ということもあるでしょう。道端に落ちてしまった種、石だらけで土の少ない所に落ちた種、茨が茂っているところに落ちた種。それぞれ実を結ぶことがありませんでした。しかし良い土地に落ちた種は、豊かに実を結びます。30倍、60倍、100倍というように、多くの実を結びます。

この譬えを説明して、マルコによる福音書4章14節にはこうあります。【種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである】。そしてマルコによる福音書4章20節にはこうあります。【良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである】。「種を蒔く人」のたとえでは、イエスさまが語られた御言葉を聞く側の人々の態度が問われています。しっかりと御言葉を聞いているのか。それともいい加減にしか聞いていないのか。あなたはどうなのか。ということが問われています。ですからイエスさまはたとえのはじめに「よく聞きなさい」と言われました。そしてまたたとえの最後に、マルコによる福音書4章9節ですけれど、【そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた】とあります。

私たちはしっかりとイエスさまの御言葉を聞かなければなりません。しかし私たちはいい加減ですから、そんなに一生懸命に御言葉を聞くことができるのだろうかという思いもいたします。私たちは自分のいいかげんさというのをよく知っています。私たちは道端のようなものであり、石だらけの土地のようなものであり、茨が生い茂った土地のようなものです。サタンが来て、御言葉を奪い去ってしまう。御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない。まあ、イエスさまは私たちのことをよく知っておられます。私たちがしっかりと御言葉を聞かず、いい加減なことをしているから、だめなのでしょうか。「そのとおり」と神さまに叱られているような気もしますが、イエスさまは「そうでもない」と言われます。

イエスさまは同じ種のたとえですが、マルコによる福音書4章26節以下に、「『成長する種』のたとえ」「『からし種』のたとえ」という話をしておられます。マルコによる福音書4章26-29節にはこうあります。新約聖書の68頁です。【また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」。更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。】。

【人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない】とありますように、神の国は人の思いを超えて広がっていくと、イエスさまは言われました。ちいさなからし種が大きな枝を張り成長するように、命の種は豊かに実を結び広がっていく。私たちがどんなにだめな人間であったとしても、イエスさまの御言葉は、私たちの思いを超えて、広がっていきます。

そしてイエスさまの御言葉は、愚かな私たちをも変える力をもっています。イエスさまは【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】(MK1331)と言われました。イエスさまの弟子たちは、私たちと同じように、イエスさまの御言葉をしっかりと聞くことのできない人たちでした。イエスさまから叱られることもありました。そして弟子たちはイエスさまが十字架につけられたとき、逃げ出してしまう弱い人たちでした。しかしその弟子たちが復活のイエス・キリストに出会って、イエスさまの御言葉を宣べ伝えたのです。イエスさまが天に帰られたあと、弟子たちはイエスさまの御言葉にくり返しくり返し聞いて、その人生を歩みました。

弱さやいいかげんさをもつ私たちですけれども、私たちもまた聖書の御言葉をしっかりと聞く者でありたいと思います。心を傾けて、しっかりと御言葉を聞くときに、私たちは新しい者へと変えられていきます。聖書の御言葉は、私たちをキリストへと導いてくださいます。御言葉の力を信じて、しっかりと聖書の御言葉に耳を傾けましょう。


(2026年2月1日平安教会朝礼拝)


8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...