2025年6月14日土曜日

6月15日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「幼子のような者に」

「幼子のような者に」

聖書箇所 マタイによる福音書11章25ー30節 

日時場所 2025年6月15日平安教会朝礼拝


西巻茅子さんという絵本作家がおられます。『わたしのワンピース』(こぐま社)という絵本が、とても有名です。わたしの娘は幼稚園のとき、西巻茅子さんの絵の『ちいさなきいろいかさ』(金の星社)という絵本が好きでした。ですからわたしもこの絵本をよく読みました。西巻茅子さんの絵は、こどもが描いたような絵です。わたしはこの絵をみながら、「なんでこんなへたくそな、こどもの描いたような絵がいいんだろうか」と思っていました。この素朴な疑問を、わたしの妻の容子にしたところ、容子は「これはわざとこどもの描いたような絵を描いているんだ。そしてこの人の絵本は、こどもが描いたような絵のように見えるけれども、構図なんかはとってもよく計算されて描かれてあるんだ」というふうに教えてくれました。わたしはちょっとびっくりしました。わたしにはこどもが描いたへたくそな絵にしか見えないもののなかに、じつは大きな真実が隠されてあったのでした。

あとから何かの本で、たぶん福音館書店の松居直さんの本だったと思いますが、この西巻茅子さんの絵本のことが解説してあって、計算された構図であるというようなことが書いてあって、「ああ、やっぱり容子は絵がわかるんだ」と感心しました。西巻茅子さんはこどもの気持ちを大切にして、そしてこどもが自分の絵と似ていると思ってくれるような、こどもが描いたような絵を描いておられます。こどものときの素直でひたむきな気持ちを、年をとっても持ち続けることは、なかなかむつかしいことですが、西巻さんはこどもが描いたような絵を描き続けることによって、こどもの気持ちをずっと持ち続けているのでしょう。だからこどもから愛される絵本を描くことができるのです。いつまでも幼子のような気持ちを大切にしておられるのでしょうね。

「かみさまへのてがみ」という本は、アメリカの子どもたちが、神さまに書いた手紙です。1975年に書かれた手紙ですから、この手紙を書いたお友だちは、いま50歳くらいになっているのでしょうか。

いちばん最初の手紙は、どんなのかと言うと、【かみさま、ぼくもなかまにいれてよ。あなたのともだちハービーより】。かわいらしいですね。

こんなのもあります。【かみさま、ぼくの おとうとは 四さいです。どうか おねがいだから、おとうとに ぼくのあたまに くるようなこと、やめさせて くれないかなあ。あなたのともだち マーク 71/2さい】。おもしろいですね。

【あなたは どうして じぶんが かみさまだって わかったんですか? シャーリーン】。なかなかむつかしい問題ですね。

【かみさま、あなたは てんしたちに しごとは みんな やらせるの?。ママは わたしたちは ママのてんしだって いうの。そいで わたしたちに ようじを ぜんぶ いいつけるの。あいをこめて マリア】。なかなかのお母さんですね。

【かみさま、ぼくは あなたが だいすきです。とっても しんせつなんだもん。ぼくも あなたみたいに いいこに します。ぼくは みんなに しんせつです。おかあさんにも おとうさんにも ふたりのいもうとにも。かみさまって おもしろいでしょうね。みんなに すきになってもらえて。けいぐ トーマス】。「かみさまって おもしろいでしょうね。みんなに すきになってもらえて」。なかなかすてきな言葉ですね。

この『かみさまへのてがみ』を訳した、谷川俊太郎はこう言っています。【時には大人たちの口にする宗教論議よりもはるかにいきいきと、それらの手紙は神のイメージを私たちに示します。子どもたちは実に率直に神に問いかけ、神におどろき、神を発見し、神に注文をつけます。そのまっすぐな魂のありかたは私たちを楽しませると同時に、はげまされもするのではないでしょうか】。

ファリサイ派や律法学者たち、またサドカイ派の人々など、ユダヤ教のいろいろな派が、互いに神さまについて論争したり、またイエスさまに論争をしかけてきたりしていました。イエスさまの時代もまた、宗教論議の盛んな時代でした。そうしたなか、イエスさまはこどもたちのように、素直な気持ちで、神さまに向き合うことの大切さを、弟子たちに教えておられます。

今日の聖書の箇所は「わたしのもとに来なさい」という表題のついた聖書の箇所です。(今日の聖書の箇所は、三つに分けられます。ひとつはマタイによる福音書11章25-26節、そして11章27節、三つ目は11章28-30節となります)。

マタイによる福音書11章25-26節には【そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした】とあります。

ここでは、「啓示を与えてくれた神さまへの感謝の祈り」が述べられています。イザヤ書の29章14節(旧約聖書の1105頁)には【それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される】とあります。また詩編19編8節(旧約聖書の850頁)には【主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える】とあります。旧約聖書にも、神さまは秘すべき知識を知者や賢者には隠し、無知な人や価なき人に与えたという考え方があります。しかしイエスさまはもう一歩すすんで、「幼子のような者」にお示しになったと言われます。

マタイによる福音書11章27節には【すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません】とあります。ここでは「父を知る者と子を知る者についての説明」がなされています。神さまはイエスさまにすべてのことを託されました。ですから、神さまのことを知っておられるのは、イエスさまだけなのです。そしてイエスさまは弟子たちに神さまのことを伝えたのです。イエスさまが「これぞ」と思った弟子たちにだけ、神さまのことが伝えられたのです。もちろんそれは弟子たちがりっぱであったということではありません。伝えられる価値のない者であるにもかかわらず、イエスさまが勝手に弟子として選んだ人々に、神さまのことが伝えられたのでした。

マタイによる福音書11章28-30節に【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」】とあります。

新共同訳聖書には、「旧約聖書続編付き」という聖書があります。この「旧約聖書続編」というのは、カトリック教会で「第二正典」というふうに位置づけられている部分です。そのなかに「シラ書〔集会の書〕」という文書があります。ヨブ記とか箴言と同じような知恵文学に分類される書物です。シラ書の最後の部分51章23節以下にこうあります。【わたしのそばに来なさい、無学な者たちよ、学舎(まなびや)で時を過ごしなさい。なぜ、いつまでもそのままの状態でいるのか。お前たちの魂は激しく渇いているのに。わたしは口を開いて語ってきた、知恵を得るのに金はかからないと。軛の下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある。目を開いて見よ。わずかな努力で、わたしが多くの安らぎを見いだしたことを】(5123-5127)。

ユダヤ教の知恵文学でも「知恵はすぐ身近にある。目を開いて見よ。わずかな努力で、わたしが多くの安らぎを見いだしたことを」と言われています。しかし聖書は、知恵はイエスさまが与えてくださるものだと言っています。イエスさまは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。それはイエスさまが共に軛を負ってくださるからです。いつも隣にいて、疲れた者、重荷を負う者の隣にいてくださり、共に歩んでくださるからです。一方的に重荷を負わすのではなくて、イエスさまが共に歩んでくださるのです。

私たちの救い主であるイエスさまは言われました。【天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました】。

「神さまのことは、子どものほうがよくわかるよ」とイエスさまは言われたのです。大人がむつかしく神さまの話をするよりも、子どものほうは神さまのことをよく知っている。この『かみさまへのてがみ』(谷川俊太郎訳、サンリオ)などを読んでいると、ほんとうにそうだなあというふうに思います。

【これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした】。「神さまのことは、子どもがよく知っている。それはとってもいいことだ」とイエスさまは言われました。

イエスさまは神さまは幼子のような者、小さき者に、自分が共にいることをお知らせになったと言われます。幼子のような者とは、いったいどんな人たちなんでしょう。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである】。幼子のような者とは、もちろん子どもたちはそうですけれど、疲れた者、重荷を負う者が、幼子のような者だと、聖書は私たちに教えてくれます。

「幼子のような者、疲れた者、重荷を負う者は、みんな神さまのところにやってきて、みんなで休もう」とイエスさまは言われます。だいたい小さい子どもというのは、何の心配もなく、眠ります。どこででも。遊園地などにいっても、一生懸命に遊んで、そして疲れたら、勝手に寝てしまいます。お母さんやお父さんが、荷物を手に持って、大荷物となった子どもを抱えて、死にそうな顔をして歩いているというような風景が、今日も夕方くらいになると遊園地でみられるわけです。大人はそうそう寝られません。眠ってしまうとだれも連れて帰ってくれないから。ときどきそうしたことを忘れて疲れはてて、駅で眠っているお父さんというのも見かけますが・・・。子どもはやっぱり親を信頼して、すべてを委ねているのです。

(ちなみに、わたしは遠くに自動車で行くとき、妻と交替で、自動車を運転します。妻が自動車を運転しているとき、わたしは眠たくなったら眠ります。妻を信じているからです。しかしわたしが自動車を運転しているとき、ぜったい妻は寝ません)。

イエスさまは、「みんなで神さまのところにきて、子どものように休みましょう」と言われました。神さまを信頼して、神さまに委ねて、子どものように休もう。わたしは教会というところは、安心して休むことができるところであればと思います。これ、教会で休むというので、教会を休むというのでないところがミソなのです。「で」と「を」では大違いなので、ひとつ誤解のないように。教会がなにもかも忘れて、神さまの愛の中でゆったり、ゆっくり休めるところであればと思います。

たしかに教会にはいろいろな働きがあり、そうそう休むというふうにもいかないということもあるわけです。「イエスさまの軛は重い」。そんなふうに思えるときも、私たちにはあります。何の心配もなく、何の負担もなく、教会で礼拝を守ることができればと思われる方もおられると思います。「明日の礼拝は司会や」とか「明日は受付と献金当番や」「礼拝のあとに役員会が・・・」。そんなふうに思えるときもあるでしょう。しかしそれでも礼拝は、私たちにとって休息の場であるのです。静かに神さまのみ旨に思いをよせることができるときなのです。同じ神さまを信じる兄弟姉妹がともに集まって、そして共に神さまを賛美することができるときなのです。心を合わせて祈り、隣人のために祈り、私たちのこころを生き生きときれいなものへと導いていただけるときなのです。私たちは私たちの力の源である、この礼拝のときを大切にしたいと思います。

【これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました】。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう】。イエスさまの言葉に招かれて、幼子のようにすなおに、神さまの愛のなかで生きてゆきたいと思います。



(2025年6月15日平安教会朝礼拝)


"To those who are like little children"

Bible passage: Matthew 11:25-30

Date and time: Heian Church Morning Service, June 15, 2025


There is a picture book author called Nishimaki Chikako. Her picture book "My Dress" (Kogumasha) is very famous. When my daughter was in kindergarten, she liked the picture book "Little Yellow Umbrella" (Kin no Hoshisha) with illustrations by Nishimaki Chikako. So I often read this picture book too. Nishimaki Chikako's illustrations look like they were drawn by a child. When I looked at these pictures, I wondered, "Why do they like such poorly drawn, childlike pictures?" When I asked my wife Yoko this simple question, she told me, "She intentionally draws pictures that look like they were drawn by a child. And although her picture books look like they were drawn by a child, the composition is very carefully calculated." I was a little surprised. In fact, there was a big truth hidden in what looked to me like a poorly drawn child's picture.


Later, in a book, I think it was by Matsui Nao of Fukuinkan Shoten, there was an explanation of Nishimaki Chikako's picture books, saying that the compositions were carefully calculated, and I was impressed, thinking, "Ah, Yoko really does understand art." Nishimaki Chikako values ​​children's feelings, and draws pictures that look like they were drawn by a child, so that children will recognize them as similar to their own drawings. It is quite difficult to maintain the honest and sincere feelings of a child even as we grow older, but Nishimaki-san continues to draw pictures like those drawn by children, so he must have retained the feelings of a child. That is why he is able to draw picture books that are loved by children. He will always treasure the feelings of a child.


"Letters to God" is a book of letters written by American children to God. Since it was written in 1975, the friend who wrote it must be about 50 years old now.


The very first letter is, "God, please include me. From your friend Herbie." It is so cute.


There is also this one. "God, my little brother is four years old. Please, please, please make my little brother stop coming at me." Your friend Mark, 7 1/2 years old]. Interesting.


How did you know you were a god? Charlene]. That's a pretty difficult question.


God, do you make your angels do all the work? Mommy says we are her angels. And she tells us all the utensils. With love, Maria]. You're quite a mother.


God, I love you. You're so kind. I'll be a good boy like you. I'm kind to everyone. To my mommy, my daddy, and my two little sisters. Gods are interesting, aren't they? I want everyone to like me. Keigu Thomas]. "God is interesting, isn't he? He's liked by everyone." Such a wonderful thing to say.


Shuntaro Tanikawa, who translated "Letters to God," said the following. "These letters show us a much more vivid image of God than the religious debates that adults sometimes have. Children ask God questions, are amazed by him, discover him, and give him orders. Their honest souls entertain us, and at the same time, they encourage us."


Various Jewish sects, such as the Pharisees, the scribes, and the Sadducees, argued with each other about God and also with Jesus. The time of Jesus was also a time of active religious debate. In the midst of all this, Jesus taught his disciples the importance of facing God with an open heart, like children.


Today's Bible passage is a passage with the title "Come to Me." (Today's Bible passage is divided into three parts. One is Matthew 11:25-26 and 11:27, and the third is 11:28-30.)


Matthew 11:25-26 says, "Then Jesus said, 'I praise you, Father, Lord of heaven and earth, for you have hidden these things from the wise and prudent and have revealed them to little children. Yes, Father, it was in your sight.'"


Here, a prayer of thanksgiving to God for the revelation is stated. Isaiah 29:14 (Old Testament, page 1105) says, "Therefore, behold, I will again amaze this people with marvelous deeds. The wisdom of the wise will perish, and the understanding of the discerning will be hidden." Also, Psalm 19:8 (page 850 of the Old Testament) says, "The law of the Lord is perfect, reviving the soul; the decrees of the Lord are true, giving wisdom to the ignorant." In the Old Testament, there is also the idea that God hides secret knowledge from the wise and the wise, and gives it to the ignorant and the worthless. However, Jesus goes one step further and is said to have revealed it to "a child."


Matthew 11:27 says, "All things have been entrusted to me by my Father. No one knows the Son except the Father; and no one knows the Father except the Son and anyone to whom the Son will reveal it." Here, an explanation is given about "those who know the Father and those who know the Son." God entrusted everything to Jesus. Therefore, only Jesus knows God. And Jesus told his disciples about God. Jesus only told about God to the disciples to whom he thought "this is it." Of course, this does not mean that the disciples were excellent. Jesus preached about God to those whom he chose as his disciples, even though they were not worthy of being preached to.


Matthew 11:28-30 says, "Come to me, all you who are weary and burdened, and I will give you rest. Take my yoke upon you and learn from me, for I am gentle and humble in heart, and you will find rest for yourselves. For my yoke is easy and my burden is light."


The New Interconfessional Translation of the Bible includes a Bible called "The Sequel to the Old Testament." This "Sequel to the Old Testament" is a section that is considered the "second canon" in the Catholic Church. Within this book is a document called "The Book of Sirach (Ecclesiasticus)." It is a book that is classified as wisdom literature, like the Book of Job and Proverbs. The last part of the Book of Sirach, Chapter 51, Verse 23 and following, reads: [Come to me, you ignorant ones, spend your time in the school. Why do you continue in this state? Your souls are very thirsty. I have opened my mouth and told you that wisdom is cheap. Put your neck under the yoke and teach your soul lessons. Wisdom is close at hand. Open your eyes and see how with little effort I have found much relief] (5123-5127).


In Jewish wisdom literature, it is also said, "Wisdom is close at hand. Open your eyes and see how with little effort I have found much relief." However, the Bible says that wisdom is something that Jesus gives us. Jesus says, "My yoke is easy and my burden is light." That is because Jesus bears the yoke with us. He is always beside us, beside the tired and the burdened, and walks with us. Jesus does not unilaterally place the burden on us, but walks with us.


Our Savior, Jesus, said, "I praise you, Father, Lord of heaven and earth. You have hidden these things from the wise and intelligent and have revealed them to the little children."


Jesus said, "Children understand the things of God better." Children know more about God than adults who talk about God in complicated ways. When I read books like "Letters to God" (translated by Shuntaro Tanikawa, Sanrio), I think this is really true.


"You have hidden these things from the wise and intelligent and have revealed them to the little children. Yes, Father, this was pleasing to you." Jesus said, "Children know the things of God better. That is very good."


It is said that God has informed the little children, the little ones, that he is with them. What kind of people are like little children? [Come to me, all you who are weary and burdened, and I will give you rest. Take my yoke upon you and learn from me, for I am gentle and humble in heart, and you will find rest for yourself. For my yoke is easy and my burden is light.] Of course, children are like little children, but the Bible teaches us that those who are tired and burdened are like little children.


Jesus says, "Come to God, all you who are weary and burdened, and let us all rest together." Generally, small children sleep without any worries. Anywhere. Even when they go to an amusement park, they play hard, and when they get tired, they just go to sleep. Today, in the evening, you can see scenes of mothers and fathers walking around with their bags and children in their arms, with expressions of death on their faces, at amusement parks. Adults can't sleep that easily. If they fall asleep, no one will take them home. Sometimes I see fathers who forget about this and fall asleep at the station, exhausted... Children trust their parents and entrust everything to them.


(By the way, when I go to a long distance by car, my wife and I take turns driving. When my wife is driving, I sleep if I get sleepy. Because I trust her. But when I am driving, she never sleeps.)


Jesus said, "Let us all come to God and rest like children." Let's trust God, entrust ourselves to God, and rest like children. I think that the church should be a place where we can rest in peace. The key point here is that I say rest at church, not rest from church. There is a big difference between "at" and "for," so please do not misunderstand. I think that the church should be a place where we can forget about everything and rest comfortably and leisurely in God's love.


It is true that the church has various tasks, and it is not always possible to rest. "Jesus' yoke is heavy." There are times when we feel that way. Some people may wish they could attend church services without any worries or burdens. "I'll be the host for tomorrow's service," "I'll be the receptionist and collection officer tomorrow," "After the service there'll be a board meeting..." There may be times when you feel that way. But worship is still a place of rest for us. It is a time when we can quietly reflect on God's will. It is a time when brothers and sisters who believe in the same God can gather together and praise God together. It is a time when we can pray together, pray for our neighbors, and be guided to make our hearts lively and pure. We want to cherish this time of worship, which is the source of our strength.

[He has hidden these things from the wise and intelligent and has revealed them to the little children]. [Come to me, all you who are weary and burdened, and I will give you rest]. Invited by Jesus' words, I want to live in God's love as obediently as a little child.




2025年6月6日金曜日

6/8HEIAN CHURCH Sermon「Church: Living with compassion」

「Church: Living with compassion」

「教会ー思いやりをもって生きるー」

聖書箇所 使徒言行録2章1−13節

日時場所 2025年6月8日平安教会朝礼拝・ペンテコステ・花の日子どもの日礼拝

Congratulations on Pentecost. I want to walk with a lively spirit, guided by the Holy Spirit.

Today, 19 people from Pioneer Ocean View Church in Dan Diego, USA, are attending the service. Pioneer Ocean View Church and Heian Church are sister churches and have church fellowship. I am very happy to be able to hold the Pentecost service with everyone at Pioneer Ocean View Church.

In the church calendar, there is a "liturgical color" that represents the color of the time. The liturgical color of Pentecost is "red" because "tongues like fire appeared in separate parts and rested on each person." I am wearing a red tie today. And I am wearing red socks. I have prepared a red clear file for everyone at Pioneer Ocean View Church. The red clear file contains hymns to sing together. And we are giving away paper crafts of Japanese castles. Since it is a red castle, we are giving away paper crafts of Shuri Castle in Okinawa.

Today's Bible passage is about the beginning of the church festival called Pentecost. There are three major festivals in Christianity: Christmas, Easter, and Pentecost. Christmas is a day to celebrate the birth of Jesus. Easter is a day to celebrate Jesus' crucifixion and resurrection. So what is Pentecost? It is a day to celebrate the birth of the church. So this passage of the Bible says that "the church was born."

There are many conflicts all over the world. Many conflicts and fights occur around us. Human society is quite difficult. How should we live? The passage of the Bible we read today is a passage that teaches us how we should live.

Acts 2:1-4 says: [When the day of Pentecost came, and they were all gathered together in one place, suddenly a sound like a violent wind was heard from heaven, and it filled the whole house where they were sitting. Then tongues as of fire appeared to them, and they rested on each one of them. And they were all filled with the Holy Spirit, and began to speak in other tongues, as the Spirit gave them utterance.

The Holy Spirit came upon Jesus' disciples, and they began to speak in other tongues. Jesus' disciples spoke about God not in their own language, but in other languages. "Speaking in other languages" means that they put themselves in the other person's shoes and spoke to them with the other person's feelings in mind. Only then were they listened to carefully. It was important not to speak selfishly, but to speak from the other person's shoes and with the other person's feelings in mind. No matter how wonderful something is, if you speak or do it selfishly, it will not be conveyed. When you put yourself in the other person's shoes and are considerate of them, it will be conveyed.

It is quite difficult to know what state the other person is in. When someone says "I'm fine," they may respond "I'm fine" even if they are not. It is not so easy for people to say what they are thinking.

When I was young, I got sick and had to be hospitalized. I was hospitalized at a university hospital, and at that time I was in a room with six people. It was quite a small room. Since it was a university hospital, there was a medical professor who made rounds. Since everyone was sick, when the six of us were talking, we would say things like, "This hurts here, this is bothering me." And I told him that the next time the professor makes his rounds, he should say, "This hurts here," and "I'll ask him a lot of questions." But when the medical professor actually asked me during the rounds, "Ogasawara Jun, are you okay?", I answered, "I'm okay."

In the TV drama "Hyou wa Mystery to Iu Nare," they also said that if you ask "Are you okay?", most people will answer, "I'm okay," so it would be better to change the way you ask. The main character, Kuno Totonou, calls out to a man who is soaked in the rain and not moving, "Are you okay?" After that, he suddenly realizes that in situations like this, he shouldn't ask, "Are you okay?" The other person will usually respond, "I'm OK." That's why I think it's better to ask, "What's wrong?" Even if someone is soaked in the rain and won't move, if you ask them, "Are you OK?", they will respond, "I'm OK."


That's why it's important for us to think about how the other person feels and to put ourselves in their shoes, wondering how they might be feeling.


Churches are places that value this sort of thing. I don't think they do it very well, but they do value putting ourselves in the other person's shoes and being considerate. This is because churches were originally established by putting ourselves in the other person's shoes and speaking about God. This is because churches were established by "speaking in other countries' languages."


And churches are places that value "forgiveness." The greatest characteristic of Christianity is that it is a religion that was passed down by losers and dropouts. Peter, who was said to be Jesus' first disciple, ran away when Jesus was crucified.

Mark 14:66-72 says this. It is on page 94 of the New Testament. [Now while Peter was below in the courtyard, one of the maids of the high priest came and saw him warming himself by the fire. She looked at him and said, "You also were with Jesus of Nazareth." But Peter denied it, saying, "I do not know or have any idea what you are talking about." And as he went out to the exit, the rooster crowed. When the maid saw Peter, she again began to say to the people around, "This man is one of them." Peter again denied it. After a while, the people by then said to Peter, "You are indeed one of them, for you are a Galilean." And Peter began to swear, even uttering curses, "I do not know the man you are talking about." And immediately the rooster crowed again. Peter suddenly began to cry, remembering the words Jesus had said to him: "Before the rooster crows twice, you will deny me thrice."


Not only Peter, but the other disciples also betrayed Jesus. Since they all betrayed Jesus, they were failures and dropouts. However, the disciples who betrayed Jesus met the resurrected Jesus, were forgiven, and went on to spread the word about God and Jesus. Christianity is therefore a religion in which failures and dropouts spread the joy of "being forgiven." Because they were forgiven, Christianity places great importance on "forgiveness."


Our world is a society in which failure is not forgiven. If someone makes a small mistake, they will beat them up even if they had been praised up until that point. I feel that we are becoming a society that has lost some of its leeway and tolerance. It may be an old-fashioned idea, but I think it is important to "live with compassion" at times like these.


The church is a place that places great importance on "living with compassion" and "forgiving each other." If you're feeling a bit tired or a bit anxious, please try going to church. There's no need to make a big deal out of going to church. "Maybe I'll just go listen to the organ," "Maybe I'll go because I want to experience the solemn atmosphere," "Well, it's Christmas, so I'll just go." Visit church with that kind of feeling. I'm sure you'll have a wonderful encounter.

I pray that God's grace and blessings will be abundantly upon you all.

ペンテコステおめでとうございます。聖霊に導かれて、生き生きとして歩みをしたいと思います。

今日はアメリカのダンディエゴにあります、パイオニア・オーシャン・ビュー教会から、19名の方が礼拝にいらしてくださっています。パイオニア・オーシャン・ビュー教会と平安教会は姉妹教会として、教会の交わりをもっています。ペンテコステの礼拝を、パイオニア・オーシャン・ビュー教会の皆様と一緒に守ることができ、とてもうれしく思っています。

教会の暦には、そのときどきの色を表わす「典礼色」というものがあります。ペンテコステの典礼色は、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」ということなので、「赤」です。わたしは今日は、赤いネクタイをしています。そして赤い靴下をはいています。パイオニア・オーシャン・ビュー教会のみなさんには、赤いクリアファイルを用意いたしました。赤いクリアファイルのなかに、一緒に歌う讃美歌などが入っています。そして日本のお城のペーパークラフトをプレゼントしています。赤いお城ということで、沖縄の首里城のペーパークラフトをプレゼントしています。

今日の聖書の箇所は、ペンテコステという教会のお祭りの始まりについて書かれてある聖書の箇所です。キリスト教には大きな祭りが三つあります。クリスマスとイースターとペンテコステです。クリスマスはイエスさまが産まれたことをお祝いする日です。イースターはイエスさまが十字架につけられ、そして復活なさったことをお祝いする日です。ペンテコステというのは、それでは何の日かというと、教会の誕生をお祝いする日です。ですから、「こうして教会が生まれた」ということが、この聖書の箇所には書かれてあります。

世界中でいろいろな争いが起こっています。私たちの周りでもいろいろな争いや喧嘩が起こります。人間の社会はなかなかむつかしいものです。私たちはどのように生きたらいいのでしょうか。今日、読んだ聖書の箇所は、私たちがどのように生きたらいいのかということを教えてくれる聖書の箇所です。

使徒言行録2章1−4節にはこうあります。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした】。

イエスさまの弟子たちに聖霊がくだって、彼らは【ほかの国々の言葉で話しだし】ます。イエスさまの弟子たちは、神さまのことを自分の国の言葉ではなくて、ほかの国々の言葉で話しました。「ほかの国々の言葉で話した」というのは、相手の立場に立って、相手の気持ちになって話をしたということです。そのときにはじめてよく聞いてもらえたということです。自分勝手に話をするのではなく、相手の立場に立って、相手の気持ちになって話すということが大切なことだったのです。どんなにすばらしいことであったとしても、自分勝手に話をしたり、自分勝手にやっていたら、それは伝わることはないでしょう。相手の気持ちになって、相手のことを思いやるときに、それは伝わっていきます。

相手がどのような状態であるのかということを知るということは、なかなかむつかしいことです。人は「大丈夫」と言われると、大丈夫でなくても、「大丈夫」と応えてしまったりするわけです。思っていることをそう簡単に人は口に出すということでもないのです。

わたしは若い時に、病気になって入院をするということがありました。大学病院に入院をしたのですが、当時は6人部屋でした。なかなか狭い部屋でした。大学病院ですから医学部の教授の回診というがありました。みんな病気なので、6人で話をしているときは、「ここがいたいとか、ここが気になる」というようなことを言っているわけです。そして今度教授の回診のときには、「ここがいたい」っていってやろとか、「いろいろ質問してみよ」とか言っていました。でも実際に回診のときに医学部の教授から「小笠原純さん、大丈夫ですか」と尋ねられると、「大丈夫です」と応えたりしてしまっていました。

『ミステリーと言う勿れ』というTVドラマでも、やはり「大丈夫」と聞くと、だいたい「大丈夫」と応えるから、尋ね方を変えたほうが良いというようなことを言っていました。主人公の久能整(くのう・ととのう)くんは、雨の中でずぶ濡れで動こうとしない男性に「大丈夫ですか?」と声をかけます。そのあとはっとして、こういうときは「大丈夫ですか」ってきいちゃダメなんだと思います。相手はたいてい「大丈夫です」って応えるわけです。だから「どうかしましたか」と聞いてみたほうが良いと思います。雨の中でずぶ濡れで動こうとしない人でも「大丈夫ですか」と声をかけられると、「大丈夫です」と応えてしまうわけです。

だからこそ、私たちはこの人はどんな気持でいるんだろうというふうに、相手の気持ちになって、相手の立場に立って考えるということが大切です。

教会というところは、そうしたことを大切にしているところです。どれだけできているかというと、なかなかできていないと思うわけですが、でも相手の気持ちになってとか、思いやりをもってということを大切にしているところです。それは教会がもともと、相手の気持ちになって、相手の立場に立って、神さまのことを伝えることによってできてきたところだからです。教会は「ほかの国々の言葉で話す」ということによってできていったところだからです。

そして教会というところは、「赦し合う」ということを大切にしているところです。キリスト教のもっとも大きな特色は、失敗者・落伍者が伝えた宗教だというところです。イエスさまの一番弟子と言われていたペトロさんは、イエスさまが十字架につけられるときに逃げてしまいました。

マルコによる福音書14章66-72節にはこうあります。新約聖書の94頁です。【ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした】。

ペトロさんだけでなく、他のお弟子さんたちもイエスさまを裏切りました。みんなイエスさまを裏切ったわけですから、失敗者であり、落伍者でした。しかしそのイエスさまを裏切ったお弟子さんたちが、復活されたイエスさまに出会い、赦されて、神さまのこと、イエスさまのことを伝えて行きました。ですからキリスト教は失敗者・落伍者が「自分が赦された」という喜びを伝えた宗教なのです。それで自分が赦されたのですから、キリスト教は「赦し合う」ということを大切にしています。

私たちの世の中は失敗が赦されない社会です。ちょっと失敗すると、いままで持ち上げていても袋だたきにしたりします。なにか余裕がなくなって、寛容さがない社会になってきているような気がします。そんなときだからこそ、わたしは古い考えかもしれませんが、「思いやりをもって生きる」ということが大切だと思います。

教会というところは、「思いやりをもって生きる」「赦し合う」ということを大切にしているところです。ちょっと疲れたなあとか、なんかちょっと不安な気がするなあというようなとき、ぜひ教会に行ってみてください。あんまり大げさに考えて教会に行く必要はありません。「ちょっとオルガンを聴きにいってみようか」「ちょっと厳粛な雰囲気を味わいたいからいってみようか」「まあクリスマスだからちょっと行ってみるか」。そんな気持で教会をお訪ねください。すてきな出会いがあると思います。

皆様のうえに、神さまの恵みと祝福とが豊かにありますようにとお祈りしています。


(2025年6月8日平安教会朝礼拝・ペンテコステ・花の日子どもの日礼拝)

6月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「隠れたことを見ておられる神がおられる」

「隠れたことを見ておられる神がおられる」

聖書箇所 ルカ24:44-53。155/470。

日時場所 2025年6月1日平安教会朝礼拝式

来週はアメリカのサンディエゴからPOVUCC教会の方々がきてくださいます。アメリカのトランプ大統領もいろいろな政策を打ち出し、以前のようなアメリカではなくなったことを感じるようになりました。どのように考えたら良いのかよくわからなくなりました。そういうときはアメリカに関する本をなんとなく読んでみるのがよいと思い、ウォルト・ホイットマンの詩集を読んでみました。

ウォルト・ホイットマンは1819年生まれのアメリカの詩人です。1892年に天に召されています。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人であると言われています。アメリカの学校ではホイットマンの詩を学ぶのだと思います。

ホイットマンは1860年6月ニューヨークで、日米修好通商条約(1858)の批准書交換のために滞在していた江戸幕府の使節団が行進をしていたの見物しています。ホイットマンはアメリカ南北戦争のときに、北軍を鼓舞する愛国的な詩「叩け!叩け!太鼓を!」を発表しています。アメリカ南北戦争は、1861年4月12日から1865年4月9日のことです。ホイットマンが42歳-46歳くらいのときです。新島襄がアメリカにやってくるのは、1865年7月20日です。新島襄は1874年に帰国し、そして1875年に京都に同志社英学校を設立します。そして1876年に私たちの平安教会が設立されるというような感じの時代です。新島襄は1890年1月23日に天に召され、ホイットマンはその2年後の1892年3月26日に天に召されています。アメリカの独立戦争を経て、ウォルト・ホイットマンはアメリカの人たちから愛されている詩人です。

ホイットマンの詩に「わたしはアメリカが歌うのを聞く」という詩があります。

「わたしはアメリカが歌うのを聞く」

わたしはアメリカが歌うのを聞く、そのさまざまな喜びの歌をわたしは聞く、

機械工たちの歌を、めいめいがじぶんの歌をそれにふさわしく陽気に力強くうたうのを、

大工が厚板(あついた)や梁(はり)の寸法を測りながらじぶんの歌をうたうのを、

石工が仕事の用意にとりかかりながら、また仕事を止めながら、自分の歌をうたうのを、

船員が船のなかで自分に属することを歌うのを、甲板(かんぱん)水夫が汽船の甲板の上で歌うのを、

靴屋が仕事台に腰かけながら歌うのを、帽子屋が立ったまま歌うのを、

木こりの歌を、朝の道すがら、昼の休み、また日暮れどきの百姓の子の歌を、

母親の、仕事にいそしむ若妻の、また縫いものや洗濯をする少女の、こころよい歌を、

ひとつひとつ男女めいめいのもので、他の誰のものでもないものを歌い、

昼には昼につきものの歌をー 夜には逞しい人なつっこい若者の一団が、

口を大きく開いてかれらの力強い調子のよい歌をうたうのを。

この「わたしはアメリカが歌うのを聞く」というホイットマンの詩を読んでいると、現代のアメリカの労働者の人たちの気持ちがわかるような気がします。機械工が、大工が、石工が、船員が、靴屋が、木こりが、母親が、少女が、若者が、誇りをもって歌を歌いながら働くことができるような社会であってほしい。素朴なアメリカの人たちはそんな気持ちをもちながら過ごしているような気がします。しかしそうした気持ちにアメリカ政府は政策として答えてくれなかったという気持ちがあるのでしょう。自分たちの声を聞いてもらえなかったという気持ちがあるのだと思います。

ホイットマンは「わたしは聞く、聞く、聞く」という詩を書いています。

「わたしは聞く、聞く、聞く」

Ⅰ 存在を感ずるまで

いまわたしは、ただ聴くだけにしよう、

わたしの聞くものをみな、この歌の中へと増やしていき、音響をそこへ役立てよう

わたしは聞く、小鳥たちの華麗なさえずりを、成長する小麦のざわめきを、炎の饒舌を、わたしの食事を煮る薪のはぜる音を、

わたしは聞く、わたしの愛するひびきを、人間の声のひびきを、

わたしは聞く、ともに駈け、結合し、融けあい、追いかけあう、あらゆるひびきを、

都市のひびき、都市の外のひびき、昼と夜のひびき、

じぶんを好いてくれるものにたいする話しずきの若者たち、食事どきの労働者たちの高笑い、

仲違いした友人間の怒った低音、病人の消えいるような声の調子、

机にしっかり両手をかける判事、死刑宣告をするその血の気の失せた唇、

・・・・・

・・・・・

そして、それこそ、われわれが《存在》と呼んでいるものなのだ。

長い詩なのでここまでとしますが、「わたしは聞く、聞く、聞く」の書き出しの「いまわたしは、ただ聴くだけにしよう」というのは、印象的な言葉です。いろいろな問題に対して、「解決策はこうだから、こうしましょう」と一方的に押し付けられるのではなく、人はやはりまず「聞いてほしい」のです。「聞いてもくれない」ということで、まあこじれていくわけです。やはりホイットマンのように、「わたしは聞く、聞く、聞く」「いまわたしは、ただ聴くだけにしよう」というところから回復し、よき世界になってほしいと思います。

今日の聖書の箇所は「弟子たちに現れる」「天に上げられる」という表題のついた聖書の箇所の一部です。来週は弟子たちに聖霊がくだる「聖霊降臨日」、ペンテコステです。イエスさまは十字架につけられたのち、三日目によみがえられ、女性たちに姿を現されます。そして弟子たちの前に、イエスさまは現れます。そして弟子たちにこれからのことを託し、そして天に帰って行かれます。

ルカによる福音書24章44ー46節にはこうあります。【イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する】。

モーセの律法と預言者の書と詩編というのは、いわゆる聖書、私たちの時代では「旧約聖書」ということです。旧約聖書には神さまと人間との約束が記されています。神さまの約束はすべて実現する。神さまは私たち人間を許してくださる。メシア、救い主であるイエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、人間の罪は許されると、イエスさまは言われます。

ルカによる福音書24章47−49節にはこうあります。【また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」】。

イエス・キリストの十字架によって、神さまは人間の罪を許してくださり、人々は悔い改め、イエス・キリストを信じるようになる。イエスさまの弟子たちはエルサレムから始めて、イエスさまのことを世界に宣べ伝えていく。そしてイエスさまは「父から約束されたもの」である聖霊を、弟子たちのところに送る。聖霊に満たされて、新しい力をえて歩み始めることができるまで、いましばらく都であるエルサレムにとどまっていなさい。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

ルカによる福音書24章50−53節にはこうあります。【イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。】。

イエスさまは弟子たちと一緒に、ベタニア辺りまで一緒にいかれます。そしてイエスさまは手を上げて弟子たちを祝福されました。イエスさまは弟子たちを祝福しながら、天に帰られました。弟子たちはイエスさまが伝えられたことをしっかりと受けとめます。「エルサレムから始めて」と言われましたので、エルサレムに帰り、そして神殿の境内で、神さまを賛美し、そしてイエスさまが自分たちに聖霊を送ってくださることを待ちました。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたときは、イエスさまのことを信じることができずに逃げ出す弱い人たちでした。しかしよみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまから赦され、祝福を受け、神さまを信じて新しく歩み始めます。

私たちの時代、とくに20世紀から21世紀にかけて、神さまを信じて歩むということが、だんだんと薄らいでいった時代であるような気がします。そして個人主義的な傾向が強くなり、自分の力で生きているかのような錯覚に陥ることが多くなったような時代です。自己責任が強調されるようになり、運良く時代の勝者になった人が自分の力でそのようになったと錯覚することが多くなったような時代であると思います。困っている人、悩んでいる人の声に耳を傾けることが少なくなった時代であると思います。そして分断がすすみ、2つに分かれて、極端な対立をするということが多くなりました。

ひと言で言えば、「神を求めない時代」と言えるかも知れません。自分の力で生きていると錯覚しているわけですから、神さまを求めることはないでしょう。しかしそういう時代であるからこそ、「神さまを求めて生きる」ということが、とても大切なことであると、わたしは思っています。

イエス・キリストは弟子たちに、「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われました。イエス・キリストの証人として歩んでいきなさいと、聖書は私たちに告げています。

イエスさまは「隠れたことを見ておられる父が、あなたがたに報いてくださる」と言われました。マタイによる福音書6章4節、マタイによる福音書6章18節の言葉です。人間の評価がすべてであり、この世で評価されなければすべては無駄であるかのような世知辛い世の中にあって、神さまが私たちのことを知っていてくださり、私たちのことを愛してくださっていることを大切にして歩んでいきたいと思います。

神さまが私たちのことを知っていてくださる。神さまが私たちの声を聞いてくださると思えるとき、私たちは対立ではなく、愛によって互いにわかりあう道へと導かれていきます。憎しみではなく、愛によって生きていく道へと導かれていきます。互いに声を聞きあい、互いに尊敬しあって歩んでいくことができます。

来週は聖霊降臨日、ペンテコステを迎えます。神さまの霊である聖霊を待ち望みつつ、神さまにより頼んで歩んでいきたいと思います。


  

(2025年6月1日平安教会朝礼拝式)


2025年5月28日水曜日

5月25日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「祈りによってわたしが整えられる」

「祈りによってわたしが整えられる」

聖書箇所 マタイ6:1-15。18/518。

日時場所 2025年5月25日平安教会朝礼拝

 

いま、フジテレビは芸能人によるフジテレビ元女性社員への性加害問題で、社会的な信用を失っています。企業風土を一新するための具体的な取組みを発表しました。【「社内の一部に『楽しくなければテレビじゃない』を過度に重視した風土が根付いていたことを心より反省」するとしたうえで、「楽しくなければテレビじゃない」からの脱却を明らかにした。】ということです。まあいいかげんなことをしていると、やっぱり企業もだめになっていくということなのでしょうか。

フジテレビは20年前に、買収問題でゆれていました。2005年3月から4月にかけてライブドアとフジテレビが、にっぽん放送をめぐって買収合戦を行ないました。そのとき日本中で「いったい会社は誰のものなのか」という議論がおきました。会社は株主のものだ。会社は経営者のものだ。いやいや社員のものだ。社会のものだ。いろいろなことが言われました。

『会社は株主のものではない』(洋泉社)に、マイクロソフトのビルゲーツについてのエピソードが書かれてあります。パソコン・ソフトで有名なウインドーズをつくったマイクロソフト(ビル・ゲイツが設立)という会社は、過去は明らかに「社員のもの」だったそうです。【マイクロソフト社は設立28年間ものあいだ、株主への配当をしていなかったからです。配当を始めたのは最近のこと、2003年からです。・・・。誰が儲かっているのかというと、長期的な株主と社員でした。「ビルと社員が楽しければいい」というすごい世界だったんですね。1995年ごろに、わたしはビルに訊きました。「会社って、株主のものだよね?」。すると、「バカいうんじゃない。顧客、ユーザーのものだ」と答えました。でも、それはあくまで営業トークであって、本音では「自分と社員のものだ」と考えていたと疑っています(笑)】(P.161)(成毛眞、Makoto Naruke、「株主主義という考え方もトレンドにすぎない」『会社は株主のものではない』、洋泉社)。

ビル・ゲーツは大金持ちですが、慈善家でもあります。【ビル・ゲイツ氏、2045年までに資産の99%を寄付すると発表。感染症や貧困の対策に】(2025年5月9日BBCNEWSJAPAN)ということです。「私が死んだときに『彼は金持ちのまま死んだ』とは言われたくない」ということです。アメリカと日本とでは社会システムも違いますから、ビル・ゲーツはすごいと誉めたえようとも思いませんが、でも「私が死んだときに『彼は金持ちのまま死んだ』とは言われたくない」というコメントは良いコメントだと思います。

平川克美という実業家は、「会社は誰のものでもない。幻想共同体としての会社という視点」という文書のなかで、こんなことを言っておられます。【お金という指標を至上目的とした競争のなかで会社を考えると、どうしても3年ぐらいのスパンでしか考えられませんが、会社というものをもっと長いスパンで考えてみませんかと。10年や20年、あるいは100年というようなスパンで考えると、どういうあり方があるのかを考えてみませんか、ということです。実際、会社を100年というスパンでどうこうしていこうという考えのなかに、株主という考え方が入ってくるかというと、そこには投機的な株主はもういません。だいたい100年でなんとかしようという会社には誰も投資しないでしょうし。そのくらい時間と価値の指標を変えてみると、会社というものもまったく別の顔をもって見えるようになるということです】(P.129)。

こんなふうに考えると、会社と教会というのはある意味、似ているところばあります。教会というところは、神さまを相手にしていますから、長いスパンで物事をみています。神さまが相手ですからすぐに評価をしてもらえなくてもいいわけです。「まあ、そのうち」と言いますか、「まあ、神さまのところに帰ったときに評価してもらえたらいいか」と思います。なにか善行をしたとしても、直接、そのことを善行をした相手やあるいは周りの人々から返してもらわなくても、あとから神さまからほめてもらえたらいいかということになります。投機的な株主はそうはいかないわけです。短期間でお金という形で回収しないといけないわけですから、あんまり悠長なことはいっておられません。投資した事柄に対して「即、回収」しないといけないわけです。しかしイエスさまは今日の聖書の箇所で、「投機的な株主のような歩みは結局は損だ」と言われます。「そんなことがどこに書いてあっただろうか???」と思いながら、今日の聖書の箇所を見てみましょう。

今日の聖書の箇所は「施しをするときには」「祈るときには」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書5−7章は「山上の説教」と言われる聖書の箇所です。マタイによる福音書5章1節のところの表題には「山上の説教(五ー七章)を始まる」とあります。山上の説教はイエスさまが語られた説教がまとめられている聖書の箇所です。

マタイによる福音書6章1−4節にはこうあります。【「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」】

イエスさまは善行、良い行ないをするときは注意しないといけないと言われます。だれかから見てもらおうと思って善行をしたら損だと、イエスさまは言われました。だれかにこの世でその善行に対する報いを受けてしまったら、もう神さまが報いてくださることがなくなるから、隠れてしないと損だよと、イエスさまは言われました。偽善者たちは人からほめてもらえるように、わざと会堂や街角で施しをする。そうすると「ああ、あの人えらいわ!」と言ってもらえるわけです。そうするとまあその人の評判も上がるわけですから、まあうれしいわけです。それでもう報いを受けてしまっているわけですから、神さまからは報いを受けることはないと、イエスさまは言われます。「それって、損やろ」と、イエスさまは言われます。「どうせ報いを受けるのなら、人から受けるよりも神さまから受けたほうがええことない?」。そんなふうにイエスさまは言われます。

マタイによる福音書6章5−8節にはこうあります。【「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ】。

善行と同じく祈るということも、人々から評価される大きなポイントでした。「あの人は信仰熱心な人で、いつもお祈りをしている」というふうに見られることが、とてもうれしいことであるわけです。だから偽善者たちは人から見てもらうために、会堂や大通りの角でお祈りをしたがりました。しかしイエスさまはそれではもうすでに人々から報いを受けてしまうから損だろと言われます。お祈りは隠れたところでしなさい。そうすれば神さまが報いてくださるから。そして神さまはあなたの願っていることをもうすでに知っていてくださっているから、ながながと、くどくどと祈る必要はないと、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書6章9−15節にはこうあります。【だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」】。いわゆる私たちが礼拝でいつもお祈りをしている「主の祈り」の原形です。長々とくどくどと祈らなくても、短くこのように祈りなさいと、イエスさまは弟子たちに教えられたのでした。

イエスさまは「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と言われます。マタイによる福音書6章4節にありますし、マタイによる福音書6章6節にはもあります。またマタイによる福音書6章18節にもあります。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。

人は何か良いことをしたら、すぐにほめてもらいたいと思います。なかなかほめてもらえなかったら、どうして自分はこんなに評価が低いんだと怒りたくなったりします。しかしイエスさまはそんな人間の小さな評価よりも、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということの方が大切だと言われます。そんな投機的な株主のようにすぐに報いを回収しようとするのではなく、長期的な展望に立って「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということを心に留めて生きていきなさいと、イエスさまは言われました。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」のであれば、私たちはあまり小さなことで一喜一憂する必要がなくなります。

今日の聖書の箇所で、イエスさまが語っておられることです。「施しをするときには」「祈るときには」ということです。小さな良き業に励み、そして神さまにお祈りをするということです。

【隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる】というのは、不平不満の多い私たちに対するイエスさまのユーモアです。私たちは何かいいことをしたりすると、評価されることを望みます。そしてなかなか自分が評価されないと、「なんでこんなにいいことをしているのに、わたしは評価されないのだろう」と腹立たしく思えてきます。

「イエスさま、わたしはこんなにいいことをいろいろとしたのに、だれも評価してくれません」と、私たちがイエスさまに愚痴をこぼすと、イエスさまはこう言われるわけです。「よかったよ。とっても、ラッキーだと思う、あなたは。人が報いてくれなかったから、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。あなたは、天国で赤丸急上昇中や。天国の積立貯金の額がめちゃめちゃ増えてるよ」。そしてマタイによる福音書6章19-21節の「天に宝を積みなさい」という話へとつながっていくわけです。

小さな良き業に励み、そして神さまに祈りをする。小さな良き業に励むと言われても、わたしは悪人だから自信がないという方もおられるかも知れません。わたしと同じですね。わたしもそうです。でも神さまは私たちを祈りによって変えてくださいます。神さまに毎日毎日お祈りをしていると、必ず神さまは私たちをつくり変えてくださいます。私たちは祈りによって整えられていきます。ですから祈るということはとても大切なことなのです。私たちの神さまは願う前から、私たちに必要なものをご存じです。それじゃあ、祈る必要はないじゃないかと思えますが、それは違うわけです。私たちが祈ることによって、私たち自身が整えられていくのです。自分勝手な願いをする私たちから、神さまの御旨を求めていく私たちへと整えられていくのです。

【隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる】。私たちに報いてくださる神さまを信じて、そして小さな良き業に励む。祈りながら、神さまが私たちを整えてくださることを信じて歩んでいく。

お一人お一人の歩みを、神さまは豊かに祝福してくださいます。


(2025年5月25日平安教会朝礼拝)




5月18日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「わたしは道であり、真理である。」

「わたしは道であり、真理である」

聖書箇所 ヨハネ14:1ー11。17/456。

日時場所 2025年5月18日平安教会朝礼拝式


ファン・ジョンウンの『誰でもない』(晶文社)という短編集を読みました。韓国の小説家ファン・ジョンウンは、ノーベル文学賞をとったハンガンの次に期待をされている小説家だと言われています。

【それが必要だった。すべてのものが消えていくときに。暗闇を水平線で分ける 明かりのようなものがー  喪失、暴力、孤独、格差、貧困・・・・・・。“今”をかろうじて生きる人々の切なく、まがまがしいまでの日常を、圧倒的な筆致(ひっち)で描いた8つの物語。いま最も期待される韓国文学の<新しい顔>ファン・ジョンウン、待望の初翻訳】ということです。

ファン・ジョンウンは『誰でもない』という本のタイトルについてつぎのように記しています。【この本のタイトルもまた、『誰でもない』ではなく『何でもない』と誤解されることがありました。多くのは無意識の言い間違いやことば遣いのくせによるものなのでしょうが、私には、私が属している社会で人々が自分自身について、そして他の人について考えるときの姿勢が、ここに反映されているのだと思えます。私/あなたは、何でもない。韓国は金融危機から比較的早く抜け出しましたが、その後ずっと後遺症をわずらっています。過去二十年間の日常と非日常のいたるところで人々は、自らが「何でもない人」とされる瞬間を味わい、他人が「何でもない人」として扱われる瞬間を見てきました。私はつまらないものを好む方ですが、人間をつまらないものと見なす社会全体の雰囲気が人々のことばに表れているのを目撃することは、どうにも、わびしいことです】。

世の人々は「誰でもない」というと、「何でもない」、つまり「何にもできない」とか「つまらない」という意味にとるということです。しかしファン・ジョンウンが語るところの「誰でもない」ということは、「他の誰でもない」「何者にもかえがたい」大切な者という意味であるのです。ですからファン・ジョンウンは韓国社会で、孤独・格差・貧困のなか、いまかろうじて生きている人々の姿を小説の中に記しているということです。

「誰でもない」小さな者である私たちですが、しかし「他の誰でもない」大切な一人の人間であるのです。イエスさまもまた私たちにそのことを教えてくださいました。あなたは神さまから愛されているかけがえのない一人の人間である。イエスさまは病気の人々、悩みの中にある人々のところをお訪ねになり、そしてその人が神さまの愛の中にあるかけがえのない大切な一人であることをお伝えになりました。

今日の聖書の箇所は「イエスは父へ至る道」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書14章1−4節にはこうあります。【「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」】。

ヨハネによる福音書14章1節からの話は、十字架につけられるイエスさまが弟子たちに、「心を騒がせるな」と言われ、弟子たちを安心させるという聖書の箇所であるわけです。「わたしは十字架につけられて殺されるけれども、それはあなたがたが天の国に行く時のために、ちょっと部屋を用意しにいくだけのことだから。そしてまたあなたたたちのところに戻ってくるから安心しなさい」と、イエスさまは言われました。まあこのところは不安になっている弟子たちを励ますための、イエスさまの冗談であるわけです。

そのあと、イエスさまは「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われました。しかし実際は弟子たちはよくわかっていません。そんなによくわかっている弟子であるわけではないのです。しかし弟子たちがよくわかっていないということを、イエスさまはよくわかったうえで、弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言っているのです。それだけイエスさまは弟子たちを愛し、弟子たちを信頼しているのです。

ヨハネによる福音書14章5−7節にはこうあります。【トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」】。

トマスはとても正直な人なので、イエスさまに「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と応えます。イエスさまは「あなたたちは知っている」と言われるのですが、でもトマスは「わたしたちには分かりません」と、正直に応えるのです。そして「どうやったら、その道を知ることができるでしょうか」と、イエスさまに尋ねます。

「道とは何であるのか」ということですが、イエスさまは「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言っておられます。ですから道とは神さまへの道ということです。イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。イエスさまによって、私たちは真理を知り、命を得ることができる。そしてイエスさまによって、私たちは神さまへと導かれていきます。そしてイエスさまによって、イエスさまの十字架と復活によって、私たちは永遠のいのちを得ることができるということです。

イエスさまは弟子たちを励まします。イエスさまは「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と言われます。弟子たちは自分勝手な弟子たちですし、イエスさまが捕まると、イエスさまのことを知らないのと言ってしまうような弟子たちです。しかしイエスさまはそんな弟子たちに対して、あなたたちは既に神さまを知っていて、神さまを見ていると言われます。もうあなたたちは神さまの祝福のうちにあり、そして神さまに連なる永遠の命を得ているのだと、イエスさまは弟子たちに言われます。

ヨハネによる福音書14章8−11節にはこうあります。【フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。】。

イエスさまは弟子たちに、あなたたちはもう十分に神さまのことを知っていて、神さまに連なっているのだと言われるわけですが、しかしフィリポはとてもまじめな人間なので、「わたしたちに御父をお示しください」と応えます。フィリポにしてみえば、なんとなくこころもとないのです。イエスさまは自分たちのことを誉めてくださるけれども、フィリポは自分たちがそんな神さまにふさわしい者でないことを知っています。そしてイエスさまのことは知っているけれども、父である神さまに会ったことはないのです。

そんなフィリポにイエスさまは、わたしに連なっているということが、神さまを知っているということなのだと言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である」。わたしが神さまへの道であり、神さまの真理であり、神さまの命である。わたしが神さまのなかにあり、神さまがわたしのなかにおられる。わたしが語る言葉は、わたしの言葉ではなく、神さまがわたしを通して語っておられるのだ。神さまがそのようにわたしを用いておられるのだ。わたしが神さまの内にいて、神さまがわたしの内におられる。神さまとわたしは一つであり、わたしは神さまの御心にしたがって、神さまの御業を行なっている。そのようにイエスさまは言われました。

十字架を前にして、イエスさまは弟子たちを励まします。なんとなく不安になっている弟子たちに「あなたたちは大丈夫だ」と言われます。「あなたたちは道であり、真理であり、命であるわたしのことを知っているのだから、大丈夫だ」と言われます。弟子たちは自信がありません。自分がちっぽけな存在であることを知っているのです。誰でもない、何者でもない、自分であることを知っています。そして不安になります。しかし、誰でもない、何者でもない弟子たちを愛してくださる方がおられます。イエスさまは弟子たちを、他の誰でもない大切な一人として愛してくださいます。そしてわたしを信じなさい。わたしにつながっていなさい。わたしは道であり、真理であり、命である。このわたしはあなたたちを離しはしない、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、弟子たちを招かれたのでした。

イエス・キリストは私たちを招いておられます。誰でもない、何者でもない私たちを、イエスさまは他の誰でもない大切な大切な一人として、私たちを招いてくださっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。私たちはこのイエスさまが示してくださった神さまへの道を、しっかりと歩んでいきたいと思います。


     

  

(2025年5月18日平安教会朝礼拝式)


5月11日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「母の願いをこえて」

「母の願いをこえて」

聖書箇所 マタイ20章20−28節。333/493。

日時場所 2025年5月11日平安教会朝礼拝・母の日礼拝・きてみてれいはい


5月の第二日曜日は母の日です。先日、同志社女子高等学校に朝の礼拝説教にいったときも、宗教部員のこどもが、「母の日のカーネーション」の話をしておられました。同志社女子中高では、「母の日礼拝」のときがあり、この日は生徒、教職員ともに、カーネーションの造花を身につけて1日を過ごすそうです。お母さんもうれしいでしょうね。

ちいさなこどもは自分のお世話をしてくれる人をたよりにして生きています。わたしの娘も小さい頃、母親をたよりにしていました。下の娘が保育園のときに、家族と保育園をつなぐ「おたよりノート」というのがありました。保育園でどのように過しているかを、ご家庭に知らせたりするわけです。

ある日のおたよりノートにはこう書かれてありました。【4/24 (今日のまなちゃん声がかれてかわいそうでしたね。お弁当も少し残しています)。お昼寝の時、他のお友達が泣いているのを見てつらくなったのか、「かあか、かあか、いる」と泣き出しました。だっこしたりトントンすると眠りました】。わたしはこれを読んで、なんで娘が「おとうと、いる」と言ってくれないんだと思いました。その夜、わたしは娘とお風呂に入ったときに、娘に言いました。「まな、保育園でお昼寝のときは、『とうと、いる』と言いながら寝るんやで。『とうと、いる』、わかった?。ゆうてみ」「おとうと、いる」「そうそう、とうと、いる、な」「とうと、いる」。そしてまたしつこく、夜、一緒に寝ながら、「まな、こうやって、保育園でねんねするときも、『かあか、かあか、いる』やない、『とうと、いる』ゆうんやで、わかった?」と教え込んだのですが、おたよりノートに【まなちゃん、『とうと、いる』と言いながら、眠りました】とは書かれることはありませんでした。やはり母をたよりにしているようでした。

今日は母の日なので、わたしの母の思い出の出来事をお話いたします。それは「石油ストーブ丸焼け事件」という出来事です。小学校の低学年くらいでしょうか、わたしはストーブが消えかけてきたので、ストーブに灯油を入れることにしました。当時はカートリッジのストーブではありませんでした。石油タンクをもてきて、ストーブの給油口をあけて、大きなスポイトのような、頭の赤いやつで入れようとしました。ストーブの火をちゃんと消してから、入れないといけないわけですが、たぶんだれかがものぐさなことをやっていたのを見ていたのでしょう。とんでもないやつです。わたしもまたストーブの火を消さないで、灯油を入れはじめました。赤いところを圧すと灯油がストーブに入ります。そしてそのときストーブの火がぼっと赤くなります。「おお、はいっとる、はいっとる」。はじめは順調に入っていたのですが、突然、給油口から灯油があふれ、飛び散りました。満杯になってしまっていたのです。給油口からあふれ飛び散った灯油は、ストーブの火にかかり、なんとストーブが燃えはじめました。わたしはこりゃたいへんなことになったと思って、ストーブの取っ手を消火の位置に回したのですが、ときすでに遅しです。ストーブはしだいに燃えていきます。「ああ、ああ、どうしよう」。よく見ると、灯油があふれ出てストーブの下の受け皿のようなところにたまっています。わたしは思いました。「おお、この下にあふれている灯油をなにかで吸い取ってしまえば、燃える灯油がなくなるのだから、消えるに違いない」。燃えるものがなくなれば、火は消える。まあなんと冷静な頭のいい少年です。わたしはティッシュをいっぱい持ってきて、あふれている灯油を吸い取ろうとしました。すると突然、わたしの手のなかのいっぱいのティッシュは火だるまになりました。わたしがびっくりして、「わあー」と大きな声をあげたとき、母ややってきて、「なにやっとるん。のきなさい」とわたしを叱りました。母は「のきなさい」と言いながら、ふとんをもってきて、火だるまになっているストーブをふとんでくるんで抱えて、家から庭に出しました。その途中で、ストーブのもえかすを足でふんずけて火傷をしてしまいました。まあしかし、それで事なきを得、消防車を呼ぶという大事にもなりませんでした。わたしは泣きながらずっと、燃えたストーブを見つめながら立っていると、父が自転車にのって仕事から帰ってきました。燃えたストーブと泣いているわたしをみて、父は笑いながら、「どうしたんや」と言ったのを覚えています。

わたしの母はそんなに大きな人ではなかったし、力持ちというような人でもありませんでした。しかしこのときの母は力強かったなあと、いまでも思います。そしてこども心に、母がいてくれて心強いなあと思いました。まあ「母はつよし」というところでしょうか。りっぱな母の思い出です。どうでもいいことですが、わたしはこの出来事以来、ストーブに灯油を入れるときは、かならず火を消してから入れることにしています。それは大人になった今日でも忘れない、わたしの幼き日の教訓です。まあもっとましなことを教訓として生きていくべきだなあとも思いますが・・・。

今日はわたしのりっぱな母の思い出をお話ししましたが、聖書にも、ある母親の物語があります。イエスさまのお弟子さんのヤコブとヨハネのお母さんのお話です。こういうお話です。イエスさまのお弟子さんのヤコブとヨハネのお母さんが、ヤコブとヨハネと一緒にイエスさまのところにやってきました。ヤコブとヨハネのお母さんが、なにか言いたそうなのに気がついたイエスさまが、「お母さん、どうしました?」と声をかけます。するとお母さんは「イエスさま、あなたがえらくなって、ユダヤの王様になったときは、わたしの息子のヤコブとヨハネを大臣にしてください」と言いました。するとイエスさまはお母さんに言いました。「お母さん、あなたはちょっと勘違いしてますよ。わたしがどんなになっても、あなたの息子さんたちは、わたしについてこられますか?」。そういうとヤコブとヨハネは「できます」と答えます。

ヤコブもヨハネもお母さんも、イエスさまがまさかこれから十字架につけられて殺されるとは思っていませんでした。イエスさまはこれからユダヤの王様になると考えていたのでした。でもイエスさまは自分が十字架につけられて殺されてしまい、お弟子さんたちもちりじりばらばらに逃げてしまうということを知っておられたのです。イエスさまは貧しい人々や悲しんでいる人々に慰めの言葉をかけ、そうした人々に仕える歩みをしておられました。しかしイエスさまのお弟子さんたちはみな、そのうちイエスさまは王様になられると思っていたのでした。それでイエスさまが十字架にかけられたときに、イエスさまを捨てて逃げてしまうのです。しかしそののち、弟子たちは(ヤコブやヨハネもそうですが)、悔い改めて、イエスさまのなさったことを宣べ伝えるようになりました。

ヤコブやヨハネのお母さんが勝手な願いをしたので、みんな怒りました。イエスさまが王様になったとき、じぶんこそ大臣にしてもらおうと思っていたからです。イエスさまのお弟子さんたちはみんな自分勝手です。なさけない人たちです。そうした弟子たちにイエスさまは言われました。【あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい】。わたしもみんなに仕える生き方をしているのだから、あなたたちもいばったり、えらくなりたいと思うのではなくて、人に仕える生き方をしてください。それが神さまが喜ばれる生き方ですよ。イエスさまはそんなふうに、お弟子さんたちに言われました。

ヤコブとヨハネのお母さんは「息子がえらい人になってほしい」と思って、イエスさまにお願いにいったわけです。【「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」】。まあなんとも身勝手なお願いです。皆さまはどう思われるでしょうか。わたしは若い頃、熱血漢でしたから、このお話を聞いて、「この、ヤコブとヨハネのお母さんは、なんちゅうやつや」と思いました。「それにこの、お母さんについていってもらって、イエスさまに頼んでもらうというヤコブやヨハネは、なんとも言えない、いやなやつだ」と思いました。

しかしわたしもまた人の親になると、このお母さんの気持ちがわかるような気がします。やはり親というのはこうした愚かさをもっているのです。「自分の子がかわいい。そのためには少々、勝手なことをしてでも・・・」という気持ちがあるのです。マタイによる福音書20章20節には、母親の微妙な気持ちがうかがわれます。【そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした】。お母さんはイエスさまのところに来て、すぐにお願いすることはできなかったのです。なかなか切り出すことができませんでした。それはお母さん自身も、身勝手なお願いだということを知っていたからです。「こんなお願いをするのは、本当は正しいことじゃないんだ」ということをお母さんは知っていたのです。しかし自分の子はかわいい。そしてやはり愚かな願いをイエスさまにするのです。ここに、わたしは「切ってすてられない母の愛がある」と思います。それは愚かな愛であったとしても、やはり切って捨てることのできない愛があると思うのです。

しかしこどもはそうした親の思いとは違った生き方をし始めます。ヤコブやヨハネは、イエスさまのところにお母さんと一緒にいって、お母さんに「この二人を大臣にしてください」とお願いしてもらうような人間でした。しかしイエスさまが十字架につけられ、三日目によみがえられたあと、イエスさまを宣べ伝える生き方をし始めます。彼らは十字架につけられた犯罪人の生き方を宣べ伝えました。人々の上にたつのではなく、人々に仕える生き方をし始めました。この生き方はたぶんヤコブやヨハネのお母さんが望んだ生き方ではなかったでしょう。「そんなことやめてくれたら・・・」とお母さんは思ったでしょう。しかしお母さんはまた自分のこどもたちを誇らしく思ったことでしょう。そしてこどもたちのために、神さまにお祈りしただろうと思います。「わたしの願いとは違ったけれども、この子たちが、自分の思いどおり、人々に仕え、あなたに仕えて生きていけますように」。

私たちは人間ですから、身勝手な思いで、人間的な思いをもつときがあります。「わが子がかわいい。わが子さえよければ・・・」。しかし神さまはヤコブやヨハネのお母さんの思いを越えて、人として確かな道へと、ヤコブやヨハネを導いてくださいました。

神さまは私たちを愛してくださり、私たちをよき歩みへと導いてくださいます。こころのなかに邪な思いをもつ私たちを、それでも愛してくださり、私たちの歩む道を整えてくださいます。その神さまの愛の中を安心して歩んでいきたいと思います。



(2025年5月11日平安教会朝礼拝・母の日礼拝・きてみてれいはい)


5月4日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「すこやかな歩みを大切に」

「ここにソロモンにまさるものがある」

聖書箇所 マタイ12章38-42節。325/463。

日時場所 2025年5月4日平安教会朝礼拝


人は何か確かに見えるものを求めようとします。まあ何か形があれば、安心できます。「これが証拠の写真です」と言われて、出されると、なんとなくそのことが起こったような気がします。しかしいまはほんとうに簡単に映像もあったかのようにつくることができるようになりました。そういう意味では写真や映像をみても、ほんとうにあったことかどうかなどということは、わからなくなってきました。

また写真や映像というのは、全体の一部分を表していたりして、本来はそのまま信じることなどできないものです。1945年8月16日の毎日新聞の一面は、「皇居二重橋前広場で土下座する人々」という写真が載っています。「“忠誠足らざる”を詫(わ)び奉る(宮城前)」という写真説明がついています。人々が皇居で、戦争に負けたことを天皇に詫びるために、整然と並び土下座をしている写真です。こんな写真を見たら、みんな戦争に負けたことを天皇に詫びているというふうに思います。人々が整然と並び土下座をしているわけですが、この写真は合成写真だそうです。【「戦争中は、紙面に掲載される写真のほとんどが切り貼りだった習慣から、なんの抵抗感もなく合成してしまった」】(新藤健一『映像のトリック』、講談社現代新書)そうです。8月15日に敗戦を迎えても、新聞は相変わらず戦争中の新聞でありました。人間の営みというのは、まあ、そういうものなのだろうなあと思います。

イエスさまの復活という出来事は、証拠がない出来事でした。あったのは「空の墓」ということです。イエスさまの遺体がないというという出来事があったわけです。遺体がないわけですから、復活したと言えば復活したわけですが、しかし盗まれたと言えば盗まれたというふうになってします。信仰に関する出来事は、信じるしかないということがあります。

イエスさまがよみがえられたことを信じられなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。まあそれでイエスさまはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と言われてしまいます。「見ないで信じる人は、幸いである」というのは、「ただ」信じるということです。

私たちは「たら」の信仰ではなくて、「ただ」の信仰でありたいと思います。しるしを求めるというのは、「たら」の信仰ということです。「・・・してくれたら」信じよう。「しるしを見せてくれたら」信じよう。しかし信仰というのは、本来、「見ないで信じる人は、幸いである」ということですから、「ただ」信じるということです。

基本的に、信仰というのは、二つの「ただ」でなりたっています。使徒パウロは信仰義認ということを言いました。信仰義認というのは、何かをしたから救われるというのではなく、「ただ」信じることによって、救われるということです。神さまも私たちに「・・・してくれたら」とは言われないのです。「律法を守ってくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、神さまは言われませんでした。「りっぱなことをしてくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、言われませんでした。私たちが救われるのは、神さまの憐れみによって救われるのです。いわば、私たちが救われるのは、「ただ」で救われるのです。こんなふうに、信仰の世界というのは、基本的に、「たら」の世界ではなくて、「ただ」の世界であるのです。「ただ」で救われたのだから、「ただ」信じるのです。「・・・してくれたら」の「たら」の世界ではなく、「ただ」信じるという世界に、私たちは生きているということです。

「しるし」というのは、「しるし」であって、それは本体ではありません。結婚するときに、わたしが妻に送った10カラットのダイヤモンドの指輪、そんなものはないですが・・・。みなさんがおつれあいに贈られたダイヤモンドの指輪は、それは愛のしるしです。それはしるしであって、ほんとうに大切なのは、愛のほうです。ダイヤモンドの指輪だけを見つめ続けられると、贈った方も動揺してしまいます。しかし愛は、なにか特別なことでも起こらない限り、なかなか見えません。船が沈没したときに、たった一つの浮き輪を渡してくれたとか、暴漢にさされそうになったときに、身代わりにさされてくれたとか。そんなことが日常に頻繁に起こってくれたら、「この人、わたしのことを愛してくれている」ということがわかりますが、だいたいそんことは普通は起こらないわけです。愛は確かめようもないですから、どうしても愛のしるしに頼ってしまいます。人はなんとなく、しるしを求めてしまうものです。しかし本当に大切なのは、しるしではなくて、そのしるしの実体が大切なのです。

今日の聖書の箇所でも、イエスさまにしるしを求める人たちが出てきています。今日は「人々はしるしを欲しがる」という表題のついた聖書の箇所です。

マタイによる福音書12章38節にはこうあります。【すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った】。律法学者とファリサイ派の人々は一応、イエスさまに「先生」と言っていますから、ある意味で友好的なもののいい方をしているのでしょう。しるしというのは、まあ奇跡のようなものでしょう。イエスさまはいやしのわざや奇跡を行なっておられました。「なにかすごいことをして、私たちにお前が神の子、メシア、救い主であることを証明して見ろ」ということでしょう。

これに対して、イエスさまはこう言われました。マタイによる福音書12章39-40節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる】。

イエスさまは律法学者やファリサイ派の人々に対して、【よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが】というように、ちょっと挑発的な口調で、彼らを非難しておられます。ヨナというのは、旧約聖書のヨナ書の主人公です。旧約聖書の1445頁です。ヨナは神さまから命令されて、ニネベの町に人々に悔い改めるように告げにいくようにと言われます。しかしヨナはそのことが嫌で船にのって逃げ出すのですが、船が嵐に遭い、嵐がヨナのせいだとされて、船から海に投げ込まれます。溺れそうになったヨナを、神さまは大きな魚に飲み込ませることによって、助けます。ヨナはその魚の腹の中で、悔い改めるのです。そしてニネベに行き、ニネベの人々を悔い改めにに導きました。

預言者ヨナのしるしというのは、ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)の腹の中にいたということのようです。そして【人の子も三日三晩、大地の中にいることになる】というのは、イエスさまが十字架につけられて殺され、そして埋葬されて、三日目に甦られるということです。大切なことは、イエスさまの十字架と復活の出来事だと、マタイによる福音書の著者は言っています。

マタイによる福音書12章41-42節にはこうあります。【ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」】。

南の国の女王というのは、シェバの女王のことです。列王記上10章に「シェバの女王の来訪」という聖書の箇所があります。旧約聖書の546頁です。シェバの女王は、イスラエルの王であるソロモンがとても知恵のある王であることを聞いて、イスラエルに訪ねてきました。そしてソロモンが本当に知恵ある王であるとわかったときに、シェバの女王はイスラエルの神さまをほめたたえました。

ニネベの人はヨナの説教を聞いて悔い改めたし、シェバの女王はソロモンの知恵を聞いて、神さまをほめたたえた。しかしあなたたちは、ヨナにまさるものであり、ソロモンにまさるものであるわたしの話を聞かないし、悔い改めもしない。わたしを信じるのではなくて、しるしを求めて、信じる真似事をしようとしている。「しるしを見せてくれたら」と、「たら」の世界に生きようとしている。そんなふうに、イエスさまは律法学者たちやファリサイ派の人々を非難されました。

イエスさまは私たちに与えられるしるしは、ヨナのしるしだけであると言われました。ヨナのしるしというのは、イエスさまの十字架と復活の出来事です。三日三晩、大魚のお腹の中にいたヨナのように、イエスさまも十字架につけられて葬られ、三日目に甦られるということです。そしてイエスさまのことを信じて、神さまの前に悔い改めて生きていく。このことが大切だということです。

イエスさまの十字架と復活の出来事は、人間の罪の出来事であり、神さまの救いの出来事です。イエスさまの十字架と復活の出来事によって、神さまが私たちを救ってくださった。このことを信じるということが大切なこことであり、ヨナにまさるものであり、ソロモンにまさる、イエスさまが私たちと共にいてくださることを信じることが大切だということです。

私たちはなんとなく不信仰な者ですから、信仰生活のなかで、迷路のようなところに入り込んでしまうということがあります。困難なことや、自分に不都合なことが起こると、「なんで、わたしがこんな目にあうだろう」と思います。自分だけが神さまから愛されていないような気がしてくるときもあります。そんなとき、ただ信じるのではなく、・・・してくれたら信じるというような気持ちになってしまうこともあります。自分のこころが弱くなっているとき、私たちは神さまに対して、しるしを求めようとします。イエスさまも十字架の前に、ゲッセマネで、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(MT2636)と祈られたのです。もちろん、イエスさまはそのあと、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(MT2639)と祈られました。でもイエスさまも苦難の中で、「父よ、できたら」と祈られたのです。人はそういう弱さを持ちながら生きています。しかしそれでも人は、クリスチャンとして、「御心のままに」と祈りに導かれていくのです。

それは、私たちには、イエスさまが共にいてくださるからです。どんなときにも、私たちと共にいてくださる方がおられる。十字架を経験され、私たちのみじめさや弱さを知ってくださっている方が、私たちと共にいてくださる。だから私たちはしるしを求めて生きていくのではなく、ただ信じて生きていくのです。

イエスさまは言われました。「ここに、ヨナにまさるものがある」「ここに、ソロモンにまさるものがある」。ヨナにまさる方が、ソロモンにまさる方が、私たちと共にいてくださるのです。

イエスさまと共に歩みましょう。ただ信じて歩んでいきましょう。



(2025年5月4日平安教会朝礼拝)


8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

  「あなたは、神の国から遠くない」 聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。 日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝 神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性...