2026年8月28日金曜日

8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

 「あなたは、神の国から遠くない」

聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。

日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝


神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性宣教師、イライザ・タルカットさんとジュリア・ダッドレーさんによって、1875(明治8)年10月12日に創立されました。去年、神戸女学院は創立150周年を向かえました。昔、神戸女学院と同志社大学は仲良しの大学だと言われていました。アメリカの会衆主義の流れの中からできた学校であるからです。いま同志社大学神学部を卒業した、わたしの友人の牧師が神戸女学院大学の学長をしています。

神戸女学院の教育の基盤となる標語は「愛神愛隣」です。神戸女学院中高部宗教委員会が発行した報告書(2005年)の名前も「愛神愛隣」です。手元にある報告書に、当時の院長・学長であった松澤員子(まつざわ・かずこ)先生が中学部入学式で話された式辞が載ってありました。【新入生のみなさん、数知れない多くの人々の献金、献身、そして祈りに支えられて、130年の歴史を刻んできた学院の新たな担い手として、誇りをもってその第一歩を歩みだしてください。みなさんには、良いこと悪いことを自分で判断し、その判断の結果を行動に移してゆくという自主性が求められています。なにが良いことで悪いことか、その判断の基礎は「愛神愛隣」の精神です】。【みなさんには、良いこと悪いことを自分で判断し、その判断の結果を行動に移してゆくという自主性が求められています】というところなどは、会衆主義らしさがあります。そして【なにが良いことで悪いことか、その判断の基礎は「愛神愛隣」の精神です】ときっぱりと話されているところが、なんとも爽やかな感じがいたします。

今日の聖書の個所は、「愛神愛隣」の聖書の個所です。「最も重要な掟」という表題のついた聖書の個所です。

今日の聖書の個所で、律法学者はイエスさまに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という質問をしています。この質問は、まあそんなに特別な質問というわけではなく、よく問われた質問であったようです。それに対して、イエスさまは「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と答えました。そして、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と答えました。

イエスさまは大切なことは、「神さまを愛すること」、そして「隣人を愛すること」だと言われました。イエスさまに質問をした律法学者は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問いました。それに対してイエスさまは「第一の掟は、これで、第二の掟は、これだ」と言いました。イエスさまはこの第一の掟と第二の掟は切り離すことができないのだということを言われたわけです。「神さまを愛すること」「隣人を愛すること」、この二つの掟は切り離すことができず、【この二つにまさる掟はほかにない】と言われました。

質問をした律法学者はこの答えに対して、「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」】と答えています。この律法学者はイエスさまの答えを、本当にその通りだと受け入れたのでした。そしてイエスさまは律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。

イエスさまは律法学者に対して答えられたように生きられました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「『隣人を自分のように愛しなさい。』」。イエスさまは神さまによって私たち人間のところに遣わされました。しかしイエスさまは裁き人として、私たちのところに来られたわけではありませんでした。神さまを愛するだけの方であったとしたら、イエスさまは裁き人として、私たちのところに来られたかも知れません。しかしイエスさまは私たちの隣人として、私たちのところに来てくださいました。そして私たちの罪のために、イエスさまは十字架についてくださいました。イエスさまは私たちを愛し、私たちを憐れみ、私たちの隣人となってくださいました。「神を愛し、隣人を愛する」。それはイエスさまの生き方でした。

「神を愛し、隣人を愛する」「愛神愛隣」ということは、キリスト教において大きな道しるべの規範です。イエスさまがそのように生きられ、そして多くのキリスト者がイエスさまが教えてくださった「神を愛し、隣人を愛する」という教えを、こころにしっかりと受けとめて歩んでいます。

わたしはクリスチャンにならなくても、「神を愛し、隣人を愛して生きている」という人はたくさんいると思います。イエスさまの教えに感銘を受け、「神を愛し、隣人を愛して生きている」という人はたくさんいると思います。神を愛し、隣人を愛して生きていれば、それでいいではないか。そんな気もするわけですが、わたしはやはりクリスチャンになって、「神を愛し、隣人を愛して生きる」というのがいいだろうと思います。「神を愛し、隣人を愛しなさい」と教えてくださったイエスさまも、そのことを望んでおられるだろうと思います。

わたしの車にはカーナビゲーションがついています。カーナビゲーション、略して「カーナビ」と言われますが、知らないところに行く場合はとても便利です。電話番号とかを教えると、その場所近くまで案内をしてくれます。いまのカーナビは性能がいいからどうか知りませんが、わたしのカーナビは目的地の近くまで案内してくれますが、目的地まで案内してくれるというわけではありません。目的地が大きな建物の場合はいいですけれども、家が密集している場合などは困る時があります。カーナビはわたしにこう言います。「目的地周辺に到着いたしました。運転お疲れさまでした」。「運転お疲れさまでした」と言ってくれるのはうれしいのですが、でも「まだ途中やろ」と思うわけです。「目的地の前まで連れて行ってくれよ」と思います。

イエスさまは一人の律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。「あなたは、神の国から遠くない」というのは、微妙な言葉です。「あなたは、神の国から遠くない」。遠くないわけですから、もうほとんど着いているような気がします。しかし遠くないというわけですから、着いているというわけでもないのです。「あなたは、神の国から遠くない」。ちょうどわたしのカーナビの「目的地周辺に到着いたしました。運転お疲れさまでした」というような響きです。もうあなたは神さまのことをよく知っている。神さまの祝福はあなたに届いている。あとはあなたがそれを受け入れるかどうかだと、イエスさまは言っておられるのです。

信仰というのは理解をし、そして生きるということです。私たちは理解しないで、それを生きるということはできません。よく知らないけれども、信仰しているというわけにはいきません。やはりある程度理解をして、キリスト教が何を大切にしているのか、神さまはどのように私たちを愛してくださっているのか。イエスさまは私たちに何をしてくださったのか。そうしたことを理解することなく、私たちは信じることはできません。しかし信仰とは理解をして、そして信仰を生きなければなりません。そこにはやはり一歩踏み出すという時があるわけです。

イエスさまは「神を愛し、隣人を愛しなさい」と言われました。そのことが大切だと言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。私たちは心が弱いですから、そんな「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われても、そんなことできるだろうかという思いももちます。またイエスさまは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。私たちは自分勝手な人間ですから、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われても、そんなこと自分はできるだろうかという思いを持ちます。そんな洗礼を受けて、クリスチャンになっても、イエスさまの教えを大切にして生きることができるだろうかと思います。

信仰を生きるというのは、そういうことです。クリスチャンになったらすべての迷いがなくなるというわけではありません。いろいろな迷いや信仰的な挫折があります。私たちはある意味、上手に生きることはできません。上手に生きることができるのであれば、わたしは神さまを信じていないだろうと思います。わたしは上手に生きることも、正しく生きることもできません。しかしわたしは神さまを信じて、確かに生きることができます。

「神を愛し、隣人を愛しなさい」というイエスさまの教えを知り、私たちはイエスさまと共に生きます。イエスさまが私たちに先立ってくださり、私たちの歩みを導いてくださいます。イエスさまは「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。イエスさまの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。



(2026年8月30日平安教会朝礼拝)


8月23日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暴力の支配は終わり」

 「暴力の支配は終わり」 

聖書箇所 マルコ12:1-12。208/514。 イエスさまの贖罪,讃美歌514

日時場所 2026年8月23日平安教会朝礼拝式


戦争というのは、なかなか終わらないものだなあと思います。イランとアメリカは、6月17日に戦争終結に向けた覚書を交わして、60日間以内に恒久的な停戦に向けた最終合意を行なうことを目指していました。しかしなかなか計画通りには進んでいません。交渉期限は過ぎたわけですが、これからどのようになるのか、私たちは不安です。ロシアとウクライナの戦争も続いています。私たちの世界はとても暴力的な世界になったなあと思います。このことについて、アメリカやロシア、中国といった大国の責任というのは大きいと思います。

2026年1月3日、アメリカのトランプ大統領がベネゼエラに対して軍事作戦を行ない、ベネズエラのマドゥロ大統領と大統領の妻を、アメリカに移送するということが行われました。こうしたことは国際法上、許されることのない行為であるわけです。なんの関係もない市民もこの軍事作戦によって殺されています。日本の総理大臣と夫が、他国によって拉致されて、他国に連れさられてしまうというようなことが起こったら、それは大変です。そんなこと許されないと思います。

力でもって、暴力的に解決していくという大国の態度は、私たちを不安にさせます。アメリカがやるのであれば、ロシアもやる。アメリカがやるのであれば、中国もやる。というような感じになってくると困ります。それで他の国々も、アメリカに「それはだめですよ」と忠告をしています。イギリスの首相も「英国は今回の米国による軍事行動には関与していない」「全ての国は国際法を守るべきだと考えている」と言っています。フランスの外相も「武力行使の禁止という国際法の根幹をなす原則に反している」「外部から押しつけられて持続的な政治的解決がもたらされることはない」と言っています。欧州連合の外交安全保障上級代表も「EUはマドゥロ政権は正統性を欠くと指摘してきた」としつつ、「いかなる状況でも、国連憲章と国際法の原則は尊重されなければならない」と言っています。そろそろ大国が悔い改めて、まともな国になってほしいと思います。

今日の聖書の個所は「ぶどう園と農夫のたとえ」という表題のついた聖書の個所です。イエスさまは、祭司長、律法学者、長老たちに対して、「ぶどう園と農夫のたとえ」を話されました。ある人がぶどう園を作り、垣根を張り巡らし、ぶどうを搾るところをつくり、そとから悪い人たちがやって来ないように見張りのやぐらをたてました。そしてそこで働く農夫たちに任せて旅に出ました。収穫の時期になったときに、ある人は僕を農夫たちのところに送ります。しかし農夫たちはこの僕を袋叩きにして、何も持たせないで返しました。ある人はまた他の僕を農夫たちのところに送りました。しかし農夫たちはその僕の頭を殴り、侮辱して、ある人のところに帰します。そのあともまたある人は農夫のところに僕を送るのですが、ある者は殴られ、そしてある者は殺されました。

それである人はどうしようかと考えます。そして自分の愛する息子を送ることにします。わたしの息子なら敬ってくれるのではないかと思ったのです。しかし農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に投げてました。

イエスさまは「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか」と、祭司長、律法学者、長老たちに問いかけられました。そして「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と言われました。そして、イエスさまは「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」と言われました。私たちには「なんだかよくわからない」と思える言葉です。しかし祭司長、律法学者、長老たちは、イエスさまは自分たちに対して、当てつけて、このたとえ話を語っているということに気がつきます。そしてイエスさまを捕らえようとします。しかしイエスさまは群衆たちに人気がありましたので、群衆を恐れて、イエスさまを残して、祭司長、律法学者、長老たちはこの場を立ち去りました。

祭司長、律法学者、長老たちが自分たちへの当てつけのたとえだと思った、このぶどう園のたとえはどういうたとえなのかと言いますと、「ある人」というのは神さまです。そして「ぶどう園の農夫たち」は祭司長、律法学者、長老たちです。彼らはユダヤの社会というぶどう園の管理を神さまから任されているわけです。しかし彼らはぶどう園を自分たちのもののように扱い、神さまからの預かりものとは考えず、好き勝手にしているわけです。それで神さまは「僕」という預言者を、彼らのところに送ります。神さまは預言者を何度も彼らのところに送るわけですが、しかし預言者は袋叩きにされたり、殺されたりします。そして最後に、神さまの愛する息子を彼らのところに送ります。神さまは自分の愛する息子ならば、彼らも敬ってくれるのではないかと思うのですが、彼らは息子を殺してしまいます。それで神さまは彼らを罰して、ぶどう園であるユダヤの社会を、祭司長、律法学者、長老たちからとりあげ、ほかの人たちにその管理を任せるだろうというわけです。自分たちを批判しているたとえであることに気がついて、祭司長、律法学者、長老たちは怒って、イエスさまを殺そうとするという話です。

イエスさまのたとえはなんとも暴力的な話です。僕たちは殴られ、侮辱され、殺されます。愛する息子も殺されます。そして農夫たちもまた殺されます。救いようのない人間世界の様子が語られています。イエスさまは「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と話されました。しかし神さまはそのようにはなさいませんでした。救いようのない暴力的な世界に対して、暴力でもって解決をされるということを、神さまはなさいませんでした。神さまは暴力的な世界に対して、神さまの愛を示されました。神さまは神さまの愛によって、暴力の支配を終わりにされたのです。それがイエス・キリストの十字架と復活の出来事なのです。

神さまは神さまの独り子であるイエスさまを、私たちの世に遣わされました。イエスさまは世の人々に神さまの愛を示されました。病気の人々をいやされ、悲しんでいる人々に慰めの言葉をかけられました。悔い改めようとしている人々にやさしい言葉をかけられ、悔い改めへと導かれました。イエスさまはさみしい人々の友となり、悩んでいる人々を励まされました。イエスさまは神さまの愛を世の人々に示されました。

マルコによる福音書15章21節以下に、「十字架につけられる」という表題のついた聖書の箇所があります。マルコによる福音書15章25−32節にはこうあります。新約聖書の96頁です。【イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。】。

そしてイエスさまは人々にののしられ、侮辱されながら、私たちの罪のために、十字架についてくださいました。神さまの前に恥ずかしいことをしている私たちの罪を担ってくださり、私たちの代わりに十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。そして三日目によみがえられ、私たちに永遠の命を受け継ぐものとしての希望を与えてくださいました。

私たちは神さまの愛のなかに生きています。私たちは神さまの許しのなかに生きています。私たちは邪な思いをもちますし、人を傷つけたり、人のことをねたんだりもします。神さまの前に恥ずかしい思いを、心の中のもつことも多いです。しかしそれでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちに寄り添ってくださいます。

暴力的な世の中に生きていると、暴力的なことがふつうになってしまいます。少々うそをついてもいいじゃないか。みんなやってることだよ。というような思いになってしまいます。しかし暴力的な世の中だからこそ、少しでも神さまの愛を示していける歩みでありたいと思います。私たちは神さまの愛によって生きています。神さまの愛をゆたかに感じて、神さまの民として歩んでいきましょう。



    

(2026年8月23日平安教会朝礼拝式) 


8月16日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「平和平和と語り伝える」

 「平和平和と語り伝える」

聖書箇所 マルコ10:46-52。497/371。

日時場所 2026年8月16日平安教会朝礼拝式

  

昨日は、8月15日、敗戦記念日でした。81回目の敗戦記念日です。昨日、午後10時からNHKスペシャル「少女たちの戦争」を見ました。わたしの友人が制作にかかわっているので、「ぜひ見てね」という連絡がありました。東洋英和女学院に残された戦時下の学級日誌から、戦争がどのように日常に忍び寄ってきたのかということを明らかにするというものです。キリスト教主義の学校が戦時下で変わっていく様子がリアルに感じられます。

戦時下になると、自由のない、相互監視の強い、窮屈な社会になってきます。戦争の時代ならないようにしなければならないと思います。

関西セミナーハウス活動センターが、『「戦争の時代」にしないために 非暴力・平和主義を求めて』という本を発行しています。関西セミナーハウス活動センターが行なった講演をもとに作っています。【ウクライナ、ガザ、台湾有事ー。不安が煽(あお)られる時代に、非暴力と平和主義の思想と実践を問い直す。日本クリスチャン・アカデミー 関西セミナーハウス活動センター 渾身(こんしん)の講演録】ということです。

この本の中で、岡本厚(おかもと・あつし)という人がこんなことを書いています。岡本厚は岩波書店元代表取締役社長だった人で、元『世界』という雑誌の編集長をしていました。国家は嘘で戦争を始めるというのです。【ベトナムに米国が介入した「トンキン湾事件」は嘘だった。湾岸戦争の時、国連でイラク兵の残虐ぶりを証言したクウェートの少女は実は1回もクウェートに行ったことのないクウェート大使の娘でした。ユーゴ内戦でセルビアが「民族浄化(エスニック・クレンジング)」を行っているという証言は、クロアチアに依頼されてアメリカの広告会社が作った嘘の映像でした。それから一番近いところでは、イラク戦争になる直前、イラクは大量破壊兵器を持っている証拠があると米国の国務長官が国連で発言しました。しかし実際には存在しませんでした。こうして嘘を言って米国は戦争を始めたのです。日本だってかつて柳条湖(りゅうじょうこ)事件、盧溝橋(ろこうきょう)事件で嘘をついて戦争を始め、拡大しました。戦争を始めたい側が嘘をつく、フェイクニュースを仕掛け、国内国外の人びとの感情を煽るというのが歴史の教訓だと思います】(P.37)。

わたしは高校生のときに、この柳条湖事件というのを授業で学びました。「1931年9月18日、満州の奉天郊外の南満州鉄道が爆破され、関東軍はそれを張学良軍の犯行として軍事行動を起こし、満州事変の発端となった。しかし戦後、これは関東軍が自ら仕組んだ謀略であることが明らかになった」(世界史の窓)。日本は嘘をついて戦争を始めたのかと、ちょっとショックでした。軍隊とか政府というのは、嘘をつくのかとびっくりしたわけです。でもその後、アメリカが行なった戦争などを見ると、「ああ、日本だけが嘘をつくのではなく、戦争を始めたい人はみんな嘘をつくのだなあ」と思いました。

戦争を始めたい人たちが不安をあおり、嘘をつくのです。日本政府もアジア・太平洋戦争ではたくさん嘘をついたのです。「大本営発表」と言います。AIによる概要によりますと、【大本営発表(だいほんえいはっぴょう)とは、日中戦争から太平洋戦争にかけての1937年11月から1945年8月まで、日本軍の最高統帥機関であった「大本営」が国民に向けて行った公式の戦況発表のことです。戦争末期には実際の劣勢な戦況を隠し、虚偽の戦果や優勢を伝えることが常態化したため、転じて「自分に都合の良い、信用できない情報や発表」を指す言葉としても使われています。】。AIもそのことは知っているのです。

私たちの愛する国が、嘘をつき、人々をだまし、倫理観のない国家になってしまうというのは、とても残念なことです。ですから私たちはいつも愛する国に対して、そんなことにならないように、「戦争をしてはだめですよ」「世界の国々と平和に過ごしてください」と、声をかけ続けていきたいと思うのです。

今日の聖書の箇所は「盲人バルティマイをいやす」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまたちがエリコの町から出て行こうとしたとき、バルティマイという盲人に出会います。バルティマイは道端で物乞いをしていました。バルティマイはイエスさまだと聞くと、イエスさまに「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言いました。何度も何度も、バルティマイがそのように言うので、周りの人たちはバルティマイを叱りつけて黙らせようとしたほどでした。

イエスさまはその様子をみられ、立ち止まりました。そしてバルティマイを呼んでくるようにと人々に言いました。人々は叫んでいるバルティマイに声をかけ、「安心しなさい。さあ立ちなさい。イエスさまが呼んでおられるから」と言いました。バルティマイは上着を脱ぎ捨て、とっても喜んで、イエスさまのところにやってきました。イエスさまはバルティマイに、「何をしてほしいのか」と尋ねました。バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えます。イエスさまはバルティマイに「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われ、バルティマイをいやされました。バルティマイはすぐに目が見えるようにあり、イエスさまに従っていきました。

イエスさまはバルティマイに「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。バルティマイはイエスさまからほめられました。バルティマイにはしっかりとした思いがありました。イエスさまに目をいやしていただきたいという思いです。この方がわたしをいやしてくださるという強い思いをもっていました。そしてバルティマイはあきらめることなく叫び続けました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。わたしは大したものではないけれども、わたしのことを愛してくださり、わたしを見捨てることなく、わたしを憐れんでくださる方がおられるということを、バルティマイは知っていました。そうしたバルティマイの信仰を、イエスさまはほめてくださり、バルティマイを祝福してくださいました。

このバルティマイの物語を見ていると、やはりしっかりと願いを心においてあきらめないということは大切なことだと思います。私たちは現実的ですから、すぐにあきらめてしまいます。世界を見まわすと、いろいろなところ戦争が起こっています。核兵器をもち、たくさんの兵器をもった国が、力の弱い国を攻撃します。国際法を無視して、勝手なことを大国が行ないます。そうした大国に従うしかないと、ぺこぺことその国の大統領を持ち上げる国もあります。そうした様子をみていると、平和を願う私たちの祈りは叶えられることのない祈りではないのかというような弱気な思いも出てきます。

世界は複雑になり、私たちにはわからないことが多いですから、なかなかこうしたら良いというようなことを語りにくいというようなこともあります。「あなたは何もわかっていない」と言われると、「そうだなあ」とも思います。国際情勢など私たちにはわかりかねることであるわけです。そして「国家の安全保障に関することなので、その件については発言を差し控えます」というように、戦略的なことは秘密にされているので、私たちにはわかるはずがないのです。秘密にされているわけですから。ですから「あなたは何もわかっていない」と言われても、あまり気にすることなく、「わたしは平和が良い」「戦争には反対いたします」と私たちの願いを語っていけばよいのだと、わたしは思っています。

暴力的な私たちの世界にあって、私たちはいま、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」というバルティマイの叫びを思い起こしたいと思います。戦争を終わらせることのできない、みじめな世界に、私たちは住んでいます。イエスさまの憐れみによって、私たちの世界を変えていただきたいと思います。私たちは人間の力により頼んで生きているのではなく、神さまの愛に依り頼んで生きています。そして神さまが神さまの愛に満ちあふれる世界にしてくださることを、私たちは信じています。

神さまの義と平和に満ちあふれた世界になりますように。暴力ではなく、神さまの愛によって、私たちの世界が整えられますように。互いに尊敬しあい、互いに助け合う私たちの世の中でありますように。そうした祈りを神さまに献げながら、平和を祈りつつ歩んでいきたいと思います。





(2026年8月16日平安教会朝礼拝式) 

 


2026年8月7日金曜日

8月9日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「こどものように」

 「こどものように」

日時場所 2026年8月9日平安教会朝礼拝

聖書箇所 マルコによる福音書10章13ー16節。425/421。


先週の木曜日、8月6日は広島原爆記念日でした。そして今日、8月9日は長崎原爆記念日です。そして今週の土曜日、8月15日に81回目の敗戦記念日を迎えます。神さまの平和がきますように。平和を作り出す私たちの歩みでありますようにと祈りつつ歩みたいと思います。

平和聖日に向けての早天祈祷会で『平安教会100年史』の戦争中の箇所を読みました。1941年6月6日には内山完造が「支那事情講演会」の講師として講演したと書かれてあります。内山完造は上海で内山書店を立ち上げ、中国の作家である魯迅と交流の会った人でした。「支那事情講演会」、どんな話だったのか、なかなか興味深いなあと思いました。

中国近代文学を切り開いた作家であり、思想家である魯迅の作品に、『狂人日記』という作品があります。

ある男の人が自分が食べられるんじゃないかということが気になってしょうがないというふうに思い始めます。周りの人々の目つきがおかしいというふうに思えてきます。町を歩いていてもみんながどうも自分をにらんでいるような気がします。男の人は自分をにらんでいる人々に「何だって言うんだ」というふうに大声を出します。男の人の家の人は、無理やりに引きずって家に連れて帰ります。家の人々もやはり同じような目つきで男の人をにらんでいます。そして男の人が書斎にはいると部屋に鍵をしめてしまいます。男の人はますます自分が食べられるということを確信します。男の人は自分を診察にきた医者や、兄に、「人間を食べることをやめなければならない。そんなことをしているとあなたもいつかは食べられてしまうよ」というふうに説教をします。男の人はとじ込められた部屋の中で考えます。兄たちが自分を食べようとしているように、自分も人間を食べたことがあるんではないか。そして昔、五つの妹がなくなったことを思い出します。そしてその妹は、みんなに食べられてしまったのだと思います。そしてたぶんそのとき、自分もその時の料理の中に入っていた、妹の肉を食べたに違いないというふうに思います。他の人だけでなく自分も人を食べる人間だというふうに思います。このお話の最後は次のような言葉で終わります。【人間を食ったことのない子どもなら、まだいるかも知れぬ?。子どもを救え・・・】。

「わたしは人を食べたことがあります」。と言うと、皆さん、びっくりしてしまうんじゃないかと思います。わたしが人を食べたというのは、べつに人間の肉を実際に食べたということではありません。「純君のモモ肉がうまそう」とか「純君の手の指がこりこりしておいしそう」とかいうのではないのです。そうではなくて、人を人として敬わなかったとか、人を自分のために利用したというようなことです。この『狂人日記』というお話で、魯迅が言いたかったことというのも、世の中の人が、人を人として見ないで、人を物として見ている。人を自分が利用するための道具としてみている。そういう人と人とのあり方が、人を食べているということだということです。(お話の中に出てきた男の人は、心の病を担って苦しんでいたのに、周りの人はこの男の人のことをへんな目つきでみます。また兄弟や肉親たちも、彼を部屋にとじ込めて、人目にふれないようにしています。心の病を担って苦しんでいる人に、やさしく接することなく、その人の自由を奪って、さらに苦しめるというような人々のあり方が、人を人として敬わない、人を食べるようなあり方なのです)。人を傷つけても平気だとか、悩んでいる人をみてもしらんぷりしていいということが、人を食べているというなのです。

そのように考えると、皆さんも人を食べたことがあるのではないでしょうか。人が悩んでいるのをみてしらんぷりしたりしたことはないでしょうか。人が苦しんでいるのをみてしらんぷりしたことはないでしょうか。

私たちの世の中には十分に食べられないで飢えている人々がたくさんいます。働きたくても仕事がなくて働けず、アパートに住むこともできなくて、道の上で生活しなければならない人もいます。日本人でないということのために、いじめられる人々がいます。被差別部落に生まれたために差別される人々がいます。就職できなかったり、結婚できなかったりというような差別を受けています。いじめにあっていることを苦にして、自殺をした子どもがいます。 世の中のこうした出来事を見るときに、私たちの世の中は、「人を食べている世の中」なのではないかと思わされます。

『狂人日記』の最後は【人間を食ったことのない子どもなら、まだいるかも知れぬ?。子どもを救え・・・】という言葉で終わります。これはこのお話を書いた魯迅が、こんな人が人を傷つけ合って成り立っている社会、人を食っているような世界がなくなってほしい。そしてそうした世界に染っていない子どもたちに、人を食べるような世界ではなくて、人が互いに傷つけ合っているような社会ではない、人が助け合って、人が支え合って生きていく社会をつくりだしてほしいという願いが込められています。

大人になるととてもあきらめがよくなります。「どうぜ世の中こんなもんだ」という気になります。傷つけ合って人が人を食べるような社会が人間の社会なのだ。人が助け合って生きる、人が支え合って生きるというような社会は、それは現実の社会ではなくて、理想の社会でしかないのだというふうに思ってしまいます。どうぜ自分がどんなに努力しても、この世の中は変わらないんだというふうに思ってしまいます。魯迅は子どもたちがそんなあきらめのいい大人になるのではなくて、人を食べるような社会を変えてほしいと思っていました。

今日の聖書の箇所は「子供を祝福する」という表題のついた聖書の箇所です。人々がイエスさまのところに、イエスさまに祝福していただこうと、こどもを連れてきます。すると弟子たちが、この人々を叱りました。その様子をみて、イエスさまは弟子たちを叱ります。【「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」】と、イエスさまは言われます。そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されました。

【子どもたちのように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない】。大人たちは人を役にたつとか役にたたないというようなことで人を見ることが多いけれど、子どもたちはみんな神さまから愛されている大切なひとりひとりとして見ることができると、イエスさまは言われます。また大人は世の中こんなもんだというふうに人を食べるような世の中を認めてしまいますが、しかし子どもたちは神さまの愛にふさわしい世の中を求めようとします。

イエスさまは子どもたちを祝福しながら、この人が人を食べるような世の中に負けることなく大きくなってほしい。そして人を傷つけ、苦しめる、人を食べるような世の中を、神の国へと変えてほしいと思いながら、子どもたちを祝福されました。

イエスさまは子どもたちを祝福されたように、大人たちに対しても、やはり招いておられます。子どもたちと一緒に、この人を食べるような世の中を変えてほしい。人の悲しみや苦しみをしらんぷりするような生き方、人を傷つけても平気というような生き方をしないようにしよう。人の苦しみや悲しみを自分のことのように感じることのできるやさしさ、人と助け合い支え合って生きていく力強さを求めて生きてほしい。人を食べる生き方ではなく、人とわかちあう生き方をしなさい。こどもたちのように、神さまの国を求めて生きなさい。イエスさまはそのように私たちを招いてくださっています。



(2026年8月9日平安教会朝礼拝)



8月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「互いに平和に過ごしなさい」

「互いに平和に過ごしなさい」 

聖書箇所 マルコ9:42-50。561/536

日時場所 2026年8月2日平安教会朝礼拝式・平和聖日       

 

今日は平和聖日礼拝です。アジア・太平洋戦争が終わり、81年となります。今週木曜日に広島の原爆記念日を迎えます。

ロシアとウクライナの戦争は続いています。アメリカ、イスラエルとイランの戦争も続いています。ここ数年で世界は大国による戦争状態が続き、不安の多い世界となりました。軍事行動が平和の手段のように語られる世界となっています。そのような状況のなかにあっては、勇ましいことを言う政治家が現れます。そんなとき、私たちクリスチャンは私たちがアジア・太平洋戦争のときに、迫害を受け、息苦しい思いを抱えて過ごさざるを得なかったこと、また不本意ながらも戦争に協力せざるを得なかったことを思い起こしたいと思います。

ことし、12月10日に私たちの平安教会は教会創立150周年を向かえます。平安教会百史には、戦争中の教会の様子について書かれてあります。最後のところを朗読いたします。平安教会百年史の130頁です。【一九三九年から一九四五年にいたるこの期間は、軍国主義のもとにおける戦争の暗黒の時代であった。教会には目立った抵抗運動もないまま、結果的には、皇道主義、軍国主義の国家体制の中で、従順にこれに従わざるを得なかったという歴史が深い傷跡のように残されている。この期間中の受洗者は四十八名、信仰告白二名、入会者四十名となっている。しかし、一九四〇年以降はあいつぐ入営、応召、出征による青年、壮年層、戦時下の生活の窮迫、戦争末期の防空体制等によって集会は非常に圧迫され、また混乱したことがうかがわれる。この中にあって、山口牧師をはじめ教会員の苦悩は日増しに大きくなっていったことも想像されるが、遂に山口牧師は一九四五年に至って健康を害し、教会を離れざるを得ないことになった。抵抗によって軍国主義の狂暴な毒牙の下で殉教するか、妥協によってぎりぎりの線まで後退し、そこで教会を守るか、この二つの道のうち、平安教会は他の多くの諸教会と共に後者を選びとったことは史実によって明らかである。しかし、その中における苦悩は第三者の論評のはるかにとどかないものであったことは当事者たちのみが知ることである。山口牧師が敗戦後十一月に帰洛し、早速牧師辞任を申出たことは、体力の問題以上に深い苦悩の総決算であったと理解することが正しいことではないかと思われる。そして山口牧師は、一九四六年から教会の第一線より身を引き、名誉牧師として一九六六年四月十二日に永眠するまでの約二十年間を静かに平安教会と共に歩んだのである】。

平安教会百年史は、【教会には目立った抵抗運動もないまま、結果的には、皇道主義、軍国主義の国家体制の中で、従順にこれに従わざるを得なかったという歴史が深い傷跡のように残されている】と、この時代について、反省を踏まえながら、教会の歩みの苦悩を記しています。戦争が始まると教会は苦悩します。それは戦争が神さまのみ心に反した、人間の暴力的な営みであるからです。神さまのみ心にしたがって「戦争反対」を口にすると、周りから「非国民」の大合唱がわき起こります。そのような時代にならないように、神さまが喜ばれる歩みでありたいと思います。

今日の聖書の箇所は、「罪への誘惑」という表題のついた聖書の箇所です。今日の聖書の箇所はなんとも不気味な聖書の箇所で、何度も「*地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」という言葉が出てきます。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもないんだ」、怖いなあと思わされます。

イエスさまは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言われました。小さな者をつまずかせる者を、神さまがお許しにならないと、イエスさまは言われます。大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれると、息苦しい思いをして死んでしまいます。でもそのほうがまだましだというふうに言われます。もっとひどいことが起こるというわけです。

そして、「片方の手が悪いことをするなら、その手を切り落としてしまいなさい。両方の手がそろったまま、地獄に落ちて、消えない火に永遠に焼かれて苦しむよりも、片方の手になっても、命に預かるほうがよいだろう」と言われます。なんとなく合理的な感じがしますが、合理的であるがゆえに、怖い言い方だなあと思います。そしてそのあとに「*地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」と来るわけです。なかなか上手な怖い表現だなあと思います。

もし片方の手がに続いて、もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさいと、イエスさまは言われます。

もし、片方の足に続いて、もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさいと、イエスさまは言われます。

そして、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」と、イエスさまは言われます。

あなたは地獄に行くことになっても良いのか、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」。なんとも恐ろしいことです。やっぱり地獄は避けたいと思います。地獄に行かないように、小さな者をつまずかせることなく、神さまのみ心をこころにしっかりと留めて歩んでいかなければと思わされます。

そしてイエスさまは、「人は皆、火で塩見を付けられる」と言われます。塩見というのは、神さまのみ心をしっかりと受けとめているということです。小さな者をつまずかせることなく、人間として神さまに恥ずかしくない歩みをするということです。「火で塩見を付けられる」と言われているように、それは簡単にできるということでもないということです。「火」とありますように、ある種の強い思いがなければ、そんなに簡単に身に付くということでもないということです。

ですからイエスさまは「自分自身の内に塩を持ちなさい」と言われました。小さな者の一人をつまずかせない者として、しっかりとした生き方を心がけなさいというのです。人はそんなに強くないですから、いつのまにか周りの人たちに流されてしまいます。「神さまのみ心はわかるけれども、それじゃあ、この世界で生きていけないよ」というような思いになります。

マタイによる福音書18章10節以下に「迷い出た羊のたとえ」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の35頁です。【「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。*人の子は、失われたものを救うために来た。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」】。

イエスさまはここでも「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われます。小さな者を軽んじないという姿勢が失われてしまうと、社会はやさしさを失い、効率ばかりが叫ばれ、「社会に迷惑をかけているものはだれだ」、「泣く子はだれだ」「なまけものはだれだ」と叫ぶ恐ろしい人たちが幅を利かせるようになっていきます。アジア・太平洋戦争中は、私たちの国はそうした社会であったのです。しかしそうした社会は人間の社会ではなく、野獣の社会です。だからこそ、イエスさまはあなたたちの内に塩を持ち、小さな者の一人をつまずかせない者として生きていきなさいと言われるのです。

そして「互いに平和に過ごしなさい」と、イエスさまは言われます。いたずらに対立をあおったりすることもなく、自分自身の内にはしっかりと塩を持ち、平和に過ごしていきなさいと、イエスさまは言われます。

争いが続き、平和とは到底言うことのできない世界ですけれども、神さまの義と平和に満ちた世界になりますようにとの祈りをもちつつ歩んでいきたいと思います。神さまが必ず、正すべきものを正し、神さまの愛に満ちた世界を作ってくださることを信じて歩んでいきたいと思います。


(2026年8月2日平安教会朝礼拝式・平和聖日) 



7月26日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「だめなわたしだけど」

 「だめなわたしだけど」

聖書箇所 マルコ9:33-41。437/518。

日時場所 2026年7月26日平安教会朝礼拝式


石川啄木の歌「「友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」」は、こころにしみる歌です。    

わたしは地方の公立中学校を卒業し、地方の公立高等学校で勉強し、地方の国立大学で学びました。時代ということもあるのでしょうが、わたしは筆記試験による序列やランキングというものが、とても鮮明な時代に若いときを過ごしたので、長い間、周りと比べるということが、自分の中に染みついているなあと感じています。いまはまあもう年を取りましたので、その日一日を大切に、一生懸命に生きているという感じなので、それほど周りと自分を比べるということがありません。

大学を卒業した後、同志社大学の神学部に入り、牧師となり、一人で教会で仕事をするという働き方になりましたので、一般の人たちよりは周りのことが気になりにくい生涯であるような気がします。しかしそれでもやはり人と比較をして、自分はどうだろうという思いがないわけでもありません。SNSのつぶやきなどを見ていますと、自分がどれだけよく知っているか、多くの人はオールドメディアにだまされて、どれだけ愚かな人間であるのかというようなことを、一生懸命に語っていたりして、人間というのはなかなか大変な生き物だなあというふうに思わされます。

比べているとやっぱり疲れます。まあ自分より能力の優れた人というのはふつうにいますから、どうしても自分は劣っているということを感じずにはいられません。自分よりも能力の低い人を見下して喜ぶことはできても、でも自分より能力の優れた人もいるわけですので、どうしても自分を見下すことになります。するとやっぱり疲れます。

宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)は、西武大津店、膳所高校などが出てくるので、滋賀県民必読の小説です。「成瀬は天下を取りにいく」「成瀬は信じた道を行く」「成瀬は都を駆け抜ける」というシリーズ物の青春小説です。主人公の成瀬あかりは、自分と他人を比べるということがありません。いつも自分がやりたいと思ったことをやります。「閉店する西武大津店に閉店まで毎日通う」「シャボン玉を極める」「M-1グランプリに出場する」「200歳まで生きる」。周りの目を気にすることなく、自分がやりたいと思ったことをやる。まっすぐに自分の道をいくところが読んでいて、読者にすがすがしい気持ちを与えてくれます。それがこの宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)という小説がよく読まれている理由なのでしょう。やっぱり周りの人といちいち自分を比べて生きるよりも、まっすぐに自分の道を歩んでいきたいものだと思います。

今日の聖書の箇所は「一番偉い者」「逆らわない者は味方」という表題のついた聖書の箇所です。

イエスさまたちはカファルナウムに来て、家に入られました。そしてイエスさまは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになられます。弟子たちは沈黙をします。それは自分たちのなかで一番偉いのはだれかということを議論していたからでした。黙っていたのは、イエスさまがそんな話が嫌いだろうということを、弟子たちは理解をしていたからです。「だれが一番偉い」というような話、イエスさまは嫌いだろうけど、弟子たちは好きだったわけです。イエスさまのお弟子さんたちは、みんな若者ですから、やっぱり偉くなりたいのです。一旗揚げたいのです。「こいつよりもおれのほうが優秀だろう」と思いたいのです。しかしイエスさまが歩んでおられる道は、そうした道ではありませんでした。

イエスさまは弟子たちを呼び集めて、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われました。「あなたは偉い人ですね」とちやほやされる人が偉いのではなくて、すべての人に仕える者がほんとうの偉い人なのだ、あなたたちにはそのように生きてほしいのだと、イエスさまは言われました。そしてイエスさまは、一人の子供の手をとって、弟子たちの真ん中に立たせました。その子を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われました。

こどもは大人と同じように、偉そうなことをいったり、自分勝手なことをしたりしますが、基本的に小さな存在です。理不尽であると思っても、父や母や大人の言うことを聞かなければなりません。そのような小さな存在である子供のことを尊重して生きていくということが仕えるということであり、そのように生きることが大切なことなのだと、イエスさまは言われました。

イエスさまのお弟子さんであったヨハネは、イエスさまの名前を使って悪霊を追い出している人に出くわしました。それでその人に、「私たちに黙って勝手に、イエスさまの名前を使って悪霊を追い出してもらって困る」と言って、イエスさまの名前を使って悪霊を追い出すのをやめさせます。しかしイエスさまはやめさせる必要はないと言われます。わたしの名前を使って奇跡を行ったあと、すぐあとにわたしの悪口を言うことはできないだろうから、そうしたことに目くじらを立てることなく、おおらかな気持ちで過ごしなさいというわけです。わたしたちに逆らわない者は、私たちの味方なのだから、いちいち細かいことを言って対立を深めていくと、逆らわない者も敵になってしまってよくないだろうというわけです。キリストの弟子だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる者は、必ず神さまから祝福を受けるのだから、おおらかな気持ちになって、少しでも自分たちのことを理解してくれる人を増やしていきなさいと、イエスさまは言われました。

イエスさまの弟子たち、また弟子のヨハネは、自分たちのなかで一番偉いのはだれかというようなことを議論したり、イエスさまの名前を語って悪霊を追い出すのをやめさせたりしています。イエスさまの弟子たちは、偉くなりたいとか、人に指図をしたいというような思いにとらわれていて、なかなか困ったことになっています。せっかく生きているイエスさまに出会うという人生最高の体験をしているわけですから、イエスさまの言われることを聞いて、しっかりと生きてほしいと思うわけです。そんな体験をできた人たちは、人類の中でほんとごく少数の人たちであるわけです。「生前のイエスさまにお会いすることができるなって、なんという幸い、なんという特権」。私たちからみれば、そんなふうに思えるわけですが、まあ弟子たちはイエスさまが隣におられるのが普通ですから、そんなふうに思うわけもなく、相変わらず自分たちのうちでだれが一番偉いとか、アイツは私たちに無断でイエスさまの名前を使って商売しているから強く言い聞かせなければならないとか、ちいさなことにこだわっているわけです。小さなことにこだわり、見えを張って生きているわけです。だめな弟子たちです。

しかしだめな弟子たちがいるからこそ、私たちはイエスさまの、神さまの深い愛を知ることができるのです。こんなだめな弟子たちでも、イエスさまは愛してくださっているのだ。こんなだめな弟子たちでも、神さまの祝福にあずかっているのだ。そのように思えるからです。これが弟子たちがとってもりっぱな人間で、謙虚な人間であったりしたら、「そりゃ、こんなにりっぱな弟子たちなんだから、イエスさまから愛されて当然だ」となります。そしてお弟子さんたちはりっぱだけど、「私たちはどうもこんなに立派な人にはなれないよね」と思ってしまいます。

「だめなわたしでも」、神さまはわたしのことを愛してくださっているのです。人と比べて高慢になったり、あるいは卑屈になったりする、恥ずかしいわたしであるわけですが、でも神さまはわたしのことを愛してくださっています。イエスさまの弟子のヨハネがそうであったように、トラの威を借るキツネのように、力におもねりながら、力に屈してしまうような弱さをもっているわたしのことを、でも神さまは愛してくださっています。

イエスさまはこころの広い方であり、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言ってくださるのです。心もとない、信じることの少ない私たちですが、キリストの弟子だという理由で、私たちのことを祝してくださるのです。「一杯の水を飲ませる」という小さな小さなわざを行なう私たちを愛してくださるのです。

どんなときも愛してくださる方が、自分にはいるということは、とても幸いなことです。私たちはとてもさみしい思いになる時があります。だれも自分のことをわかってくれない。ひとりぼっちであるかのような気持ちになる時があります。もちろん、家族や友人がいて、ひとりぼっちであるということはないわけです。いろいろなやさしい言葉をかけてくれる人がいないわけではないのです。それでもやはり、とてもさみしい思いになるときがあります。このさみしさにだれが寄り添ってくれるのだろうかという思いをもつときがあります。

でも私たちには私たちのことを愛してくださる神さまがおられます。自分自身も欠点のない人として生きているわけではないので、ときに人から愛想をつかされることがあってもおかしくないと思います。だめなわたしであるわけです。だめなわたしであるけれども、神さまはわたしを愛してくださり、「あなたはわたしの愛する子、わたしのこころに適う者」という祝福を、わたしに与えてくださるのです。

神さまの深い愛に感謝して、すべてをお委ねして歩んでいきましょう。



(2026年7月26日平安教会朝礼拝式) 




















7月19日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「力ある方に守られて」

 「力ある方に守られて」

聖書箇所 マルコ9:14-29。227/510。

日時場所 2026年7月19日平安教会朝礼拝式       

 

『イン・ザ・メガチャーチ』は、私たちクリスチャンにとっては、目がいく小説のタイトルです。朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』。2026年本屋大賞受賞ということで、いまよく売れている小説です。グランフロント大阪の本屋さんにいくと、入口のところに平積みで本がたくさん積んでありました。著者の朝井リョウさんの言葉が添えられていました。【15年間、私は“小説を書く”という教会に通っていたようです。あなたはどんな教会に通っていますか】。     

『イン・ザ・メガチャーチ』という小説は、教会生活について書いてある本ではありません。推し活や陰謀論、そういた経済活動の裏側などについて書かれた小説です。かつて推し活をしていていまは陰謀論の活動を行なっている人、現在アイドルの推し活をしている大学生、推し活経済を作り出している会社員などなどの様子を、たくみに描いている小説です。どうして推し活のはなしに、『イン・ザ・メガチャーチ』という題がついているのかということですが、推し活という経済活動を作り出していく方法が、アメリカのメガチャーチの信徒を組織していくやり方と似ているということからきています。

【「まずね、今のメガチャーチって礼拝がライブみたいな感じなんだって。私も全然知らなかったんだけど、楽器の生演奏とかダンスで始まったり、音響とか証明の設備もしっかりしてて、礼拝って言葉からイメージする雰囲気と全然違うみたいなの。お祈りに行くっていうよりもライブに参戦って感じで、非日常感を味わえる場所になってるんだって】。というように、アメリカのメガチャーチは人を集めるために拡大戦略を練っています。推し活もまた裏側では人を集めるために拡大戦略が練られています。陰謀論も人を集めるために拡大戦略が練られています。その手法というのが、メガチャーチの手法と似ているということです。

しかし『イン・ザ・メガチャーチ』という小説を読んでいて、わたしが思うのは、わたしはまあ教会の中にいるわけですが、やっぱり『メガチャーチ』と『スモールチャーチ』は、別物だなあと思います。私たちは個人が自由に信じているということを大切にしています。信じさせる手法ということがあるわけではありません。ですから推し活のような熱心さで教会に集ってきているというような感じは、みなさんにもないだろうと思います。「推し活うちわ」をもって、教会に来るということはないわけです。わたしはちょっと「推し活うちわ」つくってみました。

今日の聖書の箇所は「信仰」ということについて考えさせられる聖書の箇所です。「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。

イエスさまの弟子たちが群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論をしているところに、イエスさまがやってこられます。そこには悪霊にとりつかれた子どもがいました。イエスさまの弟子たちにいやしてもらおうと、そこに連れてきたのですが、弟子たちはいやすことができませんでした。悪霊はこの子どもにとりつき、こどもを地面にひきたおし、こどもは口から泡を吐き出し、歯ぎしりをして、体をこわばらせています。てんかんの発作のようなことが起こっているということです。弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったということを知って、イエスさまは嘆かれました。「「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。激しい叱責の言葉なので、弟子たちのこころは萎えてしまっただろうと思います。

人々は弟子たちがいやすことができなかったので、イエスさまのところにこどもを連れてきました。すると悪霊はこどもに引きつけをおこさせます。イエスさまはこどもの父親にいつからこのような病状なのかと尋ねました。父親は「ちいさいころからです」と答えます。地面に引き倒すだけではなく、火の中に飛び込むこともあるし、水の中に飛び込むこともあるのだと言います。そして「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言いました。イエスさまは父親が「おできなるなら」と言ったことに対して、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われました。それに対して、父親はすぐに「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と答えました。

イエスさまは「この子から出て行け、二度とこの子に入るな」と、汚れた霊に命令をしました。汚れた霊は最後の抵抗として、子どもにひどい引きつけを起こさせます。こどもは死んだようになりました。多くの人々は「死んでしまった」と思ったのでした。しかしイエスさまは子どもに手を差し伸べ、そして子どもを立ち上がらせます。子どもは汚れた霊から解放されたのでした。イエスさまが家に入られると、弟子たちは自分たちがどうして悪霊を追い出すことができなかったのかと、イエスさまに尋ねました。イエスさまは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われ、弟子たちの力不足を指摘しました。イエスさまは弟子たちに「祈りが足りない」と言われました。弟子たちは「祈りが足りないって言われてもなあ」「そりゃ、そうだろうけど、なんかなあ」と思っただろうと思います。

こどもはいやされ、まあ、「よかった。よかった」という話であるわけです。イエスさまは弟子たちがこどもをいやすことができなかったことについて、「なんと信仰のない時代なのか」と言われます。またこどもの父親が「おできになるなら」と言ったことについて、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と、お叱りになられます。

まあ、イエスさまからみれば、「信仰のない時代」ですし、「信じる者がいない」時代であるわけです。でもまあ、そんなにイエスさまにほめられるようなりっぱな信仰をもっているのであれば、イエスさまを頼って生きていくこともないわけです。りっぱな信仰など持ち合わせていないからこそ、私たちはイエスさまに頼って生きていくわけです。りっぱな信仰をもってないから、イエスさまに依り頼んで生きているのに、「りっぱになれ」と言われても困ってしまうわと思います。

そういう意味では、汚れた霊に取りつかれたこどもの父親の態度は、なかなか当を得ているような気がします。イエスさまから「できれば」と言うかと叱られると、あわてて、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と答えています。イエスさまから叱られると、とにかく「信じます」と答えます。もうあなたを信じるしかないのですと、父親は答えるのです。ただその信じるということは、自分が信じるということなので、はなはだ頼りないのです。自分は頼りにならない。ですから「信じます」と答えつつ、「信仰のないわたしをお助けください」と、イエスさまにお委ねします。ここに「信じているけれども、信じられない」「信じられないけれども、信じている」という奇妙な信仰がいい表わされています。私たち人間は神さまに助けていただくという形でしか、信じるということはできないのです。私たちは「イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」のです。

使徒パウロはローマの信徒への手紙3章で、「信仰による義」について語っています。

私たちにとって信じるということは、狂信的に信じるということではありません。やみくもに信じるということでもありません。私たちは力ある方がおられるということを知っています。そしてその方をただ私たちは信じているのです。私たちは弱く力のない、また信仰の弱いものです。しかし力ある方が私たちを救ってくださり、私たちを導き、祝福してくださるのです。

イエス・キリストが私たちを導き、祝福してくださいます。イエスさまにより頼んで、こころ平安に歩んでいきましょう。


  

(2026年7月19日平安教会朝礼拝式) 








7月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「希望をしっかりともって」

 「希望をしっかりともって」

聖書箇所 マルコ8:22-26。484/507。

日時場所 2026年7月14日平安教会朝礼拝・部落解放祈りの日

 

先日、後輩の牧師さんと話をしていると、その方は「自分がお世話になった二人の牧師さんのような牧会をしたい」ということを言っておられました。お手本があるというのは、未来に向かって歩んでいく時に、とても良い指針になるような気がします。ワールドカップの日本代表選手の中村敬斗選手は、少年のときに元ブラジル代表MFロナウジーニョ先週に憧れ、「ロナウジーニョのようになりたい」と思ったということです。「小さい頃から僕のスターで、毎日映像を見て、僕は足技だったり勉強して真似してました」ということです。

「こんな人になりたい」と思える人がいるというのは、うれしいことかも知れません。アメリカのオバマ大統領に対する黒人のこどもたちのまなざしには、そうしたものがあったでしょう。私たちもマザー・テレサのようになりたいとか、マーチン・ルーサー・キングのようになりたいとか、アルベルト・シュバイツァーのようになりたい、星野富弘のようになりたいとか、思ったりします。もちろん偉人と言っても人間ですから、いろいろな欠けたところもあるわけでしょうけれど、それでも「こんな人になりたい」という思いがあれば、そのことに向かって、希望を持って歩んでいけるような気がします。

使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、【あなたがたもわたしのようになってください】と言っています。ガラテヤの信徒への手紙4章12節の言葉です。新約聖書の347頁です。使徒パウロが「わたしのようになってください」と言っているのは、別に使徒パウロ自身がえらいとかすばらしいというようなことではありません。使徒パウロが「わたしのようになってください」というのは、わたしのようにイエス・キリストを信じて生きていきなさいということです。それが確かな生き方だと、使徒パウロは言いました。イエス・キリストを信じて生きていく。これが確かな生き方なのだ。

使徒パウロは「希望」ということについて、ローマの信徒への手紙5章3節で、こんなふうに語っています。。

イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは義とされたのだから、私たちには希望がある。もちろんいろいろな苦難の出来事もあるけれれども、しかし私たちは知っている、【苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを】、希望は私たちを欺くことはない。私たちは神さまに愛されて生きているのだから。そんなふうに使徒パウロは言いました。

使徒パウロは希望をしっかりともって生きていました。パウロの生涯はなかなか大変な生涯でした。キリスト教を迫害していた者が、キリスト教を述べ宣べ伝えるようになり、そして迫害されたり、投獄されたり、伝道の途中で乗っていた舟が難破したりと、いろいろな困難の目に合いました。いろいろな苦難を体験しました。しかしそうした中で、使徒パウロは【わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません】(ローマの信徒への手紙5章3−5節)(新約聖書の279頁)と語りました。「希望をしっかりともって生きる」。これは私たちクリスチャンに与えられている大きな恵みです。

今日の聖書の箇所は「ベトサイダで盲人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまはいろいろな奇跡を行なわれ、そして神さまの御言葉を述べ伝えていました。当時、病気にかかっているということは、神さまから罰が与えられているというふうに考えられていました。病気にかかっているということだけでも大変なわけですが、そのうえ神さまから罰が与えられていると言われ、人々から蔑まれるわけです。一人の盲人が人々に連れて来られて、イエスさまのところにやってきました。この盲人もイエスさまがいろいろな奇跡を行なわれていることを知り、イエスさまに目を見えるようにしていただきたいと思ってやってきたのでしょう。「この目を治していただきたい」という強い思いをもっていただろうと思います。

イエスさまは盲人を村の外に連れ出します。静かなところへと導かれたのでしょう。静かなところで心を落ち着けて、イエスさまはいやしの業を行なわれました。イエスさまはいろいろな人々をいやされるわけですが、その業は神聖な業であるわけです。心を静かにして神さまの前でいやしの業を行なわれます。

【その目に唾をつけ】というと、ちょっと民間療法的な感じで、私たちの感覚からすると「大丈夫かいなあ」と思いますが、群衆の中から一人この人を連れ出し、そして唾を用いて、いやしの業を行なっておられます。病は悪霊の仕業と考えられていたような時代ですから、少々呪術的な面があるのかも知れません。そしてイエスさまが「何か見えるか」とお尋ねになると、盲人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答え、ぼんやりと見えるようになったことを喜んでいます。ぼんやりと見えているのではまあ不便だろうということで、イエスさまはもう一度、盲人の目に手を当てていやされました。すると今度ははっきりと見えるようになりました。

イエスさまが奇跡を行なわれた話の中には、「秘密保持」ということが示されていると言われます。イエスさまが奇跡を行なわれたあと口止めをされるというのは、「イエスさまが口止めされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」とあるように、それほどイエスさまはすばらしい方だったということです。隠しても、隠しても、イエスさまのすばらしさは人々に告げ知らせられていったということです。

またイエスさまは自分がすごい人だと褒め称えられるために、いやしのわざを行なっておられたわけではありませんでした。いつのまにか自分のことが高く高く褒め称えられていくということについて、イエスさまはたぶんあまりいいこととは思っておられなかったでしょう。弟子のヤコブとヨハネが願ったように、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というような雰囲気が、イエスさまの周りに満ちあふれるようになることを、イエスさまは望んでおられなかっただろうと思います。

イエスさまは目が見えるようになった人に、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰されます。イエスさまはどうしてこの人に「村に入ってはいけない」と言われたのでしょうか。もちろんイエスさまがいやしのわざを行なわれたということになれば、イエスさまの評判が高くなり、なんとなく歪んだ雰囲気がつくられていく、そのことをイエスさまがあまりいいこととは思っておられなかったということもあるでしょう。

そうしたイエスさま側のご都合というのもあったでしょうが、目が見えるようになった人に対する配慮という面もあっただろうと、わたしは思います。村にはいろいろな誘惑があります。人間の世の中だから当たり前と言えば当たり前です。イエスさまの弟子たちの中でさえ、イエスさまがえらくなられたときに、他の弟子たちよりもぜひわたしを取り立ててくださいというような雰囲気があったわけです。イエスさまがいやしてくださったということで、ちやほやされるようなことがあるかも知れません。いま村にいけば、そうした誘惑に陥ってしまうかも知れません。またイエスさまを取り巻く状況もいろいろなことあったでしょう。イエスさまのことをよく思っていない人々もいて、イエスさまが行なわれたことについて、根掘り葉掘り聞いて、イエスさまを陥れようとする人々がいました。いま村にいけば、そうした争いのなかに巻き込まれてしまうかも知れません。

盲人はイエスさまと出会うことによって、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになりました。「何でもはっきり見えるようになりました」という言葉は、目が見えるようになったということだけでなく、象徴的な言葉のように思えます。盲人はイエスさまと出会うことによって、自分がどのように生きていくのかということがはっきりしたということです。

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)13章12ー13節でこう言っています。317頁です。【わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である】。

世の終わりのとき、私たちは神さまを顔と顔を合わせて見るようになるけれども、そのとき初めてはっきりと見ることができるのだと、使徒パウロは言いました。パウロは神さまと出会う時に、人ははじめてはっきりと見ることができるのだと言いました。

使徒パウロは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と言いました。神さまの愛が私たちを包み込んでくださっているのだから、私たちは希望をもって生きていくことができる。神さまを信じて歩んでいこう。このことが確かな生き方なのだ。そのようにパウロは言いました。

神さまは私たちをその愛でもって包み込んでくださっています。私たちはしっかりと希望を持って歩みたいと思います。私たちは弱さを抱えている者ですけれども、神さまは私たちをしっかりととらえていてくださいます。私たちの弱さも含めて、神さまにお委ねして、そして希望を持って歩んでいきましょう。


(2026年7月14日平安教会朝礼拝・部落解放祈りの日)




2026年7月8日水曜日

7月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「恵みを見つける」

 「恵みを見つける」

聖書箇所 マルコ8:14-21。226/474

日時場所 2026年7月5日平安教会朝礼拝


私たちの日常生活、世界はわたしのためにあると思えるような毎日というわけではありません。「ふたりのため世界はあるの」と言えるような毎日であれば、それはいいわけですが、まあだいたいの人はそういうわけにはいきません。まああんまり楽しみなどないと思えるようなときもあるのではないかと思います。だからこそ、やはり良い心持ちで生きるということの大切さがあるような気がします。「ない、ない、ない」「いいことない」「やる気ない」「なんでそんなことせんといかんの。めんどくさい」「そんなの、あほらしいわ」。まあそんなふうに思えるときもあるわけですが、しかしそれは神さまの恵みを見逃してしまっているのではないかと思います。私たちの神さまは、私たちにつまらない人生しか用意してくださらない方なのでしょうか。私たちは私たちの神さまは私たちに良きものを備えてくださる方だと信じています。そして神さまが用意してくださっている恵みを見つけるということが、私たちの大切な仕事であると思います。

今日の聖書の箇所は「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種」という表題のついた聖書の箇所です。

イエスさまの弟子たちは自分たちの食事となるパンを持って来るのを忘れてしまいました。舟の中には一つのパンしかありません。だれがパン係であったのかということは、気になることですが、聖書にはそんなことは書いてありません。特定の人が決まっていたのかどうかはわかりませんが、でもパンがないことに気づいた人は、そのことが気になって気になってしょうがなかっただろうと思います。なにか失敗をしてしまうということは、大きなダメージとなります。わたしなどもそうですけれど、小さな失敗が気になって気になってしかたがないということあります。たとえば週報に間違いがあったとか。まあよくあるのですが。あるいは「このことを誰かに伝えてください」と言われていて、それを忘れていたとか。「ミニトマトを買ってきてください」と頼まれて、図書館に先に寄って本を借りているうちにすっかり頼まれた買い物を忘れてしまって、本だけをもってうれしそうに帰ってきたとか。わたしは小さなことが気になって気になって仕方がない気の弱い人間ですから、失敗した時に自分に言い聞かせるように、「長い人生、そういうこともあるやろ」と思うようにしています。

たぶんパンを持って来るのを忘れた人は、イエスさまに気づかれないうちに、こそこそっと抜け出して、どこかでパンを買ってこようと思っただろうと思います。そんなことを思っているときに、イエスさまが【「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」】と言われたのです。弟子たちはみんな自分たちがパンを持ってこなかったから、イエスさまが怒っておられると思ったのでした。こういうところから、「イエスさまはお腹がすくと機嫌が悪くなられる方であったのだ」ということが、聖書学的にわかりそうな気がするわけですが、あんまりそんな学説を聞いたことはありません。

【「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」】というのは、「ファリサイ派の人々がやっていることやヘロデ派の人たちがやっているようなことをしてはいけない。ファリサイ派の人々やヘロデ派の人たちが心の中で思うことは、私たちの心の中にもないわけではないから、そのことに気をつけなさい」ということなのでしょう。ファリサイ派の人々もヘロデ派の人々も自分たちのことを特別な人間だと思っていました。驕り高ぶっていたわけです。人のことを蔑んでみたり、自分たちは特別な人間なのだと思いたいという気持ちは、弟子たちの心の中にもないわけではありません。イエスさまの弟子たちは自分たちの中でだれが一番えらいだろうというようなことを論じたりする人たちであったわけです。思い上がった心というのは、自分が気づかないうちに、どんどんどんどんと大きくなってしまうということがあります。ですからイエスさまは弟子たちに【「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」】と言われたわけです。

イエスさまが大切な話をされたわけですが、弟子たちはパンのことが気になっています。それで「パン種」という言葉を聞いたときに、「イエスさま、私たちがパンを忘れたことを怒っておられる」と思ったのでした。弟子たちはイエスさまが弟子たちがパンを忘れたことを知っていて、当てこすりとして「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言っていると思っていたというわけですから、これはイエスさまからするとがっかりしてしまうようなことだっただろうと思います。

イエスさまはかなり激しい調子で弟子たちを諭されました。「どうしてパンを持ってくるのを忘れたことで、心を乱してしまうのか。それがそんなに大切なことなのか。わたしがそんなことで怒り出すと思っているのか」。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。「そのお前の顔についているのは何だ。目と違うのか。顔の横についているのは何だ。耳と違うのか」。

マルコによる福音書6章30節以下には「五千人に食べ物を与える」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の72頁です。またマルコによる福音書8章1節以下には「四千人に食べ物を与える」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の76頁です。

弟子たちはイエスさまの奇跡を体験したのです。イエスさまは五つのパンで五千人を養ってくださった。イエスさまは七つのパンで四千人を養ってくださった。そういう奇跡を体験したわけですから、もうパンのことなど気にしなくてもいいように思えるわけです。しかし弟子たちはそうしたことを忘れてしまって、パンの心配をしていたのです。【イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた】ということですから、イエスさまはイエスさまのことを信じない弟子たちにがっかりしてしまったということでしょう。「はあ〜」というイエスさまの大きなため息が聞こえてきそうな気がします。

まあ、しかしいくらイエスさまがパンの奇跡を行なわれた方だといっても、「イエスさま、すみません。ちょっとパンを忘れてしまったので、ちょっちょっいっと私たちが食べるパンを出していただけますか」なんて、弟子たちも言いづらいだろうと思います。そうしたことを弟子たちが言ったというようなことは聖書に書かれていないですから、たぶんそうしたことはなかったのでしょう。なかなか見識のある弟子たちだと思います。わたしなどはつい「イエスさま、すみません。ちょっとパンを忘れてしまったので、ちょっちょっいっと私たちが食べるパンを出していただけますか」と言ってしまいそうな気がします。

このイエスさまが弟子たちにがっかりされたという話は、わたしにとってはちょっと気の重い話です。わたしもまたイエスさまにため息をつかせているのではないかと思うからです。大きくなった息子がお母さんに、「何がいやだったって、お母さんのつく『はあ〜』というため息がとてもいやだった」というようなことを言われてショックだったというようなことがあったりします。「はあ〜」というため息とか「まだ悟らないのか」というような叱責の言葉は、なかなか重いものです。「今日もまたイエスさまにため息をつかせてしまった」。どうでしょうか。ちょっとショックではないでしょうか。聖書にはイエスさまがため息をついたとは書かれてないですけど、でもなんかため息ついただろうなあと思ってしまいます。

私たちは小さなことに心を奪われてしまうということがあります。今日の話では「パンをもってくるのを忘れた」ということでした。小さい頃から忘れ物をすると私たちは怒られていますから、まあ大変なことに思えるわけです。でもまあたかだかパンを持ってくるのを忘れたということだけなのです。弟子たちは小さなことに心を奪われてしまって、大切なことを忘れてしまっていたのです。信頼できる方が自分たちにいてくださる、イエスさまと私たちは一緒にいるのだということを忘れてしまっていたのです。

私たちもまた弟子たちのように、小さなことに心を奪われてしまって、大切なことを忘れてしまっているということがあります。私たちの生活の中でいろいろなことが起ります。私たちにとって意に沿わないこともたくさん起ります。世の中、わたし中心に回っているわけではありません。どうもおもしろくない。どうもうまくいかない。また失敗してしまった。そういうことはありますし、まあ心地よいというわけではないでしょう。しかしそうしたことにだけ心を奪われてしまうときに、私たちは大切なことを忘れてしまっています。小さなことばかりにこだわっていると、大きな恵みに気がつかないということがあるのです。

わたしはクリスチャンに許されていることとても豊かなことは、喜びをもって生きるということだと思います。いろいろなことがある私たちの歩みですが、それでもクリスチャンである私たちは喜びをもって生きることができます。私たちは神さまが私たちを愛してくださっているということを知っているからです。私たちは神さまを頼りに生きています。私たちは神さまを信じて生きています。私たち自身はいろいろな失敗もするでしょうし、間違ったこともしてしまうかも知れません。しかし私たちが頼りにしているのは、私たちではなく、神さまです。私たちは神さまの導きを頼りにして生きています。

いろいろなことがある私たちの歩みですけれども、私たちは神さまからも恵みを見つける歩みでありたいと思います。神さまが私たちに備えてくださっている恵みに気づくことのできる歩みでありたいと思います。神さまはたくさんの恵みを私たちに備えてくださっています。私たちは宝物を探すように、その恵みを一つずつ探していきたいと思います。そしてその恵みを見つけて、「神さま、ありがとう」と神さまに感謝したいと思います。

そしてなにより、神さまは私たちのところに、イエスさまを送ってくださいました。イエス・キリストは私たちのために大切なことをしてくださいました。私たちの罪のために、イエスさまは十字架についてくださり、私たちをあがなってくださいました。私たちはイエスさまによって生きています。私たちは大きな恵みに根底から支えられて生きています。御子イエス・キリストを私たちのところに送ってくださった神さまは、いまも私たちに良きものを備えてくださっています。神さまの愛のうちに、こころ平安に歩みましょう。


(2026年7月5日平安教会朝礼拝)


6月28日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「わたしのなかに住んでいる罪」

 「わたしのなかに住んでいる罪」

聖書箇所 マルコ6:14-29。211/521。

日時場所 2026年6月28日平安教会朝礼拝式


キリスト教では、神さまの思いに反して生きていることを、罪というふうに言います。ギリシャ語で罪というのは、「ハマルティア」と言い、「的外れ」という意味です。神さまの思いから離れ、的を外した生き方をしているということです。

私たちはいろいろなことをするときに、神さまどう思われるかなあ、イエスさまどう思われるかなあと思います。「ああ、やっぱりこのことは、神さまの前に恥ずかしいことだよなあ」というようなことを思うわけです。

キリスト教だけでなく、昔は宗教的な意識がいまよりも強かったので、「ああ、なんか恥ずかしいことをしている」という意識がありました。しかし現代はだんだんと宗教的な意識が失われてきている社会なので、罪ということについて考えるということも失われてきているような気がします。

政治の世界などでも、「法律に違反をしていなければ大丈夫なのだ」というふうに考える人が多くなりました。もう一歩進めて、「捕まらなければ大丈夫」「裁判で有罪の判決がでなければ大丈夫」というふうになってきます。政治のリーダーたちが倫理的な感覚を大切にしなくなってくると、やはり世の中への影響も多くなってきます。

加藤喜之『福音派ー終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)という本を読んでいました。いまアメリカの政治に大きな影響を及ぼしているのが、キリスト教の福音派と呼ばれる人々であると言われます。その福音派とアメリカ政治との関係の歴史について書かれてある本です。アメリカにおいてキリスト教と政治との関わりというのは、昔から密接にあります。共和党の大統領だけでなく、民主党の大統領もキリスト教との関わりの中で政治を行っています。カーター大統領もレーガン大統領も、クリントン大統領もオバマ大統領も、そしてトランプ大統領も、さまざまな形で支持を受けたり、批判をされたりしながら、政治を行っています。

この『福音派』という本のはじめの方で、ビリー・グラハムという牧師が紹介されていました。ビリー・グラハムという牧師は、「アメリカの牧師」「市民主教の大祭司」と言われたりする有名な牧師でした。日本でも大伝道集会を開いているような牧師です。友だちに誘われて伝道集会に行ったという方もおられるかも知れません。

ビリー・グラハムはニクソン大統領を支援していました。ウォーターゲート事件にの疑惑が出てきた時も、ニクソン大統領の無実をアメリカ国民に訴えかけました。しかし1974年5月中旬に『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された記事をみて、ビリー・グラハムは友人として親しくしてきたニクソン大統領が、とんでもない悪事を重ねても平気な人間であることを知ることになります。ビリー・グラハムは泣き悲しみ、嘔吐するほどだったと言われています。ビリー・グラハム牧師は倫理的な感性を失った大統領に失望したわけです。そうしたことを、この『福音派』という本を読み知りました。でもいまの福音派の牧師たちは、倫理的な感性を失った大統領に失望するだろうかと考えた時、そうしたことはあまり関係のないこととして考えるだろうなあと思います。キリスト教という宗教の中においても、倫理ということが失われているということがあるわけです。(ビリー・グラハム牧師の息子さんのフランクリン・グラハム牧師は、トランプ大統領を支持しています。トランプ大統領が再任された就任式で、フランクリン・グラハム牧師は、「神よ、あなただけがトランプを彼の敵から救い出し、力をもって復活させてくださった」と感謝の祈りを捧げたと言われています。(『福音派』、P.270参照)

今日の聖書の箇所は「洗礼者ヨハネ、殺される」という表題のついた聖書の箇所です。洗礼者ヨハネは、イエスさまの前に世に現れ、人々に悔い改めを迫りました。政治家に対しても、神さまの御心に反している人に対しては、痛烈な批判をしていました。ヘロデ王もまたそのひとりであったわけです。洗礼者ヨハネはヘロデ王を批判していたため、ヘロデ王によって殺されました。ヘロデ王が洗礼者ヨハネを殺した出来事について、今日の聖書の箇所には書かれてあります。今日の聖書の箇所は、すべてが歴史的な事実というわけでもありません。ヘロディアなどはこんな感じの悪人ではなく、もう少し純真な人であっただろうと言われています。この話は歴史的な事実というよりは、ひとつの物語として読むほうがよいだろうと思います。

ヘロデ王はイエスさまのことを知った時に、自分が殺した洗礼者ヨハネが生き返って現れたのではないかと思います。イエスさまのことを世の人々は、預言者エリヤだとか昔の預言者だとか、いろいろと噂をしていたのですが、ヘロデは自分が首をはねた洗礼者ヨハネが生き返ってやってきたのだと思いました。

洗礼者ヨハネはヘロデ王のことを批判していました。ヘロデ王が残虐な王でしたし、王さまですから好き勝手なことをしていたわけです。ヘロデ王とヘロディアとの結婚についても非難をしていました。現代的に考えればまあそんなに問題となるようなことではないですが、まあ洗礼者ヨハネは律法に基づいて非難をしていたのです。結婚のことというよりも、ヘロデ王が倫理的な王さまでないということが、洗礼者ヨハネにとっては非難すべきことであったのだと思います。

ヘロデ王は洗礼者ヨハネによって非難されていたのですが、一方で洗礼者ヨハネが正しい聖なる人であったので、洗礼者ヨハネの話すことに耳を傾けていました。ヘロデ王は自分のことを非難されることについては、なかなかしんどいことであるけれども、それども神の人としての洗礼者ヨハネを受け入れていたわけです。私たちの時代の総理大臣や大統領が、自分を批判するような人を、周りから遠ざけ、意見を聞こうとしなかったりすることがありますが、そういうことからすれば、ヘロデ王の方が自分を批判する人の意見を聞くという姿勢があったわけです。まあだからと言って、ヘロデ王のほうが現代の総理大臣や大統領よりましであったのかというと、そうではなくヘロデ王は残虐な王さまでありました。

ヘロデ王の妻のヘロディアは洗礼者ヨハネが自分のことを非難するので、洗礼者ヨハネを殺そうとします。ヘロデ王が自分の誕生日のときに、たくさんの人々を呼んで宴会を催しました。そのときの余興で、ヘロディアの娘が踊りを踊ります。それがたいそう、来ていた高官や将軍を喜ばせました。それでヘロデ王はヘロディアの娘に、ほうびをとらせることにします。

ヘロデ王は言います。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。それでヘロディアの娘はお母さんのところに言って、何を望んだらいいでしょうかと尋ねます。するとヘロディアは「洗礼者ヨハネの首を」と言います。ヘロディアの娘はヘロデ王のところに帰ってきて、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と答えます。

ヘロデ王は人々の前で、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言っていたので、仕方なく、洗礼者ヨハネを殺して、首をお盆に載せて、ヘロディアの娘に渡します。

「イエスは言われた。『この3人の中で一番罪深いものはだれか。ヘロデかヘロディアか、ヘロディアの娘か』」。というようなことは、聖書に書いていませんが、みなさんはどう思われますか。みんなが集まって、「こいつが悪い」というような話をするとおもしろいかも知れません。

この話では洗礼者ヨハネの殺害の糸をひいているのは、ヘロディアだという話になっていますから、まあ「ヘロディアが悪い」ということになるかも知れません。ヘロデ王は罪の自覚のある人として描かれています。ヘロディアの娘には罪の自覚はありません。ヘロディアの娘はなにもわからず、母の言うことを聞いて、「洗礼者ヨハネの首を」とヘロデ王に言うわけです。

「わたしは悪いことをしている」「わたしは罪深い者だ」ということが、わかっているかどうかということは、やはり大切なことであるわけです。そういう意味では、ヘロデ王は自分が悪い人間であるということを意識していました。それでもまあ悪いことをし続けるわけですから、人間というのはなかなかどうしようもないわけです。自分の罪に向き合うということは、なかなかむつかしいことであるわけです。

自分の中の罪ということに、真摯に向き合った人に、使徒パウロという人がいます。ローマの信徒への手紙7章7節以下に「内在する罪の問題」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の282頁です。この聖書の箇所で、使徒パウロは自分の中に罪がいて、その罪が自分を悪い方へと導いていき、神さまの御心に反することをしてします。「律法を守ろうと思っても、律法を守ることができない。悪いことをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのだ」と言います。そして「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」と、使徒パウロは嘆いています。自分の中にある罪に向き合えば向き合うほど、自分が悪い人間であると思えてきます。汚い部屋にいると、少々、ほこりがたまっていても気になりません。しかしきれいに掃除をした部屋にいると、机の隅のほこりも気になってきます。

私たちはヘロディアの娘のように、自分のしていることがわからずに、神さまの前に恥ずかしいことをしてしますことがあります。またヘロディアのように、高慢な気持ちや怒りに身を委ねてしまい、神さまの前に恥ずかしいことをしてしまうこともあります。またヘロデ王のように、神さまの前に恥ずかしいことをしているという気持ちがありながらも、でもやっぱり自分の好き勝手に生きてしまうということもあります。

人というのはなかなかやっかいなもので、自分で自分のしていることさえわからないようになってしまうこともあります。一方で良い人でありたいと思いながら、他方で自分の好き勝手なことばかりしていたりするわけです。使徒パウロはそんなやっかいな人間の一人として、自分の中にある罪に向き合いました。そして自分ではどうすることもできないけれども、イエス・キリストがわたしの罪を贖ってくださり、こんな惨めなわたしを救ってくださるということに気づきました。そして使徒パウロはイエスさまに従って歩みました。

私たちもまたいろいろな弱さを抱え、そしてときに邪な思いをもつ、やっかいな人間です。しかしそんな私たちを愛してくださり、私たちを祝福してくださる神さまがおられます。悔い改めの気持ちをもちつつ、神さまの愛を受け入れて、イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。





(2026年6月28日平安教会朝礼拝式) 


6月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「きこうとしないわたし」

 「きこうとしないわたし」


聖書箇所 マルコ6:1-13。197/542

日時場所 2026年6月21日平安教会朝礼拝式

  

10年くらい前、宇多田ヒカルの曲をよく聴いていました。朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の主題歌も、宇多田ヒカルの「花束を君に」でした。同じ頃の宇多田ヒカルの歌に、「荒野の狼」という曲があります。ちょっととがった歌詞でした。聞く人によっては、なんか不快に感じる歌だなあと思いながら聴いていました。

【惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら

 そうだそうだ お互いを肯定する輩(やから)

 まずは仲間になんでも相談する男

 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子

 偽物の安心に悪者探し

 私たちには関係ない】

【惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら

 そうだそうだ お互いを肯定する輩(やから)

 まずは仲間になんでも相談する男

 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子

 偽物の安心に悪者探し

 私たちには関係ない】

仲間内に閉じこもって、自分たちだけが正しく、人を非難することで自分たちが安心するといった人間の姿が歌われています。

曲を聴いていると、「惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら」と歌われているので、若い人たちの姿のような気がするわけですが、「偽物の安心に悪者探し 私たちには関係ない」というような姿は、若い人だけではないような気がします。

「まずは仲間になんでも相談する男」という歌詞が、わたしにはとても印象的でした。政治家の人たちも、よく「進退ついては、仲間と相談して判断します」と言ったりします。わたしの周りの社会活動をしている人も「わたしの仲間がとても傷ついている」というような話をされることがあります。同じ思想信条で行動を共にしている人たちというのが、仲間ということなのかなあと思ったりします。でもこういう使われ方をするとき、「ああ、わたしはこの人の仲間ではないのだ」というような気持ちがわいてきて、なんかとても微妙な気持ちになるわけです。

どうしても仲間内で固まると、仲間とそうでない人たちとのグループができてしまいます。そしてあんとなく風通しが悪くなってしまいます。仲間内で固まると、一般的な意見が聞えてこなくなります。そして「そうだそうだ お互いを肯定する輩」になってしまいます。総理大臣や大統領といった政治的指導者が、自分のが周りに自分の考えに同調する人たちだけを集めて政治をしていると、そのうち世の人々の声が届かなくなり、ちょっと困った状態になってしまうというようなことが出てきたりします。いやなことを言う人を周りに置いておくということは、気持ちの良いことではないわけですが、でもやっぱり必要なことであるわけで、政治家の人たちはなかなか大変だなあと思ったりします。

でも仲間がいるということはとても楽しいことだし、わくわくすることでもあります。わいわいとやっていくことができれば、とても力になります。仲間内で固まることなく、開かれた形で、いろいろな人たちと交流するというのは、なかなかむつかしいことだなあと思わされます。

今日の聖書の箇所は「ナザレでは受け入れられない」「十二人を派遣する」という表題のついた聖書の箇所です。

マルコによる福音書6章1−6節にはこうあります。【イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた】。

イエスさまは故郷のナザレのユダヤ教の会堂で、神さまのことを話されます。故郷の人々は、小さい頃からイエスさまのことをよく知っています。イエスさまのお父さんがヨセフで、イエスさまはお父さんの仕事を継いで、大工をしている。お母さんはマリアさんで、兄弟にヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンがいる。姉妹たちもナザレに住んでいる。そういうことを故郷の人々はよく知っているわけです。私たちも聖書を読んで、イエスさまのことをよく知っているわけですが、でもイエスさまの兄弟のヤコブは知っているけど、ヨセ、ユダ、シモンは知らなかったわというような感じの知識です。でも故郷の人たちは、イエスさまのことをほんとによく知っているわけです。

たしかにイエスさまが聖書について、神さまについて話される御言葉は力に満ちている。そしていろいろな奇跡を行なっている。そのこともまあわかるのだけれども、でも幼いときからイエスさまを知っている人たちにとっては、なんとなくそうしたことはしっくり来ないわけです。わたしが知っている鼻たれ坊主のイエスみたいなものが、頭のなかにあるわけです。それでイエスさまも「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。自分が敬われていないことを、イエスさまご自身が感じておられました。

マルコによる福音書6章6−13節にはこうあります。【それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした】。

イエスさまは故郷で受け入れられないという経験をされたあと、弟子たちを世に遣わされます。そのときの注意事項について書かれてあります。イエスさまは弟子たちを二人ずつ組にして遣わします。二人であればまあなにか困ったときに助け合うこともできます。旅の途中は危険も多いですし、誘惑も多いわけです。そしてイエスさまは食料もお金ももたさないで、弟子たちを遣わします。神さまに頼り、受け入れてくれる人たちを頼りにして歩みなさいということです。「袋も持たない」というのは、旅先でいただいたお土産や食料をもつというようなこともしてはいけませんということでしょう。「下着は二枚着てはならない」というように、贅沢をしてはだめだと言われます。でもケガをしないように、履物は履きなさい。あんまり足が汚れて、誰かの家にいくというのも失礼になるので気をつけなさいと、弟子たちは言われています。

どこかの家に迎えられたら、その家に留まりなさい。もっとご馳走をだしてくれそうな家があったとしても、あとからそこに変わるというようなことはやめなさい。「きてください。きてください」と熱心に誘われたとしても、そういう不義理なことはしてはだめですと、弟子たちはイエスさまから言われています。そしてもし弟子たちを迎え入れる人たちがいないことがあるかも知れない。弟子たちが語る福音に耳を傾ける人たちがいないかも知れない。そうしたときはその町を出て行く時に、足の裏の埃(ほこり)を払い落として、その町を出ていきなさいと、イエスさまは弟子たちに言われました。

イエスさまも故郷で、イエスさまのことを受け入れようとしない人たちに出会いました。弟子たちもまた弟子たちのことを受け入れてくれない人たちに出会うことがあるかも知れません。それはまあ特別なことではなく、ふつうに起こることであるわけです。私たちもいろいろな伝道・宣教活動を行いますけれども、でもそうしたことが簡単に実を結ぶというわけでもありません。

でも自分が大切にしていることを一生懸命に伝えるのに、だれもそのことに関心を持ってくれないのは、なかなかさみしいことであります。ですから腹が立ってきたりするようなことも起こります。怒鳴ってみたり、人のことを悪し様に言ってみたい気持ちになってくることもあります。でもイエスさまは弟子たちに、そうしたことをするのではなく、ただ「足の裏の埃(ほこり)を払い落として、その町を出て行きなさい」と言われました。過剰に反応して、腹を立てたりするのではなく、たんたんとそのこと受け入れて、次のところに進んでいけば良い。そうするとまたあなたたちのことを受け入れてくれる人たちがいる。

イエスさまの弟子たちはイエスさまが教えてくれた注意事項を守りながら、伝道・宣教活動に励みました。人々を神さまのところに招き、神さまへの悔い改めの気持ちをもつことの大切さを伝えました。そして多くの悪霊を追い出し、多くの病気の人たちを癒やしました。

私たちはこの「ナザレでは受け入れられない」「十二人を派遣する」という聖書の箇所を読みますと、イエスさまの教えを受け入れようとしないような人たちがいて、とんでもない人たちだという思いをもちます。しかし仲間内で固まって、他の人の意見を聞こうとしないというのは、それはまた私たちの姿でもあるわけです。私たちもまたイエスさまの故郷の人たちや、イエスさまの弟子たちを受け入れなかった町の人たちのように、自分たちの世界に閉じこもって、外からの声に素直に耳を傾けることができなかったりすることがあるわけです。

今日の説教題の「きこうとしないわたし」の「わたし」というのは、わたしのことです。わたしもまた自分の考えが正しくて、相手の考えは間違っていると思い込んでしまうこともあります。また世の中のスピードについていけず、戸惑うことも多くなりました。そのためなんとなく身構えてしまうということもあります。

わたしも初老になり、若い人たちの考えていることが、さっぱりわからなくなりました。「初老」って、何歳くらいからだと思われますか。【Q:「初老」という言葉は、何歳ぐらいの人のことを指すのでしょうか。A:かつては、40歳ぐらいの人のことを指していました。ただし寿命が長くなった現代では、「初老」が当てはまるのは60歳ぐらいからと考える人が多くなっています】(NHK放送文化研究所)ということです。先週、同志社高等学校の礼拝に行って、1年生、2年生、3年生と3回礼拝説教をしてきました。若い人たちが考えていることはわからないので、若い人たちの前に立って話をするという機会を大切にしています。いろいろな反応があり、勉強になります。なるべくいろいろな場所に行って、いろいろな人々と交わり、話を聞いたりしながら、自分の考えだけに凝り固まることなく歩むことができれば良いかなあと思っています。

そして何より、こころを開いて、イエスさまの声に心を傾ける者でありたいと思います。イエスさまは私たちにどんなに神さまが私たちのことを愛してくださっているかを教えてくださいました。私たちがつらいとき、さみしいときも、神さまが私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださっていることを、私たちに教えてくださいました。

神さまの愛に守られて、私たちもまた愛に満ちた歩みでありたいと思います。人のことを悪く言ったり、自分の考えだけが正しいというような思い込みにとらわれるのではなく、どうすれば神さまの愛に応えることができるのかを考えながら、謙虚に歩んでいきたいと思います。




(2026年6月21日平安教会朝礼拝式) 

6月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「自分の家に帰りなさい」

 「自分の家に帰りなさい」

聖書箇所 マルコ5章1-20節。69/509

日時場所 2026年6月14日平安教会朝礼拝・きてみて合同れいはい


わたしが保育園の園長をしていたときに、よく読まれた本に、佐々木正美さんという方の『子どもへのまなざし』(福音館書店、1785円)という本があります。絵本やこども向けの本をたくさん出している福音館書店から出ています。保育園で、佐々木正美さんの講演会をしましたが、近くの公立の保育園の先生方も聞きに来られたりと、なかなか人気の先生でした。

その佐々木正美さんの『子どもへのまなざし』には、こんなことが書かれてありました。【ある保育園で勉強の会がありましたとき、夕方、出入り口のみえる職員質で、お母さんやお父さんのおむかえの様子をみていました。ときどき、「おんぶして」とかいっている子どもがいるのですね。・・・。いつもは、ちゃんとさっさと歩いて帰る子どもが、「おんぶして」というような日は、たいていは、ちょっと悲しいこととか、つらいことがあった日のことが多いのです。・・・。家までずっとおんぶしていけと、いっているのではないのです。おんぶをちょっとしてあげれば気がすむことなのです。気持ちをいやしたいだけなのです。これは大人にもある感情でして、会社で仕事がうまくいかないことがあった、上司に怒られた、とてもいやなことがあった、取り引きで失敗したなどということがあったときに、家に帰って奥さんにいやされるご主人は、さっさと帰っていきます。帰ってもそれが期待できない場合は、寄り道してバーのママさんなんかに、なぐさめられていくのです。】(P302)。

わたしは大阪教区の仕事で、自宅がある高槻市から、大阪教区事務所がある大阪市の玉造によく通っていました。若い頃はよく買い物をして変えるとか、そういうことをしていたのですが、だんだんと年をとってくると疲れてきて、一刻も早く家に帰りたいと思い、いちもくさんに家に帰っていました。家に帰ると、ホッとするというのは、それはとても幸せなことです。

今日の聖書の箇所は「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。「自分の家に帰りなさい」という説教題は、マルコによる福音書5章19節にあります。イエスさまが悪霊に取りつかれていた人に言われた言葉です。

イエスさまはゲラサの地で、汚れた霊に取りつかれた人に出会われます。この人は墓場を住まいとしていました。夏の暑いときなどは、「墓場は涼しくていいかなあ」などと思ったりもしますが、ふつう人は好きこのんで、墓場に住もうとは思いません。鎖を用いてつなぎとめておくことはできなかったというわけですから、無理矢理、墓場に住まわせられているわけです。家族や身内、町の人たちから捨てられたのです。だれもこの人に関わりたくないと思っていました。そしてこの人自身ももはや家族や身内の人々のところに帰ろうとは思っていませんでした。しかしこの人は大きな悲しみを抱いていました。そして叫ばずにはいられませんでした。また自分で自分を傷つけずにはいられませんでした。そうした悲しみを抱えた人が、イエスさまのところにやってきました。

この人に取りついている汚れた霊は、イエスさまのことをよく知っています。「いと高き神の子イエス」と言っています。汚れた霊のほうが、ファリサイ派の人々や律法学者たちよりも、イエスさまのことをよく知っているというのも、なかなか皮肉なことです。もしかしたら私たちよりも、汚れた霊のほうが、イエスさまのことをよく知っているかも知れません。まあとにかく悪霊はイエスさまがやってきたのであわてるわけです。そして悪霊はもうそのときにすでに、自分たちがイエスさまにかなわないということを知っているのです。ですからイエスさまに命令するのではなくて、懇願するわけです。「後生だから、苦しめないでほしい」と、お願いするわけです。

この男に取りついている悪霊は、「レギオン」だと言います。レギオンというのは、古代ローマの軍隊の単位です。4200人から6000人の兵士からなります。ですから悪霊は「大勢だから」と言っているわけです。「名を、名を名乗れ」と言われて「赤銅鈴之助だ!」と答えられたり、「君の名は」と言われて「後宮春樹」(あとみや・はるき)とか「氏家真知子」(うじいえ・まちこ)と答えられたらいいのですが、まあ名の知れた大した悪霊であるわけではないのです。ただ数が多いのです。

豚は私たちにとっては、おいしいごちそうですが、ユダヤ人にとっては汚れた動物です。汚れた動物に、汚れた霊が入るのであればまあいいかということで、汚れた霊は人から出て行って、豚の中に入りました。すると二千匹ほどの豚の群れが、崖をくだって湖になだれこむという壮絶なことが起こります。そして二千匹ほどの豚は、湖の中でおぼれ死んでしまいました。

どうやら豚は飼われていた豚のようです。豚飼いたちは、この出来事をみて、恐ろしくなります。そして町や村の人にこの出来事を知らせました。人々はいったいどんなことが起こったのだろうとやってきました。するとイエスさまのところに、自分たちが墓場に追い出した悪霊にとりつかれた人が、正気になって座っているのに、気づきました。目撃者によると、どうやら悪霊にとりつかれていた人から出た悪霊が、豚に入って、豚が崖から湖になだれこんで、豚がおぼれ死んだという壮絶な出来事が起こったということがわかります。原因はどうやら、このイエスという男にあるようだ。ちょっと恐ろしいけど、やっぱりこのイエスっていう男に、この地方から出ていってもらったほうがいいみたいだ。「ちょっとおまえ、イエスに出ていてくれって言いにいってこいよ」「えっ、おれが・・・」「そんなこと言いに行って、豚に入ってどっかいった悪霊を呼び戻されて、こんど、『おまえに入れ!』とか言われたら、どうするんだよ」。というような話になったのでしょう。

結局、イエスさまはこの地方から出ていくことになりました。村や町の人たちは、ほっとしたことだと思います。「やれやれ、もうイエスたちがここに居座ると言われたら、どうしようかと思ったよ」と言っていたことでしょう。悪霊に取りつかれていた人は、イエスさまと一緒に行きたいと、イエスさまに言いました。それに対して、イエスさまは「自分の家に帰りなさい」と言われました。この悪霊に取りつかれていた人にとっては、イエスさまについていくということのほうが、とてもうれしいことだったと思います。いままで家族からも、身内からも、そして町や村の人々からも捨てられていたわけです。もちろん、この人自身もいろいろなことでそうした人々に迷惑をかけたりすることもあっただろうと思います。おまけに豚が二千匹あまり死ぬというような事件も起こっています。ここはきれいさっぱりこの地方から去って、自分を救ってくださったイエスさまにお仕えするというほうが、この人にとってはとてもうれしいことだっただろうと思います。

しかしイエスさまはこの人に、「自分の家に帰りなさい」と言われました。そして「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われました。この人にとっては、それはとても大変なことだったと思います。しかしイエスさまによって救われたこの人は、イエスさまが自分にしてくださったことを、一生懸命に宣べ伝えました。

イエスさまが悪霊にとりつかれた人に「自分の家に帰りなさい」と言われたのは、なかなかきびしい言葉であると思います。しかしたぶん、この人にはこの人を迎えてくれる人たちがいたのだと思います。「いままで辛い思いをさせてすまなかったねえ」と言って、この人を迎えてくれる家族がいたのだと思います。もちろん、「すまなかったねえ」ということではすまないようなことであったわけですが、それでもこの人が家に帰ってきたことを喜んでくれる人がいたのだと思います。

イエスさまは「自分の家に帰りなさい」と言われました。そして「そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われました。私たちは幸せなことに、イエスさまによって救われたことを知ることができました。私たちはここに帰れば安心だ。ここに帰ればホッとするという家をもっています。つらいとき、かなしいとき、私たちは帰るべきところをもっています。私たちを慰め、いやしてくださる方を、私たちは知っています。

イエスさまは私たちの慰め主として、いつも私たちを招いてくださっています。このことをしっかりとこころにとめて、よき小さなわざに励んでいきましょう。


(2026年6月14日平安教会朝礼拝・きてみて合同れいはい)


6月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「この人をみよ」

 「この人をみよ」

聖書箇所 マルコ1章29-39節。155/280。

日時場所 2026年6月7日平安教会朝礼拝


『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』というのは、映画『アニー・ホール』でウディ・アレンが扮するアルビー・シンガーのせりふです。ウディ・アレンはこの『アニー・ホール』という映画で、1977年にアカデミー最優秀作品賞や監督賞をとりました。

『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』。なんとも屈折した感情です。自分は自分のことが嫌いであるわけです。ですからこんな自分を会員として認めるようなクラブはろくでもないクラブだから、そんなろくでもないクラブには入りたくない。本当は寂しいから、どこかのクラブに入りたいわけです。でも「自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない」から、どこのクラブにも入ることができない。

『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』。わたしはこの言葉、ある部分はキリスト教の教会に似ていて、ある部分はキリスト教の教会に似ていないなあと思いました。似ている部分というのは、自分が問題になっている点です。評価というのが自分に向けられている点です。キリスト教で大切なのは、自分の罪ということです。問題になるのは自分の罪ということです。人のことはどうでもいいわけです。問題は自分です。もちろんキリスト教でも人のことばかりをとやかくいうことがあります。けれども、基本的には自分の罪が問題であるのです。だいたい聖書の福音書のなかの登場人物でも、人のことについてとやかくいう人というのは、律法学者たちやファリサイ派の人たちとして登場します。でもやはり罪の問題というのは「あの人が罪人だ」ということが問題なのではなくて、基本的に自分の罪が問題であるのです。私たちは「自分は自分のことが嫌いだ」という思いをもっています。「自分は神さまに対して恥ずかしい」という思いを持っています。「こんなわたしがいや」という思いを私たちはもっています。

『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』。でもちがうところは、私たちはやっぱりそれでも「このクラブの会員になりたい」という思いをもっている点です。神さまは「あなたのような人でも、わたしはあなたを愛している」と、私たちを受け入れてくださっています。教会というところは、わたしのようなものが会員として受け入れられているわけですから、ろくでもないところであるわけです。ふつうであれば、『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』と言いたいところですが、しかし私たちはやはり『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』というところに留まることができません。私たちは神さまなしではどうしても生きていくことができないのです。私たちは自分を会員にするようなクラブであったとしても、やはりどうしてもこのクラブの会員になりたいと思うのです。

キリスト教は「自分というものに過度な期待をしない」ということが前提となっている宗教です。もちろん罪深い私たちがイエスさまの十字架の贖いによって罪許されて、キリスト者として生きていくわけですから、そこに希望がまったくないわけではありません。しかしそれでもやはり人間のすることですから限界があったり、弱さがあったりします。自分を見ていると、あまり希望がもてないわけです。ですから私たちは自分に希望をおくのではなく、神さまに希望をおいて歩んでいます。また自分だけでなく、やはり人にも過度な期待をしないのです。それはやはり自分と同じ、人間のすることですから、限界があり、弱さがあるからです。私たちは人を見るのではなく、神さまを、そして神の独り子イエス・キリストを見つめて歩むのです。

今日の聖書の箇所は「多くの病人をいやす」「巡回して宣教する」という表題のついた聖書の箇所です。マルコによる福音書1章29-31節にはこうあります。【すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした】。

イエスさまはカファルナウムのユダヤの会堂で、汚れた霊に取りつかれた男をいやされました。イエスさまの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。会堂を出たあと、イエスさまたちはペトロとアンデレの上に行きました。ペトロたちはまあちょっとイエスさまにゆっくりとしてもらいたかったのかも知れません。しかしペトロのしゅうとめは家で熱を出して寝込んでいました。ついでにペトロのしゅうとめもいやしてもらいたかったのかも知れません。イエスさまはペトロのしゅうとめをいやされました。

マルコによる福音書1章32-34節にはこうあります。【夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである】。

夕方になって日が沈むと、まあ夕食を食べてゆっくりしたいというのが人情であるわけですが、イエスさまの場合はそんな生活ではなかったようです。人々が病人や悪霊に取りつかれている人々を、どんどんどんどんイエスさまのところに連れてきます。だいたい夜に訪ねてくるというのは、いろんな事情があるからです。イエスさまにしても「昼間にしてくれ」とは言えません。イエスさまは連れて来られた病気の人々をいやされ、悪霊を追い出されました。イエスさまは一生懸命に、カファルナウムの人々をいやされました。

マルコによる福音書1章35-39節にはこうあります。【朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された】。

大勢の人々がペトロとアンデレの家にやってきて、イエスさまは多くの人々を夜にいやされました。大勢の人々に会い、そしていやされるというのは、なんとも落ち着かず、精神的にも疲れることだと思います。まあ一応眠ることはできたわけですが、イエスさまは朝早く起きて、心を静めるために、神さまにお祈りをささげに、人里離れた所にいかれました。やっぱり一人になるということは、大切なことなのです。しかし人々はなかなかイエスさまを一人にはしてくれません。「イエスさまがおられない」ということで、ペトロたちはイエスさまを探しにやってきました。「どこに行かれたんだろう。イエスさま、どこに行かれたんだろう」。ペトロたちも一生懸命にイエスさまを探したのでしょう。そして見つけて、ほっとして「みんなが探しています」とペトロたちはイエスさまに言いました。

そしてイエスさまは応えられます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。ちょっといたいたしい感じがします。「イエスさま、もうくたくただろうなあ」と、わたしは思います。それでもイエスさまのところにはたくさんの人々がやってきました。病気をいやしてもらうために、悪霊を追い出してもらうために、せっぱ詰まった状況の中で、困難な状況を抱え込んでいる中で、「イエスさまに頼るしかない」と思った人々が、イエスさまのところにやってきました。イエスさまはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました。

今日の聖書の箇所を読むと、イエスさまのことを慕う人々がどんどんどんどんイエスさまのところに集まってくる様子がよくわかります。イエスさまは、はじめはたまたま出会った汚れた霊に取りつかれた男をいやされます。そして次にイエスさまはペトロのおつれあいのお母さんをいやされる。身内の人をいやされたわけです。そしてこんどはカファルナウムの人々をいやされます。マルコによる福音書1章33節には【町中の人が、戸口に集まった】とあります。そしてつぎに、マルコによる福音書1章39節にありますように【ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出され】ました。

先ほど歌いました讃美歌は、讃美歌21−280でした。「馬槽のなかに」という讃美歌です。とても有名な讃美歌です。詞:由木康(ゆうき・こう)、曲:安部正義(あべ・せいぎ)ですから、日本の讃美歌です。この曲の作詞をした、由木康は讃美歌学者です。イエスさまのご生涯をとてもうまく表している讃美歌となっています。

【1.馬槽のなかに うぶごえあげ、木工の家に ひととなりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし この人を見よ。2.食するひまも うちわすれて、しいたげられし ひとをたずね、友なきものの 友となりて、こころくだきし この人を見よ。3.すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ。4.この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。】

イエスさまは王宮ではなく、馬小屋の馬槽のなかにお生まれになられました。神の御子でありながら、私たちの世に来てくださり、そして私たちと同じように悲しみや嘆きや苦しみを経験してくださいました。そして【「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」】と今日の聖書の箇所にありましたように、虐げられた人々を訪ねられ、そして友なき者の友となってくださいました。そしてイエスさまは十字架へと歩まれました。十字架につけられても人をののしったりされず、【「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」】と、神さまにとりなしの祈りをささげられました。私たちのように罪深い者のところにも、イエスさまは訪ねてくださり、そして「あなたは神さまから愛されている大切な人なのだ」と言ってくださいました。

この「馬槽のなかに」という讃美歌で繰り返し出てくる言葉は、「この人を見よ」という言葉です。この「この人を見よ」という言葉は、キリスト教において特別な言葉で、絵画などでもよく題名になっています。「エッケ・ホモ」という言葉です。ラテン語だそうです。「エッケ」というのは間投詞で、「ホモ」というのは「人間」という意味です。

「この人を見よ」というような言葉を、聖書の中で言いそうな人というのはだれだと思いますか。わたしはこの「この人を見よ」という言葉を聞いたとき、洗礼者ヨハネがイエスさまのことを「この人を見よ」と言ったのかなあと思ったりしました。しかしこの「エッケ・ホモ」「この人を見よ」という言葉は、総督ピラトが言った言葉です。

ヨハネによる福音書19章1-7節にはこうあります。新約聖書の206頁です。【そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」】。そんな「この人を見よ」なんて、どこにあったのかと思いますが、ヨハネによる福音書19章5節の言葉です。【ピラトは、「見よ、この男だ」と言った】。この「見よ、この男だ」というのが、「エッケ・ホモ」「この人を見よ」です。

総督ピラトから「見よ、この男だ」「エッケ・ホモ」「この人を見よ」といわれたときのイエスさまは、私たちにとって見るのがつらいイエスさまです。弟子たちから裏切られ、大祭司から尋問され、総督ピラトから尋問され、疲れ果てておられるイエスさまです。鞭で打たれ、茨の冠を頭に載せられ、紫の服をまとわされ、「ユダヤ人の王、万歳」と兵士たちから平手でうたれ、そして十字架につけられるイエスさまです。私たちの罪のために十字架につけられるイエスさまです。

私たちは総督ピラトから、イエスさまのことを「この人を見よ」と言われているわけですから、なんとも不思議なことだと思います。洗礼者ヨハネから「この人を見よ」と言われたら、「そうですね。ほんと、そうです。すみません」というような思いになります。しかし私たちは総督ピラトから「この人を見よ」と言われています。「ピラト、あなたに言われたくはないよ」と思えるわけです。

しかし大切なのは「この人を見る」ことなのです。総督ピラトが悪いとか、総督ピラトよりもわたしのほうがましだろうというようなことは、あまり関係のないことなのです。私たちは人を見るのではなく、イエスさまを見ることが大切なのです。

【1.馬槽のなかに うぶごえあげ、木工の家に ひととなりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし この人を見よ。2.食するひまも うちわすれて、しいたげられし ひとをたずね、友なきものの 友となりて、こころくだきし この人を見よ。3.すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ。4.この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。】。

私たちの救い主イエス・キリストをしっかりとみて、希望を持って歩んでいきましょう。



(2026年6月7日平安教会朝礼拝)


2026年5月30日土曜日

5月31日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「天からの祝福を受けて」

 「天からの祝福を受けて」

聖書箇所 マルコ1:9-11。419/390

日時場所 2026年5月31日平安教会朝礼拝式・建物改修完成感謝礼拝

      

改装をされた礼拝堂で、こうして敬愛する方々と一緒に、神さまを賛美することができますことを、こころから感謝いたします。今日は教会建物改修のために、献金をしてくださった方々へもご案内をして、共に礼拝を守っています。ありがとうございます。

「教会建物についての議論の経緯の略年表」をお配りいたしました。教会建物改修については、ほぼ15年間くらい話し合いがなされてきました。いろいろな話し合いを経て、こうして一区切りをつけることができますことは、教会に連なるお一人お一人の祈りがあってこそだと思います。そして何より私たちの思いを超えて働かれる神さまの導きがあってこそだと思います。まだ少し、手を入れなければならないところもありますが、これからも力を合わせて歩んでいきたいと思います。

毎週、私たちは礼拝に集い、礼拝を守っています。ですからまあクリスチャンとしての生活をしているわけですが、いつもいつも自分がクリスチャンであるという意識をもって歩んでいるわけではありません。しかしときになにか重要なことが起こり、自分がクリスチャンであるということが、その決断にとって欠かせないものとなるときがあります。

先日、『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』という映画をみていました。どういう映画かと言いますと、ハリウッドで大きな影響力をもっていた映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインという人が、何十年にもわたって性暴力事件を起こしていました。そのことをニューヨーク・タイムズ紙の二人の女性記者が追いかけ、記事にしていくという話です。#MeToo運動が世界へ広がるきっかけの一つとなった出来事だと言われています。被害者はたくさんいるわけですが、でも和解の際に「秘密保持契約」などが結ばれていたりして、なかなか被害を公にすることができません。また匿名ということで、記者に話をしてくれる人たちはいるわけですが、なかなか実名で記事にしてよいという人は出てきません。当り前のことであるわけですが、なかなか実名で告発するのには勇気がいるわけです。

そのなかで、アシュレイ・ジャッドという女優が、実名で記事にしてもよいと言います。そのとき、「女として、キリスト教徒として」、告発しないわけにはいかないと言うのです。「女として、キリスト教徒として」。『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』という映画の中に、実際にその本人として出演をしています。「女として」、これから先、このような事件が起こってほしくない。自分のような被害に合う女性がでないようにしたいというのは、この映画のテーマですから、それはそうだと思うわけです。でも同時に「キリスト教徒として」という言葉が添えられていました。アシュレイ・ジャッドは、キリスト教徒として、神さまの前に立つ者として、このような不正を許しておくことはできないというわけです。多くの人は実名で告発することはできないと思う。だからわたしが実名で告発するということを担うのは、キリスト教徒としてのわたしの務めだというわけです。アシュレイ・ジャッドのなかには、「わたしはキリスト教徒なのだ」ということが、自分が存在する第一のこととしてあるのです。「あなたは何者ですか」と問われるときに、「わたしはキリスト教徒だ」と答えるということです。

クレア・キーガンの「ほんのささやかなこと」という小説もまた、自分がクリスチャンであることについて考えさせられる小説でした。こちらはアイルランドの「マグダレン洗濯所事件」についての小説です。

【マグダレン洗濯所。別名、マグダレン収容施設、マグダレン修道院。実際には婚外交渉により身ごもった女性ばかりでなく、堕落する可能性があると恣意的に判断された女性、身寄りのない少女も収容され、食事のみのほとんど無報酬で、軍隊や施設等から集められた洗濯物の洗濯作業を強いられていた。】〔マグダレンの祈り、Wikipedia)。

マグダレン洗濯所事件とは、アイルランドでカトリック教会と国家によって行なわれた人権侵害事件です。1922年から1996年まで、未婚の母や身寄りのない女性たちを強制収容して、無報酬で過酷な洗濯労働を強いていました。その実態はなかなか明らかになりませんでした。

【1985年、アイルランドの小さな町。クリスマスが迫り、寒さが厳しくなるなか、石炭と木材の商人であるビル・ファーロングは最も忙しい時期を迎えていた。ある日、石炭の配達のために女子修道院を訪れたファーロングは、「ここから出してほしい」と願う娘たちに出くわす。修道院には、未婚で妊娠した娘たちが送り込まれているという噂が立っていたが〜隠された町の秘密に触れ、決断を迫られたファーロングは、己の過去と向き合い始める】(本の見開き)。

1985年のクリスマスです。教会が経営している母子収容所で、長年、ひどい女性虐待が行なわれています。主人公のファーロングという男性はたまたまそのことに気がつき、そしてそこから逃げようとする女性を助けるという話です。教会に対して楯突くと、世間から村八分にされてしまいます。しかしファーロングは決心します。ファーロングはこう自問自答しています。

【町を歩けば知った人にも知らない人にも行き会ったが、ファーロングはいつのまにかこう自問していた。たがいに助けあわずに生きてどうする?そこにある現実に勇気を奮って立ち向かうこともせず、長いこと、何十年も、下手したら一生すごしたうえで、それでもキリスト教徒を名乗り、鏡の中の自分とむきあうことなんておれにできる?】。(P.135)。

【そこにある現実に勇気を奮って立ち向かうこともせず、長いこと、何十年も、下手したら一生すごしたうえで、それでもキリスト教徒を名乗り、鏡の中の自分とむきあうことなんておれにできる?】。

日常生活のなかで、自分がクリスチャンであることが問われる出来事というのは、そんなにないわけですが、でもクリスチャンである私たちはときにそうしたことを考えざるを得ないときがあるわけです。そして「わたしは何者なのか」という問いの前に立つことがあるのです。

今日の聖書の箇所は「イエス、洗礼を受ける」という表題のついた聖書の箇所です。マルコによる福音書1章9節にはこうあります。【そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた】。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを求めました。そしてその徴として、ヨルダン川で洗礼を授けていました。イエスさまもヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けます。

マルコによる福音書1章10節にはこうあります。【水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった】。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時に、不思議な出来事が起こります。天から霊が鳩のように、イエスさまに降ってきます。先週は聖霊降臨日、ペンテコステでした。ペンテコステはイエスさまの弟子たちに聖霊が降るという話でした。ここではイエスさまご自身が、洗礼を受けられた時に、鳩のような形をした聖霊がイエスさまに降ったことが告げられています。

マルコによる福音書1章11節にはこうあります。【すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた】。聖霊が天から降ったときに、天から声も聞えてきます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

洗礼者ヨハネは人々に悔い改めの洗礼を授けていました。洗礼を受けるということは、神さまからの祝福を受けるという、とても幸いなことであります。それは私たちが洗礼を受けるのも、イエスさまが洗礼を受けるのも、同じように幸いなことであるわけです。洗礼を受け、私たちは神さまから託されたことを、この世で証して生きていきます。そういうことでは、私たちもまた洗礼を受けるときに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という祝福を、神さまから受けているということが言えるかも知れません。

ただ私たちとイエスさまが神さまの祝福を受けられるということには、少し違いがあります。それはイエスさまが歩まれる道が、十字架への道であるからです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というのは、イエスさまの十字架への道を表わしています。イエスさまは神さまの御心に適う者として、神さまの独り子であるわけですが、私たちの世に来てくださる。そして私たちの罪のために、十字架についてくださいます。イエスさまが私たちの代わりに十字架についてくださることによって、私たちは神さまによって赦され、永遠の命を受ける者として招かれることになります。イエスさまはそのために、私たちの世に来てくださいました。

私たちはイエスさまのように、人の罪を贖うために十字架につくことはありません。ただ私たちには私たちにとっての神さまから託された歩みというのがあるわけです。そういう意味では、イエスさまに語られた、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、私たちへ語られた言葉でもあるわけです。

私たちもまた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」として生きています。神さまからの祝福を受けて生きています。神さまからの祝福を受けて生きているということは、とても幸いなことです。私たちは自分のことを見ていると、下を向いてしまわざるを得ないことがあります。「どうもわたしの心の中にあるこの気持ちは、神さまの前には恥ずかしいものだ」「どうしてわたしは自分のことを棚に上げて、人につらく当たってしまったりするのだろうか」「もっと人に優しくしたいと思うのに、ちいさなことでいつも腹を立ててしまって、自分のことながらなさけない」。自分に目を向けると、反省することが多いわけです。でもそんな私たちであるわけですが、でも神さまは私たちを愛してくださっているのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を、私たちにかけてくださっています。

私たちはクリスチャンとして、自分を見たり、人を見たりするのではなく、神さまを見て歩みたいと思います。神さまがわたしを見ていてくださり、神さまがわたしを守ってくださっている。神さまがわたしを愛してくださり、わたしにふさわしい歩みを用意してくださっている。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という励ましの言葉を胸に、神さまの霊である聖霊の力を信じて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


   




(2026年5月31日平安教会朝礼拝式・建物改修完成感謝礼拝) 



5月24日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「聖霊に導かれ」

 「聖霊に導かれ」

聖書箇所 マルコ4:26-34。343/346

日時場所 2026年5月24日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ礼拝

 

ペンテコステおめでとうございます。

ペンテコステはイエスさまの弟子たちの上に、聖霊がくだり、弟子たちが神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝え始め、教会ができていくということで、教会の誕生日というふうに言われます。

ペンテコステの出来事の聖書の個所は、使途言行録2章1節以下に書かれてあります。「聖霊が降る」という表題のついた聖書の箇所です。新約聖書の214頁です。使徒言行録2章1−4節にはこうあります。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした】。

イエスさまの弟子たちに聖霊がくださり、聖霊に導かれて、弟子たちは自分たちの国の言葉ではなく、ほかの国々の言葉で話し出します。世界にはいろいろな国の言葉があります。神さまのこと、イエスさまのことを伝えていくときに、自分の国の言葉で伝えていくと、それを通訳してくれる人がいなければならないわけです。まあそれよりも、相手の言葉で話すことができれば、そのほうが良いわけです。

しかし言葉が通じるからと言って、相手の言っていることに対して、「そうだなあ」と思えるというわけでもありません。相手を尊重する心とか、態度とか、そういうものがあるからこそ、互いに歩み寄ったり、信じ合ったりできるわけです。嘘をついても平気な人と話をするのは、なかなか大変です。この人は嘘をつくから、話を聞いていても、無駄だというふうに思えます。あるいは昨日言っていることと、今日言っていることが違っている人の話を聞くのも、苦痛です。今日、きいていることも、明日には違うことになっているかも知れないからです。嘘をつく人が多くなり、倫理観を失った社会は、衰退していきます。うそや基準がいいかげんな社会では、商いをするのがむつかしいですから、衰退していくわけです。ちゃんとした秤がないと、商売はできないわけです。

ペンテコステの出来事の「一同が聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話し出した」というのは、たんに外国語を話したということではなく、相手の立場に立って、相手の気持ちになって、互いに尊敬しあう歩みを行なうということです。そうしたことを初期のクリスチャンたちは行なうことによって、キリスト教は世界に広まっていきました。しかしそれは人の働きということではなく、聖霊の働きであったのだと、使徒言行録は私たちに伝えています。神さまの働きがあることによって、いろいろなことが実現していくのです。

今日の聖書の箇所は「成長する種のたとえ」「からし種のたとえ」「たとえを用いて語る」という表題のついた聖書の箇所です。

マルコによる福音書4章33ー34節にはこうあります。【イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された】。

イエスさまは弟子たちや人々に、たとえを用いて話されます。たとえは適切なたとえであればよくわかり、「そうだなあ」とみんなが思えるので、たとえを用いて話されました。しかしたとえはわかりやすく説明するために、身近なものでたとえたりすることが多いですし、そのときに使われていたものでたとえが話されたりします。そうしますと、場所が変わったり、時代が変わったりすると、たとえの意味がよくわからなくなるというようなことも出てきます。私たちがイエスさまのたとえをきいて、なんかよくわからないというようなことがあるのは、そうした事情があるからです。

マルコによる福音書4章26−29節にはこうあります。【また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」】。

イエスさまは神の国は、成長する種のようなものであると言われました。作物の種を植えるとだんだんと大きになっていきます。茎が成長し、穂が実り、豊かな実となっていく。まあ作物を育てているわけですから、手入れもされるけれども、でも本質的には種を成長していくのは、神さまがなさることだと、イエスさまは言われます。すべてのことがわかっているわけではないけれども、種は成長していくというのです。人の業を超えた、神さまの祝福があるのだと言うのです。暑さ、寒さ、雨がどのように降るのかを、人間が管理することはできないのです。

マルコによる福音書4章30−32節にはこうあります。【更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」】。

イエスさまはからし種の話をされました。からし種はちいさな種だけれども、それが成長すると、鳥が葉の陰に巣をつくるほど大きな枝を晴ることができる。そのように、小さな良き働きが神さまに祝福されて、神さまの義と愛に満ちた神さまの国になっていく。すべては神さまの働きなのだと、イエスさまは言われました。

神さまの祝福が、聖霊の力が働いているのが、私たちの世界なのだと、イエスさまは言われます。だからいろいろな作物も育つし、私たちの命も保たれているのだと、イエスさまは言われるのです。

私たちはいろいろと努力をしたり、配慮をしたり、こころに留めたりしながら、一生懸命に生きています。農作物を育てている人たちは、いろいろな労力をかけて、農作物を育てているわけです。「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる」と聖書にはありますが、そう簡単なことではないのです。いろいろな労苦があります。

私たちの世の中は、人間の世の中ですから、そんなに平和な世の中でもありません。いろいろな競争があったり、人を傷つけることがあったり、人から傷つけられるようなことがあったりもします。一生懸命に努力をしても、うまくいかないこともあります。とくに現代は、競争社会となり、個人主義的な価値観が広がり、「まあ、どうなってるんだろうねえ」と思えるような気持ちになり、神さまの霊である聖霊が、私たちの世の中に働いているとも思えないというような気持ちになるときもあります。

みなさんは、最近、私たちの世の中には聖霊が働いているというふうに感じたことはありましたでしょうか。卑近な例で申し訳ないのですが、わたしは最近、「プラダを着た悪魔2」という映画を見ながら、私たちの社会には聖霊が働いているというふうに思いました。

先日、京都教区定期総会も5月15日、16日に終わり、ほっとひといきということで、妻と一緒に「プラダを着た悪魔2」という映画を見に行きました。「プラダを着た悪魔2」ということですから、「プラダを着た悪魔」という映画の続編であるわけです。「プラダを着た悪魔」は20年ほど前に上映された映画です。

五月の連休に下の娘にあったときに、「プラダを着た悪魔2」、見に行く?」と聞くと、「行くよ。見てて元気になる映画だから」と言いました。「プラダを着た悪魔」は、ファッション業界について描かれている映画で、いわゆるお仕事映画であるわけです。映画の中で働いている女性の主人公たちの歩みをみて、励まされ、元気になる映画だということです。

わたしはそんな感じで「プラダを着た悪魔」を見ていませんでした。女性の主人公の一人であるを演じているメリル・ストリープは、わたしが映画を見始めたころに出始めた女優さんですので、すこしわたしより年上ですが、一緒に人生を歩んできたような思いのする女優さんです。主人公の一人であるアン・ハサウェイやエミリー・ブラントという女優さんたちも、注目してきた女優さんなので、まあそうした女優さんが出るので、見に行こうというような感じで、この映画を見ていました。

わたしは男性ですので、女性が主人公のお仕事映画をみて、娘たちのように、元気が出るというような気はしませんでしたが、「プラダを着た悪魔2」を見ていて、社会が愛によって支えられていること感じさせられる良い映画だと思えました。もちろん現代アメリカの社会が描かれているお仕事映画であるわけですから、仕事の上での駆け引きがあったり、キャリアアップを目指していく歩みがあるわけです。それでもそうしたなかにあっても、人を思いやる気持ちや、信頼しあうこころ、競いながらも和解をして友だちとして受け入れあっていく歩みがあります。やっぱり、人の世界の根幹にあるものは、「愛」であるということを感じることができ、なんかとてもさわやかに気持ちがいたしました。とくにニュースで見る現代のアメリカの状況などをみるとき、昔の古き良きアメリカなどはもうないのではないかと思われ、「愛」などと言っていては笑われてしまうのではないかと、わたしは思っていました。しかし現代アメリカ映画である「プラダを着た悪魔2」をみて、「ああ、私たちの世界にはやっぱり神さまの愛が働いておられ、神さまの霊である聖霊が働いているのだ」と思えたというのは、とてもうれしい気持ちがいたしました。

「小笠原さんも意外にお人よしですね」と思われるかも知れません。しかし人の善意や優しさ、愛を気軽に信じることのできる、ぼんやりとした社会であってほしいと、わたしは思うのです。なにかにつけて「何か裏があるのではないか」とか、「なにか企んでいるのではないか」というようなことを感じることのない、人の善意や優しさが感じられる、ぼんやりとした良い社会であってほしいと思うのです。とくに若い人たちが安心して人に頼ることのできるやさしい社会であったほしいと願うのです。

私たちの世界は、神さまの愛が働いている、聖霊の働きに導かれた社会です。そしてイエスさまの弟子たちに降った聖霊は、私たちにも同じように降ります。私たちは神さまの霊である聖霊による祝福を得て生きています。神さまの愛を信じて、今日、私たちにくださった聖霊の導きによって、健やかな歩みをしていきたいと思います。



   

(2026年5月24日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ礼拝) 


5月17日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまの祈り」

 「イエスさまの祈り」

聖書箇所 ヨハネ17:1-13。120/433

日時場所 2026年5月17日平安教会朝礼拝


キリスト教の偉大な偉人の中に、アウグスティヌスという人がいます。聖アウグスティヌスと言われますから、いわゆるカトリックの聖人にまでなっている、りっぱな人です。「西方キリスト教会最大の教父」と言われます。「キョウフ」というのは、「恐ろしい」というのではなく、「教える父」と書いて、教父と言います。紀元4世紀から5世紀の人です。

《【アウグスティヌス/Aurelius Augustinus/354-430。西方キリスト教会最大の教父。聖人,北アフリカ,ヒッポの司教(396年)。ローマ官吏で異教徒の父,キリスト教徒の母モニカの間に,タガステで生まれる。カルタゴで修辞学を修めたが,放縦の生活を送り,マニ教を信じた。プロティノス研究ののち,ミラノ司教アンブロシウスの感化によって改宗,391年司祭となる。その著《告白》は古代自伝文学の最高傑作にして,第11巻には重要な時間論を含む。《三位一体論》《自由意志論》はともに正統教義の確立に大きく寄与したほか,長い論争の端緒ともなった。《神の国》はキリスト教史上最初の歴史哲学の試みで,政治思想上の重要作でもある。ほかに多数のマニ教,ドナトゥス派,ペラギウス派に対する反駁書がある。思想のプラトン主義的性格のゆえに,中世における影響は主としてフランシスコ会学派にとどまったが,ルター主義,ジャンセニスムなど近代以降には再興が見られる。祝日8月28日】(マイペディア97株式会社日立デジタル平凡社)》。

ボッティチェリという15世紀の画家は、「聖アウグスティヌスの幻」という絵を書いています。子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとしている姿をアウグスティヌスが見ているという絵です。子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとしている姿をみたら、わたしなら子どもと一緒に、砂遊びをしてしまうわけです。しかしアウグスティヌスは違いました。アウグスティヌスは、子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとしている姿を見て、三位一体の神秘について考えました。

キリスト教の教えの中には、父・子・聖霊の三位一体という教えがあります。「神さまとイエスさまと聖霊が、三つであるけど、一つである」というキリスト教の教えです。それを三位一体の神秘というわけです。この三位一体ということを、人間がわかることはできないということを、アウグスティヌスは悟ったのでした。「子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとする姿をみて」。人間が神さまのことを理解しようとするということは、海の水を貝殻でくみ出そうとするようなものだと思ったわけです。やっぱり子どもが砂遊びをしている姿をみて、一緒に遊んでしまう人と、思索にふける人との差があるんだなあと思わされます。もしかしたらみなさんのお孫さんも砂遊びをしながら、世界の真理について発見しているかもしれません。(ただうまく言葉にして、私たちに伝えることができないだけかもしれません。まあそうしているうちに、発見した世界の真理について忘れてしまうでしょうけど)。

キリスト教における業績から言えば、アウグスティヌスはやっぱり掛け値なしに偉い人です。でも小さい頃からずっと、すばらしい清廉潔白な人であったのかと言うと、そうではありません。アウグスティヌスは『告白』という本を書いています。いわゆる告白本のはしりのようなものですね。読んでいて、ちょっとどきどきします。こんなこと書いていいのかと思ったりします。この『告白』という本の中には、アウグスティヌスの少年時代の話や、青年時代の話が載っています。アウグスティヌスは偉大な聖人であると言われるわけですが、少年時代には友だちと一緒に物を盗んだり、勉強をなまけて遊んだりしています。また青年時代にはもっともっと悪くなり、欲望のままに女性に溺れていったり、キリスト教から離れてマニ教をいう異端を信じたりと、なかなかたいへんなワルでした。

アウグスティヌスにはモニカというお母さんがいました。モニカはアウグスティヌスのことが心配でたまりません。アウグスティヌスは、ちいさな子どものときも、そこそこ悪かったわけですが、カルタゴという街に留学してからは、ますます放蕩三昧の生活を送っていました。勉強もしないで、女性を遊んでいる。変な宗教に夢中になってしまって、キリスト教から離れてしまっている。母はアウグスティヌスのことが心配でなりませんでした。

モニカはあんまり心配だったので、カルタゴにまで訊ねていきます。しかしアウグスティヌスはローマに行ってしまったあとでした。ローマは大都市です。そしてひどく堕落した都でした。ですから母モニカの悲しみはいよいよ深くなります。「カルタゴでも放蕩三昧していたのだから、あの堕落した都ローマなどでアウグスティヌスが暮らすようになったら、もうどうなってしまうかわからない」。そんなふうにモニカは思ったのでした。それでアウグスティヌスをおってローマに向かいます。その途中、母モニカはミラノでアンブロシウスというとてもりっぱな神父(ミラノの主教)に会いました。

そしてアンブロシウス神父は母モニカにこう言いました。【しかし、子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい。そうすれば、子供さんは、自分で本を読んで、その誤りがどのようなものであるかを、またその不信がどのように甚だしいかを、さとるだろう】。しかしモニカはなかなか納得しません。「子どもに会って、さとしてください」とアンブロシウス神父に熱心に祈りもとめ、止めどもなく、涙を流しました。アンブロシウス神父はとまどって、少し機嫌を悪くしました。そしてモニカに言いました。【「さあ、帰ってもらおう。あなたのいのちに掛けても、そのような涙の子が滅びたりなどするものか」】(『告白』、P86)。アンブロシウスが「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」と言ったとおり、結局、アウグスティヌスは回心して、母のところに帰ってくるようになりました。そして聖人と言われるような人になっていったのでした。

母の日の礼拝のとき、いつもうたっていただく歌に、讃美歌510番があります。【1.まぼろしの影を追いて、うき世にさまよい、うつろう花にさそわれゆく、汝が身のはかなさ、(春は軒の雨、秋は庭の露、母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや)。2.おさなくて罪を知らず、むねにまくらして、むずかりては手にゆられし、むかしわすれしか。3.汝が母のたのむかみの、みもとにはこずや、小鳥の巣にかえるごとく、こころやすらかに。4.汝がためにいのる母の、いつまで世にあらん。とわに悔ゆる日のこぬまに、とく神にかえれ】。この歌は、アウグスティヌスの母モニカを題材にしているかのような歌です。モニカは「春は軒の雨、秋は庭の露、なみだ乾くまなく、祈」ったのでした。アンブロシウス神父ががアウグスティヌスに言った言葉。「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。いい言葉だと思います。

『育てるものの目』(婦人之友社)という本を書いておられる、保育士の津守房江さんという方がおられます。1984年に出版された本ですから、ちょっと昔の本です。津守房江さんのおつれあいは、保育学の権威といわれる津守真さんという方です。津守房江さんは「子育ては祈りである」というようなことを言っておられます。子どもはいらずらをしたり、自分がしたいことを親に隠れてしたいと思います。つまみぐいをしたり、きれいな服を着てどろんこ遊びをしたり。

(わたしの家でも下の娘の愛は、容子から「ストローで遊んだらいけない」と何度も何度も言われながらも、やっぱり勝手にストローを出してきて、工作をして遊んでいます)。子どもは母親に目をつぶっていてほしいという気持を持っています。

【母親に目をつぶっていてほしいという気持は、子どもの中に自己の世界が育っていることがもとになっているが、また母親の方にも考えなければならない点があるのではないかと反省した。母親としての自信は、何でも子どものことを見ようとし、知ろうとし、支配する方向へと向かってしまう。独自の意志を持った子どもが「目をつぶって、」というのはそんなときなのかと思う。子育ての中で時には目をつぶることが大切だと思うが、いらいらしながらでは目をつぶったことにはならない。私は子どもに対して目をつぶるということは、祈ることであると思う。母親である自分が、子どものためにできることは少しのことである。そのことを認めて、目を閉じて祈るとき、何と安らかに、見守ることができるだろう】(津守房江)。

【私は子どもに対して目をつぶるということは、祈ることであると思う】と、津守房江さんは言われます。子どもは私たちが思うようには育ってくれません。当たり前のことですが、別の人格であるからです。「もうちょっと、わたしの言うことを聞いてくれたら」。だいたい、そんなふうに思えるものです。「あーせい、こーせい」と言っても、なかなか聞いてくれません。いらいらしてきます。嘆く私たちにできることは、その子のために祈ることなのです。アウグスティヌスの母モニカが、アウグスティヌスのために祈ったように、私たちもやっぱり、わが子のために祈る気持が大切です。

祈りということは、現実的ではないですし、一見愚かにも思えることです。「祈って何になる」。そんなふうにも思えたりします。しかしアウグスティヌスをまっとうな道へと導いたのは、母モニカの愚かにも思える祈りであり、涙であったのです。一見、力のないように思える涙と祈りが、放蕩三昧を繰り返していたアウグスティヌスを、まっとうな道へと導いたのでした。「子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい」「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。

私たちの信じているイエス・キリストも、神さまに祈っています。今日の聖書の箇所は、「イエスの祈り」という表題のついている聖書の箇所の一部です。イエスさまの最後の説教が終わったあと、イエスさまが神さまにお祈りするという感じの聖書の箇所です。宗教改革時代以来、「大祭司の祈り」というふうに言われたりします。地上を去ろうとしておられるイエスさまが、祭司のように、残される弟子たちのために、神さまにお祈りしているからです。

ヨハネによる福音書17章1節には【イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください】とあります。

「時が来ました」というのは、イエスさまが十字架につけられる時が来たということです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために」というのは、イエスさまが十字架につけられるということです。十字架につけられて殺されるというのですから、それは世間一般から見れば、イエスさまの敗北であるわけです。しかしイエスさまは自分が十字架につけられることを、ここで「栄光」と言っています。

イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちはこころのなかに、いろいろな邪な思いをもっています。人をおとしめたり、人を傷つけたりする、弱い私たちです。神さまの御前に、私たちは罪を犯して生きています。本当は私たちが罪のため、神さまから裁きを受けなければならないわけです。しかしイエスさまが私たちにかわって十字架についてくださり、私たちの罪を担ってくださったのです。それは神さまの栄光が現されるためでした。

ヨハネによる福音書17章2ー3節にはこうあります。【あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです】。

神さまは、御子イエス・キリストを十字架につけるために、私たちの世に送られました。そして私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは罪をあがなっていただいた者として、イエスさまから永遠の命を与えられています。私たちは神さまからイエスさまのゆえに罪赦された者として、イエスさまを信じて歩んでいくのです。

ヨハネによる福音書17章4ー5節にはこうあります。【わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を】。

イエスさまは十字架への道を歩まれます。それは神さまのご計画でした。人から見ると、十字架は絶望であり、みじめな死であるわけです。しかし神さまのご計画としてみるときに、イエスさまの十字架は、すべての人々にとっての救いの出来事なのです。イエスさまの十字架は、神さまの救いを表す栄光の出来事なのでした。十字架での死という絶望の出来事が、神さまの救いの出来事であり、栄光の出来事であると、イエスさまは言われ、そして弟子たちのために祈られました。

イエスさまは自分のために祈られたのではなく、弟子たちのために祈られました。自分を裏切ることになる弟子たちのために、イエスさまは祈られたのです。自分の思うとおりにならない弟子たちのために、イエスさまは祈られました。そしてイエスさまの祈りが、神さまのもとへと弟子たちを導いたのでした。

私たちの世界は、祈りによって支えられています。放蕩三昧を繰り返すアウグスティヌスのために祈る母モニカの祈り。子どもたちの健やかな成長を願う母・津守房江の祈り。「子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい」「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。

そしてイエス・キリストの祈りは、そうした私たちの祈りを結び合わせ、包み込む祈りなのです。私たちの罪のために、十字架についてくださったイエス・キリストは、十字架によってすべての絶望を希望に変えてくださいました。イエスさまはいまも、弱い私たちのために祈ってくださっています。

イエス・キリストは私たちのためにいつも祈ってくださっています。私たちの弱さ、悩み、苦しみを、イエスさまは知っていてくださり、「わたしのところに来なさい。休ませてあげよう」と、いつも私たちを招いてくださっています。



(2026年5月17日平安教会朝礼拝)


2026年5月8日金曜日

5月10日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまにつながって生きる」

「生まれてきてよかった」

聖書箇所 ヨハネ16:12-24。470/493。

日時場所 2026年5月10日平安教会朝礼拝式・きてみて、母の日、

  

先週、新聞を読んでいますと、「あのイルカ20年ぶり復活」という記事があり、笑いました。あのイルカというのは、マイクロソフトの業務用ソフト「オフィス」を使っていると現れる、アシスタントキャラクターのイルカの「カイル君」です。作業を助けるキャラクターとして、1997年に登場ということでした。ワードを使っていると、勝手に出てくるイルカで、多くの人から、「ウザイ」「このイルカ、消したい」とよく言われたイルカです。わたしもよく腹を立てていました。いつのまにかなくなったのですが、またほかのアプリで復活ということのようです。いろいろと言われて、カイル君も、意気消沈していたと思いますが、また復活して多くの人たちの役に立てるようです。イルカのカイル君、大変な時もあったわけですが、「生まれてきてよかった」と思っていることと思います。

今日は5月第二週の日曜日で、母の日です。人は人から生まれますから、生まれるとその人には母がいます。その人にとって母がどのような存在であるのかということは、まあいろいろなのだと思います。また時期によって、関係が良い時もありますし、まああまり良くない時もあるかも知れません。親子の関係というのは、むつかしいですから、「こうした良いよ」というふうに、わたしも簡単に言えるような気もしません。イエスさまとマリアさんとの親子関係も、まあいつもいつも良かったのかと言うと、そうでもないと思えるような聖書の箇所もあります。

ヨハネによる福音書2章1節以下に、「カナでの婚礼」という聖書の箇所があります。イエスさまが初めて奇跡を行なわれたという話です。婚礼でイエスさまが水をぶどう酒に変えたという話です。ヨハネによる福音書2章3ー5節にはこうあります。新約聖書の165頁です。【ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。】。イエスさまはお母さんであるマリアさんのことを、「婦人よ」と言いますし、マリアさんはマリアさんで、イエスさまのことを「この人」というふうに言います。「ああ、なんか、お二人の親子関係、あんまりよくないのかなあ」と思わされる聖書の箇所です。

まあそんな感じのときもあるわけですが、マリアさんはイエスさまのことをいつも心配していただろうと思います。そしていろいろあるにしても、イエスさまが「生まれてきたよかった」と思えるような人生であってほしいと思っていたと思います。人生、うまくいかないこともありますし、悲しかったり、つらかったりする出来事にも出会います。そうしたなかで、「死んだほうがましか」と思うようなときもあるかも知れません。でもやっぱりマリアさんがそうであったように、母は我が子に「生まれてきてよかった」と思える人生を歩んでほしいと思うのです。

良い季節ですから、散歩に出かけます。わたしは宝ヶ池に散歩に出かけます。宝ヶ池はとても良いところで、いつ行っても気持ちがよいところです。教会の前のつばきの径をとおって、プリンスホテルに出て、国際会館の通りを歩き、そして宝ヶ池に下っていきます。

宝ヶ池では幸せそうな人たちがいます。池を背景にして、スマホで自撮りをしているカップル。かわいい犬を散歩している女性。ジョギングをしている男性。池の近くにシートを敷いて、お弁当を食べている若者二人。お孫さんのご家族と散歩をしているおじいさん・おばあさん。林の風景をカメラでとっている男性。ゆっくりと話ながら歩いている人たち。幸せそうにしている笑顔にふれると、なんとなく幸せな気持ちになってきます。小さな幸せを楽しんでいる人たちを見ながら、「よかったね」と思えるのは、とても幸せなことだなあと思います。

人の幸せをみても、「よかったね」と思えないときというのもあるわけです。自分がつらい思いをしているときは、なかなか「よかったね」と思えません。自分だけがどうしてこんな目にあわなければならないのだろうか。みんな幸せそうにしているのに、どうして自分だけが不幸なのだろうか。とても人の幸せをみて、「よかったね」と思えない。そんなときも、私たちはあるわけです。

今日の聖書の箇所は「聖霊の働き」という表題のついた聖書の箇所の一部と、「悲しみは喜びに変わる」という表題のついた聖書の箇所です。5月24日がことしのペンテコステ、聖霊降臨日です。だんだんとペンテコステが近づいているということで、今日の聖書の箇所が選ばれています。

ヨハネによる福音書16章12−15節にはこうあります。【言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」】。

ここで話されていることは、イエスさまが十字架につけられて殺されてしまうということです。ヨハネによる福音書16章5節には【今わたしはわたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている】とあります。ですからイエスさまは天に召されるということです。弟子たちはイエスさまが自分たちの前から消えてしまうということの意味がよくわかりません。大切な大切なイエスさまがいなくなるなんて考えられないわけです。しかしイエスさまは私たちの罪のために十字架についてくださるために、この世に来られました。弟子たちがそうしたことを理解するようになるのは、のちのことであるわけです。聖霊によって導かれることによって、真理の霊に導かれることによって、弟子たちはイエスさまの十字架について理解することができました。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と書いてあるのはそのことです。弟子たちもそうですけれども、私たちもどうもよくわからない。どうしてこんな目にわたしがあわなければならないのかと思えるときがあるわけです。意味不明・理解不能。そうしたことが人生の中に起こってきて、戸惑い、気が滅入り、立ち上がることができない。そんかときを過すことがあります。しかしイエスさまはそうしたことがあっても、聖霊の導きによって、あなたは立ち上がり、また歩み始めることができるのだと言われます。

ヨハネによる福音書16章16−19節にはこうあります。【「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。】

イエスさまは【しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。】と言われます。そして弟子たちは【何のことだろう。何を話しておられるのか分からない】と言います。弟子たちにとって、イエスさまがいなくなるということは考えられないことです。イエスさまに付き従って、そして自分たちもまたイエスさまの弟子として、人間的な意味で豊かな歩みをすることができると、弟子たちは思っていました。イエスさまについていくと、立身出世がかなうのだと思っていたわけです。ですからイエスさまが「父のもとに行く」と、弟子たちは困るのです。弟子たちは動揺して、このことについて弟子たち同士で、いろいろと話すのです。

ヨハネによる福音書16章20−24節にはこうあります。【はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」】。

イエスさまは弟子たちに、わたしが天に召されると、あなたたちは泣いて悲しみに打ちひしがれるだろう。しかしあなたがたのかなしみは喜びに変わると言われます。【女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない】と、イエスさまは言われます。イエスさまは子どもを産んだことがないので、この聖書の箇所を読みながら、目をぱちくりさせる女性の方もおられると思います。ただ、一人の子どもがこの世に生まれてくるということは、とても大きな喜びですし、「生れて、すみません」という社会にはなってほしくないと思います。

イエスさまは弟子たちに、わたしがいなくなり、あなたたちは大きな悲しみを経験する。しかしわたしはよみがえり、あなたたちと再び出会うことになる。そしてあなたたちは、こころから喜ぶことになるのだと言われます。そしてその喜びは神さまがあなたたちに対して与えてくださる喜びであるので、けっしてそれが消えてしまうことはない。わたしがよみがえるそのときに、はじめてすべてのことが、あなたたちのうちで理解されるようになり、大きな喜び、大きな安心にあなたたちは満たされる。どんな不安ななかにあっても、神さまはあなたと共にいてくださる。だからわたしの名によって神さまに願いなさい。神さまがすべてのことを導いてくださるから大丈夫だ。神さまにお委ねして歩みなさい。そうすればあなたたちは喜びで満たされることになる。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

先月、以前にいた教会の方が電話をしてくださり、教会員の方の訃報をお知らせくださいました。わたしと同じくらいの年齢の方で、教会のなかでよく働いておられる方でした。ときどき、私たちの平安教会に献金をしてくださったりする方でした。病気で突然、天の召されたということで、さびしい気持ちで一杯になりました。また先日は病気で仕事をやめて静養していた友だちが、回復をして復帰することができたということを聞いたので、お家をお訪ねしました。するとおつれあいが出てこられて、またちょっと調子を崩して入院をしているのだと伝えてくれました。このことも、なんともショックなことでした。なんか悲しいなあと思いました。つらいこと、悲しいことは起こります。そして「どうして。神さま。どうして」という思いになります。

それでも私たちは、イエスさまの御言葉を信じています。【あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる】。イエスさまが十字架につけられ、世は喜び、弟子たちは悲しみました。弟子たちはどうしたら良いのかわからなくなりました。しかし弟子たちは復活されたイエスさまに出会い、その悲しみは喜びに変わりました。弟子たちの悲しみを喜びに変えてくださった神さまは、私たちの悲しみも喜びに変えてくださると、私たちは信じています。

「生まれてきてよかった」。イエスさまは私たち一人一人がそのように思える人生であってほしいと願っています。そして私たちが悲しいとき、さみしいとき、いつも私たちの傍らにいてくださり、私たちを守ってくださっています。「その悲しみは喜びに変わる」、大丈夫、わたしがいるから。安心して歩んでいきなさい。イエスさまの慰めの言葉に励まされ、また新しい歩みを始めたいと思います。





(2026年5月10日平安教会朝礼拝式・きてみて、母の日) 


5月3日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまにつながって生きる」

 「イエスさまにつながって生きる」 

日時場所 2026年5月2日平安教会朝礼拝

聖書箇所 ヨハネ15:1-11。57/549


わたしが大学生で高松の大学に行っていたときは、まだ瀬戸大橋はできていませんでした。高松から岡山に行くのにも、宇高連絡船という船に乗って、宇野から宇野線に乗り換えて、岡山に行っていました。宇高連絡船1時間、電車1時間、合計2時間くらい高松から岡山に行くのにかかりました。わたしは京都で大学生活を送るために高松を後にするときに、高松の大学の後輩たちが見送ってくれました。紙テープを投げてくれて、「さようなら」となかなか感動的なお見送りでした。だいたい宇高連絡船にのると、かならずうどんを食べるのです。関西から帰ってきて、宇高連絡船のうどんを食べると、「あー、帰ってきたなあ」と思えるのです。いまでは高松から岡山は50分くらいでいきます。岡山で新幹線に乗り換えて、だいたい高松から京都まで2時間15分くらいです。便利になったなあと思います。四国に住んでいた者としては、やはりつながるということは、なかなか安心なものだと感じます。

つながるということは微妙なことで、なんにでもつながっていれば、なんにでも乗っかっていればいいということではないです。瀬戸大橋や明石海峡大橋で四国は本州とつながりました。そうすることによって経済的な発展を遂げるというはずだったのですが、しかし現実には本州から四国に来るというよりも、四国から本州に人が行くということが多く、あまり四国にはいいことがなかったのではないかというふうに言われたりします。四国の電車も本数がどんどんとなくなりました。安易につながるのではなく、やはり自分がどういうものを基盤として生きていくのか、何につながっていきていくのかということをしっかりと考えるということも大切なのだと思います。

ヨハネによる福音書15章5節の【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である】という聖書の言葉は、とても有名な聖書の箇所です。この聖書の言葉が好きだというかたもおられるのではないかと思います。ぶどうの木というのは、聖書の世界だけでなく、古代の世界では良きものとして扱われることが多いようです。古代オリエントでは、ぶどうの木は「健康と富」の象徴でした。また古代メソポタミアではぶどうの木は「生命の草」というふうに考えられていました。聖書では、ぶどう畑とぶどうの木は、選ばれた民の象徴として用いられています。

イザヤ書5章1ー7節には「ぶどう畑の歌」という箇所があります。旧約聖書の1067頁です。イザヤ書5章1ー2節にはこうあります。【わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねをほり、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ってのは酸っぱいぶどうであった】。

ぶどう畑やぶどうの木は、イスラエルにおいては、選ばれた民の象徴として用いられています。しかしイスラエルは神から選ばれた民であったのに、神から離れていくことがしばしばありました。そうしたことがこのイザヤ書5章1節以下には書かれてあるのです。

今日の聖書の箇所は「イエスはまことのぶどうの木」という表題がついています。昔のイスラエルではぶどうの木自体が、「選ばれたもの、選ばれた民」でありました。それに対して、イエスさまは「ぶどうの木はわたしだ」と言っておられます。そして「わたしは『まことの』ぶどうの木」と言われます。「まことのぶどうの木は、わたしである」ということです。いろいろなニセモノのぶどうの木があるわけです。イスラエルの民もそうでした。神さまから選ばれた者とされていながら、しかし結局は、彼らはニセモノのぶどうの木であったわけです。イエスさまの時代には、ファリサイ派の人々や律法学者という、ニセモノのぶどうの木がありました。彼らは律法を守りながらも、しかし虐げられている人々を蔑み、彼らを罪人であるとしていました。自分たちだけが神さまから選ばれた民であり、よいぶどうの木であるというふうに思っていました。しかし彼らはニセモノのぶどうの木でした。

ヨハネによる福音書15章1ー3節にはこうあります。【「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】。

ぶどうの木が良い実りを結ぶためには、手入れが必要です。【実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる】というと、何かとてもおそろしい脅しのような印象を受けるかもしれません。そうしたこともあるわけですが、しかし大切なことは、神さまがちゃんと豊かに実を結ぶように手入れをしてくださるということです。わたしがなにか「いい子にしていないといけない」というようなことではないのです。【わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】というように、わたしたちはすでにイエスさまによって祝福を受けているということです。私たちが何かするということではなく、私たちに大切なことはイエスさまにしっかりとつながっているということなのです。

ヨハネによる福音書15章4−6節にはこうあります。【わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう】。

イエスさまは【わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている】と言われます。私たちが一方的にイエスさまにしがみついているということではありません。イエスさまも私たちにつながっていてくださるのです。こちらのほうが大切なのです。もちろん私たちがイエスさまに救っていただこうと、イエスさまにしがみつき、イエスさまにつながっているという思いは、切実な大切な思いです。しかしそれは人間の思いです。人間の思いはうつろいやすいものです。使徒ペトロは【「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」】(マルコ14章29節)と、イエスさまに言いました。しかし使徒ペトロはイエスさまに従うことができず、イエスさまのことを三度知らないと言ったのです。

そういう意味では今日の御言葉の中で大切なのは、【わたしにつながっていなさい】ということよりも、【わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである】ということなのかも知れません。「わたしはイエスさまに付き従い、私たちはイエスさまにつながっていくことのできるりっぱな人なのだ」ということよりも、「わたしはイエスさまを離れては、何もできない愚かな者なのだ」という思いが大切なのです。

ヨハネによる福音書15章7−11節にはこうあります。【あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである】。

私たちがイエスさまにつながって生きるということは、私たちとイエスさまとの関係ということだけではないと言われます。私たちがイエスさまにつながり、私たちがイエスさまの弟子になることが、神さまの栄光をあらわすことになると、イエスさまは言われます。私たちがイエスさまにつながって生きるということが、神さまが喜ばれることなのです。私たちはしょうもないことをしますし、ろくでもないこともします。私たちは自分がだめな人間であることを知っています。そんな私たちですから、神さまが喜ばれることをして生きることなどできないと思います。しかしイエスさまはそんな私たちにも、神さまを喜ばせることができると言われます。それはただイエスさまにつながって生きるということなのです。イエスさまは私たちを、【わたしの愛にとどまりなさい】と招いておられます。

イエスさまは【わたしはまことのぶどうの木】「まことのぶどうの木は、わたしである」と言っておられます。そして【わたしにつながっていなさい】と言われます。これほどイエスさまにつながっていることが強調されるのは、とくにヨハネによる福音書の書かれた時代に、その理由があります。ヨハネによる福音書の書かれた時代は、ユダヤ教の一派であるとされていたキリスト教が、ユダヤ教から異端であるとされた時代です。「イエスを主と告白する者」は会堂から追放されるというになっていった時代です。ヨハネによる福音書9章22節には【ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである】とあります。またヨハネによる福音書16章2節で、イエスさまは【人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る】と言っておられます。ヨハネによる福音書が書かれた時代は、イエスさまを主と告白する人たちにとっては、大変な時代でした。そのためいったんキリスト者になっていながら、またユダヤ教のほうに帰っていった人々が出てきています。

ですからヨハネによる福音書が書かれて時代の人々は、「イエス・キリストにつながっている」ということが大切になってきました。そしてそうした時代の中で、「まことのぶどうの木とは誰であるのか」ということが、真剣に問われたのです。【あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる】というような言葉も、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々のことを考えると、ある種のきびしさを帯びた言葉であるということがわかります。

私たちは多くの場合、この「イエスはまことのぶどうの木」という箇所を、ある種のやすらぎをもって聖書を読みます。しかしやすらぎだけで、この聖書の箇所を読もうとするとき、いくつかの聖句にひっかかってしまします。ヨハネによる福音書15章2節の【わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる】や、ヨハネによる福音書15章6節の【わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられ焼かれてしまう】などの言葉に、どうもひっかかりを覚えてしまいます。この二つの箇所は、私たちが気分よくこの聖書の箇所を読もうとするときに、どうも不愉快な感じを与える箇所です。しかしイスラエルの民が選民と言われながら神さまから離れていったことや、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々がキリスト教からユダヤ教の離れていったことなどを思い起すとき、私たちはやはりこのひっかかる聖書の箇所の御言葉をも、しっかりとこころに留めておかなければならないのです。

しかしやはりこの聖書の箇所は、私たちにやすらぎを与えてくださる箇所です。イエス・キリストに依り頼むことの確かさを豊かに表わしてくれています。【実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる】【わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ】。私たち自身は自分の力で、とくにすばらしいことができるわけではありません。まさに、【わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである】というとおりです。しかしイエス・キリストにつながっていることによって、私たちは希望をもって生きていくことができます。私たちは自分の中には自慢できるものがないとしても、しかし「わたしはイエス・キリストにつながっている」ということだけは自慢することができるのです。

イエス・キリストにつながっているということは、私たちの気持ちをやすらかにしてくれます。人間的な目で見るところの、えらい人になる必要もないですし、力ある者になる必要もありません。私たちはただ神さまから愛されている一人の人として生きていくのです。

イエス・キリストにつながって生きるということは、生き生きと自分らしく生きるということです。「キリスト者としてこうしなければならない」という思いに縛られて、自分では何もできない奴隷のようなつながりということでもありません。イエス・キリストは私たちを自分らしく生き生きといかしてくださいます。私たちはイエス・キリストにつながって生きていると、私たちは自分が神さまに愛されているかけがえのない一人であることを知ることできます。そして自分らしく生きていくことができるのです。

イエスさまは【これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである】と言っておられます。私たちはしかめっ面をして生きていくのではなく、喜びに満たされて生きていきます。イエスさまの喜びが私たちの喜びとなり、私たちは喜びに満たされて生きていきます。

イエス・キリストにつながって、神さまの愛のうちに、やすらかに、そして自分らしく、生き生きと歩んでいきましょう。


(2026年5月2日平安教会朝礼拝)

8月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「あなたは、神の国から遠くない」

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